10.第二王子アレクシスの成長(2)
〈第二王子アレクシス視点〉
さらに時は経ち、俺は十五歳になろうとしていた。
「殿下、集中してください!」
「してますっ……!」
リース・リドラスは、剣を握ると別人のように動きが変わる。普段のどこか抜けた様子が嘘のように、研ぎ澄まされた剣筋は容赦なく俺を追い詰めた。
今日も終始防戦一方の俺は、荒れた息を整えることさえままならなかった。
「――ふぅ、ここまでにしましょうか」
彼女がパッと剣を引くと、張り詰めていた空気が瞬時に霧散する。俺は膝に手をつき、肺が焼けるような熱い呼気を吐き出す。
「あの、リース姉上」
リースとレイモンド兄上の婚約は、建前上はまだ暫定だが、事実上の決定事項だという。だから俺は、未来の王妃に内定している彼女を姉上と呼んでいる。
そう呼ぶようになってから、稽古の場や二人きりの折には、彼女も俺を義弟として扱い、以前のような他人行儀なよそよそしさが消え、本当の家族に近い距離感で接してくれるようになった。
「どうしましたか?」
彼女は首筋の汗を拭いながら、おっとりと首を傾げた。先ほどまでの鋭い剣士の面影はどこにもない。
「本当は兄上がここに来るはずだったのに、俺が来たせいで……すまない」
本来なら、ここには兄上が来るはずだった。
この地で過ごし、彼女と絆を深めるはずだった時間を、俺が奪ってしまったんだ。
「来年には学園でお会いすることになりますし、……アレクシス殿下が気に病むようなことではありませんわ」
姉上は、この地の荒々しい男たちの中でも誰より潔く、さっぱりとした気性だ。
彼女に限らず、辺境の人々は王族に対してもどこか遠慮がなく、気風のいい人間が多かった。かつての俺なら眉をひそめていたかもしれないが、今の俺にはその距離感がどうしようもなく居心地がいい。
「次の春には、姉上も王都に行くんですね」
笛が鳴るような音を立てて、北風が二人の間を通り抜ける。辺境に来てから五年目の冬が、すぐそこまで迫っていた。
彼女の一つに結ばれた黒髪が、肩のあたりでぴょんと跳ねる。
貴族の令嬢にとって長く手入れされた髪は美徳であり、当然の嗜みでもあるが、リースは隙あらば短く切ってしまう。これでも来春の学園入学に備えてやっと伸ばし始めて、ようやくこの長さにまで達したのだ。
リースの学園入学と同時に、俺も王宮へ戻ることが決まっている。そしてその翌年には、俺も学園に入ることになるだろう。
「殿下も……同じタイミングで王都へ戻られるのですよね?」
その問いに俺への心配が含まれていることは、これまでの付き合いで分かった。
彼女が、俺が王都から追放された経緯をどこまで知っているかは定かではない。だが、五年前、初めて辺境の門をくぐって以来、一度も「帰りたい」と口にしなかった俺を見て、何かを察してくれていたのだろう。
「俺は……もう大丈夫です」
視線を落とした先にあるのは、もうあの頃の白く繊細な手ではない。レオン辺境伯やリース姉上によって鍛え上げられた、荒々しくも頼もしい、無骨な手のひらだ。
かつての俺は、王都で兄上と自分を比べ、いかに自分が凡人であるかに打ちひしがれていた。
けれど、今は違う。
兄上が非凡なのであって、俺は俺にできる限りの努力を積み上げていけばいいのだ。
そもそも、俺は第二王子。王座を継ぐ予定もないのだから、一人の臣下として、民のためにできることを精一杯全うすればいい。いつの間にか、自然とそう思えるようになっていた。
素晴らしい婚約者との縁もいただいた。王都に戻ったら、彼女に認めてもらえるよう精進を重ねて……。自分一人で完璧を目指すのではなく、彼女や他の貴族たちと力を合わせ、兄上を支えることこそが俺の責務だ。
誠意を持って向き合っていれば、周囲の人々は温かく受け入れてくれる。一人で「自分だけが選ばれた特別な存在だ」と驕り高ぶっていた頃よりも、今の自分をずっと好ましく、誇らしく感じている。
そして、きっとあんなに聡明で完璧だった彼女なら、俺のこの変化もきっと好意的に受け止めてくれるはずだ。
(待っていてくれ、ディアナ嬢。今の俺なら、君の隣に立つ資格が少しは持てているはずだ)
彼女の冷ややかな瞳を思い出す。それさえ今の俺なら、あの視線すら「気高さゆえの厳格さ」だったのだと前向きに捉えられた。
「……王族として模範であらねばという重圧はありますが、民のためにやるべきことを成すのが貴族ですから」
「……できるようになるまで努力し続けられるのも、一種の才能だと思いますよ」
そういうと、姉上は何かを思い出すように、剣を握る豆だらけになった掌を見つめた。
姉上は剣の達人だが、ある時期、どうしても埋められない「男との力の差」に直面した。軽やかな身のこなしと彼女の洗練された剣技で、大抵の相手は圧倒できるが、それでもときに強引な力技でねじ伏せられ、抗えないことがあったのだ。
姉上は一時期、その現実が受け入れられず、掌の豆が潰れて血に染まっても剣を振り続けたという。
「私の戦う場所は、ここだけじゃないから」
――そう笑って認められたのは、彼女にとって大きな変化だった。
「アレクシス殿下」
「姉上?」
「私は、いえ、私だけではなくリドラス辺境伯家のみなが、アレクシス殿下と共に過ごした期間を光栄に思っております」
急に低い声であらたまった口調に変わった姉上に、俺は驚いて居ずまいを正す。
そして、姉上は突然臣下の礼をとった。
おろおろとする俺に構わず、姉上は静かに頭を下げて告げる。
「殿下。この辺境の地は、王国の守護という点で非常に重要な責務を任されながらも、王都と遠いがゆえにお互いの声が届きにくい地です」
「……ああ、そうだな」
「我々はこの地に住む領民のためはもちろんですが、さらには愛する母国のために日々作物を育て、身体を鍛えています。ですが……リドラスの騎士や領民たちが王都に行けば、田舎者扱いで軽んじられることも珍しくありません」
「……そうなのか」
確かにこの地の者は王都のマナーや流行には疎いところがある。
それは土地の性質も含めて致し方ないことだと今の俺は理解していたが、王都の者がそれもわからずに髪の色や小麦色に焼けた肌で彼らを差別するのは少し想像もできてしまった。
「それでも、我が国のためにこの身を捧げる覚悟に偽りはありません。ですが……アレクシス殿下にお会いして、皆、自分たちがどのような方にお仕えしているのかを肌で感じ、誇りに思えたのです」
「俺、のような……?」
「アレクシス殿下は私たちを馬鹿にするところか、共に農作業をして、共に訓練で汗を流してくださった。そして、誰よりも努力をして自分を鍛え上げ、民を知り、自分ができることを考えてくださる」
「……そんな大層なものじゃない。王族に生まれたのに、俺は才能がないから、できるようになるのに時間がかかってしまっているだけで……っ」
「……私たちが王に求めるのは、能力の高さだけではありません。あなたは、まだ幼いながら、私たちがお仕えしたいと願う王族の姿そのものでした」
「……そう、なのか……そうか」
その言葉を聞いても、俺はもう、兄上に代わって自分が王になりたいとは思わなかった。
ただ、世話になってばかりだった辺境伯の人々がそんな思いでいたことを知って、憑き物が落ちたような解放感と共に、目の奥が熱くなった。
こみ上げる感情や気恥ずかしさを誤魔化すように、俺たちは暫く言葉を交わさぬまま、リドラス領の荒々しい山々を眺めていた。山頂は、いつの間にか淡い雪の白を帯び始めている。
肌を刺すような冷たい北風が頬を撫で、カラカラと枯れ葉が舞い上がるのを目で追いかける。この乾いた風の冷たさすら、今の俺には心地よく感じられた。
「……そろそろ厳しい冬がきますね」
「……俺が捌いた燻製肉でも食べながら、またトランプで遊ぶ季節ですね」
おどけた俺に、姉上は「あはは!」と声を弾ませて笑いながら、跳ねるように立ち上がった。
「そうですね。では、本格的に寒くなる前にもう少し体を叩き直しておきましょうか。ほら、構え!」
姉上は再びらんらんとした瞳で剣を構える。
その切っ先には、先ほどまでの感傷など微塵も残っていなかった。
辺境の地で、ついに「実直で立派な王子」へと覚醒したアレクシス。
だがその頃、王都の婚約者は――。
届かぬ想い、積み上がる誤解。令嬢は「真の正解」を選び取る?
次回、「その頃の王都」。




