ボイルド
ビルが立ち並ぶ街の少し外れに、その酒場はある。
酒場の名前は『バー・ボイルド』
街に似つかない古びた木造の店で、外装は所々修復された跡がありツギハギが目立つ。
ドア付近に掲げられた看板のネオンは、雪に覆われてぼんやりと滲んだ光を発している。
店内はカウンターとテーブルに分かれており、木製のテーブルに置かれたオイルランプが室内をぼんやりと照らしている。
酒を飲んでいる客たちもその光と同じくらいぼんやりとしていて、まるで亡霊のように覚束ない表情をしていた。
店内にはどこか陰鬱とした雰囲気が漂っていた。
客は十人ほどいるが、幸福そうな人間は一人もおらず、客の身なりは当たり前のようにみすぼらしかった。
はたけば埃が出てくるような黒かグレーのコート。それを脱いだら、着古してよれよれになったシャツが出てくる。巨大な街に反して、過去からタイムスリップしてきたように古ぼかしい住人達だ。
「頼むよお、またツケといてくれよシャオちゃん・・・後生だよお・・・」
「また?ザールおじさんいい加減にしな。毎日毎日凝りもせずにタダ酒煽って・・・何が後生よ、頭の中に雪でも詰め込んで冷やしてきな」
黒髪ショートカットの店主と、薄汚い酔っぱらいの会話はここに通う者にとってはもう聞き馴染んだものになっていた。
毎日がこの繰り返し。
繰り返され、繰り返され、やがて静かに摩耗していくような綻びが、雪と共にこの街全体を覆っていた。
ザールと呼ばれる男の戯言から、しばらく経った時刻。店の中は幾分静かになっていた。
夜はどっぷり更けて、店内は話し声の代わりに、いびきのほうがよく聞こえるようになった。
そんな折、黒髪ショートカットの店主が隣で退屈そうにナッツをはじいている少女を見て言った。
「ユウ、空いているグラスを全部集めてきて」
柔らかい栗色の髪をもつ少女は、弾いていたナッツをひょいと食べ、「はいはい」と気だるそうな動きで髪を束ね、卓を回り、グラスを回収し始めた。
底の方に薄く酒が残ったグラスたちを洗い場に持っていき、凍えるほど冷たい水で洗う。
ユウは早く店を閉めて帰りたかったが、店に客を残して閉めることは出来なかった。
かといって酔いつぶれた客を外に放り出してしまえば、カチカチに凍った死体がいくつも出来上がってしまう。
「・・・どうしようもないんだよね」
一旦、水を止める。
ぶらぶらと手を振る。
冷たすぎてずっと触っていられないのだ。ここで働き始めた時、この水の冷たさに嫌気がさしたが、今となってはずいぶん慣れてしまった。今ではこれだけ寒くても水道がまだ生きていることに感謝しなければいけないとさえ思うようになっていた。
「シャオ、終わったよ」
ユウはエプロンで手を拭きながら言った。
シャオは客の中途半端に空いた瓶をこっそり回収して、自分のグラスに入れてちびちびとやっていた。これも見慣れた光景だった。
シャオは一杯を飲み干すと、ぺろりと唇を舐めて「ユウ、今日はもう上がっていいわよ」と唐突に言った。
「え、どうして?まだ一時を回ったところだよ?」
壁際にある柱時計のくすんだ時計盤を確認する。長針と短針は1のところで重なっていた。
「・・・だって明日はミサでしょ?」
シャオは確認するように言う。
「あんた、いつもほとんど眠らず教会に行ってるじゃない。だからたまには早上がりして少しは寝なさいな。どうせこれからの時間は大した仕事もないし」
まあ、もともと仕事自体そんなにあるわけじゃないんだけど、と苦笑するシャオの切れ長の目は、ほのかな優しさの光をたたえていた。
「・・・シャオ・・・」
「店じまいは私がやっておくから心配しないで」
シャオはまた酒を注いで飲んだ。コクリと動く喉を見ながら、ユウはわずかに首を横に振る。
「・・・いや大丈夫だよ、シャオ。店じまいまで付き合うよ」
「けど、ユウ・・・」
「心配してくれてありがとう。でもこの酔っ払いたちを起こして追い出すまでがここの仕事だから、最後までやるよ」
「ユウ、あんたは吹雪の中でも毎日この店に来てるし、お客の対応ももう立派なものよ。私が保証する。たまには早く上がったって罰なんて当たりはしないわ」
「・・・シャオ」
ユウは少し俯く。
「ありがとう。でも今日は独りで帰りたくない。今日の夜は、うまく言えないけど・・・なんだか嫌な予感がする・・・」
シャオはふうと息を吐いて腕を組む。
ユウは時々何かに怯えることがあった。嫌な予感がする、と漠然とした事しか言わないが、頑なに独りでいることを拒むことがあった。
確かにスノードーム・シティは治安がいいとは決して言えない。けどユウの警戒心は少々過敏とも言えた。
「・・・まあ、私も無理に帰れとは言わないけど・・・・・・わかった。なら店じまいまでお願いね」
ユウは静かに頷く。
「お腹すいたね、何か夜食でも作ろうよシャオ」と冷蔵庫を開けて、余りの食材を物色し始めた。
「・・・ああ、そういえばさっき食べてたシチューが」
その時、シャオの言葉を遮って、カランカラン、と戸口のベルが鳴った。
客があらかた酔いつぶれた時刻に誰かが来るのは珍しいことだった。
「・・・・・・・・・」
店が沈黙した。
戸口には黒い影が二つ立っていた。
ユウはわずかに震えた。
奇妙な模様のフードを被っており、体に積もった雪を払い落としている。
そしてそのうちの一人がカウンターの奥のシャオの方を向く。
「・・・食べ物あるか?」