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世界の最後の一行とあとがき


 まだ生暖かい骸をシーザは抱き締めた。止められない涙を流して咽び泣きながら、きつく、きつく彼女を抱き締めた。


「来世に幸あらんことを」


 そう願わずにはいられない相手を、シーザは10年近く見つめていた。


 血を失いすぎて青白い頬にかかった黒髪を除けてやれば、始めて見るような幸せそうな顔。ああやってしかシーザは彼女の安らかな顔を与えることができないと信じている。


 初めてあった時、彼女は枯れ木のように痩せていて、あちこちに腫れや痣や裂傷があった。まだ幼い顔は、眼が何処か他の女とは違った。それが何だか気がついたのは何時だろうか。


 勇者の同行者を命ぜられ、渋々付き従ったシーザはその頃は突出した所のない兵で、勇者の扱いを察する事ができた。


 この世が滅ぶと言われても何処か現実味はなく、身内や親しい人間のいない身として、特にやる気を見せる事もない。


 だが、それを変えたのは彼女だった。



 血反吐を吐いて強くなる彼女は、憎んでいた。彼女を召喚した奴等を。召喚した国を。


 勇者という地位しか見ない奴等には気がつけないだろう。誰よりも側にいたシーザだから気がついた。


 幸せそうな親子を、笑い合う少女達を、喧嘩をする兄弟を、信頼し合う騎士を―――。

 そんな有り触れた日常を、彼女は仄暗い瞳で見詰めているのだ。


 それから暫くして、夜中に魘される彼女を見て、国が彼女にした仕打ちを知った。



 激情を初めて知った。



 彼女を支えてやりたい。その願いは己の出自に阻まれた。




 己はどこまでもこの世界の人間でしかない。彼女が憎む、この世界の。




 だからせめて、最期まで付き従おうとその時誓ったのだ。






 憎しみに駆られて生きる彼女は痛々しかった。

 癒えない傷を抱えて、その痛みを分かち合う人も、癒そうとする人もいない。獣のような生き方をして、それでも理性を捨てられないその生き方が、いたわしかった。


 厭世的なのに生に執着して、神にすらなった彼女は、誰よりも強いのに、何者からも守ってやりたかった。


 彼女の為ならば、どんな事もした。


 だが、世界に己と彼女しかいなくなり、それでも救われない彼女を見る事しかできなかったシーザは腹を決める。







 携えるのは、思い出の短剣。

 身一つで投げ出された彼女に貸してやった物。







 骸は氷よりも冷たくなった。

 世界の断末魔は、どこまでもこだまする。


 破れたカーテンの隙間から、橙色の光が差し込んで、その色の余りの鮮烈さにシーザは顔を上げた。ぼんやりと、骸を抱いて薄暗い大広間からバルコニーに出る。


 そこには凄絶な世界が広がっていた。


 空は赤く染まり、凶星が強い光を放つ。大地は割れ、山は火を吹いた。海は透き通り、太陽の光を透かしている。



 斜陽の世界。



 まるで相応しい名前だ。


 この太陽が沈む前に、世界は滅びを迎える。幾ばくの時が、遺されているだろうか。




「この世界は、カオリにはどう見えたのだろうか。美しくは……無かったろうな」




 わらう。


 シーザはこの世界を憎む彼女に恋をした。だから彼女に協力して世界を滅ぼす立役者となるに至った。


 だが、彼自身は




「何とも美しいとは思わないか―――?」



 抱いた骸に笑いかける。


 そして世界は消失した。








 気がつけば、肉体はなくシーザは、精神だけで真っ暗な場所に浮遊していた。


『死んだのか……』


 声帯はない。だが、声は響く。


『…彼女は…………カオリは……』


 脳はないのに、思考はある。周辺を確認したシーザは、どうやってか彼女がいないことを確認して、安堵の息をついた。



 どうやら彼女はこの世界から解放されたようだ。


 シーザは願う。



 どうか彼女が幸せでありますように、と。

 今まで不幸だった分を上乗せして、来世こそ幸せになれますように、と。

 限り無い愛情が、彼女を包んでくれますように、と。


 そしてシーザは、己が身代わりになって良かったと痛感した。


 しなければならないことが感覚的に分かる。あの世界で死んだ人間の魂の浄化だ。

 犠牲者である彼女に、こんな事をさせるわけにはいかない。今度こそ彼女は壊れてしまうから。


 早速シーザは作業に着手する。途方もない数だ。終わるのは何時だろうか。





 シーザは想う。遠く彼方の彼女を。


 何時かこの役目が終わった時、カオリの幸せを確かめに飛んで行きたい、と。






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