対偶祭
◇ 「それでは始めよう。準備はいいね」
◆ ソカル教授はいつも通りの滑らかで平坦な口調で、私にそんな確認の
◆ 言葉を伝えてきた。
◆ 私はそれに無言で頷く。必要な準備とはつまり、心のものだけであり、
◆ 私はそれを三週間前に完了させている。
◇ 「宜しい。ならば、我々には何の問題もない」
◆ 全く感情の籠もらないタングステンのような声で、教授はそう宣言する。
◆ 私はソファーにより深く体を預け、そして小さく息を吐く。
♪ 「世界を塗り替えよう。この世界に蔓延るあらゆる色素を計上し、そこでは
♪ 烏が鳴かないことを証明しよう。三角形の内角の和は百八十度でなくては
♪ ならない。マクスウェルの悪魔は現出を否定された。『歌う雷神』は
♪ 確率の『海』へと沈むことこそが相応しい。嘲る聖霊は三位の一角へと
♪ 落ち着くだろう。二つの隙間、その先にこそ進むべき未来はある。
♪ レインガーデンの墓守は、それを暗示した」
◆ 私は目を閉じる。視界の全てが均一なオレンジ色に塗りたくられていく。
◆ 教授が吐き出す祈りのような残酷な歌だけが、私の網膜を震わせる。
◆ 鼓膜を焼き付ける。
♪ 「世界を再構成しよう。モンジョリーを現出させよう。天空門モジュールを
♪ 否定しよう。波動はやがて、収束する。集束する。終息する」
◆ 教授の呻きに対応するかのように、世界でただ一つの均一なオレンジは、
◆ やがて滲んで、ゆがんでいく。それは世界の矛盾の証明に、他ならない。
◆ 歌う雷神の嘔吐。
◆ ならば、このどうしようもなくなった世界を、塗り替えよう。
◇ 「デプロイ」
◆ 教授のその言葉を契機として、私のインスタンスは物語上に生成された。
◆ 放逐される。
◆ 渦巻くように。
【アイソハスタンデンゼア】
――――――――――――――――――――――――――――○○○―○――
私は天使を見たことがある。
それは麻布十番でのことで、冬の金曜日、とても寒い日の出来事だった。その日の夜、私は会社で仲の良い先輩と二人で飲むためにその街へとやってきていた。私のお気に入りの、美味しいパテを食べさせてくれるお店がこの街にはあるのだ。
パテ屋のパテは、その日もとても出来が良かった。アサリの酒蒸しも素晴らしかった。
ワインは、二人で一本を空けた。私も先輩も、酒豪というほどにはアルコールに強いわけではない。だからその位が適量なのだ。
夜も更けてきた時間に、私も先輩もほろ酔いで、気分良く店を出た。空気の冷たさと騒がしさに酔いと余韻を覚まさせながら、駅への道を歩いた。
そんな幸せな帰路の途中、私と先輩は天使を目撃した。
「×××ちゃん、あそこにいる彼、天使だよ」
最初に気付いたのは先輩で、彼は小声でそう指し示して私に教えてくれた。天使は私達よりも数メートル先の歩道を一人で歩いていた。冬の夜だったので、天使もコートを羽織っていて、そのために天使のシンボルである白い羽は見ることが出来なかった。けれども、頭上に輝く光輪は、少し遅れたクリスマスツリーのように煌々と輝いていた。
「天使さん、随分と酔っぱらってらっしゃいますねぇ」
私は小声で、先輩に向けてそう耳打ちした。天使の足下は、随分と覚束ないように見えたのだ。お酒に飲まれている、まさにそんな感じだ。
私の素直でそのままの感想に、先輩も「そうだねぇ」とのんびりとした口調で応じた。
「天使にだってきっと、溺れるほど飲まないほどやっていけないことがあるんだろうさ」
「天使さん達も大変なんですかねぇ」
私達はそんな、長閑で適当な事を言って、天使のたよりない後ろ姿を眺めながら歩いた。やがて駅にたどり着き、私達はそこで別れた。私の家と先輩の家は、地下鉄の路線の方向で言うと逆側である。
帰りの地下鉄の中で、「あの天使さんは、今晩これからどうするのだろう?」とか、そんなことを考えた。
あの天使にも、安心して眠ることが出来る場所があればいい。そんなことも思った。
翌日の土曜日に、自分が見た天使のことを調べようとふと思った私は、図書館へと足を運んだ。顔なじみの司書さんがいたので、天使についての資料の在処を尋ねる。司書さんはカタカタと端末を操作して、それから首を横に振った。天使図鑑は、この図書館には置いていないらしい。
「二日貰えれば、区の中央図書館から取り寄せることは出来るけど。天使図鑑なんて、ほとんど誰も興味なんて示さないから、中央にしかないの」
司書さんのそんな言葉に、私は納得する。確かに私だって、現物を見たりもしなければ土曜日にわざわざ天使図鑑を眺めようなんて思わない。
「メジャーな天使だったら、野鳥図鑑にだって載っているんじゃないかしら」
そんなアドバイスを貰えたので、私は野鳥図鑑のある書棚に向かい、そこから一番大きな野鳥図鑑を引き抜いた。図鑑はとても分厚く、ずっしりと重かった。それを両腕で抱える。知恵の重みとは、厚紙で構成されている。
ソファーテーブルの前に陣取って、図鑑を広げた。色とりどりの鳥類が、散らばった折り紙のように印刷されている。私はページをめくって、その中から天使の絵姿を探す。
天使の項は、全体の中程から少し後ろの位置にあった。思ったよりも天使の種類は多く、十ページ以上にも渡って、多様な天使の姿が描かれていた。精密に描かれているが、なんとなく他のページの鳥たちに較べると天使のページに描かれている被写体は生気に乏しいように思えた。
図鑑の中の天使達がみな不機嫌な病人のようであっても、さし当たった問題はない。私は図鑑の中にある大部屋の患者を一人づつ診察して回る医者を気取り、自分が受け持つ患者の姿を探して回った。
「エグリゴリのアラン」というのが、私が見た天使の名前らしかった。エグリゴリとは人類を見守る存在、或いは人類に叡智をもたらしす存在として定義されている天使達のグループ名称だ。エグリゴリの天使達は人類からすれば過大すぎる知識を人類に授け、そしてその功績によって神からの堕天を許された。世に言う堕天使である。
「堕天使さんだったのか。いつごろ、堕天したんだろう」
私はそれを調べようと考えて、図鑑の解説欄に目を通した。図鑑によると、エグリゴリの天使達の堕天は二十二世紀の初頭に起きるらしい。二十二世紀。今から百年近い未来の話だ。つまりエグリゴリ達は将来の堕天が決定しているだけで、二十一世紀の現在においてはまだごく普通の天使でしかないのだ。
「あとたった百年で堕天することを許されている天使さんなのか。そんな恵まれた状況にありながら、なんでお酒に溺れたりしていたんだろう」
そんなことを考えながら解説欄を読み進めていると、小学校に上がる前くらいの年齢の小さな男の子がとことこと、私のところに寄ってきた。
「おねえちゃん、ずかんをみているの? なんのずかんなの?」
黒目が大きな、とても可愛い男の子だった。私は笑顔を作り、その質問に答える。
「鳥の図鑑だよ。見ているのは、天使だよ。私は昨日ね、この天使を見たんだ」
私がそう言って、「エグリゴリのアラン」の絵を指差すと、男の子はとても不思議そうに私と図鑑を交互に見較べた。
「おねえちゃん、てんしをみたの?」
男の子は可愛らしくそう首を傾げてから、それから子供らしくない、随分とはっきりとした声でこう言った。
「この世界には、天使などという幻想知性が顕現するための余地なんて存在しないのに?」
男の子が言っていることは真実である。私はそのことを、急に思い出した。
私は天使を見たことがある。私は何を見たんだろう。
【夏祭りの雑踏、歩道橋の上(すぐに、君を見つけた)】
―――――――――――――――――――――――――――●○―○――●――
太陽はもうじき、沈んでしまう。だけど私は、それが寂しいことだなんて少しも思わなかった。私は歩道橋の上に陣取って、下の道路に溢れている人々を眺めていた。
歩道橋の下を通る道路では、たくさんの人達が歩いたり、立ち止まったり、ゆらゆらとたゆたっていたりする。あとは、夕陽が落ちきってこの街が薄闇色に染まりさえすれば、花火の準備はみな整うことになる。
普段なら知らない顔をした車が知らないふりをして走っていく車道だって、今日だけは地面を歩く人達のものだ。道を行くほとんどの人はその顔に笑顔を浮かべている。とても楽しそうだ、と私は思った。心から楽しんでいる人が浮かべる笑顔。そういうものを眺めているだけで、私の心も浮き立ってしまう。
女の子達の多くは、私と同じように浴衣を着ている。涼やかに見えるこの衣装は、実は見た目ほどには涼しくないのだけれど、でもやっぱり浴衣を着てきて良かったと思う。夏祭りには、やはり浴衣が必要だ。
道路脇には、沢山の屋台が並んでいる。彼が来たら、何かを食べよう。私はそんなことを考える。屋台の幌に描かれた絵文字を眺める。
クレープ。別に夏祭りの屋台で食べる必要はないかな。お好み焼き。歩きながら食べると浴衣を汚しそう。鈴カステラ。喉が渇きそう。飲み物を飲み過ぎて、それでトイレに行きたくなると困る。リンゴ飴。お祭りにくると、あれを食べる義務があるような気もするけれど、実はあんまり好きじゃない。あまりにも甘すぎると思う。金魚掬い。食べ物じゃないし。
下の道路を歩く人混みの中に、見知った顔をみつけた。高校時代のクラスメイトの女の子だ。知らない男の子と一緒にいる。お付き合いを初めて間もないのか、緊張しているのが傍目にも良くわかって、ちょっとおかしい。おいおい、流石に初々しすぎやしませんか。私達、もう二十歳をこえているんですぜ。
「×××」
背後から名前を呼ばれて、私は振り返った。もちろん、満面の笑顔で。私の視線は彼の視線を捉える。夏の夕暮れは美しく、そして暖かい。
「お前さぁ、歩道橋の上にいるんだったら、そう言えよ。電話は繋がらないし、人はいっぱいだし、どうしようかと途方にくれかけたよ」
軽く責めるような、呆れるような口調の彼に対し、
「あれ?」
私はスマホを取り出し、全く気付かなかったメッセンジャーの通知を確認し、それからわざとっぽくもう一度「あれ?」と繰り返した。
「ごめんね。ひょっとして、たくさん探した? たくさん探されちゃった?」
「ん。いや、すぐに見つけた」
何故だかはよくわからない。けれど、彼のその即答に私は舞い上がるほどに嬉しくなって、同時にすごく照れてしまう。どうすればいいかわからなくなって、私は顔を背けた。そして、とりあえず彼氏にショルダーチャージをお見舞いする。
「おっと。しかしまあ、本当に凄い人の量だな。これじゃあ特等席に移動した方がいいかも」
私の必殺の攻撃は、どうやら単にバランスを崩しただけだと思われたらしかった。両手で、肩を支えてくれて、そんな全く別のことを言う。
私も、その話の流れに乗る。大きくて、ひんやりとした手をとって、歩きだす。
「そうだね。じゃあ、行こう。屋台見ながらね。りんご飴食べたい。小さくて、甘いやつ」
私達は、歩道橋を降りて、地面に立つ。道路を歩く。お祭りを楽しむ人達の一部になる。歪んでいく。
「今のは、なに?」
呆然として、私は呟いた。心を鷲づかみにされ、握りつぶされた気分だった。あまりのことに、私はただ立ちつくすしかない。私がそのように衝撃を受けた様子が愉快でたまらないのだろう、感情の籠もった表情で、蛇が嗤う。
「今のは、未来の光景さ、××。智慧の実を口にすることで、人間がいつか手にすることが出来る、そんな約束の光景だよ」
そう言って蛇は、シュルリと舌を出した。見事なまでの、二枚舌だ。私はぼんやりと、鸚鵡返しに言葉を繰り返す。
「約束の光景?」
「ああ。約束だね。約束された光景さ。始祖たるあんたが、たった一つの選択をする。たったそれだけで、人が手にすることが出来るようになるものだね」
私は、蛇によって見せつけられた『記憶』を思い返そうとした。いや、本当はそんなことをする必要すらない。網膜に映らなかった情景は、鼓膜を震わせなかったざわめきは、今までの私の心を、深く沈んだどこかに押し込めてしまっている。
「たくさんの人、お祭り、リンゴ飴」
「ああ、そんなものもあるね。素晴らしいものだっただろう? それこそが、人が本来手にするべきものなのさ」
蛇はそれから、とぐろをまき直した。
「今はまだない、未来の言葉で、人はそれを『人生』と呼んでいるようだ」
「じんせい」
蛇はしゅるしゅると嗤う。
「人生だ。いいことばかりではない。辛いことのほうが、むしろ多いかもしれないね。でも、それでも人はそれだけ笑い、そして楽しむ。そういうものらしいよ」
私は嗤い続ける蛇の目を見つめ、それから手元の果実に視線を落とした。神様からは口にすることを禁じられているその果実は、少しだけリンゴ飴に似ているなと思った。
「この実を食べたら、私もリンゴ飴を食べることが出来るようになるの?」
「いや、それは無理な話だね」
蛇は即答をする。彼は嘘をつかない。嘘さえつかずに、蛇は私を破滅へと追い込むのだ。
「智慧の実があんたや、あんたの連れ合いにもたらすのは、辛くて激しい苦難の道だけだ。残念ながら、それは間違いがない。保証してもいいよ。あんたはリンゴ飴を食べることは無い。ただ、それでもあんたの子供の、子供の、そのまた子供の、子供の子供の子供、どこまでも続く遠いあんたの子孫は、いずれそのリンゴ飴とやらを食べる日が来るだろう。あんたの血を受け継ぐ子孫達は、夏祭りで浴衣を着て、きっと幸せに笑うだろう」
蛇は嗤う。嗤い続ける。暗い鈍さをもって、私を誘う。
「あんたの好きにすればいい。ここはエデンの園、何の不安も無い世界だ。餓えも無い。悩みも無い。ついでに、人生も無い。ただそれだけだよ」
もう何度目になるかわからない。私は、手元にある、小さな赤い果実と、とぐろを巻いて嗤う蛇を見較べた。
私を嘲る二枚舌のその爬虫類は、もはや私が悩んですらいないことに気がついている。
「……ねえ、あなたの名前は?」
「私には名前なんて無い。必要としたことなんて無いからね。私は単なる爬虫類で、どこにでもいる蛇さ。だが、あんたが名前を必要だと言うのなら、そうだね、アランとでも呼ぶといい」
「そう。……ありがとう、アラン」
私は彼にそう感謝の言葉を告げる。躊躇うことなく、手の中にある実を囓る。
智慧の実はとても甘かった。あまりにも甘すぎて、これはあまり好きになれないな、と私はそんなことを思った。
◇ 「この世界中の全ての非黒色存在を調べあげ、そこに烏が存在しない
◇ ことを君は証明した」
◆ 私の意識が揺らぎ、そして戻ってくるのとほぼ同時、まるで
◆ 待ちきれないかのように勢いよく、教授にそう告げられた。
◇ 「しかし、それでもまだこの証明は不完全だ。まだ、この世界の
◇ 烏の色は確定していない。それは何故だか、君は理解をしては
◇ いるかね」
◇ 「この再構成世界α2に、烏自体が存在しない可能性があるからです」
◆ 私の言葉に、教授は深く強く頷く。
◇ 「然り。では、君にはもう、やるべきことも見えているだろう」
◆ 教授はそう言って、私の前に道をつくる。
◇ 「さあ、君。この世界には烏が存在することを、証明したまえ」
◆ 今度は私が頷く番だった。私は再び、目を閉じてオレンジ色
◆ へと染まる。
◆ まるで曲がりくねった直線のように、私の精神は傅く。
【十字架と鉄鎖】
―――◇―――――――――――――――――――――――――――――●○―
クラーケンの襲撃が始まったのかと思った。水面を叩く、大きな音が頭上から響いてきたからだ。
私は緊張しながら水面を見上げ――そして、そこに浮かんでいるものの影を見て、緊張した体が一気に弛緩していくのを感じた。見上げた、はるかな頭上の水面には、細長い箱が浮かんでいて、楕円形の影をつくっていた。あれは、『船』だ。
人間と呼ばれる、陸上に棲む種族がいる。人間種族は、私達人魚とは違って、海中で呼吸することすら出来ない。彼らは魔法を使うことすら出来ないから、海の中に沈んだ途端に溺れ死ぬ運命になっている。そんな貧弱な種族なのだから、陸の上で固まってじっとしていればいいと私は思うのだが、何故か彼らは危険を顧みずに海へと出ようとする。その際に彼らによって使われるものが木材で出来た大きな箱で、彼らはそれを『船』と呼んでいる。
頼りない、木のゴミ箱。
その『船』が、私の頭上の水面に浮かんでいた。『船』の側面では、何やら水泡の塊が出来て、舞い上がっている。おそらく、人間が『船』から何かを投げ込んだのだろう。さきほどの音の正体はおそらくはそれだろう。
もうじき、ここは戦場になる。クラーケンの襲撃が迫ってきているのだ。人間達に、それを伝えた方が良いかもしれない。水面にプカプカと、気楽そうに浮かぶ箱の影を見ながら、私はそんなことを考えた。クラーケンとの戦闘が始まれば、この海は大いに荒れる。人間の乗る頼りない『船』など、簡単に転覆し、あるいは破砕され、そして沈んでしまう。
私がどうしようか考えている間に、人間を乗せた箱はぐるりと旋回し、陸の方向へと戻り始めてしまう。どうやら、先ほど何かを海に投げ入れたことで、彼らは目的を達成したらしい。それならば、それでいい。手間が減って助かる。だが。
人間は、はたして何を投げ込んだのだろう。私はそれを確かめようと思った。私は尾ひれを大きく動かした。勢いをつけると、それに乗り水面に向けて泳いだ。
近づくにつれ、人間が投げ込んだものがはっきりと見えるようになった。人間が投げ込んだものは、2メートルほどはありそうな大きな木の板で、十字の形に打ち付けられていた。板には鉄の鎖が巻き付けられていて、その両端にはやはり鉄で出来た、大きな錨がつけられている。ここまでくれば、これが何かは私にもわかる。これは、『生贄』だ。人魚種族と人間種族の間で取り決められたの契約が、今年も履行されたのだ。
恐ろしいクラーケン、あの忌々しい怪物の被害を受けるのは、何も私達人魚に限った話ではない。陸に棲む人間達にとっても、かの魔物は重大な災厄である。
海は荒れ、人間が『船』と呼ぶゴミ箱はそれ自体がゴミへと変わる。クラーケンで荒れる海には彼らは立ち寄ることを許されず、それは人間達の『経済活動』とやらに致命的な破滅をもたらすという。もっと直接的に、津波、つまりは塩水の暴力によって沿岸部はが倒されるという問題も発生する。
クラーケンを排除する。人魚と人間の利害は一致していた。そうして遙かな昔、両種族の間で契約が結ばれたのだった。それが、『生贄』だ。
人間では、クラーケンと戦うことすら叶わない。海の中では呼吸すら出来ない無様な生物では、怪物を傷つけるところか、生きたまま触れることすら能わない。ゆえに、クラーケンと戦い、それを倒すのは我々人魚の役目だ。代わりに、人間は人魚が戦うための手段を提供する。それが『生贄』だ。
これが、『生贄』ならば。私は大きく尾ひれで漕いで、浮上する速度をあげた。一息で、『生贄』の元に到着する。やっぱりだった。
十字型の木の板には、人間の男が縛り付けられていた。呼吸が出来ず、苦しそうに顔をゆがめている。年齢は、中年くらいに見える。
私は沈み続ける『生贄』の傍らに到着すると、縛り付けられている男の手を握った。その手を介して、男の体に魔力を流し込む。
「水中呼吸の魔法をかけた。これで呼吸も、会話も出来るはず。気分は、どう?」
私のそんな言葉を、彼が聞いていたかはわからない。彼はむせるような荒い呼吸を続け、酸素を貪り続けていたからだ。まるまる三分程度の時間をかけて荒い呼吸を繰り返し、それでようやく落ち着けたのか、彼は私に対して向き直った。
「……まさか死なずに済むとは、人魚に助けられるとは、とても思わなかった。礼を言う」
私は肩をすくめ、それから私が手を握っている男の表情を観察する。
痩せぎすで、何を考えているのかがわからない、無表情な男だ。そのあごには、たくさんの無精ヒゲが生えている。人間は野蛮で意味不明な生き物だと思っていたけれど、思ったよりも知性的な顔立ちをしているようにも思えた。
男と海の底へ向けて沈み続けている。私もそのゆったりとした沈下に付き合っていた。水中呼吸の魔法は触れている相手にしか有効にならないし、重い錨のついた鎖に縛られている男を引き上げながら泳げるほど、私の力は強くない。
「あなたのことを助けることが出来たのかは、わからない。別に意図的に見捨てたい、と思っているわけではないけれど、でもいつまでもこうしてあなたの手を握っているわけにはいかないの」
私がそう言うと、男は特に落胆の表情などは見せたりはせずに「そうか」とだけ言い、それから、
「だが、それでも今の時点で溺死を免れることが出来たことも事実だ。たとえ死ぬ運命がほんのわずか先にずれただけだとしても、とりあえずは礼を言わせてもらえないだろうか。ありがとう、異種族の恩人よ」
とそう付け加えた。
「どういたしまして。私の名前は×××。貴方のことは、何と呼べばいい?」
「そうだね、私は本名ではなく、トクシンカと呼ばれていた。だから、その名前で呼んでくれると嬉しい。私はね、宗教家だったんだよ」
「宗教家?」
耳慣れない言葉を聞いて、私はその単語を繰り返した。トクシンカを名乗った男は「ああ」と頷く。
「信仰の力で、人を救おうとしている人間のことだ」
人間が『神』と呼ばれる非実在存在を『宗教』しているということは聞いたことがある。『神』とは人間を救ってくれる高位の存在なのだと言う。
「トクシンカ。あなたが『宗教』している『神』は、あなたのことを救ってはくれないの?」
十字型にうたれた木材に磔にされて溺死寸前だった宗教家にむけて、少しだけ意地悪な気分で私はそんな質問をしてみた。するとトクシンカは、意外にもあっさりと首を振る。
「神には人を救えないよ。人を救うことが出来るのは、人だけだ。私はそう思っているよ」
「……あなたは、『宗教』で人を救うことが仕事なんじゃないの?」
「いかにもだ。私は宗教の、信仰の力を信じているよ。そして、信仰とは人を動かすための力であって、信仰によって得られることが出来るのは、人の力だ。神が何かをしてくれるというわけではない」
トクシンカは、そう言って少しだけ間を置いた。私の理解が追いつくことを待ってくれているようだった。やがて、再び口を開く。
「私は、神の力などを信じていたりは、しない。だが私は神の力を信じ、それに救いを求める人間達の力を信じている。それらの小さな力が集まれば、人の世界をよりよい方向に進ませるための力になると、そう信じているんだよ」
それから彼は、「私が神を信じていないことが、つまらないミスから露見してしまってね。その結果、私がこうして今回の『生贄』に選ばれることになったんだよ」とそう言った。
私はその言葉で、かつてから疑問に思っていたことを思い出し、それをこの人間にぶつけてみようと思い立った。
「そう、それについて前から疑問に思っていたことがあるの。なんで人間はいつも」
耳をつんざいて体をよろめかせる、とてつもない轟音が私の質問を遮った。紛れもなく不吉なその音が、海中に鳴り響き、のたうち回った。私がトクシンカに向けていた注意や興味などは、一瞬のうちに吹き飛んでしまう。より大きなものに上書きされてしまう。
クラーケンの襲撃が始まったのだ。
「クラーケンが来た」
私はそれだけをトクシンカに伝え、情報の収集をするために『心話』の魔法を使った。人魚は戦闘中、『心話』の魔法を使って意思の伝達を行う。暴れる水が破裂する音や戦闘音などに左右されず、確実に意思の伝達を行うことが可能だからだ。私が『心話』に参加すると、すでにそこではたくさんの仲間達の意思が飛び交っていた。
《もう一人喰われた! 犠牲になったのは誰だ? ああ、くそっ》
《どこにいやがる? 違う、お前らのことじゃない。化物だ》
《水面方向じゃない! 海底を這っている!》
《何を言っているんだ? 今クラーケンは俺の真上を》
《二匹だ! 畜生、あいつら二匹いる! おい、狙われているぞ!》
《大丈夫、奴は目視出来ている。まだ遠い》
《違う! だから二匹いるんだよ! もう一匹が》
戦いは、混乱を極めていた。『心話』の内容を聞く限り、私達はあからさまな劣勢に立たされていた。クラーケンは二匹いる。それが同時に襲いかかってきている。
「君は、いかないのか。人魚は戦う必要があるのだろう、クラーケンと」
緊張して強張った表情した私の顔を見てだろう、トクシンカはことさらに穏やかな口調で、そんな事を言った。私は吐き捨てる。
「私があなたの手を離したら、あなたは死ぬことになる。だから、私はここから離れることが出来ない」
私の言葉を拾い上げたトクシンカは、それから首を横にはっきりと振る。
「いいかい、×××。この世界は、陸にも海にも無意味なことが溢れている。だからこそ、無意味ではないものは大切に扱わなくてはならない。君が手を離せば、私は確かに溺れ、そして死ぬだろう。だが、それはけして無意味では無い筈だ。君は人魚だ。クラーケンと戦わなくてはならない。それが人の人魚の間の契約であり、私はそのための生贄なのだ。クラーケンと戦うための生贄である私を、無意味な存在にしないでくれ」
私はまじまじと、トクシンカの顔を見つめた。その人間、無表情だったトクシンカは、そこで初めて感情を見せた。私のことを、嘲るように嗤ったのだ。
「私を、戦いから逃げるための口実にしないでくれよ」
私は息を飲み、そのままトクシンカの手を離した。トクシンカは、満足そうな顔をしたまま、暗い海底へと沈んでいった。
私は振り返り、そして顔を軽く叩いた。クラーケンの元へ、戦っている仲間達の応援に駆けつけなければならない。私は決意し、そして大きく尾ひれを動かした。
ひどい戦闘だった。今回の戦闘で、私達の仲間は十人以上がクラーケンに喰われた。だが、それでも私達の勝利だ。私達は二匹のクラーケンを無事に打ち倒したのだから。
戦闘が終わってから、私は仲間の無事だった人魚達とともに、トクシンカが沈んだ辺りへと向かった。トクシンカの体に縛り付けられていた十字架は海底に横たわり、それにつなぎ止められていたままの彼は当然のように溺死していた。
「生贄が、今回の戦いに間に合えば、もう少し楽が出来たかもしれないな」
仲間の一人がそんなことを言った。私はそれに同意して、頷く。
私達はトクシンカの体から鉄で出来た鎖を外した。十字架も分解して二枚の板へと戻す。鎖と錨、つまり鉄器は刃先へと打ち直され、十字架だったものも銛の柄に作り替えられる。
トクシンカの死体は、海底に放置された。しばらくの時間が経てば、海の生き物たちが彼の死骸を綺麗に掃除してしまうだろう。
数日後、私は長老様と話をする機会を得たので、あの時にトクシンカに聞こうと思っていた疑問を、長老様にぶつけてみることにした。なぜ、人間は我々に必要な鉄と木材だけではなく、彼らの同族である人間までも沈めて寄越すのか、と。
私の疑問に、長老様はあっさりと首を横に振った。
「それは、儂にも全くわからんことだ。私達人魚には人間の思考は理解が出来ないのだ。これまでも、人間の考えに納得が出来たことなど、数えるほどしか無いのだよ」
◇ 「素晴らしい! 君の証明は完璧だ!」
◆ 私が顕在化を終えて目をあけたとき、教授は見たこともないほどに
◆ 目と感情を剥きだしにして、そう吠えていた。
♪ 「世界は塗り替えられた。塗り替えられた。ならば、ここから先、
♪ 私の役目だ。私は状況が割いた部屋へと赴こう! 雨の庭を踏破しよう!
♪ そして私は」
◆ 言葉を最後まで言い切らぬうちに、教授の姿は世界からぼやけ、
◆ ぼんやりと滲んでいった。やがて教授は二本のスリットへと代わり、
◆ 干渉縞を残しながら、わずかなまま消え去った。
【たどりついた話】
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。テーブルに伏せていた私は、その体を起こした。無理のある体勢で寝ていたためか、体と心が少し重く感じて、痛んだ。
夕暮れ時になっていた。窓からはオレンジ色がにじみ出していて、それは刻々と暗さを増している。もうじき、太陽が沈むのだろう。私は体を伸ばして、眠気の最後の部分をどこか見えない部分に追い払った。
兄は外出しているらしく、部屋の中にその姿は無かった。私の影だけが、長くゆらゆらとゆらいだ。
私はふと、今まで私が伏せていたテーブルの上に、書き置きが残されていることに気がついた。私はその紙片を手にとり、オレンジ色に染まるそれに目を通した。
◆ レインガーデンに、球体は存在しない。
私は小さく安堵の息をはいた。教授は、あれからずっと進み続けたのだ。そして、とうとう。
「辿り着けたんですね」
私はそう口にした。その言葉は空虚さを満たして、やがて部屋の隅へと転がった。
(上記の通り、再構成世界α3において『直線のみで構成され、かつ内角の和の合計が百八十度ではない』図形は、全て三角形ではない。証明終わり。)