①
土砂降りの雨だった。全身に降り注ぐ一滴一滴が妙に重い。雨音はもはやただの爆音と化して、それ以外何も聞こえない。
早朝、夜が明け始めたらしいが、視界はどんよりとした灰色に霞み、雷神様に取りつかれたような雨は鋭い矢となって容赦なくその視界を切り裂く。
荻野裕次郎はほとんど見えない視界に悪戦苦闘しながら、懸命に自転車をこぐ。この最悪の天候の中、何とか新聞を配り終えた裕次郎だったが、身体は疲弊しきっていた。頭の中では「今日はお休み」と朱色の印を押して、単位ギリギリのクラスを欠席する言い訳とした。どうせこの天気では外には出なかっただろう。荒れ狂う雨の中、家路を走る裕次郎の心もまた荒れ果て、そこには何もなかった。
裕次郎は何とか目を開いて前方を注視しながら、傾斜のある坂をのぼった。名もなき短い橋を渡り終えると今度は同じ傾斜の下り坂だ。元々、雨は嫌いではなかった。だが、このときは別である。
雨はどこまでも狂暴と化して裕次郎の視力、聴力を支配する。
まだ梅雨入りもしてねえに、ふざけやがって。
空虚な心の真ん中に炎のような怒りが灯り、裕次郎は鋭い下り坂をブレーキをまったくかけずに駆け抜けようとした。
すると突然、眼前に微かに広がる色気のない景色がぐにゃりとして反転した。
裕次郎は一瞬にして思った。
あ、死ぬな。
しかし、それでもいいとも思った。このまま死んで何の悔いがあるだろうか。自分のタイプの彼女が一人でもいれば惜しむ気持ちもあっただろう。もう少し勉強してみたかったクラスがあれば、少しは嘆くことができただろう。最後にどうしても会いたい友人、家族がいれば少しは悔やんだであろう。でも、そんなもの何一つありはしない。このまま終わってもいい、構わない。
無音だった。それは一瞬であるにも関わらず、コンマ何秒の世界だというのに、長い長い、終わりのない真っ暗な世界の泉に浸かっているような感じがした。
だが、大雨の大音声が耳に舞い戻った瞬間に静寂は破壊され、同時に全身が巨大な水たまりに打ちつけられ、物凄い勢いで転がる裕次郎を何となくずっとその場所にいたガードレールが受けとめた。
全身に強烈な衝撃を受けたものの、痛みはわずかだった。意識を失うこともなく、裕次郎はゆっくりと立ち上がった。
いま自分が目に見えているもの、聞こえているものを確認した。
生きてやがる。
それに手にも顔にも外傷一つない。
自然と笑みを浮かべた。そこに感謝はない。喜びも、悲しみもない。そこに何があるのか、何もないのか、裕次郎自身さっぱりわからなかった。
自転車も無事だ。裕次郎は唯一の相棒を起き上がらせ、それに跨って家のアパートに辿り着いた。
レインコートのフードを取ると、ずぶ濡れになっている前髪をかき上げ、階段を一つのぼった目の前にある我が家の表札を見た。
『荻野哲郎 裕次郎』
薄汚れた白いプレートの表札だ。
雨に濡れて廃墟と化した心の空洞に、ぬっと闇が一歩足を踏み入れてきた。
血の味がする。転倒したときの傷だろうか。それともいま無意識に自ら牙を剥いて唇に穴をあけたのか。
裕次郎は口内に溜まった唾液をその表札に勢いよく放った。その唾は地中に張られた根のように何本も赤い糸を引いて表札を染めた。
裕次郎は鍵を開けて中に入った。ドアを閉めた後しばらくは、雨の音しかなかった。
天野伸久は全身の皮膚にはりつくようなじめっとした空気を味わっていた。九ヶ月ぶりに吸う日本の空気だった。見上げる空は茜色に染まり始め、安っぽいスカスカの綿あめのような雲がぞろぞろと行列をなして家路へと向かっている。
いい空だな。
伸久はゆっくりとした足取りで友人の家に向かいながら、空気を鼻から思いっきり吸い込んだ。
優しい故郷の香りがした。伸久はやはり日本が、東京が、故郷が好きだった。
伸久は高校まで日本の東京江東区にいたが、卒業後アメリカの大学へと進学した。努力はした。英語に関しては誰よりも勉強した。だが、これといって明確な夢があるわけではなかった。外交官や国連職員のような、語学を駆使した職につきたいわけでもなかった。ただみんなと違う道を歩んでみたかっただけで、それが留学という一つの終着点に至っただけだった。それゆえに、自分はなぜアメリカにいるのかと、その理由がわからなくなるときがある。その理由というものが、本当にあったのだろうかと思うときすらある。莫大な借金を抱え、それでは足りず親のすねを丸かじり。何のためにいるのかわからなければ、自己も含めて誰も報われない気がした。そういうときは辞めようと思うときもあった。そうやって行き詰まりを繰り返しながら、アメリカ留学二年目を何とか終え、帰国したというわけだ。もう二十歳になっていた。
実家から十分も歩かないところにある、幼稚園からの幼馴染である松岡透が住む家へと向かった。何でも伸久がアメリカに行っている間、祖母の家の二階を借りて住んでいるという。
外にある錆びた階段で二階に上がりドアのインターフォンを押した。三秒も経たずドアを開けて出てきた松岡透は黒地のタンクトップ一枚の格好で清潔感のないロン毛を後ろに一つにまとめていた。その生まれつき鋭い目はさらに後ろに引っ張られ鋭利を増している気がした。おまけにあご髭まで見事に細い逆三角形をなしている。
「ノブ、よく来た」
「ああ、来た。なんだよ、その頭は」
「ノブが変わらな過ぎだ。俺の方がアメリカ帰りみたいじゃねえか」
「どこのチンピラかと思った」
「ノブは変わらねえな。おもしろくねえ」
「俺だって変わったさ」
「ついにマリファナ?」
「まあね」
「うそ、まじで?」
「嘘だよ、ばーか」
伸久はくだらない会話に小笑いしながら手に持ったお土産を透に手渡し、玄関で靴を脱いだ。すぐ台所があり、すぐ横の部屋にはすでに大量のつまみと酒がテーブル上に用意されている。
「もうすぐ亮介もくるよ」
久保田亮介も同じく幼稚園からの幼馴染である。
「裕次郎は?」
「来れるかわかんないってさ」
「そうか」
天野伸久、松岡透、久保田亮介、そして荻野裕次郎の四人は幼稚園からの幼馴染で、小学校までずっと一緒だった。中学に入ってから伸久が私立に進学し、四人の関係性が変化したわけではないが、やはり会うことは少なくなっていた。こうして会うのも二年ぶりだった。
すぐに背丈のない金髪頭にニューヨークヤンキースの野球帽をかぶった、おまけに鼻ピアス付きの亮介が姿を現し、三人で乾杯となった。話の中心はやはり伸久の留学話だ。透も亮介も金髪美女とヤッたのか、紹介できる奴はいないのか、など幼い学生にありがちの低レベルな会話だった。伸久は決して二人の話が嫌ではなかったが、おもしろくもなかった。表情は緩めながらも、心は燻り、いつの間にかできてしまった旧友との溝を、味気のないビールで何とか埋めていく作業をせざるを得なかった。
高校生の頃までは、伸久もそこらへんの学生と何ら変わらない、騒々しい普通の生徒だった。高校卒業後、今までの自分と決別しようとする人は多い。いわゆる大学デビューというやつだが、それはアメリカに渡る日本人にもいえる。高校まで底に沈めていた錘を引き上げたときの反動は大きく、露出の多い服を着たり、ドラッグに勤しんだり、テキーラのショットを毎晩バカ騒ぎして飲んだり、挙句の果てには窓を全開にしてセックス時の喘ぎ声を公開したりして、アメリカ文化に溶け込んでいるといって堂々としている。
伸久はまったくそれを否定はしなかった。それも一つ生き方であり、選択であって、正しいか間違っているかはいずれ本人たちが決めることである。しかしながら、自分は何をしにアメリカに来たのだろう。そんな悩みを真剣に抱え始めた伸久にとって、そういうアメリカデビュー路線にはまり出した人間は余りにもかけ離れた存在に思えた。
自分はいったい何をしたいのか。何のためにここまで来たのか。
心落ち着く地元に帰ってきても、伸久の悩みは深くなるばかりだった。
そのとき、ふと思った。
裕次郎は元気にしてるだろうか 。
ボサボサの髪。痩せこけた頬。アイドル顔負けの魅力的な円らな瞳はいつもその貧しい容貌、雰囲気によって、その効果を半減していた。そして、その目の奥に常に宿っていた正体不明の闇。
裕次郎がそうなった原因は大体わかっている。
そんな裕次郎の姿を目に浮かべれば浮かべるほど、伸久は無性にその友に会いたくなった。
六月晴れとでもいうのだろうか。太陽の姿は見当たらないのに空は湖に太陽の光を注ぎ、インクを垂らしたように真っ青に輝いている。こんな天気は今日が最後で、明日からはしばらく雲行きが怪しい日々が続くらしいと、お気に入りのお天気お姉さんがいっていた。
伸久は荻野裕次郎の住むアパートに向かっていた。二十歳になって学校もバイトもない、ゆえに伸久は夏だけニートになる。少しでも自分の小遣いを稼ぐために短期のバイトを探すべきなのだが、帰国してすぐにそうは簡単に頭も体もいうことをきかない。日本では携帯すら持っていないのだ。
二十歳で携帯も所持していないニートなんてもはや日本では俺一人くらいだろう。そんなことを考えながら、伸久は目的のアパートにたどり着いた。
裕次郎の住む年季の入った小汚いモルタル造りのアパートは懐かしくもあるのだが、近寄りがたい場所でもあった。裕次郎は幼馴染であり親友でもある。幼稚園、小学校のころは毎日のように遊んだ。だが、このアパートにはほとんど足を踏み入れたことがなかった。
インターフォンを一度押したが物音一つしない。
いないか。
透いわく、裕次郎は朝の新聞配達が早いから午前のクラスはとっていないらしい。だから家にいるかと思ったのだが。
もう一度押した。音はない。やはり出てこない。
いまどき突撃訪問なんてないか。
いまさら携帯の重要性を思い知った伸久は自らの無計画な行動に苦笑し、目の前の階段を下りようとしたが、下界に姿を現した裕次郎の姿を捉えると、足が止まった。
「裕次郎?」
咄嗟に上げた裕次郎の顔には青髭がやや目立ち、無地の白シャツと黒のスキニーパンツにコンパクトに収まった体は以前よりも細く矮小しているようで脆弱な印象を伸久に与えた。鼻梁はその高さを増し、女性が憧れるようなぱっちりお目目は昔のまま健在だ。
「ノブ?」
裕次郎は親友の帰りに童のような声を上げて可愛らしい笑みを浮かべた。「凱旋帰国だな」
「その割にはあまり歓迎されてないんだ」
「こないだは悪かった。ちょっと色々あってね」
「別にいいんだよ。お前と違って、俺は暇で仕方ないんだ」
「背伸びた?」
「莫迦野郎、それは俺の台詞だ。いつの間にかこんな伸びやがって」
小学校のころは伸久の方が二〇センチ近く上回っていた背丈も、今では裕次郎に軍配が上がっているようだ。
「入るかよ?」
それは意外な言葉だった。
「いいのか?」
「悪いが金欠で洒落た喫茶店行く金もねえんだよ」
「いや、携帯持ってるだけマシだよ」
「携帯持ってないのか?」
「こっちではね。すぐ買う予定だけど」
「俺の部屋は汚ねえし、狭い。そこに座ってくれ」
裕次郎は伸久を居間に通して座るよう促した。
ここの玄関をくぐった記憶はある。だが、中の内装、雰囲気の記憶はまるでない。伸久はやや緊張を覚える。
荻野家のアパートの一室には見事に何もなかった。テレビに低い円卓と四段作りの古箪笥が一つずつ。天井はどうやら木製のようで、壁にはよれたダブルのブラックスーツが二つ肩を並べている。裕次郎の父親のものだろう。背が小さくて恰幅のある、いつも笑ったような顔をしている裕次郎の父親をすぐに伸久は思い出せた。
床に座って周囲を見渡していると、裕次郎はコーラが注がれたグラスと、「こんなもんしかねえ。凱旋帰国にふさわしくねえけど許せ」といってポテチの袋を開けた。
お父さんは、元気なのか ?
そんな第一声が思わず出そうになったが、伸久はそれをコーラで一度飲み込み、結局聞いた。
「お父さんは元気にしてるのか?」
裕次郎はすっと表情を奥の方に隠し、「まあ、生きてることはたしかだな」とポテチを口に放り込んでバリバリ音を立てる。
「一緒に住んでるんだよな?」
「まあな。早く出てっちまいたいよ、こんな家」
苦笑を浮かべた裕次郎の顔が斜めに歪む。
裕次郎にとってここは、こんな家、なのだ。
伸久にとって「裕次郎の家」とは、当時その地域では誰もが知っているほど有名な、それは洒落た一戸建ての印象が強かった。幼稚園のころはよく遊びにいった。その裕次郎の家には何でもあった。当時流行っていたゲーム、おもちゃ、お菓子まで何もかもが揃っていた。父親が会社を経営していた。裕次郎の母親は子供から見ても美人のそれで、自分の母親と同い年とは到底信じがたかった記憶がある。そう、裕次郎の家には何でもあった。全てが揃っていた。幼い伸久はそれが羨ましかった。
しかし、裕次郎がそのすべてを失うのも早かった。
まだ年長のころ、裕次郎の父親の会社は倒産し、多大な借金を背負うことになった。それが原因で母親は蒸発したと聞いている。幼い裕次郎を置いて。広々とした豪邸は差し押さえられ、残された二人はこのアパートに移り住むしかなかった。おそらく当時の裕次郎にとって、すべてが失われた瞬間だった。
ショックでなかったわけがない。裕福で何の不自由もない暮らしから、一転母親のいない貧しい生活へ。天国から地獄へ。すでに大人であればまだ受け入れられるかもしれない。自分の人生なんて結局こんなものだろう、と。だが、まだ五才のやっと一人でトイレできるようになりましたくらいの男の子にとっては処理しきれない内容だったのではないだろうか。少なくとも裕次郎はそのころから変わった。極端に暗くなる一方、暴れやすくなり、小学校でもクラスメートと喧嘩することが多くなった。
だが、貧しさは決して、裕次郎の心までを貧しくしたわけではなかった。そういった変化がありながらも、人一倍友達思いだった性格があり、伸久は裕次郎のそういう部分が好きだったし、信頼していた。だからずっと仲良くできた。決してこのアパートには入れたがらなかったが、いま目の前にいる裕次郎の本質はきっと昔のままだと思って、伸久は何となく嬉しかった。
いま改めて振り返り不思議に思うことは、母親が何も言わず裕次郎を置いて出ていってしまったことだ。「ノブちゃん」と呼んでくれた裕次郎の母親はすらっとした長身で、笑顔の素敵な美しい女性だった。まだ幼稚園児の鼻たれが明確に記憶しているのだから、よっぽどインパクトがあったのだろう。あの笑顔は裕福さの余裕ゆえにつくられたものだったのかもしれない。思い返してみると、裕次郎の父親と母親はルックス的にみると不釣り合いと考える意見がマジョリティを占めていたのではないだろうか。馴れ初めは知らない。ただ、やはり経済的な部分に重きを置いて結ばれた二人だったのではないか。物欲が強かった母親はそのすべてを失ったと知った途端にその家族への愛情も冷え込んで底に消え、新たな人生を求めて立ち去った。
勝手で安易な想像だけが伸久の頭の中で渦巻き、目の前にいる友が大きくも、また小さくも見えた。裕次郎は誰もが経験できない、経験することを望まないことを経験してきたのだ。寂しさを、苦労を知っている人間は強い。いま海外という厳しい環境で一人揉まれている伸久には、それがわかるというよりかは、そうであることを信じたい気持ちの方が強かった。
「やっぱり英語はもうペラペラ?」
「みんなどうしてそれを聞くんだろうな」
「そりゃそうだよ。俺ら凡人には想像できない世界にいるんだ、ノブは」
「俺は誰よりも凡人だったよ。いまもそうだ」
「やっぱペラペラか?すげえな」
「いや、そうでもない。たしかに日常会話には困らなくはなかった。でも、あっちのドメスティックの英語とはまだまだ差はあるよ。語学という点に関しては追いつけない部分があるような気がする」
「俺もいってみたいね、そんな横文字。俺らと同じ暴れ馬だったのに、ノブはここだけは誰よりもよかった」
裕次郎は指で自分の頭をこれみよがしに指す。
「別によかったわけじゃない。それなりに勉強してただけさ」
「それでアメリカの大学に行けるやつが実際どれだけいるのやら」
「ただの少数派だよ、俺は」
「いや、ノブはすごいんだよ。俺の自慢だ。透や亮介も悪い奴らじゃないし楽しい連中だけど、やっぱり尊敬はできない。ノブみたいな奴は他にはいないよ」
旧友に褒められるとこそばゆいが決して悪い気はしない。
裕次郎とは価値観が似ているのかもしれない。ふとそれに気づいた伸久は、今さらながら目の前にいる男のことをもっと知らなければという思いが衝動的に強まり、コーラを一口含んで一歩踏み込む勇気を持った。
「一つ聞いていいかよ」
「なんだよ?」
「お母さんとはもう一度も会ってないのか?」
裕次郎は吹き出して、「なんだよ、それ!」と破顔一笑した。
「いや、つまり、出ていってから一度も会ってないのかってこと。聞いたことなかったからさ」
「二十になってやっと聞けたってわけか」
「まあな」
「会ってないよ。一度も。実家の石川にも帰ってないし、誰も居場所は知らねえ。他の男と呑気に暮らしてるか、もうどっかでのたれ死んでるかもしれない」
「そっか。悪い、別にあらたまって聞くような内容じゃなかったんだけどさ」
「気にすることねえよ。俺だって一人息子を置いてった母親のことなんて覚えてないさ。まあ、よっぽどあのダメ親父に愛想尽かしたんだろうけどな」
「お父さんには厳しいんだな」
「当たり前さ。あいつのせいで俺がどれだけ苦労してきたか。もとはといえば親父が全部悪いんだよ。大した力もないくせに会社なんて経営しやがって。いまとなっては生きてるんだが死んでるんだかよくわからねえ人間になっちまって。親父として認められないね、はっきりいって」
裕次郎は表情を硬くして悪態をついた。
そこまでいわなくても 伸久はそういいたかったが、やめた。自分が裕次郎の父親を擁護する資格もないし、裕次郎の本音を否定する権利もない。
「まあ、俺もそんな親父と大して変わらないお粗末な人生を歩んでるけどな」
「そんな腐るなよ」
「同情はいらねえさ。ノブのような成功者には俺のような人間の立ち位置ってものはわからねえさ」
「成功者?勘弁してくれよ。アメリカいったら成功だなんて日本でいわれたなんていったら、クラスメートみんなに莫迦にされちまう」
「そんなの知るか。成功者だよ、俺からしてみればな」
伸久は押し黙った。成功者なんかじゃない。海外でどれだけ惨めな生活をしてきたか。時々後悔することだってある。まだ日本に引き返せるって何度も思った。何も誇れるものなんてない。悩みしかない。
自分はいったい何がしたいのか。自分の人生はいったい何のためにあるのか。ぶちまけられるならいくらでもぶちまけられる。しかし伸久は自分の悩みを他人に口にすることはなかった。とりわけ、裕次郎のような友人にはいえない。
「いっててて」
裕次郎が急に後頭部に手を当てて呻き始める。
「どうした、頭痛か?」
「いや、頭痛ではないと思うんだけど、古傷がやけに痛んでさ。ほら、俺の後頭部に髪が生えない部分あるだろ、覚えてるか」
「ああ、小さいころテーブルの角に頭ぶつけて何針か縫ったっていう傷跡か。俺の兄貴ももってるけど、そんなところが痛むのか」
「最近やけに疼くんだよ。この間チャリで思いっきり転倒したからかな」
「転倒?」
「先週の大雨の日にがっつり転んだ。何回転もしたもん。チャリから放り投げられたときは死んだと思ったもんね。でも大した傷もなくてさ、そういうとこだけツいてやがる」
「気をつけろよ。裕次郎は前からそういうとこあるからな。赤信号無視してバイクと衝突したことあったろう」
裕次郎は呵々大笑して「そんなことあったな。医者から九死に一生っていわれたやつだ」とさも愉快そうにいう。
「死んだら何もかも終わりだ」
「大袈裟だよ。それより悪い、俺そろそろ行かなきゃ」
「大学?」
「ああ。今さら進学したこと後悔してるけどな」
「卒業は しろよな、絶対に。俺がいえるセリフじゃないけど」
「すでに単位ギリギリでやんの、まったく」
裕次郎が着替えている間に玄関の方へいくと、伸久はあるものをそこで発見した。
傘だ。
白い花柄のデザインが施された、立派な造りの黒い傘だ。
記憶というのは不思議で、ある一つのヒントを頼りに一枚のピクチャーを、映像を鮮明に想起させる。
雨の日。灰色の空一面に雨が降り注ぐ中、幼稚園の入り口でこの傘を差して待っていた女性。裕次郎の母親だ。
光沢のあるヒールは雨をはじき、白い肌を光らせる脚線美。真っ赤なルージュにキレイに反り返る睫毛。
そしてこの傘。黒い傘だ。
「どうした、ぼっとして」
背後からスタジャンを羽織った裕次郎がいた。
「あ、いや、この傘、見覚えあるなって」
「へえ、すげえ記憶力だな」
「お母さんが使ってたやつだろ」
「・・・・・・ああ」
「やっぱり」
「遺品みたいなものさ」
「遺品?」
「あの人が大事にしてたものの中で、唯一それだけが残ってたんだよ。他の物はみんな持っていったのに、その傘だけは置いてったんだ」
「そうだったんだ」
「お気に入りの傘のはずだったんだけどな。置いてかれて可哀想だから、捨てずにずっとそこに置いてあるんだ。別にそれを置いておけばいつか母親が帰ってくるだなんて、そんな幸福の黄色いハンカチみたいなメルヘンチックなこと考えてるわけじゃねえからな」
「わかってるよ、そんなこと」と伸久は笑って理解を示した。
外に出ると裕次郎は駅の方へと向かい、二人はすぐに別れた。
伸久は独りになって考えた。
実際のところはどうなんだろう。本当は待っていたんじゃないだろうか。母親の帰りを裕次郎は、もしくは父親は、ずっと待っていたんじゃないだろうか。
「誰も居場所を知らない」と裕次郎はいった。裕次郎の母親はいまどこにいて、いったい何をしているのだろうか。
遠方の空のさらに奥の方で、岩のように佇んでいたねずみ色の雲がごろりと動き始めていた。
裕次郎と会ったその晩、伸久は母親の節子に訊ねた。
「母さん、裕次郎のお母さんのこと覚えてる?」
まな板の上で包丁をタカタカ走らせていた節子は、「え?なんて?」と声を大にして聞き返す。
「裕次郎のお母さんだよ。覚えてるだろ、あのキレイなお母さん」
「眞由美ちゃんのこと?」
「眞由美ちゃんっていうの?」
「どうしたのよ、そんなこと急に」
「いや、ちょっと気になっただけ。今日裕次郎の家に行って、部屋に入れてもらったんだ」
「眞由美ちゃん帰ってきたの?」
節子は勢いよく目を丸くした。
「なんでそうなるんだよ。そんなわけないだろ。ただ覚えてるかどうか聞きたかっただけ」
「なんでそんなことあんたが聞くのよ?」
節子は興味を持ったのか、包丁の動きを止め、伸久の横に幅のある尻を置いた。
「だから何となく気になっただけだって。お母さんがどんな人だったかは覚えてるけど、そこまで本人と話したことないからさ。どんな人だったかなって」
「眞由美ちゃんはいい子だったわよ。あんただって散々裕くんちに遊びにいかせてもらったでしょ。うちなんて共働きであんたは末っ子でいつも一人だったから、ほんと助かってたのよ」
伸久は四人兄弟の末っ子で、幼稚園にいたときすでに、小学校高学年、中学生、高校生と年は大きく離れていた。そして裕次郎の母親はどうやら節子より年下だったようだ。
「たしかに小学校に上がる前はよく遊びにいってたのは俺も記憶してるんだ。おばさんもすごく優しかったの覚えてるし」
「眞由美ちゃんは小さいときにご両親が離婚してね。でも学生のころにお母さんも病気で亡くなって、おじいちゃんおばあちゃんに迷惑をかけないようにって、東京の国立大学に進学したって聞いたわ」
「才色兼備だったてわけだ。母さんとは大違い」
「お父さんとお母さんが稼いだお金使って海外に留学してる子がなんてこというの」
そこをつかれると伸久は二の句を告げれず、押し黙った。
「それに私だって昔は細くて中々いけてたのよ。お父さんに聞いてみなさい。あんたたち四人に栄養分けたらこんなになっちゃったのよ」
「ったく、いつもそればっかりいうんだから」
「本当のことだから仕方がないでしょ」
伸久はどっしり構えた鏡餅のような節子の腹の上にシャツの文字が「Explosion」と書いてあって何だか笑えた。
節子は勝手に話を戻して続けた。
「眞由美ちゃん、何もいわずにいっちゃったのよね。一言でもいいから何かいってくれたらねえ。ほんと寂しかったわ」
「他のお母さんも誰も繋がってなかったの?」
「なかったわ。みんなに聞いてみたけどね」
「おばさんはどうして裕次郎のこと置いていったのかな。そんなことするような人じゃないように思えたんだけど。国立大出てるんだったら、仕事だって始められただろうし、裕次郎一人育てるくらいならできないことじゃないと思うんだけど」
「そこのところは私もわからなかった。眞由美ちゃんがそんなことするはずないって思ったけど、よっぽど追い詰められることがあったのかもしれない」
「追い詰められるって、おじさんの仕事のこと?」
「それか他に何か別にあったのかもしれない」
「他か・・・・・・」
「眞由美ちゃん、どこでいったい何してるんだろうね。元気でやってるといいけど」
節子は何もいわず一人息子を置いて出ていった眞由美を真剣に心配する表情を垣間見せ、調理に戻っていった。節子は裕次郎の母親をただの無責任な女性とは思わなかった様子で、裕次郎の母親は信頼されていた女性であったことは間違いないようだ。それだけに周囲の驚きは大きかったに違いない。
別に自分には関係ないことか。
伸久はそれに気づいた途端、その日からそのことについて考えるのをやめた。
裕次郎から突然連絡があったのは、それから一週間経った、伸久が携帯を購入した三日後のことだった。
曇天が空一面に立ち込めて、雨を降らすタイミングを窺っているようだ。
裕次郎が待ち合わせに指定してきたのは、ちょうど伸久の家と裕次郎の家の中間にある駅前の喫茶店だった。
昼前にそこにいくと、裕次郎がすでに席をとっていた。くたびれたチェックのネルシャツにチノパンというラフな格好だ。
「急に呼び出して悪かったな」
「いいよ、別に。今日は喫茶店なんだな」
「あんなカビ臭い家にはもう招けないよ。この間は仕方がなかった」
「嫌いじゃなかったけど」
伸久は裕次郎と同じホットコーヒーを注文した。
「それで、どうしたんだよ?」
裕次郎は先にコーヒーを啜りながら、「うん」と一つ間を置いた。
「なんだよ、まさか恋愛の相談じゃあるまいな。興味深いけど、俺はそっち系には疎いぞ」
「莫迦、違うよ。全然違う。ちょっと迷ってるんだ。ノブに話すことでもないような気がして」
「なんだよ水臭えな。ここまできてやっぱ話さないはなしだぞ」
「別に隠すことでもないんだけどよ。実はさ、この前ノブが来た次の日、来客があったんだ」
「ほう。誰が来たっての」
「母親の同級生。小学校、中学校のときの」
伸久はリアクションは示さず、運ばれてきた熱々のコーヒーを一口舐めて舌の先を刺激した。裕次郎が続ける。
「齋藤守っていうおっさんが福井から来たんだ。どうやってうちの住所調べたか知らねえけど、うちの母親にどうしても会いたくて来たんだとよ」
「突然どうしたっての、そのおっさんは」
「去年中学卒業三十周年の同窓会みたいなことをしたらしい。そこで母親の話題になったらしくて、やっぱり誰も知らなかったんだってさ、俺の母親がどこで何してるか。それでその齋藤さんっておっさんは母親を探し始めたってわけ。なんでもおっさんは最近離婚して、昔の憧れだった東條さんに会いたくなったんだとか、情けない話をされてさ」
「旧姓は東條っていうんだ」
「とにかく何か些細なことでもいいからわかったら教えてほしいって。君も会いたいだろ?って真に迫られてさ」
「なんて答えたんだよ」
「別にもう会いたいという気持ちはないって・・・・・・いったよ」
「嘘だな。本当は気になってる」
裕次郎は押し黙る。伸久はその貝の口が開かれるのを待った。
「 聞いてみたんだよ。母親ってどんな女だったのか、って」
「それで?」
「クラスの誰よりも綺麗で、聡明だったって。それだけ。おっさんの偏った私見だろうけどな」
「まあ納得できるけどな、俺の記憶だけを頼りにしても」
「ノブの質問に正直に答えるよ。そうだ。俺は気になり始めた。自分の母親はいったいどんな人だったのか。いまごろになってな」
「いいと思う。できれば俺も知りたい。なぜだかわからんが」
「そこでだ、ノブ。一緒に行かないか?今週末三日間」
「行くってどこに?」
「東京の大学時代の友人と、学生時代過ごした福井かな。石川は小学校の低学年までしかいなかったから期待があまり持てない」
「おばさんのこと?」
「うん」
「俺も一緒に行くってのかよ?」
「まだバイトも決まってなくて暇だろ?もちろんレンタカー代から交通費は全部俺が負担するからよ」
「お前免許もってるのか?」
「高校生のころから貯めてた金と親父の金をくすねてな」
「俺が一緒に行って何の意味があるんだよ。お父さんじゃだめなのか?」
「莫迦野郎、あんな親父連れていけるわけねえだろ!ただでさえ口きいてねえんだから」
裕次郎がやや声を荒げたのに対し、「お前が一方的に無視してるだけだろ」と伸久は鋭い視線を送ったが、裕次郎はそれを見ようとはしなかった。
伸久はため息交じりに「それに宿賃だって俺持ってねえから、親に借金しなきゃならねえ」と現実的な経済難を口にした。
「一人で行く気にはならないんだよ。ノブがあんなこと聞いてきた翌日にあんなおっさんが来て、偶然じゃないと思ったんだ。ノブが引き寄せたのかもしれない」
「んなわけあるまい。変な想像膨らませるなよ」
「頼む、一緒に来てくれ。久しぶりの日本じゃねえか、旅行がてら行くべ」
「行くべっていってもな・・・・・・」
伸久はしごく困った。時間はたしかにある。だが金はない。
しかし、どうやら裕次郎は本気らしい。目を見ればその真剣さが嘘か真かは判別できる。本気で一緒に行くことを望んでいる。
どうしてそんなに
「どうよ?」
「わかったよ」伸久はついに折れた。
「よし、決定だ。恩に着るよ」
裕次郎は相好を崩し、実に嬉しそうな顔をして、コーヒーのおかわりを頼んだ。
どうしてそんなに一人で行きたがらないんだろうか。
伸久の頭の片隅にそんな疑問がしこりとなって残存したが、それをこれ以上裕次郎に訊ねる気は起こらなかった。
空が海のように濃く青い。東京にもこんな空が存在するものなのかと、伸久は窓外の流れる景色を目で追っていた。
裕次郎がレンタルしたシルバーのプリウスが東名高速道を光をはねのけて突き進んでいく。目の前に、横にと、時折富士の先端だけ景色に混ざって入ってくる。
もう静岡か。
「あとどのくらい?」
「まだ四時間は少なくともかかると思う」
裕次郎がハンドルを握りながら答える。
「長旅だね」
「便所か?」
「いや、さっきしたばっかだし」
「なんだよ、腰でも痛くなってきたか」
「十時間以上のフライトに比べればこんなもん」
「なんだそりゃ、エラそうに」
二人は裕次郎の母親が学生時代過ごしたという福井の越前市を目指して走っていた。彼女がいたときは武生市と呼ばれ、最近今立町と合併し新たに越前市となった経緯がある。福井市に次ぐ福井県第二の都市と呼ばれている。
高校まで東京で育った伸久からすると何もないという印象が強かった。しかし、緑に茂った山々を周囲に見渡すことができる自然豊かな環境に伸久は好感を持った。裕次郎は幼少のころ何度か足を運んだことがあるようだが、記憶はほとんどないらしい。
母親を知る友人を探す手がかりは、彼女が失踪した後、それを知らずに送られてきた数枚の年賀状ハガキだった。父親が捨てずに何枚か残しておいたものを箪笥の中から見つけたらしい。
年賀状ハガキとは考えたものだと伸久は思った。電話番号が記載してあったハガキの主には事前に電話をしてあったため、家の中まで招かれて歓迎された。福井弁は関西弁のような訛りで、おばちゃんといっていい五十近くの女性たちが裕次郎の母親について一方的に語った。
べっぴんだった、気立てがよくて優しい、賢い、人気があった、親思い、おじいちゃんおばあちゃん思い、芯が強い、などなど絶賛の言葉しか聞かなかった。各々が裕次郎の母親とのエピソードがあり、それを聞くたびにその前向きな思い出がきわめて当てはまり納得できた。
伸久が最も印象に残ったのは、椛田という同級生の話だった。彼女らが中学生のころ、学校一怖い教師が数学科にいた。宿題のプリントを忘れると恐ろしいことになることは劣等生の不良でもよく知っていて、その男の授業では誰もが宿題をやってきたという。だがある日、椛田は宿題をやってきたにもかかわらず、それを家に置いてきてしまったのだ。それを直前に知り、家に帰ることもできず、仮病を使って保健室に行くことも考えたが、いずれ忘れたことがばれると思い、解決策が思い浮かばないままクラスは始まってしまった。彼女は恐る恐る泣くような思いで挙手して忘れたことを告げた。そして、その教師の怒りが炸裂する直前、隣の席にいた裕次郎の母親が手を挙げてこういった。先生、わたしも忘れました、と。クラス中のみんなが唖然とした。二人が宿題を忘れるということ、そして何よりも才女の母親がそのような行為を犯したことにみな驚愕したのだろうと椛田は語った。二人は全員の前でこっぴどく叱られ、廊下に立つことになった。
いまとなってはパワハラだと思いながら伸久が聞いていると、椛田はこうもいった。
「廊下に立ちながらな、まゆちゃん、ほんとはわすれてないんやろ?なんでそんなことした?って聞いたら、一人で怒られたらつらいけど、二人ならそんなにつらくないやろっていったのよ、まゆちゃんは。あたしは泣きながらごめんねってあやまったのよ、ほんとに。まゆちゃんなんでそんないい子なのっていったらな、なんていったと思う?いい子じゃないって。本当にわたしがいい子だったらね、はなちゃんが忘れたってわかった時点でわたしのプリントあげてるわって、そういって優しく笑ってくれて・・・・・・」
そう語る椛田の目には薄っすら涙が浮かんでいた。
他にも買い物のお金として親から預かったものを遊んでいる途中に紛失して泣いていたとき、裕次郎の母親がおじいちゃんに事情を説明してわざわざお金を工面してくれたこともあったという話や、受験で大変なときに周りの子達のためにわかりやすいノートを作成してくれたりと、裕次郎の母親はどこまで情に厚く、正義感の強い女性であったことは明らかだった。
母親のこと以外では裕次郎の話に及び、お母さんに似てるという人もいれば、もう少し似ればもっとハンサムやったのにねと率直に語るおばさん方もおり、しまいにはアメリカ帰りの友人として紹介された伸久にもディカプリオに会えるのとか、やっぱり毎日ステーキなのかなど、オーバーな質問ばかりもらって何度も返す言葉に詰まった。
裕次郎は学生時代付き合ってた男がいなかったか、全員に聞いたが、それはなかったと思うと答えは同じだった。男子からの人気はあったが、そういう噂もなかったし、それに受験を目指して必死に勉強していた彼女にはそんなことに興じる余裕はなかったという話だった。
伸久の中にあった裕次郎の母親、眞由美の記憶は、そのままで正しかったことに一種の安心感を覚えた。気高い美しさ、優しさは内側にあるダイヤモンドのような強固で光輝く心から薫発されていたのではないかと思った。であるならば、彼女が裕次郎の父親と結ばれた理由もわかる。決して経済面を理由に結婚したのではなく、真面目で温厚でなおかつ仕事に真摯に取り組むその人柄に惹かれたのではないだろうか。勿論、倒産という事態は予期していなかったのだろうが。
夜、二人は裕次郎が予約したこじんまりとしたペンションで夕飯をとっていた。人手も灯りも少ない場所にあるペンションだが、内装はエスニック風で小洒落ていてこだわりを感じるつくりとなっており、鍋でぐつぐつ煮られているかにの紅緋色の甲羅がオレンジの照明に照らされている。
「うまいよ、越前がに」
伸久はかにのエキスを吸った鍋に舌鼓を打った。
「これで明日の朝飯もついて八千円は破格だろ」
裕次郎も満足した表情でかにの足にかぶりつく。他にもかに飯、かにの刺身、かに味噌がのったから揚げなど、かに三昧を楽しんだ。
「あっという間だったな。明日金沢寄るのやめて、帰ろうか」
裕次郎がそういったのは、飯を食べ終え、風呂に入り、二人部屋で飲んでいるときだった。
伸久は一本目で顔を赤らめている裕次郎を見て、「俺は別に構わないよ。運転するわけじゃないし」というしかなかった。
「久しぶりの運転で、しかも一日中運転したから疲れちまったよ。明日金沢をまわる気にはならねえ。行きたかったか?」
「莫迦、俺はただついてきてるだけの人間だぞ。ついでにおばさま方に変な質問ばっかされてよ」
「よし決まりだ。かにも十分食ったし、満足だ」
裕次郎は二本目のチューハイの缶を開けた。
「なあ、どうして俺なんか呼んだんだよ?」
伸久はずっと聞きたかったことを聞いた。
「別に大した理由なんてないよ。俺も運転は慣れてないから、誰かいてくれたほうが安心だったんだ」
「嘘だね」
「嘘じゃねえよ」
「いや、嘘だ。裕次郎は昔から嘘をつくとき目を合わせないし、歯切れが悪くなる。真面目な性格なやつほどわかりやすいんだよ」
裕次郎は憮然としてつまみを口に放り込み、それを開けたばかりのチューハイで勢いよく流し込んだ。
「別にいいたくなきゃいわなくていいよ」
伸久は一本目のビールを飲み干し、ベッドの上に横になって天井を見上げた。
しばし重い沈黙が二人を包み込んだ。その沈黙の上で寝そべりながら、伸久は何もない天井をただ見ていた。
「なあ、ノブ」裕次郎は酔眼を浮かべながら、アルコールが喉に絡んだせいか、濁声でポツリといった。
「俺の母親って、そんなにいい母親だったのか?」
伸久は天井を眺めたままの姿勢で、「今日会った人たちの話聞いてなかったのかよ?」と淡泊な口調で応答する。
「記憶がないんだよ」
「記憶?」
「ああ」
伸久は怪訝な表情を浮かべながら起き上がる。
「どういうことだよ?」
「母親と一緒にいたころの記憶がないわけじゃないんだよ。もちろん顔は覚えてる。それくらいなら写真を見れば確認できるしさ。何となくだけど声も憶えてる。けど、母親がどんな母親だったか、覚えてないんだよ」
伸久は戸惑い、なんて声をかければいいかわからなかった。五才の頃から母親に会っていないという経験をしたことがないだけに、何ともいえなかったのである。幼少時に母親と別れた子供というのは、もしかしたら大半が同じような感覚を抱いているのかもしれない。
戸惑っている伸久をよそに、裕次郎は続けてこうもいった。
「実をいうと、母親だけじゃなくて、母親がいなくなったころの記憶がほとんどないんだ」
「五才のときの記憶ってこと?」
「そう。ノブとか透、亮介がそばにいたことは覚えているというか、当然な感覚であるんだけど、漠然と記憶がないんだよ」
「漠然と記憶がない・・・・・・それは、やっぱりお母さんがいなくなったショックとか、そういうのが関係してたのかな」
「わからねえ。気づいたらいなかったし、最初からいなかったような感覚のが強くてさ」
伸久は思った。その感覚は自分にはわからないと。激しいショックのゆえに母親との記憶の箇所だけに空洞が生じたのか、それともよく一般的にある幼少期のころの記憶が乏しいだけのことなのか。伸久にはわからなかった。
裕次郎は二本目の残りを豪快に呷り、三本目のプルトップを開けていった。「特にノブを誘った理由はないんだ。でも、もしかしたらそれだったのかも。母親の人物像と記憶がちゃんと符合する人が一緒にいてほしかったのかもしれない」
「なら安心しろよ。お前のお母さんは本当に優しくて素晴らしい人だったんだ。俺も保証する。それに、めちゃくちゃ美人だった」
「でもどうしてそんな女が夫が倒産したのをきっかけにあっさり家族を置いて出ていっちまったんだろうか」
裕次郎も当然その疑問に辿り着いていた。
「俺にはわからないよ。でも、可能性として一つ考えられることは、お父さんの倒産が原因ではないということかな」
「どうしてそんなこといえるんだよ?」
裕次郎の口調に突如鋭い棘が生えた。
「今日の話を聞いたら普通そうなるだろう」
「でもどれも昔の話だ。人間性は変わる。おそらく母親はどこかで金に目がくらむような人間になって、それであんなダメ親父と一緒になっちまったんだ」
「そう結論付けるのは性急すぎるというか、短絡的だと思う。今日会った人たちの話を聞くと、社会人になってからも交友はあったはずだ。そんな極端に人間性が変わったとは考えづらい」
「隠してただけだよ。よくあることじゃん、昔の人には良く見られたいことって。昔は大好きだった食べ物が大人になると嫌いになるってこともよくあるじゃねえか。一緒だよ」
「莫迦、性格と味の好みを一緒にするなよ」
「莫迦莫迦いうな」
「莫迦、一回しかいってねえよ」
「ったく、これだからアメリカのエリートは困る」
挑発的な言葉だった。裕次郎は酔っている。思えば裕次郎と飲むのはこれが初めてだったことに気づいた。まさかここまで酒に弱く、気性が激しくなるとはと、呆れた風情で伸久は「俺はエリートなんかじゃねえ」と不機嫌にいい返した。
「でも俺よりは百倍ましな人生送ってるよ」
「自分ばっか不幸みたいな言い方だな。俺だって悩んでる。悩みのない奴なんていないんだよ」
「同じ悩みでも悩みの質が違うんだよ」
「質じゃない、種類が違うだけだ」
「もしいま俺とノブの人生を交換したらきっと思うよ。これはひどい人生だ、ってな。それで思い知るよ、自分がどんだけ幸せ者なのかって」
「くだらない妄想はやめろって。そんな比較きりがねえよ。そんなこといったらまだ戦争が起こってる貧しい国の人たちはお前のこときっと羨ましがるよ。何不自由のない平和な国に住めてるってな」
「話が飛躍しすぎだ、莫迦」
「お前がいってることは莫迦げてるってことだよ」
「ああ、そうだな。俺はどうせ莫迦だよ」
「これ以上自己卑下するのもいい加減にしろよな」
不穏な空気が流れた。二人はまた沈黙に戻る。嫌な雰囲気だ。伸久は再びベッドの上に寝転がり、同じ天井を見上げた。
天井には薄っすらとした汚れが付着している。それがいま二人の間に漂っている空気によく溶け込み、伸久はそれから目が離せなくなった。
「・・・・・・ノブに俺のことはわからねえよ」
裕次郎は三本目を飲み干し、その空き缶を握りつぶして力を込めた。「ノブは頭が良いだけじゃなくて、スポーツもできた。何でもできた。私立の学校なんかいって、挙句の果てにはアメリカだ。誰がそんなことできるかよ。それに加えて俺はどうだ?父親は失業、母親は蒸発、貧乏、頭もよくないしスポーツも別に得意じゃない。不良にもなり切れず、何もない真っ暗な人生だ」
それはまるで独り言で、鎮魂歌を歌うような語り口だった。
正直いって言い争いは好きじゃない。特によくお互いを知っているはずの友人とは。でも伸久はいった。
「わからねえよ。それがお前の人生なんだからな。俺の人生もそうだよ。裕次郎にはわからない」
「 うるせえ、そんなことわかってんだよ」
裕次郎は握りつぶした空き缶を床に叩きつけた。わずかに残っていた液体が疎らとした染みをそこにつくった。
裕次郎は横になって布団の中に潜り込む。
「ちゃんと歯磨いてから寝ろよ」
返答はなかった。数分後、寝息が聞こえてきた。
伸久は中々寝つけなかった。むしろアルコールはすぐにとび、頭は冴えていった。
目を閉じては開きを繰り返し、そのたびに天井の汚れだけをじっと見つめていた。