第一章 1349年5月
1
黒死病。
ブラックデス。
ペスト。
あるいはウイルス性出血熱。
中世ヨーロッパに吹き荒れた死の風。
国。
町。
村。
どんな場所に住んでいようと、その悪魔の息吹からは逃れられない。
小さなこの村も、無論例外ではない。
住まうものが、ただその日を懸命に生きる善良な人々だからとて、神の加護はない。
死の息吹はその上を通り過ぎる。
悪魔は差別はしない。
悪魔は、なんびとにも平等である。
*
ある日突然、その美しい娘は現れた。
村には不釣合いな、美しい娘だった。
顔を縁取るのは、輝くばかりの黄金色の髪。
瞳は、澄み渡る空のような青。
磨き上げた陶器のように肌は白く、唇は熟したさくらんぼのように赤い。
だが着ているものは、村の娘たちと同じように、飾り気のないものだった。
娘の美しい容姿は、村の人間たちには、不吉なものとしか映らなかった。
彼らにとって、その美貌は人間のものとは映らなかったのだ。
こんな美しい人間は見たことがない。
いや――。
こんな美しい『生き物』は見たことがない。
その外見にたがわず、優雅な足取りで歩く娘を、すれ違う村人たちは皆、好奇と警戒のまなざしで見送っている。
娘のほうには、彼らを気にしている様子は、まったくなかった。
やがて一人の男が近づいてきた。
その顔に、警戒の色を隠そうともしない。
しかし好奇心も隠せないようだった。
男は、この村の長だと名乗った。
あんたには見覚えがない。
あんたのような美しい娘なら見忘れるはずもないのだが。
あんたはこの村の人間ではないのだろう。
何をしに来たのかね。
この村に知り合いでもいるのかい。
ええ。
と、娘はうなづいた。
古い友人が。
それは誰だね、名前を聞こう。
村長の問いに娘は答える。
今の名前はわかりません。
村長は首をひねる。
そのころには、村人たちが距離を開けて、二人を取り囲んでいた。
聞き耳を立てている。
娘は村長から視線を外すと、自分を珍獣のごとく見つめる村人たちに目をやった。
目が合う前に、慌てて村人たちは目を逸らした。
一人だけ、顔を上げている少女がいた。
彼女です。
娘が少女を指差して言った。
村長は振り駆る。
不思議そうに見返してくる少女。
彼女だけが、視線を逸らさず、顔を上げている。
大人も子供も、ほかの村人たちは、まるで何者かにそうしろと命じられているように、顔を伏せているのに。
村長は手招きし、少女を呼んだ。
この娘がお前の知り合いだというが、知っているか。
少女は首を左右に振った。
知らない。
村長は娘に向き直る。
話が食い違っているな、お前の勘違いではないのか。
娘は少女をじっと見つめる。
そう。
踵を返し、元来た道を戻っていく。
何事もなかったように、村長はその場を去る。
村人たちも三々五々散っていく。
少女だけがただ一人、娘の去っていく後姿を、不思議そうに見送っていた。
数日後、村長の下にある報告がもたらされた。
例の娘が、村はずれの森で生活しているようだというのだ。
それを伝え聞いた少女は、じっとしてはいられなかった。
大人たちの制止を振り切り、森へ向かう。
森の中で、少女は、急場しのぎのみすぼらしい小屋らしきものを発見した。
小屋の中から、あの娘が出てきた。
少女を見つけ、驚いた顔をする。
アルパ。
と言った。
その言葉が何を意味するのか、少女にはわからなかった。
来てくれたのね。
続けてそう言って、娘は笑った。
少女の胸が高鳴った。
その笑顔――こんなに美しいものは見たことがなかった。
そして、なぜか懐かしい気持ちになる。
いつかどこかで、この笑顔を見たことがあるような気がする……。
気づいたとき、少女は娘の手を握っていた。
行こう?
娘の手を引き、促していた。
少女に先導され、娘は村へと再びやってきた。
無事帰ってきた、しかし娘の手を引いている少女を、村の大人たちはあきれがおで出迎えた。
少女は村長の元に行き、頭を下げた。
ごめんなさい村長さん、やっぱりこの人、私の友達です。
すっかり忘れていたけど、思い出したんです。
そうか。
村長はただ頷くだけ。
思い出してくれたの!
激しく反応したのは娘だった。
娘の大きな声に、みな、驚いた顔を向ける。
少女も目を丸くして、娘を見た。
先の言葉はもちろん嘘だ。
でもそうでも言わないと、娘がまた追い出されると思ったのだ。
彼女と離れたくない。
そのための方便だった。
しかし彼女の反応を見ていると、確かに自分はいつかどこかで彼女と会っていて、それを忘れているだけなのかもしれない、と思えてくる。
少女は、母親と二人暮らしだった。
父親は小さなころに亡くしたらしい。
娘はこの家に厄介になることになった。
文字通りの厄介者を、母親は歓迎しなかった。
邪険に扱う。
娘には気にしたふうもなかった。
彼女は、ただ少女と一緒にいられれば幸せだったのだ。
娘の名前は、マリアと言った。
死の風が、しずかにゆっくりと、吹き込み始めていた。
一日共に暮らしていれば、先日の少女の言葉は、すぐに真っ赤な嘘と知れる。
そうとわかってから、マリアはことあるごとに、少女に、
もう思い出してくれた?
とたずね、少女を困らせていた。
一月が経った。
マリアはよく働いた。
少女に母親から言いつけられるどんな仕事も、いやな顔ひとつせず引き受けた。
そしてきちんとこなす。
愛想もよい。
最初、村のみなが彼女に抱いていた硬質な印象は、すっかり拭い去られていた。
一月も経てば、もう誰も彼女を警戒していない。
もともと器量のよい娘だ。
マリアはすっかり、村になじんでいた。
最初に死者が出たのは、さらに一週間が経ってからだった。
その三日前に高熱を出し、床に臥したまま、帰らぬ人となったのだ。
遺体は、全身がむくんで、黒ずんでいた。
亡骸は、村はずれの墓地に埋葬された。
その日を境に、次から次へと、村人たちは倒れていった。
高熱を出す。
全身がひどくむくむ。
頻繁に吐血し、痣のように黒い斑紋が浮き上がる。
みな、症状は同じだった。
初めのころは、無事なものが床に臥したものを看病していたが、後になると、それも無理になった。
なぜなら、病から回復するものはなく、無事なものも、順番に倒れていったからだ。
そんな中、マリアだけは一人無事で、だから病人の看病をするのは、彼女ひとりだけとなった。
村人の半数が床に臥したとき、マリアのことを『魔女』と罵るものが現れた。
お前は魔女だ。
お前が病を運んできたんだろう。
マリアはもちろん否定した。
そのたびに彼女を罵る声は増えていった。
しかし今はそんな彼らも床に臥し、マリアの看病を受けている。
それでもマリアを蔑む声は消えなかった。
魔女め、悪魔め、お前が村の仲間たちを殺したんだ。
マリアはもう何も答えず、看病を続ける。
そんな中でも、救いはあった。
マリアに感謝してくれる人もいたからだ。
みんながあんたを悪魔というが、私には天使に見えるよ。
こうやって懸命に皆を看病してくれるあんたは、きっと神の使いだ。
あんたがどう思おうとね。
ありがとう、きれいな天使様……。
やがて、彼女を蔑むものも、称えるものも、いなくなった。
みんな、死んでしまった。
もう、墓地に遺体を埋める場所は無くなっていた。
しかし亡骸を捨て置くことなどできない。
マリアは、遺体をひとつの場所に集めた。
日が経っているものは、強い腐臭を放ち、鼠に齧られ、蝿がたかり、酷いものは蛆がわいていた。
それでもマリアはすべての遺体を運び、ひとつ場所に横たえる。
それから、火を放った。
青白い燐光に包まれ、やがて赤く燃え上がった。
踵を返し、彼女は二ヶ月近くを過ごした家に戻っていった。
扉を開けると、死の気配が濃厚に漂ってきた。
苦しげで不規則な呼吸音。
ベッドに横たわる少女から発せられているものだった。
やはり全身がむくんでいる。
黒い斑紋も浮いている。
寝台の傍らの椅子に腰掛けた。
少女をそっと見下ろす。
マリアのように美しくはなくとも、それでも可愛らしかった姿は、見る影もない。
終わり。
命の終わり。
死……。
日没まで持つだろうか。
それとも、今この瞬間にも……。
マリアは、少女のむくんだ黒ずんだ顔を、見つめる。
苦しげに息をするたび、彼女の命は削り取られていく。
そろそろと、マリアの腕が伸びる。
少女の喉元に、ぴったりと手のひらが押し当てられる。
マリアの瞳には、その手が映っている。
押し当てた手のひらと指で、少女の首を絞めようとしている手。
彼女の体温を、感じている手。
時が止まったように、マリアの体は動かない。
視線を感じた。
ゆっくりと、顔を上げた。
少女と目が合った。
いつの間にか、少女は目を開けていた。
今、私はどんな顔をしているだろう。
どうか、夢の中の出来事と思っていてほしい。
少女の唇が、かすかに動いた。
声にはならなかったが、その言葉を、マリアは確かに聴いた気がした。
そのまま少女の唇は微笑みの形をとり、止まった。
しばらくして――。
マリアはのろのろと、手をどかした。
少女の苦しみを終わらせる――。
その必要は、もう無くなったから。
月のない夜の中で、炎がごうごうと音を立てて、燃え上がっている。
二ヶ月近くを暮らした家。
マリアにとって、それは一瞬にも似た時間だったが、大切な時間だった。
だが、それも終わり。
明日から、また一人で生きていかなくてはならない。
――生きていく。