第二章 1945年9月
1
空は青い。
雲ひとつない青空だ。
ゆっくりと視線をおろしていくと、山の稜線がせり上がってくる。
そのまま顎を引いて、正面を向く。目に入ってくるのは、色のない世界だった。
マリアは戦場の痕を見ると、いつもそう感じる。
無論、何もないからそう見える、というのはある。
辺り一面、焼け野原だ。
立ち並んでいただろう家々も、今はない。
すべて、燃え尽きてしまったのだろう。
柱や梁、屋根だっただろう焼け残った木材が、真っ黒な木切れになって転がっている。
そうした燃え残りや砂利、そんなものしか目に付かない。
目の前に広がるのは、色の失われた世界だ。
灰色の世界。
ここに立っていると、まるで世界に一人取り残されたような感覚に陥る。
どれほどの長い年月の先にかわからないが、いつか自分の身にそれは現実となるかもしれない。
考えてから、笑えない冗談だと、マリアは唇をゆがめた。
じっとしていても探し物が見つかるわけでもない。
マリアは歩き出した。
フードをさらに引き下げる。
顔を見られたくなかった。
この国の人間ではないとわかってしまうから。
いらぬ刺激を彼らを彼らに与えたくなかった。
今の彼らは、西洋人に友好的にはなれないだろう。
敵意を向けてくるだけならいいが、その敵意で具体的な行動を起こされたら困る。
いらぬトラブルは避けたかった。
だからこんな人気のないところを、マリアは歩いているのだ。
探し人がいるというのに。
もちろんトラブルを避けるために、人気を避けているというのもあるが、マリアの勘が、尋ね人はここにいる、と告げてもいた。
マリアは自分の勘を信じている。
それにしたがって、尋ね人ーー彼女を見つけたことが、いくどとなくあるからだ。
それにしても人っ子一人いない。
そうした場所を選んでいるのだから当然といえたが、人影すら視界に入らない。
マリアは背後に気を配るべきだった。
人影なら、彼女の背後からそろそろと近づいていたからだ。
後ろからぶつかられて、マリアは始めて尾行者がいたことに気づいた。
そのときにはもう、尾行者はマリアの横をすりぬけて、走り去っていくところだった。
はっと気づき、慌ててコートのポケットを探る。
ない!
「待って!」
叫んで駆け出した。
スリ犯は背格好からして、少年のようだった。
足が速い。
ぜんぜん追いつけない。
幾度か「待って!待ちなさい!」と叫んだが、もちろんスリ犯が立ち止まるわけもない。
どんどんと引き離されていく。
財布を盗まれたのだ。
入っているのは日本の紙幣だ。しかも大金。
マリアは正規のルートで入国したわけではないので、財布の中身も正規のものではなかった。
つまり偽札。
スリ犯をなんとしても捕まえないと、面倒なことになるのは確実だ。
しかしスリ犯との距離は開いていくばかり。
焼け残った家々がぽつぽつと姿を見せ始めた。
屋根がなくなった吹きぬけになっていたり、倒れないのが不思議なほど傾いていたり、とても人の住めるような状態ではなかったが、確かにここに人が住んでいたーー人の生活を感じさせる形あるものばかりだった。
スリ犯は、そんな家と家の間にできる角を曲がっていく。
少し遅れて、マリアもその角を曲がった。
いない。
見失った。
立ち止まったままでいてもスリ犯が現れるわけでもないので、歩を進める。
子供の声が聞こえてくる。
内容までは聞き取れないが、声の調子から何かよいことがあったのだろうとわかる。
マリアはそろりそろりと、足を運ぶ。
この辺りには焼け残った家が多く残っている。
住宅街だったのだろうか。
家人はどうしたのだろう。
確かに住むに耐える様子でもないが、家を放置したままということは、戻る必要がないということだろうか。
しかしマリアにいまだ気づいていない子供たちの事情は、それとは正反対のようだった。
子供たちは、比較的被害の少ない、風雨を凌ぐには十分な、それでもやはり廃屋には違いないアル一軒に集まっていた。
女の子二人に男の子一人。
なにやら楽しげに言い合っている。
「おう、今けえったぞ」
「お帰りなさい。お疲れでしょう。お風呂にします?ご飯にします?それとも、あ・た・し?」
「あははは。なにそれ。そんな言葉、どこで覚えたの?」
「内緒だよう」
「エー、教えてよう。あたしも言ってみたいからあ」
「言ってみたいのか」
「ええい、それどころではないわあ。これが目に入らんかあ」
「そ、それはあ」
「すごおい、お財布だあ」
「お仕事成功したんだね。さすが」
「本当、頼りになるう」
「でへへ」
「で、どれくらいあるの?」
「見して見してえ」
「だめだめ。まずは俺が確かめるの」
「じゃあ、早く確かめて」
「おう。わかってらあ」
誇らしげに腕を掲げて、握った財布を天に向けていた少年は、財布の中身を確かめようと腕を下ろそうとした。
腕が下がらない。
まるで財布がない手足を空中につっぱって抵抗しているみたいに。
首を後ろにたれて上を向く。
フードを目深にかぶった人影が覗き込んでいた。
その手はしっかりと財布をつかんでいる。
フードに隠されてその顔はよく見えないが、唇の赤さが少年の目に飛び込んでくる。
赤い唇が動く。
「人のものを盗んでおいて、ヒーロー気取りなんて感心しないね。これは返してもらうから」
非難されているというのに、その声があまりにも耳に心地よくて、少年はうっとりしてしまう。
財布を奪い返されたことに、数秒経ってからはっと気づく。
ついでに自身の失態にも気づく。
撒いた、と思ったのは早計だった。
「馬鹿。タケル、馬鹿」
「なにやってんだよう」
返す言葉もない。
うううううううう。
悔しさにうなるだけである。
そしていまだ万歳したままだった腕を、悔し紛れに振り回した。
「あ」
思いもかけず、それが後ろに立つ何者かのフードを跳ね上げることになってしまった。
その素顔が白日の下にさらされる。
仲間たちの息をのむ気配がある。
タケル少年は振り返った。
すさまじい美女がそこにいた。
息をするのも忘れて、自分に見入る少年を、マリアもまた見つめ返した。
誰にも顔を見られたくなかった。
だからフードを目深にかぶっていたわけだし。
しかし白日の下にさらされたからには、隠すつもりもなかった。
「なにを見てるのかしら」
なんだか楽しくなってくる。
うきうきしてくる。
フードを跳ね上げられ、文字通り視界が開けたからだろうか。
自身のことなのに、これは予想外だ。
やはり窮屈を感じていたということかもしれない。
正体を隠していなければならなかったさっきまでの現状に。
ぽかんと口を開けたままの少年。
からかいたくなる。
「ほら、どうしたの。何か言いなさいよ。少年」
見開かれた少年の目が、きらきらと輝いてくる。
「すっっげえぇぇぇ!!!」
叫んだ。
不意をつかれて耳をふさぐ間もなかった。
マリアの耳には少年の大音声がこだましている。
残響がいつまでも消えない。
「外人だああああああ!!!!」
タケルが第二波を放つ。
きんきんと響いて頭に痛いほどだ。
思わず頭を抑えるマリアに、女の子たちがかわるがわるに問いかけてきた。
彼女たちの声もきゃいきゃいとうるさい。