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釈尊の父

第1章 


 今から三千年以上も昔、インドでの話である。


垢まみれのボロボロの布キレを身にまとい、インドラ神の祠を棲家とする女と子供がいた。二人は神聖なインドラ神へ生贄として捧げられた獣や果物を食物として生きていた。村人達は、いつの日からか祠に住みつき、神々への供え物を食料とするその子供を、皮肉を込めて「浄飯」と呼んでいた。


 女と子供の二人が、どこから来たのか、誰なのか、知る者はいない。それどころか、二人が母子であるのかさえも、誰も知らない。通りすぎる度に、人々は汚物を見るような視線を二人に浴びせていたが、誰も祠から追い出そうはとしなかった。女と子の様子からは、悲壮感や、恥じるという様子は全く見られなかった。ただ生きるために、身なりをも省みないその姿は、まるで動物のようであった。「浄飯」と呼ばれる子供は三歳くらいに思われたが、これまで誰も二人が言葉を交わすのを聞いたことがなかった。


 ある日、浄飯が、いつものように一人で祠の裏にある山に入り、木の実を集めて戻ってきた。浄飯は、横たわる女の脇に木の実を置き、甘えるように胸の間に顔を埋めたが、女は頭をなでてくれない。いつもと何かが違う。いつもは柔らかく心地よい胸の鼓動が伝わらない。その時から、女は寝返りもうたず、抱きしめてもくれない。次の日も、女は起きない。また、次の日も。しばらくすると、冷たいままの女の体から、蛆がうようよと涌いてきた。すると、幼い浄飯の目にも、女の姿は生贄の獣のように見えてきた。浄飯は、とてつもない恐怖心と同時に無性に悲しい気持ちでいっぱいになった。突然、両目から涙がどんどん溢れ出てきた。幼い浄飯には、溢れる涙の理由などよく分からなかったが、

「うぉおお、うぉおお」

と、獣のように声をあげて泣きだした。


浄飯の尋常でない泣き声に異変を感じた村人達が、祠の周りに集まってきた。祠の中をのぞくと、村人は思わず「うっ」と顔をしかめた。すさまじい死臭と共に、腐乱して蛆のわいた屍にすがりついて狂ったように泣く幼い浄飯の姿があった。村人達が、あまりの惨状に茫然と眺めているところへ、普段村では見かけない高貴な様子の老人が近づいてきた。


老人は死臭など気にもとめず、村人をかきわけて祠の中へと入っていった。老人は、人相見がするように、浄飯の顔をまじまじと見た。これでもか、という程まじまじと見た後で、老人は突然ひれふして浄飯に語った。

「とうとう、あなたを探し出すことができました。よくぞご無事でした。太陽の裔たる尊きお方は、インドラ神の祠にあられましたか。我ら一閻浮提の民を救う、ゴータマの父たる方よ」

その時、ある村人が高貴な老人を指して言った。

「アシタ仙人様だ」

その声に村人達は騒然とし、かの有名なアシタ仙人が、乞食同然の浄飯に恭しく接する様子に村人は戸惑った。アシタ仙人は、確かに浄飯を「太陽の裔」と呼んだ。「太陽の裔」とは、バラモン教の聖典リグ=ヴェーダに登場する有名な古代インドの英雄イクシュヴァーク大王の子孫である。誰も、このうす汚い子供と伝説の英雄が結びつかず、アシタ仙人の言っている意味が分からなかった。様子を察したアシタ仙人は、村人たちに向き直って言った。

「この祠の中におはします幼き君こそ、我々が長き間慕い求めてきたゴータマの父となる尊きお方であるぞ」

インドにおいて「牛」は古代から絶対的に神聖な存在で、中でも、最も優れた牛を「ゴータマ」と呼んでいた。そして、古くからインドでは世が乱れたとき、このゴータマが地上に降臨し、民衆を救うと信じられてきた。村人は、アシタ仙人により、浄飯がそのゴータマの父であると言われ、いっせいにひれ伏したのであった。


 当時のインドではバラモン階級とは別に、苦行やヨガ、禅定などの修行により解脱を目指す聖者とよばれる者達が存在していた。この聖者の中でも特に有名であったのがアシタ仙人である。

アシタ仙人は、長い年月ヒマラヤの麓で多くのの弟子たちと共に修行に励んでいた。ある日、いつもの通りアシタ仙人が禅定という修行をしていると、突然、


(太陽の裔のもとにゴータマが生まれ、神や人、そして生きとし生けるもの全てを救う教えを説くであろう。まだ幼いゴータマの父となる者は、か弱くその小さな生命は風の前の塵である。この生命を決して失ってはならぬ。ゴータマの父、太陽の裔を救い出し育てるのだ)


と啓示を受けたのであった。


突然の啓示に、アシタ仙人もはじめはとまどったが、

(我がこれまでの修行人生は、この事のためにあったか)

と、自身、深く感じるところがあったので、急ぎ道場に戻り簡単な旅支度を済ませると、弟子達には

「しばらくの間、留守にする」

とだけ残し、誰も伴わず、一人でゴータマの父たる太陽の裔を探すために山を降りたのであった。それから一年近く、各地を探し抜いた末、ついに、この村のインドラ神の祠で、太陽の裔たる浄飯を見つけ出すことができたのである。


アシタ仙人は、村人に一番よい場所で女を懇ろに弔うよう指示した。準備が整い、アシタ仙人が自ら祭式をはじめると、突然、激しい雷雨の後、美しい虹が二本現れ、村人たちは、どよめいた。アシタ仙人は祭式を中断すると、村人たちに向かって言った。

 「神々の王者であるインドラ神は、大空を支配し、雨と雷を自在に操るといわれている。見るがいい。あの二本の虹は、インドラ神が自ら下天された証じゃ。女人はインドラ神の使いだったのだ。インドラ神御自身が女を迎えにこられたのじゃ」


間もなく、二本の虹は消えた。アシタ仙人は女の弔いを丁重に済ますと、

「さあ、行こう」

と言って、呆然とする村人をよそに、何事もなかったかのように幼い浄飯の手をとり夕陽の中へと消えていった。




























第2章 


 アシタ仙人と幼い浄飯がヒマラヤの麓にある道場に到着すると、すでに夜も更けていた。アシタ仙人は、弟子達を道場に集めさせた。偉大な師匠が一年以上にも及ぶ長旅から帰ってきたのである。既に眠りかけていた弟子達であったが、久方ぶりの師匠との再開を楽しみに道場に集って着た。

「お師匠様、お帰りなさい」

と弟子達が声をかけると、アシタ仙人は、旅の装いも解かず、浄飯と一緒に、旅の埃にまみれたままの格好で道場の中央に座ったまま笑顔で頷いていた。弟子達が道場にほぼ全員集まってきたのを確認すると、

 「みな元気そうで何よりじゃ。今日から新しい弟子が、この道場で修行することになったので紹介する。名前は、浄飯」

と、浄飯を紹介した。紹介された浄飯は、お辞儀もしない。それどころか、着の身着のままの薄汚れた衣服のままアシタ仙人の後ろに隠れていた。アシタ仙人は、

「まあ、よい。今日はもう遅いから」

と言って、散会にしてしまった。この夜、アシタ仙人は思うところがあって、浄飯が太陽の裔であり、ゴータマの父となる者であることは言わなかった。弟子達は、1年ぶりに師匠に会えた喜びと物足りなさが混じった複雑な表情で各々寝床へと戻っていった。


翌朝、アシタ仙人の指示を受けた弟子達が浄飯を沐浴させた。いやがる浄飯をつかまえて汚れきった服をはぎとり、ごしごしと一生懸命汚れを落として身なりを整えさせると、内面から発する威厳とでもいうのだろうか、その高貴な様子はただものとは思えないほどであった。それよりも弟子達が驚いたのは、浄飯が言葉を話すことが全くできないということであった。もう何か意味のある言葉を発してもおかしくない年だろうに、ただ、

「アア、ウウ」

と呻くだけであった。弟子達は、言葉にこそしなかったが、お師匠さんは、1年間もかけて、どうしてこんな子供を連れて帰られたのだろうか、と不思議に思うばかりであった。

ゴータマの父たる浄飯を探し出す旅の間、アシタ仙人は毎日、どのような訓練・教育を行うべきかを考え続けていた。アシタ仙人のもとで修行する弟子達の目的は解脱である。それに対し、ゴータマの父となる幼子の修行の目的は、ゴータマの父にふさわしい人物へと育成する事であり、全く異なっていたからである。

熟考の末、アシタ仙人は、当時主流であったバラモン教におけるヴェーダを中心とする祭式や哲学と共に、クシャトリアの文武両道にわたる帝王学を授けることにした。

ゆえに、浄飯の行う修行内容は、他の弟子達と異なることになるため、弟子達とは別に、アシタ仙人の身の回りを世話するという名目で寝起き共に常時随伴させることにした。

まだろくに言葉も話せない状態であった浄飯であったが、アシタ仙人が弟子達に命じて言葉を覚えさせると、浄飯は乾いた大地に水が染みこむが如く次々と言葉を吸収していった。


それから数年が経過し、驚異的な速さで次々と文武を修めていく浄飯が弟子達の中でも頭角を現すようになると、

「生意気だ」

と、やっかむ者が現れた。しかも大人の中から。

この道場に集ってきた弟子達は、解脱を目的とはしているが、例外なくアシタ仙人を求め慕って集ってきた者達である。ある日突然、言葉も話せないような子供が、自分達とは別に常にアシタ仙人と寝起きを共にするのみならず、特別な修行もしているらしいとの噂が、嫉妬心に油を注いでいた。優れた資質をもつ者に対する愚かな嫉妬は、人の世の常。嫉妬を乗り越えて生きることは、即、人間を鍛える道場となるが、つまらない嫉妬が、更に大きく才能を伸ばそうとする浄飯の修行を妨げる事も多い。そこで、浄飯に、斛飯という同じ年頃の少年を引き合わせることにした。

物事のコツを瞬時に押さえることに優れ、のみこみのはやい浄飯に対し、斛飯は、基本を何度も繰り返しコツコツと努力していくタイプであり、何事に対しても慎重で控えめなタイプである。アシタ仙人は、全く違うタイプの二人を引き合わせることで、互いに励まし、守りあい、切磋琢磨させることにしたのであった。


アシタ仙人は、二人を呼ぶと、お互いを紹介した。

「二人で励まし合いながら、文武の達成に励むように」

と言った後、アシタ仙人は、必然的に、浄飯と同じゴータマの父となるための修行をすることとなる斛飯の目をまじまじとみつめて言った。

 「斛飯よ、浄飯に常に陰のごとく寄り添いながら、修行をすることだ。よいか、斛飯よ、浄飯に常に陰のごとく寄り添うこと、それが汝の人生の目的であり、汝のカルマじゃ」

まだ幼い斛飯は、アシタ仙人の言葉の深い意味は理解できなかった。が、お師匠様から、非常に重要な事を言われたということだけは分かった。年の近い二人は、すぐに意気投合し、生涯にわたる最大の理解者となる。


その日以来、斛飯も浄飯と共にアシタ仙人に常時随伴する生活がはじまり、二人に対する厳しい修行は、十年以上に一日も休むことなく続けられた。アシタ仙人は、肉体的にも精神的にも厳しく鍛えた。そのあまりの厳しさに、アシタ仙人の意図を知らない弟子の中には、

 「お師匠さんは、浄飯と斛飯が憎いにちがいない」

と本気で思う者がいたほど、徹底して鍛えたのであった。

第3章 


月日は流れ、浄飯も斛飯も、ともに逞しい青年へと成長していた。

アシタ仙人は、二人の成長する姿を見ながら、いよいよ修行が完成に近づきつつあることを感じていた。ある日、アシタ仙人は浄飯と斛飯を呼ぶと、

「修行もいよいよ最終段階にきたようじゃ。山をおりて、パンダヴァ山の山窟にあるアーララ・カーラマ師について、無所有処定の修行をするように」

と武者修行を命じた。


紀元前2,500年頃からインダス川流域に定住していた原住民は、モヘンジョ・ダロや整然とした舗装道路・大浴場など高度な文明を築いた。そこへ、コーカサス北方より移住してきたアーリア人が、生け贄を捧げて祈祷する儀式と聖典ヴェーダを持ち込んできた。ヴェーダは、雷神インドラと火神アグニに捧げる宗教的賛歌と哲学的な思索で構成されているが、後に哲学的な思索は付属文献「奥義書ウパニシャッド」としてまとめられた。


このウパニシャッドの究極は、宇宙の根本原理である「ブラフマン」である。もともとブラフマンは、ヴェーダに精通したバラモンに内在する神を動かして願望を達成する根源的な力を抽象的に表していたが、後に宇宙の創造主として擬神化されている。

創造主であるブラフマンは宇宙を創造し、その創造された宇宙はヴィシュヌ神により維持され、そしてシヴァ神に破壊される。この間、人間の時間で43億2000万年に相当するとされる。この宇宙の創造から破壊までを「ブラフマンの一日」とし、この「ブラフマンの一日」が無限に繰り返されると信じられていた。

現代では永遠にくり返す輪廻やカルマという概念は、仏教特有の概念と思われているが、この無限に繰り返される「ブラフマンの一日」から生じて根付いた概念であるといわれている。


アシタ仙人や浄飯の生きた時代は、伝統的なバラモンの宗教的権威を斥けて有力なクシャトリアが台頭し、数多の群小国家が併存するという一触即発の不安定な時代であった。権威の失墜したバラモンの不安感が増大し、修行により永遠に続く苦しみの輪廻から解放されるため「解脱」を志向する動きが生まれていた。そして、この「解脱」とは宇宙の根本原理であるブラフマンたる「梵」と、自我の根本原理であるアートマンたる「我」とが究極的に同一であるという「梵我一如」を覚知することと考えられており、バラモンのみならず、聖者や仙人と呼ばれる修行者もまた、苦行やヨガ、禅定などの修行を通して「解脱」を目指すことが主流になっていた。


アシタ仙人が浄飯と斛飯に命じた無所有処定という修行は、当時最もポピュラーであった、この禅定という修行の一種である。禅定とは、瞑想を深めて心を統一し真理を観察することにより、解脱へと達成するための修行である。

禅定により精神世界を深めるのである。具体的には、心の動きを止め、空間は無限大であることを覚知する「空無辺処」という段階から入り、次に意識も無限大であると覚知する「識無辺処」という段階へと進んでいくのである。浄飯と斛飯は、この「識無辺処」といわれる第二段階まではアシタ仙人のもとで既に終了していたのであった。


最終段階である「無所有処」の体得については、アシタ仙人の様々な思惑から、武者修行として禅定の第一人者と称されるアーララ・カーラマのもとで体得させることにしたのである。


アシタ仙人の指示を受けると、浄飯と斛飯の二人は簡単な旅支度だけ済ますとすぐに出発した。はじめての武者修行である。厳しい修行の場を離れて若い二人だけの自由な空気を感じながら、何となくうきうきした気分で歩みを進めた。半日ほど歩くと、ほどなくアーララ・カーラマの道場のあるパンダヴァ山へと到着した。


道場の入り口にある山窟付近にいた弟子らしき修行者に来訪を告げると、アーララ・カーラマ自身を連れて出てきたではないか。師匠のアシタ仙人が、若い修行者を出迎えに出ることなどありえない。二人が驚いていると、アーララ・カーラマは開口一番、

「よく、おいでなさった。話は、アシタ仙人より聞いておる。ちょっと失礼」

と言って、浄飯と斛飯の顔を間近でじっとみつめた。あのアシタ仙人が直々に送り込んでくる弟子とはどんな弟子か、と興味深く思っていたアーララ・カーラマは、朝から待ちわびて、わざわざ外まで出迎えに出て二人の人相を見にきたのであった。

誰に言うでもなく、

 「ほうほう」

とだけつぶやくと、

 「私が無所有処を教えてしんぜよう」

と直々に無所有処定の説明をはじめた。

ここまでのやりとりを見ていたアーララ・カーラマの弟子たちも驚いていた。当時、禅定の世界における大御所として世間から尊敬を集めていたアーララ・カーラマは、自ら修行者を出迎えたり、たとえ一国の国王が希望することがあっても、直接指導することなどなかったからである。そんな弟子達の驚きなど気にもせず、アーララ・カーラマは早速、二人の若者に講義をはじめた。


「無所有処定とは、究極的には何ものも存在しない、ということを覚知することである」

「新羅万象、全て形あるものは、いつかは滅びてなくなってしまう。今、目の前にあるものは全て、仮に存在しているにすぎない」

「瞬間瞬間に複雑な思惟を織りなす私たちの心も、真実には存在しない。究極的には、何ものも存在しない。これが到達点じゃ」


アーララ・カーラマの講義が終わると、浄飯と斛飯は、アーララ・カーラマに教わったプロセスに従って禅定をはじめた。いきなり無所有処定へ到達するわけではない。禅定は、段階を経て徐々に深めていく。はじめに、空間は無限大であるという「空無辺処」へと入ってから、次に「識無辺処」へと入り、最後に「無所有処定」へと到達する。これまでのアシタ仙人のもとで修行をしてきた浄飯と斛飯は、「識無辺処」までは簡単に到達することができた。そして「無所有処定」への第一歩である、全ての実体は存在しないと想起を始めた。

全てのものは真実には存在せず無である事は、理屈の上で、簡単に理解することができる。「全ての実在は、仮に存在しているにすぎない」と納得すればよい。ところが、「無を認識する自分自身も無であること」の覚知は、すなわち「自身が無になること」であり、難しいのである。

「無とは何か」を想起している自身は、無ではない。有である。想起する自分自身という主体が消えないのである。斛飯は「無」になろうと禅定を深めていくと、呼吸のペースがおち意識は研ぎ澄まされるが、無にはならない。まるで、早く寝なければと思えば思うほど眠れないのに似ていた。

斛飯が、ぐるぐると意識を回転させている傍らで浄飯は、禅定をしながら心のはたらき、すなわち感情や思考を完全に停止させていた。その浄飯の表情ともいえない表情から、アーララ・カーラマは、浄飯がすでに無所有処定の境地に達していることを見てとった。


「浄飯よ、その境地が無所有処定である。無の境地は、どうじゃ」

アーララ・カーラマがしずかに尋ねると、浄飯は目を閉じたまま、ゆっくりとした口調で答えた。まるで、深く眠っている者が寝言のように。

 「今の私は無で満たされ、無と一体であり、私の心は停止している・・・そのように感じている。これが・・・無所有処定・・・」

アーララ・カーラマは驚いた。通常、無所有処定の無という境地のままで会話をすることは不可能とされ、アーララ・カーラマのみが長年の修行の末辿り着いた境地であったからだ。浄飯は、いとも簡単にそこまで達成してまったのであった。

アーララ・カーラマは、(私の後継者となって、弟子達を育成してほしい)と言おうと迷ったが、のみこんで言った。

「ようやった。さすがアシタ仙人がよこした弟子である。その無で満たされ無と一体となった境地こそ、無所有処定の境地じゃ」


アーララ・カーラマの弟子たちは、何年かかってもこの境地に達することができずに苦しんでいた。ところが、浄飯は、すぐに無所有処定の境地に達してしまったのだ。アーララ・カーラマは、浄飯の非凡な才能に驚くと同時に、このような優秀な弟子をもつアシタ仙人を、心から羨ましく思った。


アーララ・カーラマは、浄飯達に、

「次はウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとへ行くように」とのアシタ仙人からの伝言を伝えた。浄飯と斛飯は、深く感謝の言葉を述べた後、アーララ・カーラマのもとを辞してウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとへとむかった。

ウッダカ・ラーマプッタは、非想非非想処定の大家として著名な仙人であった。道場は、パンダヴァ山にあるアーララ・カーラマ師の道場からほど近いラージャガハ(王舎城)の郊外にある。

浄飯と斛飯はウッダカ・ラーマプッタ仙人の道場に着く頃には、陽もすっかり沈んで暗くなっていた。アシタ仙人から前もって連絡があったのだろう、二人はここでもスムーズに道場の中へと迎え入れられた。二人が通された部屋には、夕食が準備されていた。夕食をすますと、その晩は宿泊して、翌朝から修行を開始することになった。


床についた斛飯は、アーララ・カーラマ師の道場での出来事を回想していた。ときに浄飯をしのいで互角以上の実力を自負していた斛飯であったが、今日の無所有処定の修行では全く歯が立たず、もやもやし続けていたのであった。斛飯は、浄飯がまだ寝ていないのを確認すると、

「浄飯よ、私は自分の心の動きを止めることができず、結局、無所有処に達することができなかった。そのことが本当に悔しくてならない。そなたはあの短い時間で、無所有処に達成することができたのか」

と切り出した。

うーん、と声なき声を発すると、浄飯は困ったような口調で答えた。

「正直に言うと、自分でも、どうしてだか分からないのだ。アーララ・カーラマ師に対して答えたように、禅定をしていたら突然、無で満たされ、無と一体になり、心の動きが停止してしまったのだ」


斛飯は、この答えにがっかりした。が、

(これは、浄飯の本音にちがいない。考えてみれば、何十年も修行をしても覚知できないのが普通なのだ。覚りへのプロセスを全て言葉で説明できたら、みんなすぐに解脱できてしまう。ここが、禅定の難解たるゆえんなのだろう)

と考え納得するしかなかった。同時に、あらためて浄飯の非凡さに感嘆しながら、眠りに落ちた。


翌朝、二人はウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとへ呼ばれた。

ウッダカ・ラーマプッタ仙人は、

「そなたが、浄飯か。昨日一日足らずで無所有処定を究めた事は、聞いておる。大したものじゃ」

とねぎらった。と同時に、

「斛飯よ。無所有処定に達せられなかったといって焦る必要はない」

と激励した。


「さて、他ならぬアシタ仙人からのお願いだから」

と、ここでも、禅定の最高峰として尊敬されているウッダカ・ラーマプッタ仙人直々に非想非非想処の修行をつけてくれるという。浄飯と斛飯は、あらためてアシタ仙人の持つ影響力の大きさに驚いた。

 「それでは、早速はじめよう」

と言うと、ウッダカ・ラーマプッタは、

「アーララ・カーラマ師の無所有処が、何ものも真実には存在せず、見る主体である自分と見られる対象との区別もない、という無の境地の体得を目指すのに対し、我が非想非非想処はもう一重深く、意識そのものがあるのでもなくないのでもないという究極の境地の体得を目指すものなのじゃ」

と教授をはじめると、斛飯は怪訝な顔をした。

 「分かるようで、よく分からんじゃろ。非想非非想処は、頭で理解することはできん。感じること、体得することじゃ。二人がどこまでできるか楽しみじゃ」

とウッダカ・ラーマプッタは、にこやかに語りかけると、続けて禅定による覚りへのプロセスの説明をはじめた。


ウッダカ・ラーマプッタの説明が終わると、浄飯と斛飯は、さっそく禅定をはじめた。無所有処定までは、全く同じプロセスである。「空無辺処」から入って「識無辺処」「無所有処定」へと深め、「非想非非想処」へと入るのである。


ここでも、斛飯は無になろうとすればするほど、雑念に捉われていた。どうしても無所有処定の手前までしかいけない。とても(全てのものは有るのではないのと同時に、無いのでもない)非想非非想処どころではなかった。


そんな斛飯が苦闘する傍らで、浄飯は、無所有処定まで一気に達し、心のはたらきである感情や思考を停止させて「無」の状態に入っていた。さらに瞑想を深めていくと、もはや、雑念はおろか何も浮かんでこない。完全なる静寂であった。無所有処定よりも更に深い精神領域に入った浄飯は、全身で禅定を楽しんでいた。

(禅定の到達点である解脱とは、これだったのか)

浄飯の様子をずっと観察していたウッダカ・ラーマプッタは、すでに浄飯が非想非非想処を得ていることが分かったので、


「浄飯よ、その境地が非想非非想処である。心境は、どうじゃ」

やさしく語りかけると、浄飯は、ゆっくりと答えた。

「今の私は、無に満たされているものでもなく、無に満たされていないものでもない。有に満たされているものではなく、無に満たされていないものでもない。このよう に、ありのままに想うのではなく、誤って想うのでもなく、想いが無いわけでもなく、想いを消滅するというのでもない」


ウッダカ・ラーマプッタは興奮をおさえられずに、

 「浄飯よ、そうじゃ、それじゃ。その境地が非想非非想処の境地じゃ」

と言うと、小躍りして喜んだ。非想非非想処に達することができた修行者は、アシタ仙人とウッダカ・ラーマプッタの二人だけといわれていた。ウッダカ・ラーマプッタは、非想非非想処の境地を浄飯と分かち合うことができたことが、嬉しかったのだ。

めったに心を動かすことのないウッダカ・ラーマプッタであったが、

(アシタ仙人がよこしたこの男、ただ者ではない)

と、浄飯のずば抜けた優秀さに舌を巻いていた。

全ての欲望や羨望などから解脱していたはずのウッダカ・ラーマプッタに、このように優秀な弟子をもつアシタ仙人を心の底から羨ましく思うと同時に、自分もこのように優秀な後継者が欲しい、という感情が湧いてきた。

その瞬間、この解脱したはずなのに欲望や羨望がわき上がるという矛盾に、ウッダカ・ラーマプッタは戸惑った。それは、非想非非想処が解脱の到達点ではないことを意味するからである。ただし、非想非非想処こそ禅定の究極とされており、到達できた者もアシタ仙人とウッダカ・ラーマプッタの二人しかおらず、更に先の解脱の到達点など考えられなかった。

(もし、非想非非想処を超える解脱の到達点に達することができるとすれば、この男・浄飯しかおるまい)

今日の浄飯の様子から、ウッダカ・ラーマプッタは確信していた。


ウッダカ・ラーマプッタは、浄飯達を呼ぶと、

「さすがはアシタ仙人がよこしてきた弟子である。その日のうちに非想非非想処に達してしまうとは。大したものじゃ。私から教えることは、もうない」

と言うと、アシタ仙人からの

「修行がおわったら帰ってくるように」

との伝言を伝えた。

浄飯と斛飯は、深く御礼を述べて、ウッダカ・ラーマプッタのもとを辞した。


あっという間の一泊二日の短い修行を修めた岐路、真っ赤な夕日が、ヒマラヤを照らして紫に輝いている。二人は、その美しさに見とれて思わず足を止めた。

「雪山に近づく鳥は金色に輝くというが、私は、そなたが金色に見えるぞ」

夕日に照らされて黄金色に輝いてみえる浄飯の顔を見ながら斛飯が言うと、二人は、大声をだして笑った。


アシタ仙人の道場では常に優等生の斛飯であったが、今回の武者修行で、生まれてはじめて挫折を経験したが、落ち込んではいなかった。雄大なヒマラヤを眺めながら斛飯は、難解なアーララ・カーラマの無所有処やウッダカ・ラーマプッタの非想非非想処をやすやすとものにしてしまうずば抜けた浄飯の優秀さは、金色に光り輝く太陽に照らされる雄大なヒマラヤとダブって見えたのであった。

































第4章 


 武者修行を終え、アシタ仙人の待つ道場への帰り道、突然浄飯が立ち止まった。


浄飯の目の前を、美しい娘達が通り過ぎた瞬間、浄飯はインドラ神の雷にうたれたように激しく電流が走り、その場に立ち尽くしてしまったのである。そして、浄飯は何が何だか分からないまま、娘達の美しさに惹かれ、道場とは異なる方角へふらふらと娘たちの後をついていってしまった。

振り返ると後ろを歩いていた浄飯が消えてしまったのに気付いた斛飯は、あわてて浄飯の姿を探した。


浄飯は後を追ったが、娘達は大きな邸へ入ってしまった。

浄飯が近くにいた若者をつかまえて娘達について尋ねると、ここ天臂城に住むコーリヤ族の有力者スプラブッダ長者の姉マーヤーと妹プラジャパティーであることがわかった。そこへ斛飯が追いついて浄飯を促したが、なかなか邸の前から動こうとしなかった。浄飯は、娘に一目ぼれしてしまったのだ。斛飯はしびれを切らして

「さあ、道場へ帰ろう」

浄飯も手を強く引っ張ると、しぶしぶ浄飯は歩きだした。しばらく歩くと浄飯は立ち止まり、突然

「斛飯よ、わたしは山を降りて、あの娘を娶る」

と実に呆けた顔をして、マーヤー達の邸へ向かって走り出した。斛飯は、あわてて浄飯の後を追い、説得した。こんなに混乱した浄飯を見るのは初めてであった。これが、禅定の最高峰を極めた、何者にも動じぬ心を勝ち取った者の行動であろうか、と我が目を疑うほど顔も行動も呆けていた。

 「ともかく一旦、アシタ仙人のもとに戻るのだ。そして、お師匠様の許しを得てからマーヤーのところへ出直せばいいではないか」

何度も何度も説得し、何とかアシタ仙人のもとへの帰路についたのであった。













第5章


アシタ仙人は、禅定の最高峰を究めて帰ってきた二人を笑顔で出迎えた。アシタ仙人は、その表情から、非想非非想処を得たにもかかわらず浄飯が煩悶している事を読み取っていた。また、斛飯が今回の武者修行で挫折はしたが、それを乗り越えて一回りも二回りも大きく人間的に成長を遂げたことも、手に取るように分かった。しかしアシタ仙人は、そのことには全く触れず

「がんばったのう。今日は、疲れただろうから早く寝て、明日の早朝、浄飯だけ一人で私のところへ来るように」

とだけ短く言って、奥へ入ってしまった。その後二人は、武者修行の疲れから、寝床に入るとすぐに深い眠りにおちた。


翌朝、浄飯が沐浴を済まして一人でやってくると、アシタ仙人は居住まいを正して厳かに話をはじめた。

「浄飯よ、アーララ・カーラマ師の無所有処、更にウッダカ・ラーマプッタの非想非非想処を、この短期間で修得できたことは見事であった」

とねぎらった後、

「今日から汝は、修業の最高峰であるウパニシャッドの究極、梵我一如を覚知する修行に入る」

と告げると、さっそくウパニシャッドについて解説をはじめ、

「究極は、宇宙の根本原理であるブラフマンたる「梵」と、自我の根本原理であるアートマンたる「我」とが究極的に同一であるという梵我一如の覚知による解脱である」

と理論の結論までを一気に語ると、

「浄飯よ、よく聞け。古の哲人シャーンディリヤの教えである」

厳かにシャーンディリヤの教えの暗誦をはじめた。


じつにこの一切はブラフマンである。人は心を平静にして、

そのブラフマンをジャラーンとして念想せよ。さてまた、人

はじつに意向からなる。人がこの世においていかなる意向を

もったとしても、この世を去ったのちに、かれはそのとおり

に意向がかなう。


人は意向を定めるべきである。

意からなり、気息を身体としていて、光輝を姿とし、思惟し

たことは必ずそのとおりになり、虚空の性質を帯びていて、

一切の行為をなし、一切の欲望をもち、一切の香りをそなえ、

一切の味を含み、全宇宙に編満し、無言であって、無関心なもの。


これこそ心臓の内に存するわたくしのアートマンである。そ

れは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいは芥子粒より

も、あるいは黍粒よりも、あるいは黍粒の核よりもさらに微

細である。


しかし、また心臓のうちに存するわたくしのアートマンは、

大地よりも大きく、虚空よりも大きく、天よりも大きく、こ

れらのもろもろの世界よりも大きい。


暗誦が終わると、アシタ仙人は静かな口調で浄飯に告げた。

「浄飯よ、以上がシャーンディリヤの教えである。この教えに基づき梵我一如を覚知する日まで、ひたすら禅定を続けよ」

 古来、インドにおいて大切な教えは文字として残すのではなく、暗誦することにより伝えられていた。浄飯は、アシタ仙人に教わったシャーンディリヤの教えを、何度も何度も繰り返し暗誦した。浄飯は、一切の食物はおろか水さえも口にしないで一心不乱に暗誦を繰り返した。

 そして浄飯は、禅定をプロセスに従って深めていった。非想非非想処というありのままに想うのではなく、誤って想うのでもなく、想いが無いわけでもなく、想いを消滅するというのでもないという深い深い禅定の中で、アシタ仙人から教わったシャーンディリヤの詩が、彼を満たしていった。ところが、無所有処や非想非非想処まではやすやすと覚知できた浄飯であるが、梵我一如は、なかなか覚知することができなかった。


どのくらい時間が経ったのだろうか。しばらくすると、飢えと渇きが彼を襲い、非想非非想処から無所有処へと禅定は戻され、ついに思考は中断された。

(苦しい。頭が朦朧として集中できない)

それでも長い時間、煩悶を続けていると、

(一体、何も飲まず食わずに修行することに意味があるのだろうか。そもそも、空腹による苦痛は、禅定による思考の深まりを妨げる。空腹や喉の渇きを我慢することが解脱への修行とは思えない。全く別物であろう。自分は、無為なことをやっているのではないか)

との疑念が、彼の頭の中に沸き上がっては消えていった。

 (呼吸を止める修行や、断食を行う修行等、様々な苦行がある。果たして、解脱に達するためには、苦行が必要なのだろうか。解脱の状態とは、苦行による心身の麻痺による妄想でしかないのではないか。そもそも、解脱をした者など存在するのだろうか。アーララ・カーラマやウッダカ・ラーマプッタは、解脱をしているというのだろうか。アシタ仙人も、解脱しているのだろうか。もう二度と思い悩む事はないのだろうか)


さらに時間が経過した。すると、どうしたことか激しい空腹と喉の渇きは去り、朦朧とした意識は澄み切った青空のように一点の曇りもなくなった。浄飯は、再び無所有処から、非想非非想処へと禅定を深めていった。淀みなく深い禅定の中で、彼の思念は、シャーンディリヤの詩の一節一節を詳細に照射した。そのうち浄飯の内面全体に、思い出すのでもなく思うのでもなく詩の一言一句が鮮やかに満ちてくるのを感じていると、宇宙の新羅万象が眼前に迫ってきた。気が付くと浄飯は宇宙と一体となっていた。浄飯は宇宙と一体でありながらも、同時に、宇宙から離れて客観的に宇宙全体を見つめていた。そこでは、ブラフマンによる宇宙の成立と破壊ともいうべき新羅万象の流転が繰り返されていた。生きとし生けるもの、生きていないもの、宇宙の新羅万象全てにブラフマンの一日のはじまりがあり、ブラフマンの一日の終わりがあった。その一日は、それぞれの持つ個別の時間の長さでバラバラに、ブラフマンの朝と夜が無限に繰り返されていたが、そこでは、無数の個別の流転が、川の流れのように一つの流れへと合流しゆくようであった。また、その一つの流れが、無数の生命へと散り散りに別れて行くのであった。その時浄飯は、浄飯でありながら、同時に、宇宙全体のブラフマンであり、森であり林であり鳥であり石ころであることを感得したのである。

「これだ、これだったのか」

浄飯は梵我一如を覚知した。

(梵我一如は、ブラフマンと自分の我が一体となるものと想像していたが、違っていた。ブラフマンと一体になるのではなく、全ての新羅万象と一体になるのであった。そして、ブラフマンの想像する宇宙は常に破壊されるが、常に創造されるのだ。永遠に存在するが、永遠に存在しないものなのだ。人の生命も同じ。常に死ぬが、輪廻して常に生まれる。人もまた、永遠に存在するのと同時に、永遠に存在しない)

 (そして、解脱もまた、永遠に解脱するのと同時に、永遠に迷いと苦しみの状態が続くのだ。全ては流転する。ブラフマンも、その流転をとめられないのだ。ゆえに、永遠たる生死の流転をとどめようとする永遠の解脱への道はありえないのだ!)


   私は、永遠のブラフマンと一体となったが、

やがて年老いて死ぬ身であることを覚知した。

   ゆえに、死すべき存在の私は、永遠ではない。

   しかしながら、死すべき存在の私は、

永遠でないのと同時に、また生まれ来ることにより永遠となる。

私は永遠に死すべき者であり、永遠に生まれ来る者である。

この永遠の生死の流転を止める解脱は、ありえない。

解脱とは、瞬間の安らぎでしかないのか。

   現に、梵我一如を覚知して何より全てに満ち足りているはずの私の心は、

   愛すべきマーヤーへの想いで乱れている。


浄飯は、カッと目を見開き、禅定をやめた。

   人の苦悩や迷いもまた、生じては滅し、

流転を繰り返す永遠の存在である。

   苦悩や迷いから逃走する為の解脱という妄想を打ち破り、

   我は、我が苦悩や迷いをこの手で征服する!

 浄飯は這うようにして洞窟を出た。ようやくアシタ仙人のもとへとたどり着くと、「ついに梵我一如を覚知することができました」

とだけ言うと、そのまま気を失い倒れてしまった。

第6章

 衰弱しきった浄飯は、数日間眠り続けた。その間、アシタ仙人の弟子の中から、究極である梵我一如を覚知した浄飯の話を聞きたいという声が高まった。浄飯が体力を取り戻すと、アシタ仙人は浄飯に、道場で話をすることとなった。


浄飯が講演を行う日がきた。弟子達が道場の前にある広場に集まり、みな、固唾をのんで浄飯の言葉を待った。弟子達が羨望の眼差しで見つめる中、浄飯がゆっくりと口を開いた。

「私は、アーララ・カーラマ師のもとで無所有処定を、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで非想非非想処定を得た。たしかに深き心の静寂を得ることはできたが、それは解脱ではなかった」

一同は浄飯の意外な言葉の意味が理解できず、静かに固唾をのんで次の言葉を待った。

「また、私はアシタ仙人のもとでヴェーダの奥義である梵我一如を覚知することができた。それは、無所有処定や非想非非想処定とはくらべものにならない程深く、これこそ本当の解脱かもしれないと思った。ところが、穏やかで澄み渡っているはずの私の心は、いまだにコーリヤ族の娘に対する想いで、かき乱されたままなのだ。これで解脱といえるのだろうか」

浄飯は、禅定や梵我一如による解脱を否定した。さすがに弟子達も気付き一同は騒然としはじめた。しかし、浄飯は構わず続けた。

 「無所有処定、非想非非想処定そして梵我一如の覚知と、禅定を行い、それぞれの世界にひたっている間は、心は静寂にも無にもなれた。その時は、これこそ解脱の境地と思えた。しかし、禅定を終えた瞬間から、どうしたことか、またもとの苦悩が湧きあがってくる。解脱とは、このような一時的なものなのだろうか。これでは、麻の実により得られる一時的な陶酔と同じではないか」

再び解脱に対する疑念を表明すると、浄飯は梵我一如を覚知した時のガーターを述べた。


 私は、永遠のブラフマンと一体となったが、

やがて年老いて死ぬ身でしかない。

 ゆえに、死すべき存在の私は、永遠ではない。

 しかしながら、死すべき存在の私は、

永遠でないのと同時に、また生まれ来るのだ。

私は永遠に死すべき者であり、永遠に生まれ来る者である。

この永遠の生死の流転を止める解脱は、ありえないのだ。

解脱とは、瞬間の安らぎでしかないのか。

   

そして、   

人の苦悩や迷いもまた、生じては滅し、

流転を繰り返す永遠なものである。


 解脱という、苦悩や迷いから逃走するのではなく、

 我は、苦悩や迷いを征服せんのみ!


と続けた後、浄飯は力強い口調で、

「私は、コーリヤ族の娘に対する想いは募るばかりで、おかしくなりそうだ。私は、麻の実には頼らない。私は今から山を降り、コーリヤ族の娘を娶るために出発することに決めた」

と宣言すると、浄飯はアシタ仙人の方へ向き直って言った。

 「アシタ仙人様、私は考え抜いた末、山を降りてコーリヤ族の娘に会いに行かせて頂きます。アシタ仙人様、道場での修行を捨てた不肖の弟子ですが、私の師匠は、生涯アシタ仙人であるという気持ちは変わりません。これまでの御恩は、いつの日か、必ずかえして参りますので、どうか、無礼をお許し下さい」

深々と頭を下げた。と、その刹那、突然激しい雷雨が鳴り響き弟子達は、どよめいた。

激しい雷雨を避けもせず、アシタ仙人は浄飯に向かって言った。

 「見よ!大空を支配し、雨と雷を自在に操る神々の王者であるインドラ神のお出ましじゃ。インドラ神が、浄飯の思うがままにと申されておる。ああ、浄飯よ、とうとうこの日が来たのか。行くのじゃ、浄飯よ、ゴータマの父たる者よ」

去りゆく浄飯の目には、涙が光っていた。アシタ仙人の一番弟子といわれた浄飯が、今、全てを捨ててコーリヤ族の娘のもとへと行くというのだ。しかしながら、アシタ仙人は祝福しているように見える。突然の雷雨の中、ざわめく弟子達を気にもせず、浄飯は、歩き始めると、慌てて斛飯が後に続いた。

「アシタ仙人様、私も浄飯と一緒に行かせて頂きます」

斛飯がと忙しげに言うと、アシタ仙人は口元に笑みを浮かべて頷いた。

 (そうじゃ、斛飯よ。よく覚えとったな。浄飯に常に陰のごとく寄り添うこと、それが汝の人生の目的であり、汝のカルマ)

アシタ仙人は、浄飯と斛飯を見送りながら、小さな声でつぶやいた。

「全ては天の導くままに」

第7章


浄飯と斛飯は、マーヤーに会う為まっすぐ天臂城へと向かった。斛飯は、浄飯のすぐあとを黙々とついてゆく。マーヤーの住むスプラブッダ長者の屋敷に着くと、門番にマーヤーに会いに来たことを伝えた。すると、門番は、

「少々お待ちください」

と、いかにも商家の門番らしい対応で、屋敷の奥へと消えていった。


「旦那様、浄飯という若造が、マーヤー様との面会に参りましたが、いかがいたしましょうか」

門番がスプラブッダ長者にと尋ねると、

「何、マーヤーに面会だと。何者だ」

スプラブッダ長者は聞き返したが、門番は答えられない。

「わしの嫁入り前の大切な娘に何の用か」

と独り言を言いながら、スプラブッダ長者は訝しがった。


インドにおいて愛娘の結婚相手を見つけることは、親にとって非常に大切な義務である。子供は親の決めた結婚相手を受け入れるしかない。親が決めた結婚相手と結婚式当日に初めて会うことも珍しくない。当然、マーヤーの結婚相手は、父親であるスプラブッダ長者が決めることになっており、恋愛結婚など想像すらできない。親であるスプラブッダ長者に相談に来るのであるならばともかく、娘に直接会いに来たというのである。スプラブッダ長者は、

(よほどの大物か、たわけものに違いない)

と判断し、すぐに追い返すよう言おうかとも思ったが、そこは、人生経験も豊富で老獪なスプラブッダ長者。

(ちょっと待てよ。物事は、思わぬ展開をすることがあるからなぁ)

人生のチャンスは、突然向こうから飛び込んできて、ひょんなことから大きく開けたりすることがある、と思い直した。ともかく、自分で会ってみることにした。


果たして、門番が浄飯と斛飯を連れてくると、娘に会いに来た男は、大物でも、たわけ者でもなく、ただの青年であった。スプラブッダ長者は、浄飯を一瞥すると、バラモン修行者のような格好をしているがクシャトリアだ、と鑑定した。これは、スプラブッダ長者特有の行動ではない。インド人は、初めて会った相手にわざわざカーストなど聞いたりしない。相手の持つ全身の雰囲気や肌の色、立ち居振る舞いで判断するのだ。そして、間違えることは希である。スプラブッダ長者は、ひとまず浄飯の話を聞いてみることに決め、もみ手こそしないが、

「本日は、どのような御用件でしょうか」

商人らしい丁寧な口調で尋ねた。


 「名前は、浄飯と申します。幼少の頃よりアシタ仙人のもとで修業を続けて参りました。先日の武者修行の帰り、お嬢様を一目見て私の伴侶にしたいと強く思いました。以来、いてもたってもいられず、本日、山をおりてお嬢様に会いに参りました。ぜひ、お嬢様にお会いさせて頂けないでしょうか」

単刀直入に用件のみを語った。

スプラブッダ長者は、嫁入り前の娘にそう簡単に会わせるわけにはいかない。

 「まあまあ、そう焦らなくともよいではないですか」

なだめながら、上手に素性を聞き出すことにした。浄飯は、包み隠さず自身の生い立ちについて語りはじめた。


聞けば浄飯は、もの心がつく前に、インドラ神の祠からアシタ仙人に引き取られてクシャトリアとしての教育を受けてきたが、自分の本当のカーストはおろか親が誰なのかさえもわからないという。これまで苦労を重ねてきたスプラブッダ長者は、涙を流しながら聞いた。が、その反面、もう一度冷めた目で浄飯を観察し直し、クシャトリアの血が流れていることは間違いない、とスプラブッダ長者は冷めた目で値踏みをしていた。そんなスプラブッダ長者の腹の内も知らず、浄飯は


「アーララ・カーラマ師とウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで武者修行を修めて帰る途中、偶然、マーヤー様を見ました。その清楚な、この世のものとは思えない、蓮華のような美しさに、私は一目惚れをしてしまったのです。その瞬間から、マーヤー様を伴侶にしたいと思いこうして会いに参りました」

(たわけ者といえば、たわけ者だな)

スプラブッダ長者は思いながら、

「結局、修行を途中で捨ててマーヤーのもとへ来たという事ですか」

と質問した。

すると、浄飯はまっすぐな目でスプラブッダ長者をみつめながら答えた。

 「ちがいます。私は、マーヤー様に対する思いで心は乱れ、苦しみましたが、苦行の末、修行の最高峰である梵我一如という悟りの境地には達しました。ゆえに、私は修行を途中で捨てたのではなく、アシタ仙人のもとでの修業は完成しました。梵我一如の覚知により、静かで揺るぎない安心の境地に達し、解脱することができたはずでしたが、マーヤー様への思いは募るばかりで私の心は乱れたままでした。そして、今日、アシタ仙人に許しを請い、マーヤー様に会うため、こうして山をおりてきたのです。決して、修行を途中で捨ててきたわけではありません」

どうやら、女にうつつを抜かして修行を捨ててきたわけではなさそうである、と思いながらスプラブッダ長者が浄飯の顔を見ると、自分の行動に対する確信に満ちており、一点の迷いも曇りもなかった。

 「なるほど。そういうわけですか」

スプラブッダ長者は、これまで遣り手の商人階級バイシャとして、有力なクシャトリアをいやというほどみてきた。言動は真っ直ぐすぎるきらいがあるが、利発そうな額に鍛え抜かれた肉体、内面から醸し出す高貴な雰囲気から、浄飯には高貴な血が流れているのは間違いない。何よりもアシタ仙人という最高の師より訓練を受けているので、人物的にも優れていることは間違いない。

スプラブッダ長者は、しばらく考えこんでしまった。

「あなたの気持は、よくわかった。が、今すぐ娘に会わせるわけにはいかないのだ。実は、マーヤーに思いを寄せる者がもう一人あり、返事を待たせているのだ。その青年は青年で、大変優秀なバイシャであるので、私は迷っている」

というと、また、黙ってしまった。しばらく考え込んだ後、

「争婚で決めるしかないと思うが、いかがだろうか」

スプラブッダ長者は、提案した。すると、浄飯の顔が、パッと明るく輝き、即答した。

 「有難うございます。宜しくお願いします」

浄飯は、恋こがれるマーヤーとの結婚の道筋が、少しでもみえてきた事が嬉しかった。こうして浄飯は、マーヤーをめぐって争婚を行うことになった。


「争婚」とは、古くからインドで行われてきた慣習で、拳闘や書道、算術等の幅広い分野にわたる試合を行い、文武ともに優れている方が花嫁を射止めることができるという合理的な方法である。浄飯とマーヤーをめぐって争うことになったのは、白飯という名の青年であった。白飯の優秀さと端麗な容姿は天臂城では有名で、年頃の女性の間では、憧れの的であった。


スプラブッダ長者が、家の者を集め、

「明日、うちの屋敷で争婚を行うことにした」

と伝えるとともに、関係者に連絡することを命じた
















第8章


インドにおけるカースト制度は厳格である。原則、クシャトリアはクシャトリア、バイシャはバイシャと、同じ階級の間でしか結婚はゆるされない。ところが、当時のガンジス川中流域は、純粋なアーリア人文化の中心地である上流地域から見ると、まだまだ未開の地であり、伝統的なヴェーダ文化の辺境であった。故に、カースト制度も伝播してはいたが、それほど厳格に運用されていたわけではなかった。

中でもスプラブッダ長者が住むマガダ地方は身分制度に寛容な地域であった。バラモンへの供養よりもクシャトリア階級に対する貢納を優先し、小さな国をもしのぐ莫大な富を蓄えていたバイシャ階級のスプラブッダ長者が、カーストも不明な浄飯の争婚を許したのは、このような背景があったからである。ともあれ、浄飯からすれば、カーストの違いなどどうでもよかった。スプラブッダ長者に反対されるのであれば、マーヤーを力ずくで略奪するつもりであった。


争婚当日あらわれた白飯は、いかにも聡明で実直そうなバイシャの青年であった。浄飯は、これから命懸けで争う相手を見て

(この男ならマーヤーにふさわしい)

と思った。アシタ仙人のもとで、クシャトリアに必要な人物鑑定の訓練を長年受けてきた浄飯は、娘婿候補に彼を選んだスプラブッダ長者の人物を見る眼力の確かさに感心していた。

スプラブッダ長者の邸の庭には、争婚を公式に認定する村の長老や長者の一族だけではなく、近所の老若男女をはじめ、百名を超えるギャラリーが集まってきた。その中に、噂を聞きつけた獅子頬王の使者がいる事は、誰も気づいていない。


争婚は、学問上の対決からはじまり、スプラブッダ長者の前で、口頭試問のような形で行われた。学問の得点では、両者とも五分五分の勝負で、午後に開催される相撲で決着がつけられることになった。

スプラブッダ長者の庭に、柔らかい土を盛られた円形の土俵がつくられた。浄飯がマーヤーを娶るためには、相撲で白飯との勝負に勝利しなければならない。インドにおける相撲の歴史は古く、相撲という漢字自体、インドの古語であるサンスクリット語が起源とされている。インドにおける相撲は、日本の伝統的な相撲とはルールが異なっている。両肩を含む背中が地面に着いたら負けであり、また、土俵から落ちても、地面に投げ倒されても、背中が完全に地面に着かない限り負けにはならない。どちらかというと相撲というよりは、レスリングに近い。


 浄飯は、白飯の呼吸をじっと観察していた。白飯の呼吸は少し早く、大切な試合を前に、やや緊張しているように見えた。戦いに臨む前の自身の整え方について熟知している浄飯は、白飯とは反対に、意識して呼吸を深く遅くした。アシタ仙人のもとで、クシャトリアとして幼い頃から身体の大きい先輩修行者を相手に、毎日のように相撲をとってきた浄飯である。マーヤーとの結婚をかけたこの大切な大一番に臨むにあたっても、落ちつきはらっていた。


 スプラブッダ長者の合図で、試合がはじまった。型どおりに浄飯が右手を上に上げると、それに応じて白飯も左手を上げて組み、次に、左手を組んだ。インド相撲の上段者にもなると、組んだだけで相手の力量が分かる。組んだ瞬間、浄飯も白飯も、

(こいつは強い)

と分かった。腕力は、ほぼ互角。

じりじりと太陽が照りつける。二人は、がっぷりと組んだまま、全く動かない。浄飯が顔を少し上げると、スプラブッダ長者の後ろに座ったマーヤーの顔が見えた。

(マーヤーは、俺のものだ。絶対に負けるわけにはいかない)

浄飯の内側から、闘志がめらめらと涌いてきた。

(勝ちたい。絶対に勝ちたい)

生まれてはじめて、心の底からそう思った。


浄飯は、白飯が軸足をずらそうとして微かに浮かせようとしているのを見逃さなかった。浄飯は、白飯が軸足を浮かせた瞬間、手前へ引いてバランスを崩させた反動を利用し、渾身の力を込めて白飯を持ち上げ、背中から土俵に叩きつけた。

「おおっ」

観衆がどよめいた。浄飯は勝利した。ついに、マーヤーを射止めることができたのだ。浄飯は自分の身体についた砂を払うと、白飯のもとへ近づいてきて言った。

「あなたは本当に強い。今回自分は、運良くたまたま勝利できた。あなたとは、真の友となれそうな気がする」

すると、白飯は、

 「悔しいですが、私の完敗です。あなたとマーヤーの結婚を、神々は祝福しているでしょう。私も」

潔く自分の敗北を認め、浄飯に最大の賛辞を送った。すると、土俵を囲む観衆からは、二人に対して大きな拍手と歓声が送られたのであった。


その晩、スプラブッダ長者邸で、夕食会が開かれた。即席の披露宴といった感じである。誠に異例なことであるが、浄飯のたっての希望により、さっきまで争婚で争った白飯も賓客として招かれ、何と浄飯の隣に席が設けられていた。来客者は、その様子に驚いたが、浄飯の人間としての器の大きさに触れ、マーヤーとの婚約に対する祝福の感を、ますます深くしたのであった。

みな、夜更けまでよく食べ、長く語り合った。夕食会が終了した後も、浄飯と白飯は、互いの生い立ちについて、斛飯も交えて朝まで語り合った。それぞれ、生まれ育った境遇は全く異なっていたが、若い三人はすぐに意気投合し、生涯にわたる友情を誓いあったのであった。


翌日、浄飯がスプラブッダ長者の部屋に呼ばれた。スプラブッダ長者は、

「相談があるんだが」

というと、

「斛飯には次女の大意を、白飯には三女の無辺意を嫁がせたいと思うのだが、どうであろうか」

と提案をした。スプラブッダ長者は、昨日の争婚以後、浄飯だけでなく白飯や斛飯に対しても深く愛情を感じており、ぜひ、彼ら全員を娘の婿に迎えたいと思っていたのであった。浄飯は、思いがけない提案に驚きながら

「それはいい、素晴らしいことだ」

と言って大賛成し、すぐに斛飯と白飯を呼びに行った。二人が部屋にやってくると、スプラブッダ長者は

「斛飯には次女の大意を、白飯には三女の無辺意を嫁がせたいが、どうであろうか」

と提案した。あまりにも急な提案で、二人とも最初は驚いて沈黙していたが、喜んで同意してくれた。

 浄飯は大喜びして、

「今日から俺たちはみんな、本物の兄弟だ」

といった。今まで生まれも素性も分からないまま、天涯孤独の浄飯であったが、最愛のマーヤーだけでなく、親と兄弟まで、一度に手に入れることができた。また、娘ばかりで男の跡継ぎがいないスプラブッダ長者も、息子を三人も一度に手に入れることができた。浄飯だけでなくスプラブッダ長者にとっても、人生最良の日となったのであった。

 














第9章


スプラブッダ長者が住むマガダ地方は、ビハール州南部に位置していた。このガンジス川流域には、パータリプトラを首都とするインド随一の強国であるマガダ国があった。また、同じく強大な王国であるコーサラ国が舎衛城に首都をおき、マガダ王国と争っていた。更に、ガンジス川をはさんで、バツァ王国とアヴァンティ王国を含む4大王国が激しく覇権を争っており、その他の小国は、この4大国の属国となっていた。


浄飯と白飯の争婚が行われた夜、一人の屈強そうな若者がカピラ城に駆け込み、城主の獅子頬王に、争婚の様子について報告していた。獅子頬王は、浄飯と白飯、そして斛飯について人物や様子について、興味深く聞いていた。

獅子頬王はカピラ城の城主である。しかし、規模は小さく、実態はコーサラ国の属国であった。小国であるカピラ城を取り巻く環境は厳しく、4大王国を中心として諸国が激しく対立しており、いつ滅ぼされてもおかしくない緊迫した状況にあった。


獅子頬王が老齢のため、病で床に伏せる時間が長くなっているという国家の機密事項が、敵方に漏れるのは時間の問題と思われた。更に獅子頬王は、子宝にめぐまれなかったので、国の存続自体が危ぶまれていたのである。このように絶対絶命の状況を知ってか知らずか、マガダ国が併合しようとしている、との諜報が連日、病床の獅子頬王のもとにもたらされていた。カピラ城の後継者問題に苦心していた獅子頬王は、日々、有能な若者を探させていたが、なかなか人材をみつけることができなかったのである。スプラブッダ長者の邸で行われた浄飯達の争婚の様子を事細かに聞き終えた獅子頬王は、浄飯達に興味をもった。腹心に浄飯と白飯、そして斛飯との面会を指示し、使者をスプラブッダ長者のもとへと送ることを命じたのであった。


 「スプラブッダ長者様、ただ今、カピラ城より獅子頬王の密使が、お会いしたいと参っております」

早朝、慌ただしく、門番がスプラブッダ長者へと告げにきた。スプラブッダ長者は驚いたが、そこは機をみるに敏を主義とする商人である。密使を奥で丁重にもてなすよう指示するとともに、浄飯と白飯そして斛飯を呼びにやらせ、自らは手をやすませることなく身支度を行った。

(浄飯が来てから、一気に色々なことが展開している)

顔を洗いながら、スプラブッダ長者は、大きな変化の到来を敏感に感じていた。身支度が済む頃には、

 (今が時である。この機を絶対に逃してはならない)

スプラブッダ長者のスイッチが入っていた。浄飯達の男衆と一緒に客間に揃うと、密使から獅子頬王からの伝言が伝えられた。浄飯は、スプラブッダ長者の意見も聞かず、

「一国の国王がわざわざ会いたいと言うのだ。ともかく会いに行くと伝えてくれ」

即答した。スプラブッダ長者も、

「そうであれば、善は急げだ。今から向かうか」

と提案した。すると、

「それもそうだ」

浄飯は立ち上がると、白飯と斛飯を連れてそのまま部屋を出て行ってしまった。提案したスプラブッダ長者が慌てて彼らの後を追った。


 カピラ城に向かう途中、浄飯たちは城のある方向に煙が上がっているのが見えた。密使は歯がみをしながら、

「パンダヴァ族の侵攻だ。カピラ城が危ない」

と言うと、突然、浄飯たちの方に向き直ってひざまずき、

「どうか、私たちと一緒に戦って頂けないでしょうか」

と懇願した。謁見に行くはずであったのが、戦に巻きこまれることになってしまった。


浄飯がスプラブッダ長者に尋ねた。

「こうなったのも、何かの縁。国王の援軍に行こうと思うが、どう思われるか」

援軍とはいうものの、武器など何もない。丸腰である。商売上の修羅場をくぐりぬけてはきたが戦争はおろかケンカもしたことがないスプラブッダ長者は立ち止まり、考え込んだ。しばらくすると急に、

「わしは帰る」

と言って突然きびすを返し、もと来た道を戻っていってしまった。


獅子頬王の援軍に行くということは、獅子頬王以外の有力な列強を敵にして、わざわざ勝ち目のないカピラ城と心中することになる。スプラブッダ長者がこれまで全方位外交で各国に行ってきた莫大な貢納が水泡に帰してしまうのだ。これまで獅子頬王の優れた評判は耳にしてはいたが、特に何をしてもらったわけでもないので、義理もない。

(獅子頬王には申し訳ないが、どう考えても勝ち目はないし、万一勝ったとしても吹けば飛ぶような小国。得るものも少ないだろう)

商人の直感から出た咄嗟の行動であった。

浄飯一行はスプラブッダ長者の行動に驚き、あ然とした。が、気を取り直し、

「ともかくカピラ城まで行こう。どうするかは城へ着いてから考えればよいではないか」

と、カピラ城へと急いだ。

第10章


カピラ城に攻撃をしかけているのは、古代マガタ国王バラタの末裔であるパンダヴァ族というマハーバーラタにも登場する由緒正しき名門である。

 浄飯たちは小高い丘から、カピラ城を取り囲むパンダヴァ族軍の陣列を俯瞰した。パンダヴァ族の戦力は戦車一台に三頭の戦闘象、各象に騎兵五、各騎兵に十の歩兵を三個師団。小さな陣容であるが、名門にふさわしく、その整然とした隊列や筋骨隆々とした兵士の様子から、充分に訓練を受けた屈強な戦隊であることは一目瞭然であった。敵の戦力を分析しながら浄飯は、味方の戦力について密使に尋ねると、

「すぐに戦闘可能な戦力は、ざっと五個師団。あとは、城内の農民達を招集すれば更に五個師団は構成できます。」

と、意外にも間髪入れず正確な答えがかえってきた。密使の反応の良さに浄飯は感心するのと同時に、

(カピラ城は小国だが、人材がいるようだ。ならば、戦略によっては勝てるかもしれない。問題は、いかに戦うべきかだ)

浄飯は参戦する方向で頭をフル回転させた。

 小さなカピラ城の要所をおさえ、パンダヴァ族の軍隊は見事に配置されている。突然の奇襲であったため、カピラ城側は何の抵抗もできず、ともかく堅く城門を閉ざすのがやっとで、すぐに膠着状態に陥ってしまった。攻めあぐんだパンダヴァ軍は、一気に殲滅するか、時間をかけて兵糧攻めにするか決めかねて、次の一手を謀っているいようであった。


 (危うく勝ち目のない戦争に巻き込まれる所であった。大国のマガダ国と丸腰の素人が戦って勝てるはずがない)

スプラブッダ長者は、ほうほうの体で邸に戻ってくると、そのまま部屋の中に倒れ込んだ。死んでしまったのではないか、と家中の者が心配するほど身動きしない。そこへ、

「お待ちください、お待ちください」

と、娘のマーヤーの声が聞こえてきた。その声が、だんだんスプラブッダ長者の部屋へと近づいてくる。

「こんな時に誰だ、無礼な。わしは、死ぬほどくたびれた。たとえ師子卿王が来たとしても会わんぞ」

スプラブッダ長者が吐き捨てるように言うと、

「ほうか」

という声とともに、アシタ仙人が入ってきた。獅子頬王の次は、アシタ仙人である。スプラブッダ長者は驚いてとび起きたが、頭がくらくらして、倒れてしまった。


「横になったままで、大変、失礼いたします」

スプラブッダ長者は、アシタ仙人に自分の非礼をわびた。アシタ仙人が、

「かまわんよ。わしこそ、お疲れのところすまんの。今日来たのは、他でもない浄飯の事でな」

話をはじめると、みるみるうちに空が真っ黒な雲に覆われ激しい雷雨がはじまった。


「そなたの婿養子となった浄飯は、ゴータマの父となる男でのう」

アシタ仙人が言うやいなや閃光と激しい雷鳴が起こり、スプラブッダ長者の庭の大木に落雷した。

「見よ、スプラブッダ長者よ。神々の王者インドラ神のお出ましじゃ。浄飯がゴータマの父となる男であることを証明するために、降りてこられたのじゃ」

スプラブッダ長者の頭は混乱中で、アシタ仙人の言葉をじっと黙って聞いていた。


ゴータマの父、雷鳴、インドラ神。そして、アシタ仙人。スプラブッダ長者は思わず

「あっ」

と声を発した。スプラブッダ長者の頭の中で何かがつながった。

十年以上も昔。スプラブッダ長者は、インドラ神の祠の前で、アシタ仙人と浄飯が出会った場面を思い出したのである。あの時、スプラブッダ長者は偶然その場に居合わせていたのだ。葬儀の時の激しい雷雨、美しい二本の虹。

 「浄飯は、あの時の子供だったのか」

スプラブッダ長者は今、全てがつながり不思議な気持ちであった。

「スプラブッダ長者よ。汝と浄飯の出会いは、決して偶然などではない。浄飯はゴータマの父となる運命であり、そなたはゴータマの祖父たる運命じゃ」


スプラブッダ長者はアシタ仙人の言葉に衝撃を受け、しばし考え込んだが、アシタ仙人は何も言わない。

「この自分が、ゴータマの祖父たる運命」

これまで50年間近く生き、晩年・死を意識していた自分に、まだ、このような劇的な運命が残っていたとは意外であった。

思えば、現在まで続く戦乱の中、スプラブッダ長者の両親は幼い彼の目の前で虐殺され、孤児となったスプラブッダ長者は、筆舌に尽くし難い人生の辛酸をなめつくし、商人としてのし上がってきた。市井でもがき生きる中、度重なる戦乱で民衆が苦しんでいるのに、本来、苦しむ民衆を救済すべきバラモンが、階級の特権から傲然と布施を受け取るだけで何もしない姿を憎んできたが、随一の金持ちになった今、気付けば自分もバラモンと変わらない事に気付き、悲しい気持ちになり、

「私は、何をやっていたんだ」

と、つぶやき暫く考え込んだ後、晴れやかな顔で言った。

「アシタ仙人様。商人としてのスプラブッダ長者は、死にました。たった今、ゴータマの祖父であるスプラブッダ長者が誕生したのです。今から、ゴータマの祖父として、この戦乱の世から民衆を救うために立ち上がる事を決めました」



その言葉を聞くとアシタ仙人は笑顔で言った。

「ほうか。汝が気が付いてくれてよかった。何より今すぐ、浄飯の元へと戻ることじゃ。決して、獅子頬王を助けるためだけではないのだ。カピラ城の危機に巻きこまれたのは、偶然ではない。天の導きである。必然なのじゃ」


カピラ城に戻ることを決めたが、手ぶらで戻ってもしょうがない。一介の商人でしかないスプラブッダ長者は、金はあるが武器も兵もない。下手をすると、スプラブッダ長者一族の破滅も免れない緊迫した状況の中、スプラブッダ長者が知恵を絞っている横で、アシタ仙人は何も言わずに見ている。

(自分にしかできない事があるはずだ。自分に何ができるか)

スプラブッダ長者は何度も何度も問いかけた。


スプラブッダ長者が、

「ともかく、今すぐ戻って浄飯と相談してみます」

と言うと、アシタ仙人は

「それがよい。二人で考えれば良い知恵もでるじゃろう。ならば、わしは帰るぞ」

飄々と言うと、すっと立ち上がりアシタ仙人は、雨を気にもせず帰ってしまった。


「さあ、ゆっくりしている場合ではないぞ」

疲労困憊していたスプラブッダ長者であったが、気力をふりしぼり浄飯達のもとへと出発した。カピラ城周辺にいた浄飯達と合流した時は、すでに日も落ちていた。カピラ城は、パンダヴァ軍に包囲されたまま膠着状態が続いていた。

スプラブッダ長者は浄飯達と作戦を練った。

「そうだ」

浄飯がひらめくと、スプラブッダ長者達へと語ると

「これは、浄飯と私にしかできない事だ」

思わずスプラブッダ長者がうなった。

「それでは」

と、スプラブッダ長者は街へ、浄飯はアシタ仙人の道場へとそれぞれ急いだ。






第11章


膠着状態が続いて日も暮れはじめると、自然とパンダヴァ軍は城を囲んだまま野営をすることになった。カピラ城をとり囲むパンダヴァ軍の全員が、

(屈強な選び抜かれた我々パンダヴァ軍の兵士に包囲されてしまった今、万が一にも、カピラ城の兵士の勝ち目はない)

と誰もが確信して疑わなかった。夕食を前に将軍が

「相手は、我が軍に恐れをなして手も足も出ない状況にある。我が軍の勝利は、間違いない。闘わずして勝利したようなものだと思うが、どうだ」

と問いかけて兵士の間から歓声が沸いたほどであった。


いつの間に準備したのか、気が付くと自然に兵士達の手から手へと普段は滅多にお目にかかれない高級な酒が回され、自然と酒盛りがはじまり、更に料理がふんだんに運ばれてきた。

(ボーディサ王からの差し入れにちがいない)

豪勢な料理を頬張りながら、誰もがそう信じて疑わず、

「ボーディサ王万歳」

と叫び、兵士達は、よく食べ浴びるように飲んだ。


夜半、パンダヴァ軍の兵士達は完全に眠り込んでいた。相当酔っているらしく、あちらこちらから大きな鼾が聞こえていた。もはや戦場の緊迫感は微塵もなかった。突然、

 「奇襲だ!」

見張りの兵士が大声でさけんだ。しかし、酒を飲んだ兵士達は、眠ったまま起きない。後で分かったのだが、酒には強力な眠り薬が入っていたのだ。酒を飲んでいない兵士が慌てて立ち上がると、漆黒の闇をやぶり、城とは全く反対の方角から、立ち上がった兵士をめがけて弓矢が雨あられのようにふってきた。その弓矢は、ただの弓矢ではなく、感覚を麻痺させる薬が先端に塗られているようで、酒を飲まなかった兵士たちも、ばたばたと倒れた。


パンダヴァ軍の将軍が事態の収集を把握しようとしていると、弓矢を合図に、城の内側から獅子頬王の軍が、一気に城の外へとなだれをうって出てきたのである。あっという間に、獅子頬王軍が、薬のしかけられた矢にあたって痺れて動けない者、眠り薬の入った酒を飲み眠っている兵士を取り囲んだ。しらふの戦力は、わずかばかりであった。一気に形勢逆転である。浄飯は、白飯たちをして

 「急いで敵兵に縄をかけ、一箇所に集めよ。無防備な敵を、決して害してはならぬ、手荒に扱ってはならぬ」

と、獅子頬王の兵士達に触れ回らせた。文字通り、一網打尽である。あっというまに、屈強なパンダヴァ軍の兵士を捕虜にしてしまったのである。

第12章


 パンダヴァ軍の兵士を一網打尽にした浄飯一行は、獅子頬王のいるカピラ城内へと招かれ謁見することになった。通常は謁見の間が使用されるはずであるが、招かれたのは病床であった。浄飯一行は、獅子頬王の病状の深刻さを理解した。


獅子頬王は屈強な兵士たちに守られて横たわっていた。浄飯たちの姿を見ると、上半身を持ち上げ、

「浄飯よ、見事であった。心より感謝申し上げる」

とねぎらうと、

「あの強者を一網打尽にしてしまうとは、一体どのような作戦であったのか」

と尋ねた。浄飯は、国王からのねぎらいの言葉に対する御礼の後、概要を述べた。


「スプラブッダ長者の自分にしかできない事があるはずだから、自分達にあるものを最大限に活かして勝とう、と決めました。スプラブッダ長者は、豪華な料理、眠り薬を入れた高級酒、矢の先に薬を塗った最新兵器を調達しました。そして私は、アシタ仙人の道場へ行き、100名の修行者に援軍をお願いしました。しかし、訓練を受けた大国のマガダ国と丸腰の素人が戦って勝てません。そこでパンダヴァ軍の将軍に料理と眠り薬の入った高級酒を献上し、身動きができなくなった所を一網打尽にしたのです」

獅子頬王は、

「なるほど、そうであったか」

としきりに感心した後、重ねて尋ねた。

「今回の戦闘では、我が軍の負傷者はゼロ。敵軍もほとんど負傷者がいなかったと聞いておるが、これは、誠か」

浄飯は、答えた。

「戦は、まぐれで一回勝つ事はよくあります。今回の目的は、敵を殲滅する事ではなく、カピラ城を守る事と後の存続であると考えました。一網打尽にした無抵抗のパンダヴァ軍を殲滅する事は、たやすいことでした。しかし、そうすれば、パンダヴァ軍の家族・国民は命懸けの復讐を誓い、本気になってカピラ城を攻めてくるでしょう。そうなるとカピラ城の勝ち目はありません。ですから、なるべく敵を傷つけないように生け捕りにし、マガタ国王との今後のカピラ城存続交渉の切り札とする必要があったのです」

浄飯の遠謀深慮に、

(これほどの戦略を短時間で立て、実行したというのか。ただものではない)

獅子頬王は絶句し、しばらく声が出なかった。

 

「なるほど。そうであったか。スプラブッダ長者には、支出に見合った褒美をたっぷりとあたえよう」

獅子頬王は言った。すると、後方にかしこまっていたスプラブッダ長者は獅子頬王の御前に小走りで寄ってきて、

「有り難きお言葉、感謝します」

緊張しながら体を丸めて御礼を述べた。

「スプラブッダ長者よ、この度はご苦労であった。そなたのお陰で、我がカピラ城は存亡の危機を無傷で乗り越えることができた。そなたの申す褒美を、何なりとあたえよう。申してみよ」

獅子頬王がいうと、進歩的な思想の持ち主のスプラブッダ長者であるが、心から恐縮した様子であった。獅子頬王は、病床にあるとはいえ、威厳とともに、民衆の父といった風格をも備えていた。いつもは計算高く余計な事は絶対口にしないスプラブッダ長者であるが、思わず、子供が父に訴えるように、

 「獅子頬王様、私はこれまで商人として、どの国にも仕えず敵にせず、幅広く貢納を行い、全方位外交を行って参りました。ところが、今日の戦で、世間は私を完全に獅子頬王様側の商人とみるでしょう。もう、これまでのように他国で商売はできなくなってしまいました」

目に涙を浮かべて心情を吐露した。これを獅子頬王は、もっともであるとして何度も頷いていた。

 浄飯をはじめ白飯・斛飯という素晴らしい後継者を得た今、スプラブッダ長者は、商売のおさめどきのようなものを感じていたのだった。有能な若者三名を、しがない商家に埋もれさせてよいものだろうか。特に、ゴータマの父となる浄飯を、絶対に埋もれさせてはならない、と強く感じていた。

スプラブッダ長者は、大きく深呼吸して言った。

「獅子頬王様、私は何もいりませぬ。ただ、浄飯を獅子頬王様のカピラ城の後継者にしていただけないでしょうか」

「えっ」あまりにも意外な言葉に声をあげたのは浄飯であった。浄飯は、突拍子もない申し出にただただ驚きあきれて、

「急に何を言い出すのだ」

と咎めた。しかし、獅子頬王は、

 「それは面白い」

と言って微笑んだ。話の頃合いを謀っていた国王の従者が、

 「獅子頬王様、そろそろ」

と促すと、浄飯達は獅子頬王の体調を案じてすぐに帰ることにした。








第13章


 カピラ城の一件から、浄飯と白飯、そして斛飯は、スプラブッダ長者の屋敷で婚儀の打合せなどをしながら充実した日々を忙しく過ごしていた。これまで老人と女ばかりであったスプラブッダ長者の屋敷は、若い力と活気に溢れていた。そんなある日、

 「たいへんだ。獅子頬王が今すぐ城にくるようにと使者をよこしてきた」

スプラブッダ長者が浄飯たちの部屋へと駆け込んできた。

 「すわ、マガタ国が攻めてきたか」

と誰かが言うと、すぐに

「それとも浄飯がカピラ城の後継者に決まったか」

白飯が茶化した。浄飯は笑いながら

 「そんなバカな事があるか」

と返した。マーヤーも続いて

 「もしかしたら、お父様が王様の前で失礼な事を言ったから、怒って捕まえにきたのかもしれないわ」

笑いながら言うと、スプラブッダ長者はぎょっとしながら、

 「年寄りをからかうもんではない。ともかく今日の午後来てほしい、との仰せだ。今度は、しっかり支度をして行くぞ」

と言いながら、あわただしく沐浴へ出かけていった。

 

 スプラブッダ長者一行がカピラ城に到着すると、そのまま獅子頬王のもへと通された。獅子頬王は容態が思わしくないらしく病床に横になったまま、

「このたびは我がカピラ城の危難を救ってくれ、心より感謝している。改めて御礼を申し上げたい。今日来てもらったのは、ぜひ、四人に相談したいことがあるのだ」

と言うと、パンダヴァ軍の捕虜の扱いと今後のマガダ国対策についての相談であることを明かした。捕虜とはいえ、二百を超える大人数の食事や寝床を提供し続ける財政の負担は、小国カピラ城にとってあまりにも大きすぎるのだ。

 「浄飯よ、何か妙案はないものかのう」

スプラブッダ長者が催促すると、浄飯は、しばらく考えた後、おもむろに意見を述べはじめた。

 「先日も申し上げた通り、今後、マガダ国と敵対関係を継続することは得策ではないという事は明かです。先日の戦いは、敵の虚を突いた奇襲により、辛うじて難を逃れることができましたが、マガダ国の戦力は、属国も含めればカピラ城の数十倍。本気になれば、獅子頬王様の勝ち目はございません」

浄飯は、獅子頬王をはじめ国の重臣たちを前にして、躊躇することなく客観的な現状分析を述べ、

 「今のカピラ城にとって一番大切なことは、マガダ国王と直接会って、今後、二度とカピラ城へ侵攻してこないよう楔を打つことが必要です」

と前置きし、具体的な戦略の検討をはじめたのであった。


 一方、マガダ国側で、連日連夜ボーディサ王を中心に今後のカピラ城対策が練られていた。マガダ国軍の精鋭中の精鋭が捕虜として捕らわれてしまったのである。更に悪いことに、後学のためにと後方に従軍させていたボーディサ王の後継者であるビンビサーラ皇子まで一緒に捕らわれてしまったのである。このままでは他の大国から一気に攻められる怖れが生じてきた。ある意味、マガダ国存続の最大の危機に発展しているのであった。憔悴しきったボーディサ王が臣下の意見をきいている所へ、カピラ城から使者が来訪したことが告げられた。

 「なに、カピラ城から使者が来たというのか。しかも、わが国最強の軍隊も捕虜として一緒に連れてきているだと」

と言うと絶句した。ボーディサ王は様子を見ようと、城のバルコニーへと向かった。見下ろすと、捕虜となった我が軍の兵士の列の先頭に、屈強な兵士に護衛されて我が最愛の息子であるビンビサーラがゾウの上に乗せられているのが見えた。愛息ビンビサーラが大切に扱われているのを確認し、とりあえずボーディサ王は安堵すると、

 「すぐ謁見の間へ通せ」

命令すると、ボーディサ王は、すぐさま謁見の準備にとりかかった。ボーディサは、大国の国王である。憔悴した顔などを敵の使者にみせることなどできない。一国の代表として、威厳を持ち、場合によっては敵を威圧する必要がある。いつもよりゆっくりと、国王にふさわしい身支度と威厳を調えながら、自身の心を整えていった。


謁見の間に控えている使者達の様子について次々と報告を聞きながら、

(兵士とビンビサーラがかえってくれば、こちらのものだ。獅子頬王のカピラ城などは、吹けば飛ぶような弱小国である。いっそこのまま使者達を皆殺しにして一気に戦争を開始するか、それとも和平を結ぶか)

ボーディサ王は頭脳を高速に回転させていた。

カピラ城対策というより、他の大国の動きを考慮した決断をする必要があった。

 「ところで、カピラ城からの使者の名は、何と申すか」

ボーディサ王が聞くと、

「浄飯と申す者をはじめ、全部で3名でございます」

従者がこたえた。

果たして、獅子頬王の使者としてやってきたのは、浄飯達であった。

ボーディサ王は、

(たった3名で敵城へやってきたというのか。それにしてもカピラ城の使者である浄飯という名前など聞いたこともない。獅子頬王にそんな名前の臣下がいただろうか)

と思いを巡らせた。

(まあよい。ともかく会ってみて、相手の出方を伺ってから決めよう)

ボーディサ王はそう決断すると、勢いよく席を立ち上がった。その姿は、いつも通り自身と威厳に満ちていた。


 浄飯と従者の白飯ならびに斛飯は、謁見の間に通された。カピラ城とは比べものにならない豪華なつくりに三人は目をみはった。

(圧倒的な力の差だ。本気になったらカピラ城はとても勝てまい)

歩きながら、あらためて浄飯は思った。

ボーディサ王が会ってみると、浄飯はクシャトリアの青年であった。最初に言葉を発したのは浄飯であった。

「ボーディサ王様、カピラ城の獅子頬王の代理として参りました浄飯と申します。カピラ城は、マガダ国と交戦する気は毛頭ありません。その証拠に、ビンビサーラ皇子をはじめ、捕虜となった国王の軍を、無傷のままこちらに戻しに参りました」

ここまで一気に言うと、浄飯は止めた。

(さて、どんな要求をふっかけてくるか)

ボーディサ王は身構えた。

 「ただし、今後二度とカピラ城へと攻め込まないと約束して頂くというのが条件であります」

率直に浄飯が言うと、あまりにも意外すぎて、浄飯の申し出を理解できずにボーディサ王はしばし沈黙した。

(ほとんど無条件で、ビンビサーラをはじめとする生け捕りにした兵士や兵器を、そっくりそのまま返しに来たというのか。しかも、こちらが一方的に攻め込んだことを非難すらしない。何かトラップでもあるのか?)

ボーディサ王は、判断に迷った。

ボーディサ王は、更に疑い深く浄飯に目を凝らす。見れば、浄飯達は何の武器も持たず、丸腰であった。ボーディサ王は、

「私との謁見に際し、あの者たちの武器を事前にとりあげたのか?」

と側近に小さな声で尋ねると、

「いいえ。最初から武器は持ってませんでした」

との答えが返ってきた。

ボーディサ王と側近のやりとりの間、浄飯は堂々としてり、その目は晴れ渡る空のように澄んでいた。

(大した器である。これではまるで、どちらが国王かわからない)

ボーディサ王は、こう思うと浄飯を疑う自分を恥ずる気持ちさえ生じできた。

 「よかろう、約束しよう」

返事をすると、ボーディサ王は、浄飯が望む通り不可侵条約ともいうべき調印の準備をさせたのであった。ボーディサ王と獅子頬王の代理である浄飯との間で、無事、調印を終了すると、浄飯は、はじめにビンビサーラを、続いて連れてきた捕虜を解放した。


 マガダ国軍の精鋭部隊と最愛のビンビサーラ皇子が無事に返還され、ボーディサ王はやっと安堵した。それにしても、世継ぎであるビンビサーラを捕らえたにもかかわらず、何ら不当な要求もしないということは、群雄割拠のこの時代には、かんがえられず、どうしても理解できなかった。


 浄飯達がカピラ城を去る間際、ボーディサ王は、どうしても理由がしりたくて

「ところで、浄飯とやら。わがビンビサーラを捕らえておきながら、なぜ、少しでも有利な条件で要求をしなかったのか」

と尋ねた。すると浄飯は、はじけるような笑顔から、急に深刻な顔にかわった。浄飯は、ボーディサ王にぐっと近づき、王の耳元で他の者に聞こえないよう、小さな声でささやいた。

「カピラ城のような弱小国が生き残るためには、この道しかございません。大変、悲しいことですが、早かれ遅かれ、大国に併合されるのは明らかです。ボーディサ王様、せめて獅子頬王がお亡くなりになるまで、併合しないでいただきたいだけなのです」

 浄飯の獅子頬王に対する心情を知ると、ボーディサ王は胸がつまって暫し言葉がでてこなかった。

(客観的に事態の本質を認識する能力に冷静で現実的な判断力、そして敵国の国王を前に全く怖ずることない堂々とした振る舞い。こんな人物がカピラ城にいたとは。我がマガダ国に来てくれれば、次のビンビサーラの時代にも、彼を助けて大きな力になってくれるにちがいない)

ボーディサ王の口から、何度も

「我がマガダ国に来ないか」

と出かかったが、やめて、浄飯達の後ろ姿を見送った。













第14章


 浄飯をはじめとする獅子頬王の使者達は、見事にマガダ国王との和平条約を締結して帰ってきた。カピラ城の城門前には、沢山の民衆が出迎えていた。さながら、凱旋将軍である。すぐさま獅子頬王の病床へと報告に向かった。浄飯が、晴れやかな笑顔で、

 「ただいま戻りました」

獅子頬王に報告すると、そこには懐かしい師匠のアシタ仙人がいた。浄飯は思わず、

 「アシタ仙人様!」

と叫ぶと、

 「驚いたか、浄飯よ」

アシタ仙人は、こたえた。二人の横から獅子頬王が、

 「アシタ仙人とは、私が若き日から様々な国事を相談してきた古き仲なのだ。実は、大事な相談があり、浄飯たちが交渉に行っている間、こうしてアシタ仙人にカピラ城まで御足労を願ったのだ」

と獅子頬王が言い終わるやいなや、スプラブッダ長者の方へ向くと、突然

 「スプラブッダよ、そなたの願いを叶えて進ぜよう」

言った。スプラブッダをはじめ、みな事態をのみこめずにいると、獅子頬王は病身をおしてゆっくりと立ち上がり、バルコニーへと向かった。獅子頬王はバルコニーへと出ると、まだ興奮さめやらぬ民衆に向かい、渾身の力を込めて、

 「先日のパンダヴァ軍の撃退劇といい、本日の和平交渉といい、浄飯の働きは、誠に見事であった。浄飯を我がカピラ城の後継者にしたいと思うが、どうだろうか」

と問うた。すると、民衆は大いに歓声をあげ、満場一致で浄飯がカピラ城の後継者に決定したのであった。突然の話に、浄飯もスプラブッダ長者も、ただただ驚いていた。

浄飯が驚きよりも複雑な気持ちでアシタ仙人の方を見ると、アシタ仙人はゆっくりと頷いた。アシタ仙人は、カピラ城の王となることを祝しているというよりは、この国に待ち受けている苦難をも見越しているように浄飯には見えた。こうして、浄飯はカピラ城の後継者となったのである。









第15章


ある日、浄飯の妻マーヤーは、白い象が胎内に入る夢をみた。そして、ほどなくして男の子を身籠もった。カピラ城の後継者となった浄飯は喜び、報告のため恩師であるアシタ仙人のもとを訪問した。

浄飯は、マーヤーを求めて山をおりアシタ仙人のもとを去ったが、生涯、アシタ仙人が恩人であり師匠であることには全くかわりはなかった。それはアシタ仙人も同じであった。開口一番、

 「アシタ仙人様、マーヤーが懐妊いたしました」

浄飯が報告すると、アシタ仙人の顔色が変わった。

アシタ仙人は、両目からボロボロと大粒の涙を流した。何事にも絶対動じることのないアシタ仙人が涙するのをはじめて見た浄飯は、驚き、とまどった。


一瞬の静寂の後、アシタ仙人がゆっくりと語りはじめた。

「浄飯よ、マーヤーから生まれてくるお前の子は、一閻浮提の衆生を救済するゴータマである。お前は、父となるのじゃ。わしは、どれほどこの日を待ちわびたことか。とうとう、大願を成就することができたのう」

そういうと、アシタ仙人は泣きながら浄飯を抱擁した。これまで厳しく訓練されてきた浄飯は、この抱擁に驚きながら一緒になって泣いた。涙でくしゃくしゃになりながらアシタ仙人は言った。

「浄飯よ、私のこの涙には、二つ理由がある。

一つは、一閻浮提の一切衆生を救うゴータマの誕生を喜んでの嬉し涙である。そして、この涙のもう一つの理由は、齢八十を超えた私は、残念ながらゴータマの教えを聞くことができない。そのことに対する、嘆きの涙である」


その夜、浄飯はカピラ城に戻ると、子供の名前を「大願の成就」を意味する「シッダールタ」と名付けることに決めた事をマーヤーに伝えた。


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