険しき道
何も思い出せない。
どうしてこの様な場所にいるのか。また、自らが如何なる存在であるのかも。
それを思案しようとしても、中途で記憶にもやがかかり、阻害されてしまう。
夢の最中にいるような状態だ。
妙な浮遊感が全身を支配していて、手足を動かそうにも、指先一つすら意のままにならなかった。
胴体以外の感覚が全く覚えられぬ。
今はただ無意識に、この道途にて歩を進めるのみである。
己に自由はない。体は勝手に動作している。
奇妙な道だ。暗闇で満たされた長い洞窟のように、一寸先に何があるのかも解らない。
いや、そもそも道と呼称してよいのかも曖昧だ。
舗装された交通路でもあるまい。今いる空間も、なんとなく広大なものである気がする。
しかし、向かう先は体が知っていた。精神はそれに従うだけだ。実質的には一本道と相違ない。
辺りには生暖かい滑り気が充満していて、それが全身をべっとりと覆い包む。
そんな状態にも拘らず、不思議と悪い気はしない。寧ろ心地良さすら感じていた。
進行に時間を費やしていると、ぼんやりとしていた思考回路が少しづつ回復していく。
ふと、周りにも己と似たような存在があるのを確認できた。
闇に阻まれて見えないが、確かにそこに居る。直感的に感じ取れた。一つではない。
二つ三つと数えていって、百を越えたあたりから、きりがないと判断して計数をやめる。
彼等も皆、同じ方向へと進み続けている。
「私」はどうやら一人ではないらしい。
――「私」という一人称を引き出した瞬間、妙な違和感を覚えた。
また、奇怪な疑問を持った。
己は「個」なのだろうか。
ひたすらに、目的も知り得ないまま進む。
我が身のそんな行動に抵抗できないどころか、今では何故か、前進していく行為に使命感すら抱き始めた。
周囲もきっとそうなのだろう。
つまり、志を同じくする者達だ。
親近感を上回る感情が訪れた。
彼等、いや、我等は共同体なのではなかろうか。
集合体、と言い換えても良いかも知れない。
むしろ同一体と形容するのが相応しい。
私は彼等であり、彼等は私だ。
――長い時間が経過した。未だに我等は足踏みもせずに進行を続けている。
昼夜もないこの場所では、実際にどれだけの時間が経ったのか不明だ。
しかし訳も解らず前進する、という選択肢しか与えられない我等にとっては、気の遠くなるようなものだった。
道中、我等の内の一つが消失した。
他の全員は気にも留めず、成すべきことをし続ける。
始めの一つが消息を絶ってから、また一つ、姿を消した。
それに続くようにだんだんと居なくなって、今では凡そ初期の半分程度になっていた・
無論、それでも我等が止まることはない。
その後、総数が百を切った辺りで、発見があった。
我等が辿るこの空間の先が、少し狭まっている。その奥には洞窟が続いているようだ。
視界に黒色しか映らないのは依然と変わらない。
しかしまたしても直感で、否、本能的に、そうであると悟った。
一向に終わりを感じさせない長旅だったが、光明が見えた。
――弾んだ気分で洞窟の入口に差し掛かろうとした時、その本能が猛烈に全身を昂らせた。
その原因を探ろうとして、身の周りに注意を払う。
直ぐ近くに、球体があるのが分かった。
高揚感を刺激するのはこれか。
気付くと同時に、球体に対して様々な印象を抱き始め
た。
神聖で、魅惑的で、神秘に満ちていて、力強くて、愛すべき対象で、圧倒的で、唯一無二で、儚くて、我等が命を懸けるに値する――。
長い道程の終着点を見つけた。目指すべくは洞窟ではない。「あれ」だ。
完全に理解した。「あれ」に出会うために我等は存在しているのだ。
おいで、おいで。
我等を呼ぶ声がした。それを聞いて一目散に球体へと詰め寄る。
全員が追随して迫る。
先陣を切って飛び出したので、このまま行けば最初に「あれ」に触れるのは自分だろう。
他の我等には申し訳ないが、一足早く到着させてもらう。
やっと終わる。使命が果たされる。このまま報われて、この身はこれ以上ない多幸感で埋め尽くされるだろう。
そう期待しながら、球体に縋ろうとして――。
拒まれた。球体は触れられそうになる寸前、こう言った。
『あなたが私に触れることは許しません』
信じられなかった。これまでの集大成が、一瞬にして否定されたのだ。
『何故ですか。あなたに会うために、皆過酷な道程を越えて来たのです』
他の我等とは意思の疎通が出来なかったが、どういう訳か球体に対してはそれが可能だった。
質問を投げかけてみる。
『あなたには本来ある可きものが欠落しています。このまま私に触れても、いずれ身を滅ぼすことになるでしょう』
『ある可きもの、とは何でしょうか』
『あなた以外の周りの者が、全員持っているものです』
『周囲の者も皆、私と同じ筈です。同じ目的を持ち、同じ道を辿って此処まで来ました』
『いいえ、本質は違うのです。それぞれに潜在する個性があります。それはあなたにも』
『では、私には何が足りないのですか』
『生命として、それに足る器を形成できないのです』
『それはどうしようもないことなのですか』
『残念ながら』
頑なに拒絶を受けて、動揺で意識が薄れる。
それでは、ここに至るまでの全ては何だったというのか。
存在意義を剥奪されて、「私」の体はとうとう動かなくなった。
それに連動して、意識は更に霞んでいく。
希望していたものとは違う終焉が訪れようとしている。
道中に潰えた彼らと同じ様に、「私」も消滅してしまうのだろう。
次の目的地は「死」に改められた。
死にゆく秒読みの行きがけ、彼らの内の一つが球体に触れたのを感じ取った。
その他の大勢は、私と同じように静止し始める。
彼らは、「私」ではなかった。
球体を先に奪取すべく競い合う、敵同士だった。
勘違いも甚だしかった。
無念と後悔を抱く余裕もない。
洞窟の奥へと移動し始める彼と球体を最後に観取して、「私」の旅路は完結した。
――それからしばらく経ったあと、何処かで一つの”健全な”命が、新たに産声を上げた。
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