04.公爵令嬢ディアナの覚醒
〈公爵令嬢ディアナ視点〉
時は遡り、あの春の庭で行われた婚約の顔合わせの二年前――。
テトラ公爵家の令嬢ディアナが前世を思い出したのは、八歳の誕生日の翌朝だった。
「ディアナ、あらためて誕生日おめでとう」
「お父さま、ありがとうございます」
「昨日はパーティーで一日中忙しかったでしょう? あの後はゆっくり休めたかしら」
「はい、お母さま。おかげさまで、よく眠れました」
公爵家では、食後に家族でお茶を嗜むのが習慣だ。
外交で近隣諸国を飛び回る父と、領地運営を担う母。多忙な両親ゆえに、夕食に家族が揃うことは稀なため、朝食後のこの僅かな時間が、我が家にとってはかけがえのない団らんのひとときとなっている。
本来であれば、三つ上の兄オーガストもここにいるはずだが、今朝の兄は珍しく寝坊していた。隣国に留学中の身ながら、昨日の私の誕生日のためにと急遽帰国してくれたのだ。さすがに疲れが溜まっているのかもしれない。
老執事が、流れるような動作でティーカップに紅茶を注ぐ。私の好きなピーチティーの甘い香りが、暖炉の火で暖められた部屋の中いっぱいに広がった。
ティーカップに手を伸ばそうとしたその瞬間、父が珍しくあらたまった声で私の名前を呼んだ。
「ディアナ、大事な話がある」
私は反射的に背筋をピンと伸ばした。
「はい、何でしょうか、お父さま」
居ずまいを正した私を見て、父は満足そうに目を細めた。
しかし、その声にはどことなく緊張が混じっている。
「我が国の第二王子アレクシス様と、お前の婚約が決まった」
その言葉を聞いた瞬間、自分が日本の女子高校生だったときの記憶が濁流のように流れ込んできた。
――そうだ。
私はいつも通り塾の帰りに、薄暗い夜道をスマホで小説を読みながら歩いていた。
読んでいた物語はちょうど終盤。これまでの展開をひっくり返し、主役の令嬢が婚約者の王子を断罪しようと立ち上がる、まさに最高潮の場面。
物語に没頭しすぎていたせいで、迫りくる車に気づかなかったのだ。
視界を覆い尽くした真っ白な光。耳を切り裂くような急ブレーキの音。
そこから後の記憶がぷっつりと途切れている。
通学時間に息抜きとして楽しんでいたのは、いわゆる『異世界転生モノ』のライトノベルだった。
私が読んでいたものは多くが悪役令嬢が出てくる物語で、彼女たちが自分の運命に抗って奮闘して幸せを掴む、ある意味でお決まりの展開が、いつも気分をスッキリさせてくれた。
でもまさかよりによって、それを読んでいる最中に事故に遭うなんて!
次々と情報が波のように押し寄せ、視界がぐにゃりと歪み、激しいめまいに襲われる。
私は震える手でゆっくりとカップを手に取り、紅茶を一口含んだ。慣れ親しんだピーチティーの味が、わずかに私の冷静さを取り戻させてくれる。
(そして、今の私は公爵令嬢……)
ディアナ・テトラ。アクアリム王国の由緒正しい公爵家の長女。
昨夜の誕生パーティーでは、細やかな刺繍が施された真っ白なドレスを着て、まるで雪の精霊のようだと来賓の方々から惜しみない称賛を浴びていた。
正面に座る父は銀髪碧眼。その隣の母は茶髪に明るい緑色の目をしており、鏡を覗き込むまでもなく、私との血の繋がりがよくわかる。
前世で読んできた小説の中には、不遇な環境から始まる物語もあったけれど、幸いなことに、この世界の家族仲は良好なようだ。
母は優雅に微笑みながら紅茶を飲み、父は少し緊張した面持ちで私の反応を窺っている。
「アレクシス殿下は、ディアナと同じ八歳だ。武術にも勉学にも意欲的だという。真面目なディアナと……良い関係を築けるのではないかと思っている」
父から続けられた言葉に、「あれ?」と我に返る。
(ちょっと待って……これ、テンプレで見た『悪役令嬢』の導入部そのものじゃない⁉)
カチャン――。
静かな室内には不釣り合いな硬い音が響いた。
無意識に手が震え、持っていたカップをソーサーに落としてしまったのだ。
娘の珍しい失態に、両親だけでなく、背後に控えていた老執事までもが驚きに目を見開いている。
「ディアナ?」
「私は、第二王子殿下と婚約する……ということですか?」
問いかける声が、わずかに震えてしまう。
「ああ。十歳の春から王宮に通い、王族教育を受けることになる」
「そ、それは……クーリングオフ、じゃなくて、白紙に戻すことなどは……」
悪役令嬢ディアナが出てくる物語はすぐには思い出せない。
けれど、ここが異世界転生小説の世界だとしたら、公爵令嬢と第二王子の婚約なんて不穏なフラグでしかない。
大抵の場合、第二王子は性格に難ありの野心家で断罪対象筆頭。それなのに婚約者の令嬢は健気に彼を慕い続けた挙げ句、最後には悪役令嬢として断罪されてしまう……というのが定番のパターンだ。
私が好んで読んでいた小説は、そうならないように悪役令嬢が奮闘して運命を変えていくものばかりだったけれど――。
(とにかく、これはまずい!)
焦りのあまり口走った言葉に、その場の空気が凍りついた。
父は「くーりんぐ……?」と引き攣った笑顔のまま固まり、母は手に持っていたスプーンをカランと床に落とした。
公爵家の小食堂に、かつてない気まずい沈黙が流れる。
ディアナが両親の決定に、しかも本来であれば喜ばしいはずの報せに異を唱えるなど、誰が想像できただろうか。
すると、おもむろに母が立ち上がり、空いていた私の隣の席に腰かけた。
膝の上で震える私の手に、そっと自らの手を重ねて優しくなでる。
「ディアナ、あなたは素直で素敵なレディよ」
「お母さま……」
「突然のことで戸惑う気持ちもわかります。けれど、これは国内貴族の力関係も考慮して結ばれた、大事な約束なのです」
前世の記憶は蘇ったが、今の私にとっての「母」はこの人なのだ。しっかりと目を合わせて語りかける姿に、その愛情を実感した。
「顔合わせまで時間はありますから、ゆっくり気持ちを整理して。もし自信がないのなら、一緒に勉強しましょう、ね?」
これはどうやら、覆せるものではないらしい――。
その事実だけを理解し、私は空っぽになったカップを見つめながら、小さく頷くほかなかった。
乙女ゲーム? 悪役令嬢?
記憶を取り戻したディアナが導き出した結論は――「詰み(断罪)回避」!
次回、「目標は円満な婚約破棄!」




