1話
これは主人公が成長してからの話です。第2章から子供時代を書きます。
時系列が行ったり来たりします。すみません。そして主人公、ほとんど出てません。
煌びやかな広間。テーブルの上には豪華なご馳走。色とりどりのドレスに身を包む貴婦人達。彼女達をエスコートするのは上質な衣装の貴公子達だ。一流の楽団が奏でる音楽に合わせ、人々は優雅に踊っている。
ここは大陸の東にある王国、フクシア王国。決して大国とは言えないが、大陸で最も東に位置する港を持つ事で、海の向こうにある東の国々との貿易によって栄えている国だ。
今夜はそのフクシア王国の首都にある城で、貴族達を集めた舞踏会が開かれている。御馳走に舌鼓を打つ者。腹の探り合いを兼ねた談笑をする者。ワルツを踊る者。みな思い思いに舞踏会を満喫していた。だが、そんな舞踏会の賑やかな空気から外れている者がいる。
金髪に近い薄い茶色の髪は腰まで伸ばされており、美しく輝いている。小さな顔に大きな目。透き通るような白い肌に愛らしい唇。薄いピンクのドレスに身を包んだ美しい娘である。
彼女の名前はマリオン=エキューデ。父は男爵の下級貴族の娘だ。マリオンは一人舞踏会の会場から抜け出して、庭園で佇んでいた。
マリオンの他には誰もいない庭園は、月明かりだけが頼りの美しいが淋しい空間だ。舞踏会の会場から漏れ聞こえてくる音楽が、よりいっそうマリオンの心を淋しくさせる。
「舞踏会…楽しそう……」
マリオンは自分から抜け出した舞踏会の華々しさを想い、心細そうに呟く。そもそも何故マリオンはひとり舞踏会を抜け出したのか…?
マリオンは十六歳になる妙齢の女性。もう結婚を意識して、このような場にはむしろ積極的に参加しなくてはいけない立場と言える。決して裕福でもなければ身分が高いわけでもない家柄だが、今夜の舞踏会は首都中の貴族は勿論、国中の貴族達がこぞって招かれているものだ。マリオンと同じ下級貴族も多く参加しているので、マリオン一人が臆する理由はない。少女から女性へと成長をとげる年頃の、愛らしさと美しさを兼ね揃えているマリオンはけっして他の令嬢達に見劣りする事もないだろう。何よりマリオンは年頃の娘。お城の舞踏会という華やかな場所に憧れないわけがない。
だがそれでも、マリオンには舞踏会から抜け出さなければならない理由があった。父や家の立場もあり参加はしたものの、あの華やかな場に居続けられない理由があるのだ。それは他の人からしたら取るに足りない事かもしれないが、マリオンにとっては大事な事だった。
「私もいつかは……」
マリオンは悲しそうに舞踏会の方角を見つめる。そして会場から聴こえてくる音楽に身を任せ、ワルツのステップを踏み始めた。
見ているのは月だけだと信じ、マリオンはパートナーのいないワルツを踊る。
時を同じくして舞踏会の行われている広間。実はここにもマリオンと同じ、舞踏会の空気から外れている者がいた。
名前はアベル=ベタンクール。輝くような金髪の美しい青年である彼は、このフクシア王国の第一王子である。凛々しくも美しい王子であるアベルは、貴婦人たちから熱い視線を集めていた。
「……抜け出したい」
アベルは笑顔を張り付けながら、ウンザリした声で呟く。チラチラとこちらの様子を覗う視線に辟易していた。みながアベルから声を掛けてもらうのを期待している。
「ダメですよ兄上。今日の舞踏会が誰の為に開かれたものだと思ってるんですか?」
小さな呟きは隣に立つ青年にだけ聞こえたようで、アベルは釘を刺されてしまう。
彼の名前はエリック=ベタンクール。アベルの弟の第二王子である。青年とは言ったが、まだ少年と言っても間違いではない十六歳の青少年だ。アベルのような美しさはないが、アベルよりも男らしい精悍さがある。舞踏会に乗り気ではない兄に対し、眉をしかめる真面目で実直な性格の持ち主だ。
「誰の為に開かれたか分かってるから抜け出したいんじゃないか…」
アベルはエリックの言葉に溜め息をつく。普段ならこの弟の真面目さは頼もしいのだが、今夜に限っては恨めしい。
今夜の舞踏会はアベルの十八歳の誕生日を祝う為に開かれたものだ。第一王子の成長を祝う為に、国中の貴族達が集まった。勿論、その為だけの舞踏会ならアベルはこんな風に面倒臭がったりしないだろう。今夜の舞踏会の裏の目的。それはアベルの花嫁候補を選ぶ事であった。父である国王がハッキリと宣言したわけではない。だがアベルももう十八歳。国内の有力貴族達は自分の娘を妃にと売り込む気満々だ。そろそろ婚約者の一人や二人は選ばなくてはならない。それは誰が口に出す必要もない暗黙の了解である。アベルとてもちろん重々分かっている。分かっているのだが…。
「どうにも深窓の令嬢って奴は、誰もかれも同じに見えて見分けがつかないんだよな」
アベルはエリックに愚痴を吐く。国中の有力貴族達が紹介してきたご令嬢達の顔を思い出そうとするが、みな同じような豪華なドレスを着て同じような挨拶を交わすので印象に残らなかった。どんなに美しい宝石でも、同じような宝石がたくさん並んでいては、ただ一つが輝くことはない。
「またそんな事を言って…。しかたがないでしょう。貴族はみな同じような教育を受けるんですから。この国の教育がご不満なら、他国の姫と結婚しますか?外交的には賛成ですが」
エリックはアベルの物言いに呆れかえるが、否定はしない。実際に隣で見ていたエリックの目にも、令嬢達は似たり寄ったりに映っていたのだろう。
「俺はこの人だと思える相手と結婚したいんだ」
「だったらそう思える相手を見つけてください」
アベルの言葉にエリックは舞踏会の令嬢達を指し示すが、アベルは首を振った。
「ここにはいないな。だから探しに行ってくる」
「は?ちょっと…兄上??」
アベルはフッと笑い、小さく片手を上げて広間の入口の方に移動してしまう。エリックは慌てて止めようとしたが、この華やかな場で声を荒げるわけにもいかず、さっそうと去っていくアベルを止められなかった。王子二人が人前でもめるわけにもいかない。
〝後は任せた〟
入口に立つ見張りにはトイレとか言って誤魔化したのだろう。アベルは最後にエリックに口パクをして、舞踏会を抜け出してしまった。
「……逃げた」
エリックは頭を抱えて呟く。結婚相手を探してくるとか言って、結局逃げ出しただけなのは誰が見ても明らかだった。エリックは抜け出した主役について、どう誤魔化すか頭を悩ませる。
「後でエリックには謝らないとな…」
舞踏会を抜け出したアベルは、適当に庭園を歩いていた。自室に帰っても連れ戻されるのが目に見えているので、庭園へと足を向けたのだ。
「エリックよりも父上と母上の雷の方が問題か」
アベルは溜息を吐く。さすがにこのままエスケープするわけにもいかない。ある程度息抜きをしたら一応戻るつもりだ。
「ん?」
ブラブラと適当に庭園を歩いていると、アベルは庭園に自分以外の人影を発見した。見張りの兵かと思って身構えたが違うようだ。月明かりに浮かぶシルエットはどう見てもドレスを着た女性のものである。アベルはジッとその人影を見つめ、目を奪われた。
城の庭師たちが作り出した美しい薔薇達に囲まれるその人物は、とても美しい女だった。夜空から降り注ぐ柔らかい月の光に照らされる姿は儚く、まるで御伽話の妖精のようだ。
その女はアベルに気付かずに踊り続けている。
美しい薔薇の咲き乱れる庭園で、月明かりに照らされ……、
…………リズム外れのへっぴり腰で。
アベルは思わず噴き出した。
「ぶふっ…」
「!!?」
庭園でひとり踊っていたマリオンは、突然聞こえた声にハッとする。踊るのに夢中で誰かが来たのに気付かなかったようだ。声のした方を慌てて振り返る。
「くっくっく…ぶふっ…」
そこには一人の青年が笑いを堪えて立っていた。いや。笑いを堪え切れずに、と言った方が正しい。
「…っ!!」
マリオンの顔に熱が集まる。
(見られた――――――――!!)
これこそマリオンが舞踏会から抜け出した理由。実はマリオンはダンスがものすごく苦手なのである。どんなに美しい外見であっても誤魔化せないレベルの下手さで、人前で披露しようものなら良くて爆笑。悪くて失笑ものである。……いや、どちらに転んでも悪い結果に変わりはない。
結婚相手を探そうにも、マリオンではダンスを申し込まれても断るしかない。目の前で優雅に踊る他の令嬢達と自分を比べてしまい、マリオンは恥ずかしさに逃げ出してしまったのだ。
それでも舞踏会への憧れから、ほんの少し気分だけでも味わえないものかと庭園で踊っていたのだが……。まさかそれを人に見られるなんて、マリオンの羞恥心は爆発寸前だ。
一方のアベルはと言うと、未だに笑っていた。
夜の庭園。咲き乱れる美しい薔薇。月の光に照らされ舞う美しい女。これほどまでに幻想的で運命的なシチュエーションが揃っていると言うのに、全てを台無しにするへっぴり腰。それはみごとな破壊力でアベルのツボに入った。
「くっ…、はははははっ」
「っ!!」
笑い続けるアベルに、マリオンはとうとう羞恥心を爆発させる。
「そ、そこまで笑う事ないじゃないですか!」
「ははっ…。す、すまない。笑うつもりはないんだけど……。っぷくく」
マリオンに怒鳴られ、アベルは笑いを飲み込もうと頑張るが、上手くいかない。
「レディを笑うなんて、失礼ですよ!」
マリオンは恥ずかしさから、ますます声を荒げた。自分のダンスが他人からどう見えるのかなんて充分自覚しているが、初対面の人間に笑われて我慢できるほど、マリオンの人間はできてはいない。
「…ふう。そうだな。本当にすまなかった。レディ。あなたのお名前を聞いても?」
アベルはやっと笑いを止め、マリオンに向き直った。そこでアベルは息を飲む。
月明かりに照らされたマリオンと正面からハッキリと向き合ったアベルは、その美しさに目を奪われた。最初に見た瞬間から美しいとは思っていたが、衝撃的な踊りの方がインパクトがありそれどころではなかったのだ。
「私の名前はマリオン=エキューデと申します」
「マリオン…。本当に申し訳なかった。あなたを侮辱する気はなかったんだ」
「…いえ。私も感情的になりすぎました。あなたのお名前は何て言うのですか?」
「俺?」
「人に名乗らせておいて自分は名乗らないつもりなのですか?」
首を傾げて聞いてくるマリオンに、アベルは少し言いよどんだ。目の前の女は自分の事を知らないのだろうか?と考える。
(キレイな人。こんなキレイな男の人は初めて見たわ…)
マリオンもまたアベルに見惚れていた。月明かりでキラキラと輝く金髪。端正な美しい顔立ち。頭のてっぺんから爪先まで完璧な貴公子が目の前にいるのだ。舞踏会を夢見すぎて、理想のパートナーが妄想の中から抜け出してきたのではないか、などあり得ない事さえ考えてしまった。それ程もでにアベルは絵に描いたような貴公子だった。
マリオンはその家柄からこれまで直接王子に会うような機会はなく、今回のような公けの集まりでも王家に近づける身分ではない。今回のような舞踏会で遠目に見るか、肖像画で見る以外アベル王子の顔など見た事がなかったのだ。しかも今いるのは月明かりだけが頼りの夜の庭園。お供の一人も連れずにいる男が自国の第一王子など想像も出来ないのは無理もない事である。
(ドレスから見て下級貴族の娘だな。こっそり抜け出してるのに騒がれたら面倒だ)
「俺の名前はア……アランだ」
アベルはマリオンが自分の正体に気付いていない事を察し、とっさに適当な名前を名乗った。
「アラン様…ですか。どうしてこのような場所に?舞踏会はよろしいのですか?」
「少し人に酔ってな。外の空気を吸いに来たんだ。そう言うマリオン嬢こそ舞踏会はいいんですか?」
首を傾げるマリオンにアベルはニヤニヤと笑いながら聞き返す。マリオンのダンスを見たアベルは、聞かなくてもマリオンが舞踏会を抜け出した理由など察する事が出来た。それを敢えて聞いているのだ。
「………っ!私も外の空気を吸いに来ただけです!」
「…くくっ。そうですか」
分かっていて聞いて来るアベルに、マリオンは再び顔を赤く染めてムッとした。
(なんて意地悪な人なのかしら!)
マリオンは口を尖らせてそっぽを向く。
「はははっ。すまなかった。少し意地悪がすぎたかな?」
「少しじゃないです!」
アベルはマリオンの態度に面白そうに笑った。マリオンはますます口を尖らせる。そんなマリオンにアベルは余計に面白くなってしまうのだが、そろそろ時間が気になりだした。さすがに舞踏会に戻らなくてはいけない時間だ。
「俺はそろそろ戻らなくてはいけないのでこれで。夜風は身体に悪いからマリオン嬢もほどほどに戻った方がいい。広間に戻るのが嫌ならメイドに声を掛ければ休める部屋に案内してくれるから」
「…はい。ありがとうございます」
ふっと柔らかく微笑んで去っていくアベルに、マリオンは怒りながらも見惚れてしまう。そのことが余計に悔しい。
マリオンはアベルを見送った後、しばらく庭園で立ちつくし、アベルの忠告通り城内に戻ってメイドに声を掛けた。
(…本当にきれいな男の人だったわ)
休憩室で寛ぎながら、マリオンはアベルの顔を思い浮かべるのだった。
「兄上。何所に言ってたんですか?誤魔化すの大変だったんですよ」
「悪かったって、エリック」
舞踏会に戻ったアベルはエリックに小声で怒られた。肩をすくめて謝る。
「それでこの人だと思える相手は見つかったんですか?」
反省の色がないアベルに、エリックは皮肉交じりで問う。本当に探しに行ったわけじゃないのに見つかるわけがない。
「……面白いと思える相手なら見つかったな」
「は?」
まさか答えが返ってくるとは思っていなかったエリックは怪訝な眼でアベルを見る。そんな弟の視線を無視して、アベルはマリオンを思い出していた。
これが下級貴族のマリオンと、第一王子アベルの出会いである。
「またいた……」
「アラン様…」
二人の出会いからしばらく経ち、城で夜会が開かれた。アベルは最初は大人しく参加していたのだが、婚約者候補たちの猛追に辟易し庭園へと抜け出した。そこにはあの日と同じくマリオンがいたのだった。もしかしたら居るかもしれないと、心の中で思っていた自分にアベルは苦笑する。
「今日は踊ってないんだな」
「………もう踊りません」
笑いを含んだアベルの言葉にマリオンは不機嫌に返した。だが、その頬は怒り以外の理由で赤く染まっている。
(……アラン様。また会えるなんて…)
ダンスが嫌で抜け出したマリオンだが、アベルに再び会えるとは思っていなかった。身なりからしてアベルは誰が見ても高貴な身分で、マリオンとは住む世界が違うのは初めて会った時に分かっていたからだ。それがまたこうしてアベルに会えて、マリオンは胸を高鳴らせた。
「マリオン嬢。少しお話しをしませんか?」
「私で良ければ…」
二人は庭園のベンチに並んで寄り添う。
この再会から、マリオンは夜会や舞踏会のたびに庭園に抜け出し、アベルも隙を見て短い時間だが広間を抜け出して庭園を訪れた。そして二人で他愛無い話をしてアベルは広間へと何食わぬ顔で戻って行くのだ。奥手でこれまで男性と親しくなる事がなかったマリオンは憧れの貴公子との時間に胸を躍らせ、アベルもまた王子としてではなく一人の人間として接してくれるマリオンに胸を暖かくする。
庭園の薔薇と夜空の月に見守られ、二人の逢瀬は重ねられていった。
「お父様。お呼びですか?」
マリオンは父の書斎の扉をノックして、父の返事の後に扉を開けて中へと入った。
アベルに会える日を毎日心待ちにしていたマリオンは、父であるエキューデ男爵に呼び出されたのだ。この時のマリオンはあまり父の呼び出しに対して深く考えていなかった。何故ならマリオンには父から怒られる覚えもなかったし、父自身とても穏やかな顔をしていたのだ。だが、ニコニコと笑いながら父から言われた言葉に、マリオンは凍りつくことになる。
「マリオン。喜びなさい。お前の結婚相手が決まったよ」
「……結婚?」
マリオンは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。まるで足元が崩れ落ちてしまったようだ。
「ああ。とてもいい話だよ。フェルマン=ルコック様と言ってね。ルコック伯爵家の方だ。次男だから家督は継がないが、とても優秀でお優しい方だよ。歳はマリオンよりも十歳上で落ち着きのある人だから、きっとリードしてくださるだろう。奥手なマリオンでも安心だ」
放心しているマリオンに、エキューデ男爵は嬉しそうに話を続けた。
「お、お父様…」
「ん?どうしたんだい?」
「………いえ…」
マリオンは父親の言葉を振るえる声で遮ったが、穏やかな顔で聞き返す父親を見て、俯いてしまう。
「もしかしてダンスの事を気にしているのかい?大丈夫だよ。ルコック様も存じ上げた上で今回の結婚を受けてくださってるんだ。実はルコック様は騎士団に入っているのだが、少し前にケガをされてね。足をお悪くされてしまったんだ。だからルコック様はダンスは踊られないんだよ」
俯いてしまったマリオンに、ダンスの事を気にしていると勘違いした父親は心配はいらないと笑いかけた。
「一緒に舞踏会に行っても踊ってあげる事が出来ないから、むしろ一緒に壁の花になってくれるお嫁さんは大歓迎だって笑っておられたくらいだ」
「…そう…なのですか」
嬉しそうに話し続ける父親に、マリオンは必死で笑顔を作り相槌を打つ。正直上手く笑えているのか分からない。
「今度日を見て顔合わせをするから、心の準備をしておくようにね」
「はい。お父様」
マリオンは最後まで父親に何も言えないまま、部屋を退出した。しばらく扉の前で放心して、覚束ない足取りで自室へと向かう。
フラフラと廊下を進みながら、自分の身に起きた事を考えた。
家督は継げないとしても相手は伯爵家。男爵家のマリオンよりも身分が高い。父親があそこまで嬉しそうにマリオンに話していたのだ。本当に優秀でお優しい方なのだろう。なによりもマリオンの最大の欠点であるダンスの事を気にしないでくださる相手だ。文句のつけようがない。エキューデ家からしたらこれ程の縁談はないだろう。
マリオンも貴族の娘だ。貴族の結婚が本人の意思よりも家の意思で行われるものだという事は重々理解していた。適齢期である自分に縁談の話が来ることなど当たり前だと分かっている事なのだ。
それでもマリオンの心の中にはアベルの存在が大きく居座っているのだ。本当なら父親に好きな人がいると伝えたかった。だが、嬉しそうな父親の顔を見て言葉を飲み込んでしまった。
マリオンは廊下の真ん中で足を止めて思う。今からでも遅くないだろうか?断るなら早い方が相手にも失礼が少ないのではないか?先に同じ女である母に説明した方が自分の気持ちを分かってくれるのではないだろうか?……だが、そこまで考えてマリオンの思考は凍りつく。まるで冷水でも頭から被ったように心が冷え切った。
(……なんて説明をするの?私には好きな人がいます。その人は城の夜会で顔を会わせるだけの人ですって説明するの?どこの家の方かも知らない。しかも相手から決定的な言葉を貰っているわけでもないって?)
マリオンはこれまでのアベルとの夢のような逢瀬を思い返し、それらがどんなに現実味のない本当に夢のような事なのかを自覚する。とうとう涙を堪え切れなくなったマリオンは、その場でしゃがみこんでしまった。
マリオンが涙を流した三日後。
「兄上。何をしてるんですか?」
エリックは訝しげに兄であるアベルに尋ねる。
「いや、ちょっとな……」
尋ねられたアベルは手元の書類を読みながら、エリックにおざなりに返す。
ここはアベルの執務室。机に向かって書類を読んでいるアベルと、アベルを訪ねてきたエリックが机の傍に立っていた。このところ物思いに耽る事が多いアベルを心配して、エリックは様子を見に来たのだ。今も何も知らないものが見れば仕事に集中している様に見えるが、アベルの手元の書類が仕事に関係ないものだという事は弟のエリックにはお見通しである。
「何をそんなに熱心に………エキューデ男爵?」
エリックがため息まじりにアベルの手元を覗き込むと、そこにはこれと言って特徴のない下級貴族の男のプロフィールが書かれていた。書類に書かれている事から城に出入りしている文官である事が分かる。第二王子であるエリックには名前を聞いても顔を思い出す事が出来なかった。そもそも顔を合わせた事があるかも分からない。身分からして会った事がない可能性の方が高そうだ。ただエリックにはエキューデ男爵の名前だけ聞き覚えがあった。
(最近誰かから聞いたような気がするな)
「兄上。この者がどうかしたんですか?」
「あ~。別にどうという事はないんだけど…、ちょっと気になってな」
エリックに聞かれ、アベルは照れくさそうに頬をかく。
マリオンがアベルとの逢瀬を楽しみにしていたように、アベルもまたマリオンの事を想い日々を過ごしていた。
他愛無い話を嬉しそうに話す笑顔。ダンスの事でからかえばふて腐れて逸らされる不機嫌な横顔。ジッと見つめると頬を染め、恥らって俯く顔。ほんの数回の短い逢瀬で見たマリオンの美しい顔がアベルの心を占領する。アベルは月光に照らされるマリオンだけでなく、明るい陽の光の下でもマリオンと会えないものかと思うようになっていた。
(問題はまだ俺が王子だって明かしてない事なんだよな。未だに偽名のままだし…)
何かきっかけはないものだろうかと思ってマリオンの父親の事を調べたが、分かったのは本当に平凡な下級貴族というだけだった。特別優秀ではないが無能でもない。ごく普通のどこにでもいる文官だ。良くも悪くも目立たない平文官。とてもじゃないが王子であるアベルとマリオンを繋げる人物にはなれない。
「はぁ…」
アベルは溜息をついて読んでいた書類を机の上に投げ出した。エリックはその投げ出された書類を手に取って難しい顔になる。
「この者が何か問題でも起こしたんですか?」
「違う違う。そんなんじゃない。ただの私事だ」
エリックの言葉にアベルは慌てて手を振った。自分のせいで変な誤解が生まれたらマリオンに会わせる顔がなくなってしまう。
「そうですか…。最近誰かから聞いたような気がするんですが……」
「エキューデ男爵をか?」
「はい」
書類を睨みながら考え込むエリックに、アベルは首を傾げる。自分が調べたエキューデ男爵は王族にまで名前が届くような人物ではないはずだ。
「ああ。思い出しました。フェルマンから聞いたんだ」
「フェルマン?」
エリックの口から出た名前にアベルは記憶を辿る。確か目の前の弟の直属の騎士にそんな男がいた気がする。
「はい。ルコック伯爵家の次男です。優秀な男だったんですけど少し前の遠征で足に怪我をして、今後は政務の手伝いに回す事になりました。剣の腕だけでなく執務でも優秀な男なので問題はないでしょう。確か文官のもとに色々聞きに行った際に親切にしてくれたと言うのがエキューデ男爵だったかと…」
「ほう。それでフェルマンはエキューデ男爵の事を他にも何か言ってたか?」
アベルは思わぬ形で舞い込んだエキューデ男爵の情報に興味を抱く。なんせ平凡な男過ぎて非公式では事務的な情報以外手に入らなかったのだ。かと言って身近な人間に聞きに行くわけにもいかない。
「他にですか…。真面目で人当たりが良い人物だとか。あと仕事が丁寧でミスがないとも言ってましたね。地味で目立つ人ではないが、同僚や上司、部下からも悪い評判はないそうです」
「ほう…」
(嫌な人物ではないようだな)
アベルはエリックが語るエキューデ男爵の情報にホッとする。だが、この後のエリックの言葉にアベルは衝撃を受ける事になる。
「なかなかに高評価だな」
「はい。能力的には平凡ですが、人となりが良いようです。フェルマンもずい分エキューデ男爵と意気投合したんでしょうね。御息女と結婚までする事になったんですから」
「……………は?」
アベルはエリックの言葉に放心する。
(今、なんて言った?)
アベルが調べたエキューデ男爵家の家族構成は家長である男爵とその妻、そして息子と娘が一人ずつの四人家族だ。もちろんその一人娘がマリオンである。
「結婚?エキューデ男爵の娘が?」
「はい。確か名前は何と言ったでしょうか?」
名前を思い出そうとするエリックを他所に、アベルの心臓は暴れ出す。背筋に嫌な汗が流れた。
(いや。もしかしたらもう一人娘がいるのかもしれない。書類の記入ミスかもしれないじゃないか。もしくはエキューデ違いかも。エリックと俺で言っている人物が食い違っているかもしれない…)
アベルは必死に別の可能性を探し続ける。しかしエリックの言葉にそんな希望はたやすく打ち砕かれた。
「そうだ。マリオン。マリオン=エキューデ嬢です」
何も知らないエリックから放たれた言葉はアベルの心に突き刺さる。
「兄上!?」
アベルは自分でも気づかないうちに執務室を飛び出していた。エリックの呼ぶ声も耳には入らない。ただそのまま国王である父親の執務室まで全力で走っていた。すれ違う者みなが無我夢中で走る第一王子の姿にギョッとするが、アベルにはそんな事構っている余裕はない。目的の場所まで着いたアベルは衛兵が止める間もなく、そのままノックもしないで勢いよく扉を開けた。
「父上!!」
「「「!!?」」」
「なんだ?いったいどうしたアベル?」
まるで体当たりする勢いで扉を開け室内に飛び込んできた息子の姿に、大臣たちと政務の話をしていた国王は目を見開く。その場に居合わせた大臣も肩で息をする第一王子の姿にポカンとしていた。扉の前に控えていた衛兵など可哀想なほどオロオロしている。
そんな室内の様子などお構いなしで、アベルは息を整える時間も惜しんで言い放った。
「結婚します!!」
「はぁっ!!?」
「アベル王子?!」
「けっこ…え?」
アベルの発言に騒然とする。
「いきなり何を言ってるんだ!?いったいどこの誰と……?」
国王は突然の息子の乱心に目を白黒させて問いただす。自分の記憶が正しければ、息子は婚約者候補たちから逃げ回っていたはずだ。そんな国王の疑問も冷静さを失ったアベルはお構いなしだ。
「これから迎えに行ってきます!では!!」
「ちょっと待て!アベル!!?」
国王の制止も聞かず、アベルは来た時の勢いのまま走り去って行った。とんでもない爆弾を投下して………。
運悪く爆撃に居合わせてしまった者達は、走り去って行った第一王子の背中とあんぐりと口を開けて固まっている国王を交互に見て困惑するしかなかった。気まずい事この上ない。
「父上。兄上が来ませんでしたか?」
「エリック王子!よいところに!!」
「は?」
アベルを追いかけ入れ違いでやって来たエリックも、事の顛末を聞き卒倒する事になる。
一方、城でそんなことが起きているとは全く知る由もないマリオンは、ひとり自室でふさぎ込んでいた。
「………ふっ切れなくちゃダメよね」
マリオンはベッドに突っ伏しながらポツリと呟く。あれから三日。マリオンは目に見えて元気をなくしていた。そんなマリオンの姿に家族たちは結婚前にナイーブになっているのだろうと、心配しながらもそっとしておいてくれている。だが、誰ひとりとしてマリオンが結婚を嫌がっているとは思っていない。
(それはそうよね。だって私から見てもとてもいい縁談だもの。実家の階級もお人柄も文句なし。不満を持つなんて罰があたるわ)
二日後には本人との顔合わせが決まった。それがすんで向こうが不満を唱えない限り結婚は無事になされるだろう。
(アラン様との事はいい思い出にしなくちゃ。もともと夢のような不確かな関係だったのだし)
マリオンはベッドから起き上がって、一度深呼吸をする。鏡で目が腫れていないかを確認してから部屋を出た。いい加減、部屋に閉じこもって家族に心配をかけ続けるのも心苦しい。
「おや。マリオン」
「お父様」
部屋を出てすぐに父親と鉢合わせる。無意識に目を泳がせてしまうマリオンに、父は優しく笑いかけた。
「マリオン。お腹はすいてないかい?おいしいお菓子をいただいたんだ。一緒にお茶でも飲もう」
「……はい。お父様」
部屋に閉じこもっていた事には一切触れない父の優しさに、マリオンは傷ついていた心が少し癒されたのを感じる。
(やっぱりお父様たちに心配をかけちゃダメよね)
マリオンが父親と談笑しながら階段を下りかけると、玄関から声が聞こえてきた。
「お客様かな?なんだか騒がしいようだけど?」
首を傾げる父の横で、マリオンも一緒に階下を覗き込んだ。
「お待ちください!今、主人を呼んで来ますので……」
玄関に応対に出たらしい母の声が聞こえてきた。どうやらそうとう慌てている様子である。その声に家長である父が慌てて階段を駆け下りて玄関に向かった。マリオンも後に続く。
「いったいどうしたんだい!?」
父が慌てて玄関に駆けつけると、そこには妻でありマリオンの母であるエキューデ夫人とエキューデ家のたった二人の使用人である年輩の夫婦が一人の青年を前にしてオロオロしていた。扉の影で青年の顔はマリオン達からはまだ見えない。
「あなた…。それがその…こちらのお方がマリオンに会いたいと言っているのですが……」
マリオンに良く似た母が眉を下げて夫に助けを求める。実際にはマリオンが母に似ているのだが、今は置いておく。
「マリオンに?」
さすがに温厚な父も、その言葉に眉をしかめた。妻の慌てようから訪ねてきた男がこれまで家に来た事がある知人ではないのが分かる。結婚を控えた愛娘に、どこの誰とも分からない男が会いに来たとは穏やかじゃない。マリオンも母の言葉に眉を寄せる。
「私に?」
「お嬢様。こちらに御下がりください」
そっと玄関に歩み寄ろうとしたマリオンを、使用人の女性が止める。サッとマリオンの前に立ち、来訪者から隠すようにした。
「いったい娘にどのようなご用件で……っ!!?」
毅然とした態度で玄関に立った父は、来訪者の顔を見て驚愕する。目を見開いて顎が外れるんではないかと心配になるほど口を開けて固まってしまった。
「あなた?」
そんな父の姿に母も狼狽する。そんなエキューデ夫妻にはお構いなしで、来訪者は自分を要求を訴えた。
「マリオンに会わせていただきたい!」
「!?」
その声にマリオンはハッとする。
(この声はまさか…!)
使用人の女性が止めるのも聞かずに、マリオンは玄関に飛び出した。
「アラン様!?」
「マリオン!」
マリオンが玄関に出ると、そこにはここ数日ずっとマリオンの心を占めていた人物が立っていた。マリオンは夢でも見ているのではないかと目を疑う。
「アラン様?どうしてここに?」
「マリオン。キミを迎えに来たんだ」
「迎えにって…」
アベルは自信満々にマリオンへと手を差し伸べる。拒否されるとは微塵も思っていない様子だ。その身分故でもあるだろうが、何より今のアベルにはダメだった時の事を思いつく余裕もない。それ程にテンションが振りきれていた。そうでなければ、国王に言いたいことだけ言って城を飛び出し、愛馬を全力で駆けさせてエキューデ家へ何の準備もなしに突撃する事など出来ない。後で冷静になった時、アベルは自分の行動をどう振り返る事になるのだろうか…。
そんなアベルに手を差し伸べられたマリオンは、諦めようと思っていた意中の相手の言葉にクラクラしていた。そのまま何も考えないで、アベルの手をとってしまいたいと思う。
「マリオン?どういう事なんだい?」
だが、父の震える声に夢見心地だった心が現実に引き戻された。
「お、お父様…。その…この方はアラン様とおっしゃって、舞踏会で親しくなって…その……」
「アラン様??何を言ってるんだマリオン??舞踏会でって……」
マリオンのしどろもどろな説明に、父の顔は青くなっていく。そして父から発せられた言葉に、マリオンと母、そして使用人の夫婦も青ざめる事になる。
「マリオン。お前はこの方が我が国の第一王子、アベル王子だと知らないのかい!?」
「「「「!!??」」」」
みなが息を飲んだ。
「……アベル王子……様?」
マリオンは震える声でアベルを見る。アベルはその視線に黙って頷いた。マリオンはさっきとは別の意味で頭がクラクラし始める。
「エキューデ男爵。今日はマリオン嬢を迎えに上がった。このまま城に連れて行く。マリオン準備をしてくれ」
「ア、アベル王子?それはどういう事でしょうか?その、娘はもうすぐ結婚が決まっておりまして…」
アベルの言葉に父はドンドンと顔色を悪くする。マリオンはすでに思考が停止していた。目の前の展開について行けなくなっている。
「その結婚はなしだ!マリオンはこの俺と結婚する!!」
有無を言わさぬアベルの言葉に、父の顔はとうとう真っ白になった。マリオンの記憶もそこで途切れる………。目の前で話す両親とアベルが声が、とても遠くに感じた。
気が付いた時には、マリオンは見た事も無い豪華な部屋の中にいた。マリオンの家では全財産をつぎ込んでも買えないだろう調度品が並んでいる。自分が座っているソファが自分では一生かけても買えないだろう物だと気付いたマリオンは、飛び上がるような勢いで立ち上がった。
「こ…、ここは?」
マリオンは自分しかいない部屋を見渡しておぼろげな記憶を振り返る。
(そうだわ。確か…アラン様が迎えに来て、私と結婚すると言ってくださって…。放心していた私をそのまま馬に乗せて城まで……)
そこまで考えてマリオンはハッとする。勢いよく周囲を見渡した。
「城…。そうだわ。ここは城よ」
マリオンは自分の置かれた状況を把握する。おぼろげな記憶に寄れば、放心したマリオンに焦れたアベルがマリオンを攫うように馬に乗せ、そのまま城まで戻り、この部屋で待つように言ってアベルは何処かに行ってしまったのだ。
マリオンはついさっきの出来事なのに、どこか遠い記憶のような気持ちになった。まごう事なき現実逃避である。
「アラン様は何処に…」
疑問を口に出しかけて、マリオンはハッとする。
(アラン様じゃない…。あの方は……)
「マリオン」
マリオンが考え込んでいると、ノックもなしにアベルが部屋に入ってきた。沈みかけたマリオンの思考が戻る。
「アラン様…」
「良かった。気が付いたんだな。さっきはいくら話しかけても反応がないから焦ったぞ」
アベルは反応を返したマリオンにホッとした。城に戻って冷静になったら、自分の行動がいかに強引だったか気が付いたのだ。
正直なところ、アベルも逢瀬の間に具体的なマリオンとの将来を考えていたわけではない。自分にもマリオンにも立場がある事は頭では分かっていた。いや。分かっていると思っていた。だが、マリオンの結婚を知ったらそんな事は吹き飛んでいたのだ。マリオンが自分以外の男のものになってしまうなんて、受け入れられなかった。それくらいアベルにとってマリオンの存在は大きくなっていた。
「…アラン様はアベル様…なのですか?」
「……ああ。すまない。本名を名乗ったら、あの心地よい関係が崩れてしまうと思って…」
アベルはマリオンの弱々しい声に、心を痛ませる。そっとマリオンの手を取り真っ直ぐに見つめ合った。マリオンも抵抗はしない。
「名前を偽った事は謝る。本当にすまなかったと思っている。でもマリオン。キミと結婚したいという気持ちに偽りはない」
「アラ…アベル様……」
アベルの真剣な言葉に、マリオンは顔を赤くする。アベルも自分と同じくらい自分を思っていてくれた事が嬉しい。だが、事はそう簡単な話ではない。
「でもアベル様。アベル様は第一王子で……」
「周りは必ず説得してみせる!俺はマリオン以外の女と一緒になるつもりはない!!」
マリオンの言葉にアベルは叫んだ。マリオンの手を握る力が強くなる。
「マリオンは俺が嫌か?」
「………っ!!」
アベルの言葉にマリオンは泣きそうになった。拒まなくてはいけないと分かっているのに声が出ない。嘘でも嫌だとは言えなかった。
マリオンは涙を堪えて無言で首を振る。
「マリオン。俺は身分なんかでキミを諦められない。だからマリオンも俺を諦めないでくれ」
「…………はい」
アベルの言葉にマリオンは堪え切れずに涙を流し、頷いた。
これが下級貴族のマリオンと第一王子アベルの苦難の始まりだった。
第一王子が女性を連れ帰ったと言う話はあっという間に城中に知れ渡る。放心していたマリオンの記憶には残っていないが、城門をくぐってから部屋に辿り着くまでアベルに引っ張られる姿は随分な人に注目されていた。思い出さないのが本人の幸せだろう。
あの後すぐにマリオンを連れて両親、つまり国王夫婦に謁見したが、当然反対された。アベルは男爵令嬢であるマリオンを正妃にすると言ったのだ。もとより身分の差から賛成しかねる結婚に、せめて側室にと言う両親の言葉に、アベルは決して首を縦には振らなかった。
「俺の妻はマリオンただ一人です!」
そう言い放ったアベルの言葉は国王を困らせ、またすぐに城中に知れ渡ったのだ。
「兄上。マリオン殿。父上との話し合いはいかがでしたか?」
「エリック」
自室で休んでいるアベルとマリオンのもとにエリックがやって来た。
「どうもこうもないさ。父上は今日も賛成してくれなかった」
アベルは手に持っていた紅茶をテーブルに置いて、肩をすくめる。
あの日からマリオンはアベルに部屋を用意され城に住んでいる。だが、待望の結婚はまだなされていない。国王からの許可が出ないのだ。アベルとマリオンは連日、国王に謁見して結婚の許しを願い出ていた。
「やはり私では……」
「マリオン。そんな事は言うな」
俯くマリオンの手をアベルはそっと握りこむ。マリオンはアベルの手から伝わる体温にそっと顔を上げて微笑んだ。
「必ず父上を説得してみせるぞ」
「………兄上。もし俺に出来る事があれば言ってください」
アベルとマリオンの仲睦まじい姿に、エリックは声をかける。
「ああ。頼んだぞ。エリック」
「ありがとうございます。エリック様」
二人の感謝の言葉にエリックは静かに頷いた。
二人の関係に関して、エリックはただ一人の味方である。言い方を変えればエリック以外の全ての者が二人の結婚を反対していた。
国王夫妻は息子の真剣な想いを理解はしてくれているが、立場上簡単に賛成はしてくれない。自分の娘をアベルの妻にと思っていた者たちなど、すごい勢いで猛反対だ。口さがない者はマリオンを第一王子を誘惑した悪女だと噂している。
アベルの保護のもと城に滞在しているマリオンに、武力的な嫌がらせをする者はまだ出ていないが、針のむしろと言っていい今の状態は、マリオンにとっては辛いものだ。正直な話、メイドにさえ軽んじられている。
エリックも立場上、本来ならアベルを諌めて反対しなければいけないのだが、兄の真剣な想いを否定する事が出来ないでいた。実際に話してみたマリオンも、決して兄をたぶらかす悪女などではない。部下の婚約者を攫って来たと聞いた時は、正直兄と剣を交えてでも諌める覚悟をしたが、二人の真剣な様子にその気持ちもなくなってしまった。
だからと言って、エリックひとりが味方になっても出来る事は少ない。結局のところ国王を説得出来なければ意味がないのだ。エリックに出来る事と言ったら、今回の結婚騒動の衝撃を直で受ける事になったエキューデ家を保護するくらいだ。それはアベルもやっている事だが、そのアベル自身今回の結婚騒動の所為で城内で孤立気味になっている。エリックはせめてそのフォローだけでもと、行動していた。
エキューデ家はアベルの婚約者候補の家に完全に睨まれてしまっている。そうでなくても下級貴族のくせにとやっかまれた。多くはないが国王がアベルの説得に折れ、本当にマリオンとの結婚が成立した時の為に繋がりを持とうと機会をうかがっている者をいる。どっちにしてもエキューデ男爵も城での居心地は最悪だろう。せめて危害を加えられない様にと、エリックは自分の部下をエキューデ家につけた。
城内は「アベルの想いは気の迷いだ」「その女に騙されているんだ」という好ましく思わない者が多数を占めている。ごく少数だが二人の真剣な想いを理解してくれている者達もいるが、その者達の意見も「正室は別に身分の高い者を迎え、マリオンは側室に」というアベルの本意から外れたものだ。実のところエリックの意見も後者に近い。
(父上が折れるよりも、兄上が折れて側室に迎えるのが一番丸く収まるんですが…)
エリックはそう思っても、目の前の二人の真剣は想いにその言葉を飲み込み続けた。自分くらい兄と未来の義姉の味方でいてあげたかったのだ。
そんな決して良い状態とは言えなかったマリオンとアベルの関係がしばらく続いたが、事態は大きく動き出す事となる。
アベルとエリックの父であり、賢帝と周囲の国にも謳われたフクシア王国国王が病に倒れてしまったのだ。床に臥した国王と、その傍に付き添う王妃は療養の為に離宮へと移り住んだ。空席となった玉座には当然のことながら第一王子のアベルが座る。
アベルはフクシア王国の国王になった。
国王が倒れ、アベルが新王に即位してからの日々は怒涛の勢いだった。アベルは勿論、王になる為の勉強をしてきていた。だが、年若いアベルはまさにこれから実績を積んでいくところだったのだ。国王の下で王子として実績を積み、緩やかに政権交代をするはずだったアベルの急な即位に国中が混乱を極めた。
まだまだ学ぶ事があったアベルを支える為に、官たちは全力を注ぐ。もうマリオンの存在に頭を悩ませている場合ではなかった。
まだまだ学ぶ事があったのに突然国を任される事になったアベルは、エリックと共に政務に励んだ。疲れ切って自室に戻るアベルを癒すのはマリオンの存在である。
「大変そうですね。アベル様。どうか御身体を大事になさってください」
「ああ」
マリオンは膝の上に乗せられたアベルの頭を優しく撫でながら労わる。城中が引っくり返るような忙しさの中、マリオンには出来る事がない。誰かの手伝いをしようにも、働いた経験のないマリオンでは猫の手にもならない。そもそも出来る事があったとしてもマリオンの手を借りたがる者はいないだろう。
気落ちするマリオンを見つめながらアベルは別の事を考えていた。
(少し落ち着いたらマリオンを妻に迎えよう。もう少しの辛抱だ)
国王の責務は大変だが、実質国で一番の権力についたアベルの結婚を止められる者はいない。この時のアベルはそう思っていた。まだ若いアベルには国が王だけでは回らない事を真には理解出来ていなかったのだ。
それから程なくして、アベルの想いをあざ笑うかのように、大国の姫がアベルの婚約者としてフクシア王国にやって来る事が決定した。
「どういう事だ!俺は許可していないぞ!!」
目の前に並ぶ大臣たちをアベルは玉座に座って怒鳴りつける。だが大臣たちは怯まなかった。
「アベル陛下。今、我が国は非常に危うい状態です。賢帝と謳われた先王の治世が終わり、周辺国にいつ狙われるか分かりません。牽制の為にも大国との強い繋がりが必要です」
「幸いな事にスターチス王国はこの大陸でも有数の大国。歴史も古く影響力も大きい。その姫君が我が国に嫁いだとあれば他国への牽制となります」
「俺は許可していない!!」
「もう決定したことでございます。スターチス王国の姫君御一行も我が国に向かっております。御覚悟ください」
「!!」
「陛下!!」
大臣たちの言葉にアベルは立ち上がり、制止の言葉を無視して王の間を出て行ってしまう。
「兄上!」
エリックが急いで追いかけると、アベルは廊下で苛立たしげに拳を壁に叩きつけるところだった。ダンと乾いた音が廊下に響き渡る。
国王でありながら、大国からの婚約を取り消す事はアベルには出来なかった。自分の無力さにアベルは打ちのめされる。
この婚約に対してのマリオンの反応は、痛々しかった。仕方のない事だと笑っていたが、誰が見ても無理しているのは分かる。そんなマリオンの姿に、アベルは余計に切なくなった。
解決策が見つからないまま、スターチス王国の姫・ノエル=バルテレモンがフクシア王国にやって来てしまう。ノエルは月のような優しい金色の髪に、太陽のような黄金の瞳を持つ少女だった。歳はアベルよりも五つも下で十三歳。美しさよりも愛らしさが目立つまだ子供と言っていい姫である。
アベルはこの子供の為にマリオンを諦めなくてはいけないと思うと、つい素っ気ない態度になりそうになった。そのたびにエリックや大臣に止められる。
「ノエルと申します。アベル様。どうかよろしくお願いします」
「……はい」
ニコニコと人懐っこい笑顔を浮かべる少女に、アベルは辛うじて返事をする。そんな二人の事をマリオンは切なそうに見つめていたのを知っているからだ。本当ならすぐにでもマリオンのもとに走って行きたい。アベルはノエルといる時も常にマリオンを想っていた。
アベルはそれから三日ノエルの相手をして過ごしたが、マリオンのもとに行けない我慢は永くは続かなかった。
正式な婚約がなされる前にどうにかしなくてはならない。その焦りから、ノエルの年齢なら話せば説得できるのではないかと思い、アベルは婚約者であるノエルをマリオンに会わせる事にしたのだ。散歩に誘ったふりをして大臣たちを撒き、ノエルとその従者を伴ってマリオンの部屋を訪ねた。
「アベル様?この方は??」
首を傾げるノエル姫の前で、アベルはマリオンの肩を抱く。ノエル姫はキョトンとしているが姫の従者は一瞬顔をしかめた。
「ノエル姫。この人はマリオン。俺の恋人で将来を誓った人です。俺はこの人と結婚します」
アベルはノエルを真っ直ぐ見つめ、自分の想いを打ち明ける。マリオンはそんなアベルに黙って寄り添った。そんな二人の告白にノエル姫がどう返すか、緊張が走る。
「そうなのですか。マリオン様。ノエルと申します。よろしくお願いしますね」
「「え?」」
二人の緊張など意に反さない様子で、ノエルは平然としていた。従者は額に手を当てて天を仰いでいる。
「えっと。俺はこの人と結婚するんだが…」
「はい。二人は愛し合ってるんですね。愛する者同士で結婚なんていいですね。私は気にしませんよ」
ノエルはアベルにニッコリ笑い返す。アベルとマリオンはあまりにも呆気なく受け入れられて、拍子抜けした。だが、次の言葉に眉を寄せる。
「これから正室と側室として仲良くやっていきましょうね。マリオン様」
「ちょっと待ってください!側室って…」
「?マリオン様を側室に迎えるという御紹介ですよね?私は賛成ですよ」
ニコニコと笑う目の前の少女に、アベルは眩暈がした。この少女は自分が正妃になる事を疑っていないのだ。立場を考えれば当然だが、この時のアベルにはマリオンを軽んじられたと思い、冷静にはなれなかった。
「俺はマリオンを側室にするつもりはない!」
アベルは感情的に叫ぶ。マリオンはどうすればいいのか分からなくて、ただアベルとノエルのやり取りを見守った。
「マリオン様を正室にして私は側室ということですか?」
ここで初めてノエルの顔が曇る。そんな話は聞いていないと従者に目配せした。従者の表情も厳しくなる。
「その、聞くのが遅れてしまったのですが、マリオン様はどういった身分の方なんでしょうか?」
「………私は…男爵家の娘です」
ノエルの質問にマリオンは小さな声で答えた。家のことを恥とは思わないが、やはり一国の姫と張り合うとなるとマリオンは心が萎みそうになる。
「男爵…。何か大きな功績を持っていらっしゃる?」
「……いいえ」
「この国で重要な何かを担っていらっしゃる?」
「………いいえ」
ノエルの質問にマリオンは首を振って答える。マリオンがドンドンと俯いてしまうのに対し、ノエルは首を傾げていく。
「マリオン様の方を正室にするのは無理じゃないですかね?」
「「!!」」
ノエルの言葉にアベルの頭に血が上った。悪気も嫉妬心もなく、ただ当たり前の事として言っている姿が余計に残酷である。
「ふざけ…っ!!」
「アベル様!!」
ノエルを怒鳴りつけようとするアベルをマリオンがしがみ付いて止めた。ノエル姫に危害をくわえたら国同士の問題に発展してしまう。アベルはマリオンの制止に冷静になることができた。視界の端に従者が身構えているの映る。
「…すみません。少し取り乱しました……」
アベルは納得のいかないまま、ノエルに謝罪する。その手は固く握りしめられて震えていた。
「……いいえ。お気になさらないで下さい。今日はここまでにしましょう。アベル様は少し冷静になる時間が必要のようですから」
ノエルは少し考えるそぶりをして、歳に似合わない落ち着きを保ったまま退室していった。
部屋に残されたアベルとマリオンに嫌な空気が残る。
「ノエル様は私とは全然違います。あれこそが一国の王妃となる方の姿なのですね」
マリオンは三歳も下の少女に格の違いを感じ、項垂れた。アベルが怒り、マリオンが落ち込んでいても、ノエルは最初から最後まで冷静に落ち着いていた。あれが大国の王女というものなのだろうか。
「マリオン。俺は諦めない。必ずスターチス王国を説得してみせる」
弱気になるマリオンをアベルは必死に励ます。たとえ大国が相手であろうと、簡単に諦められる想いではないのだ。
「アベル…。ありがとう」
マリオンは折れそうになった心を必死に奮い立たせた。どんなに辛く険しい道でも、アベルが諦めない限り自分も諦めるわけにはいかない。
二人は決して諦めない事を固く誓い直した。
しかしノエルの滞在日数が増えるにつれ、二人の心は穏やかさを失わせていく事になる。ノエルは国政にも顔を出すようになったのだ。アベルとの婚約と同時にスターチス王国との同盟も正式になされる。ノエルは正式な手続きがなされる前から、すでに王妃になったかのように大臣たちに自身の能力をアピールしていった。
「さすがスターチス王国の姫君。あの歳でここまで出来るとは」
「スターチス王国の後ろ盾に、あの方が王妃になってくだされば我が国は安泰ですな」
城のいたる所からノエルを褒め称える声が聞こえてくる。アベルはノエルの存在がドンドンとフクシア王国に根付いていく様に焦りを募らせた。だが誰よりも心を乱したのはマリオンだろう。自分では絶対に出来ない事を、年下の少女が難なく熟しているのだ。持って生まれたものからして違う。マリオンは惨めになった。
アベルのノエルへの態度はますます素っ気無くなっていく。その態度にフクシア王国の重臣は慌て、スターチス王国の者達は不快感をあらわにした。だが、当の本人のノエルは全く気にした様子もなく笑っている。
不思議な事に、あのマリオンを紹介した日から、ノエルの態度は全く変わっていない。それどころか前以上に友好的とも言えた。何も気にした様子もなくアベルに話しかけ、何を思ってかマリオンをお茶に誘う事もあった。
「マリオン様。一緒にお茶でもいかがですか?」
「い、いえ…」
「マリオンは気分が優れないそうです。お引き取り下さい」
「そうですか。では、またの機会に」
勿論、警戒したアベルが断ったが。ノエルはマリオンの存在に不快感を出すことなく、むしろ友好的に振る舞っている。そのことが余計にアベルとマリオンの警戒心を強くした。
「……いい加減ハッキリさせるぞ」
「アベル様。いったい何を…?」
「ハッキリとノエル姫とは結婚しないと宣言する。何があっても王として国もキミも守ってみせるさ」
アベルは覚悟を決める。もう王妃のように振る舞うノエルにも、ノエルを王妃として扱う官たちにも我慢が出来なかった。国王である自分が置いてきぼりで話が進む現状に、アベルは終止符を打つ。
アベルが覚悟を決めた次の日の夜。城では小さな夜会が開かれた。ノエルの歓迎を兼ねての夜会だ。婚約前の為、重臣とその身内だけを招いたものだが、正式に婚約と同盟がなされたら国中をあげての盛大なお披露目をする予定である。
「ノエル姫。我が国の料理は御口に合いますか?」
「はい。さすがフクシア王国。海産物がおいしいですね。食べ過ぎちゃいそうです」
エリックはニコニコと笑いながら料理を食すノエルに、内心ヒヤヒヤしていた。本来ならノエルをエスコートするはずのアベルが現れないのだ。ノエルは気にする様子はないが、ノエルの従者たちは目に見えて怒っている。
(兄上。いったい何をしてるんですか!?)
エリックは心の中で兄を呼びながら、ノエルの相手を務めた。
「エリック様。あちらの方たちをご紹介してくださいませんか?」
「はい」
ノエルに強請られるまま、エリックは重臣とその家族の紹介をする。重臣との繋がりを広げようと動くノエルの姿に、素直に感心した。
(まだ子供だが、立派な姫君だな)
「ちょっと、あれ…!」
「まぁ。なんてこと!!」
「アベル様…!!」
エリックが重臣とノエルの間を取り持っていると、入口の方でざわめきが起こる。そのざわめきの中に兄の名前を聞き、エリックは慌てて振り返った。ノエルも入口に目を向ける。
「遅くなって申し訳ない」
そこには遅れてやってきたアベルがいた。美しく正装したアベルは今夜も華やかだ。だが皆が注目するのはそこではない。アベルの横には同じく美しく着飾ったマリオンの存在があったのだ。
白のレースをふんだんに使い、細かい刺繍と宝石を散りばめられたドレスは、とても豪華だが派手すぎる事も無く、清楚なマリオンにとても良く似合っている。アベルとマリオンが並ぶ姿はまさに一枚の絵画の様だった。
フクシア王国の者達はみな青ざめる。国王であるアベルが大国の賓客を招いた夜会に遅刻した事。本来エスコートするべきノエルを放ってマリオンをエスコートしてきた事。マリオンの姿が、主役であるノエルに負けないくらい人目を惹く事。全てがスターチス王国の機嫌を損ねる行いだ。心なしかスターチス王国の者達の空気が冷たくなった。
みなが息を飲む中、場違いな明るい声が響き渡る。
「アベル様。ノエル様。遅かったですね」
ノエルがニコニコ笑いながら二人に駆け寄った。これにはこの場の全ての者が唖然とする。
「ノエル様」
「御機嫌ようマリオン様。そのドレスとてもお似合いです。私、見惚れちゃいました」
「あ、ありがとうございます」
こんな仕打ちを受けても笑っているノエルに、マリオンは困惑する。今回の件をアベルから言われたマリオンは、さすがに気乗りがしなかった。一国の王女とはいえまだ子供と言えるノエルに、こんな仕打ちをするのは心が痛んだのだ。だが実際にノエルが傷ついた様子はない。それどころか全く気にしてさえいないようだ。
「ノエル姫。これが俺の答えです」
アベルはノエルに固い声で話しかける。マリオンと共に生きる。その想いを態度で示したのだ。
「はい。アベル様はマリオン様を愛しているんですよね」
ノエルの言葉に場が騒然とする。フクシア王国の重臣たちの顔色が真っ青になった。
「その気持ちを大切にしてください。先日にも言いましたけど私は側室がいても気にしませんので」
こんな状況でもあの日と同じ笑顔で同じことを言うノエルに、アベルは苛立ちが生まれる。
「そうじゃない!俺は側室など持たない!生涯ただ一人の人を愛し、唯一の伴侶とすると誓ったんだ!!」
アベルの叫びが広間に響き渡った。重臣たちが息を飲む。さすがのノエルの顔からも笑顔が消えた。
「ノエル姫…」
アベルはノエルの顔を真っ直ぐに見つめ、覚悟を決めた声色で語りかけた。
「俺、フクシア王国国王・アベル=ベタンクールは、スターチス王国王女・ノエル=バルテレモン殿との此度の婚約をとりや……」
「アベル様!」
「!」
アベルの言葉を遮るようにノエルがアベルの胸に飛び込んだ。
「……ノエル姫」
アベルは小さなノエルの肩に手を添える。若いアベルから見ても子供である少女が縋りつくのを拒むのは心が痛んだ。それでも生涯マリオンだけを愛する心に嘘はつけない。アベルは心を鬼にして、ノエルの肩に置いた手に力を籠め、縋り付くノエルを放そうとした。
だが、アベルよりもノエルの行動の方が速かった。
アベルに縋り付いたノエルは、その体勢のまま、アベルの腹に拳を叩き込んだ。
「ぐはっ!?」
アベルはわけも分からないまま膝を崩す。ゼロ距離から放たれた拳は、目の前の少女から放たれたとは思えないほどの威力を持って、アベルにダメージを与えた。
「まぁ。大丈夫ですか?アベル様」
崩れ落ちそうになったアベルを何食わぬ顔でノエルが支える。アベルがノエルに覆いかぶさるような体制だ。誰よりも傍で見ていたマリオンは呆然と見ている事しかできなかった。
「…ごほっ。いったい何を…!?」
「アベル様」
苦しそうに咳き込むアベルの耳元でノエルが小さく囁きかける。
「寝言は寝て言いやがれ」
「………!!??」
地を這うような低い声で言われた言葉にアベルの思考は凍りつく。目の前の子供と思っていた少女を見ると、その黄金の瞳は冷たい光を宿してアベルを見ていた。表情は変わらない笑顔のままなのに、瞳の奥は笑っていない。
「まさか、ここまでただの若造だったとはね…」
ノエルはアベルとマリオンにだけ聞こえる声量で、小さく呟いた。夜会は音楽も止まり、静寂に包まれる。ノエルは大きなため息を吐き出した。
ずいぶん長い前置きとなってしまったが、ここからがこの物語の本番である。この物語は、突如国王になってしまった若き新王と下級貴族の娘の身分違いの恋……に、無情にも割り込む大国の王女、ノエル=バルテレモンの物語である。
次話から主人公のターンです。戦うお姫様、ノエルの無双が始まります。
……前置きなが!!