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第九章 グリースアイス


 穏やかな藻川での生活にも、ごくたまに波風が立つ。

 それは、日差しがやわらかく差し込む、温かな午後のこと。

 コンビニの帰り道、三人組の男子高校生が前から歩いてきた。揃いの紺のダッフルコートが並ぶなか、狭い歩道を肩を引いてすり抜ける。

「永原さんも、さっさと結婚しちゃえば良かったのに」

「うちの母さんは、結婚しなくて良かったって言ってたぜ」

 思わず振り返り、何かを言いかけて——けれど、口をつぐんだ。反応しても徒労だと、すぐに思い直した。素知らぬ顔で歩き出そうとした、そのとき。

 黙っていたひとりが、ふいにこちらを振り向いた。視線が交差し、すっとした目元がわずかに見開かれる。

 一瞬の戸惑い。その高校生は、友人に「陽向」と呼ばれると、何事もなかったように視線を戻した。


 映画館の前で雪かきをしていると、ふと視線を感じて顔を上げた。通りの向こうで、ひとりの高校生がじっとこちらを見ていた。それも、ここ数日で何度目かになる。不思議と気になって仕方がない。

 どこかで見た顔だ。そう思った瞬間、記憶が結びついた。あの日、コンビニの帰りにすれ違った三人組。その中で、ただひとり、振り向いてきた高校生だった。

 なぜ、ただ眺めているだけなのか。思い切って声をかけた。

「映画、観ていかないのか?」

 高校生は目を見開き、一言も発さず、小走りでその場を去っていった。

 驚かせてしまったかと少し反省していると、館内から永原が顔を出した。

「誰、今の?」

「いや……こっち見てた高校生がいたから、声をかけてみたんだけど。驚かせたみたいで」

 特に怪しいことはしていないというつもりで言い添えると、永原は遠ざかる背中に目を向けながら目を細めた。

「ああ、陽向くんか」

 小さく頷いたあと、永原は続けた。

「前はよく来てくれてたんだけど……最近は忙しいのかもしれないな」

 俺は、心の中で首を傾げた。どうにも腑に落ちなかった。

 劇場の前までは来るのに、映画は観ていかない。たぶん、時間がないわけじゃない。それでも扉をくぐらないのは、きっと何か、彼なりの理由があるのだろう。


 その出来事をすっかり忘れかけていたある日。ふたつ目の看板が外に飾られているのを眺めていると、背後から乱暴な声が飛んできた。

「おい」

 何事かと思って振り返ると、すぐそばに陽向が立っていた。

「あんた、ここでバイトしてんの?」

「お世話にはなってるけど、バイトはしてない」

「……永原さんと知り合いなの?」

「そんなところ」

 陽向は黙ったまま、じっと俺を見つめていた。不満げな表情が何かを言いたげに揺れている。戸惑いつつも、前から気になっていたことを口にした。

「気になってたんだけど、陽向って映画観ないの?」

 陽向の目がわずかに見開かれ、警戒の色が浮かんだ。

「なんで名前、知ってんの?」

「友達に呼ばれてたろ」

 陽向は肩をすくめて、少し顔をしかめた。

「え、それだけで覚えてるとか……不審者かよ」

 言葉の端が刺さる。ただ名前を呼んだだけだったのに、それが彼には許されない距離だったのだろう。何かを言い返そうとしたが、その前に陽向は駆け足で去っていった。

 ほんの少し前まで、俺もあっち側だったのに。いまはもう、警戒される側にいるのか。


 また別の日。散歩の帰り道、背中に冷たい衝撃が走った。直ぐに分かった。雪玉だ。振り返ると、そこには陽向が立っていた。

 あのときのあの警戒ぶりを見れば、しばらくは顔を見ないだろうと思っていた。けれど、あっけなく現れた。

「……なに?」

 拍子抜けしてつい呆れたように声をかけると、陽向は顔をしかめる。

 サボテンみたいなやつだ。触れれば棘を立てて、手を刺してくる。だから、俺も身構えた。

「永原さん、最近どう?」

 思いがけない問いに、「どうって……?」と間の抜けた返しをすると、陽向はそわそわと視線を彷徨わせた。

「元気とか、そうじゃないとか。何か、あるんじゃない?」

「元気は……ないんじゃない?」

 そう答えると、陽向の瞳に一瞬、驚いたような色が浮かんだ。その反応に、少しだけ苛立ちを覚えた。

「……理由くらい、わかるだろ」

 言ってから、自分の語気の強さに、はっとする。陽向は、小さく首を垂れた。

 きつく言いすぎたのかもしれない。けれど――あんな話を、人通りのある場所で始めたのは、あいつらのほうだ。

「俺は……あんなこと、思ってない」

「じゃあ、何?」

 言い淀みながらも、陽向はしばらく黙り込んだあと、ぽつりと口を開いた。

「ていうかさ、……永原さんのこと知ってるんでしょ? なのに、なんであんなふうに普通でいられるの? 周りの人、みんな気を遣ってる。永原さんも、それ、たぶんわかってると思う。なんか、ぎこちないっていうか……。でも、あんたは全然、そういう感じじゃなくて。遠慮してないっていうか。……だから、ちょっと気になった」

 そんなふうに見えるのか――心の表面に、ぬるい水を垂らされたような感覚が広がる。

 はっきりとは分からない、居心地の悪さだけが残った。

「あんたも怒ったんだろ。俺たちの会話を聞いてさ。なんで、あのとき何も言わなかったんだよ」

「むかついたよ。でも……あのふたりの言葉を完全には否定できなかった」

 もしかしたら陽向は、俺が黙っていた理由――あの言葉に反発しきれなかった気持ちにまで、踏み込んできたのかもしれない。

 陽向は、鼻先をほんのり赤く染めていた。それが感情のせいなのかは、見ただけでは測れない。

 俺は言葉を探し、静かに提案する。

「寒いしさ、中で話そう。部屋、借りてんだ」

 風が吹き抜けるたび、頬が突っ張る。このまま外に立ち尽くすには、あまりにも冷えすぎていた。

 陽向がそっと頷いたその瞬間、俺はようやく息をついた。


 部屋に入ると、陽向はいきなり「埃っぽい」と文句を言い、俺が窓を少し開ければ「寒い」と返してきた。まったく、生意気なやつだ。空いていた椅子を指すと、陽向は軽く叩いてから腰を下ろした。

「その絵、あんたが描いたの?」

 陽向が指さしたのは、気分転換に描いていた風景画だった。看板と関係ない絵だったから、俺はちょっと気まずくて頭をかく。

「……基将。俺の名前。あんた、じゃなくてさ」

 なんとなく話題をずらしたくて口にした。

 反応はもっと刺々しいものになると思っていたが、陽向はぽかんと目を丸くした。

 返ってきたのは、拍子抜けするほどあっけない反応だった。

「あんたがモトくんか」

 胸の奥に、わずかに波立つものがあった。

 藻川でその呼び方をするのは、あの人しかいない。

「百合さんが、よくあんたの話をしてたよ」

 窓から吹き込んだ風が頬をかすめた。

 そっと窓を閉めて、ストーブに火をつける。

 埃と油が混じった匂いが、ゆっくりと部屋に広がっていった。

「絵が上手な子がいるって。小さい頃からの付き合いで……かわいいって言ってたけど。百合さん、フィルター強すぎ」

「……そのあと、何か言ってた?」――返事を出さない俺に、ガッカリしていたとか。

 陽向の目には、「それを聞いてどうするの」とでも言いたげな冷たさがあり、こっちの不安なんて、とうに見透かされている気がした。

「他の絵はないの?」

 この話題に食い下がるのは野暮だと思い、テーブルに置いていた数冊のスケッチを渡す。

 陽向はページをめくりながら、「おー」とか「上手いじゃん」とか、いかにもテキトーな感想を繰り返していた。その調子に、俺は少し呆れる。

「なあ、大学って行く意味あんの? 自由で、楽しくて、勉強はそこそこでいい……それって、そんなに魅力的?」

 一度は考えたことがあるような問いだった。けど、どうしていま、それを俺にぶつけてくるのか――妙に引っかかった。

「従弟の兄ちゃんさ、バイトばっかで講義サボってるって。叔母さんがぼやいてた」

 俺は、テーブル越しに陽向と目を合わせ、そのまま近くの椅子に腰を下ろした。

 けれど陽向は、スケッチに視線を落としたままだった。

「……まあ、自由な時間はそれなりにあるし、勉強したきゃすればいい。大学で何かを得るか、何も得ずに卒業するかなんて、結局は自分次第だよ」

 言いながら、ぼんやりと学校での暮らしを思い出していた。大学には、本当にいろんな奴がいた。そこで何を大事にするかは、自分で決めるものだった。

「あんたは大学に行って良かった? 絵を選んで良かった?」

「良かったよ」

 俺がすかさず返すと、陽向は片眉を上げ、つまらなさそうに目を細めた。行かなくてもいい、と言ってほしかったのだろうか。

「でもさ、絵って、いくつになっても描けるじゃん。絵の学校に行ったからって、みんなが賞をもらえるわけじゃないでしょ? 無難に描いて、評価されて……それって、本当に意味あるの?」

 そのありきたりな言い方が、なぜかおかしくて、つい笑ってしまった。

 陽向は眉をひそめ、「なに?」とでも言いたげに顔を向けてくる。ようやく目が合った。

「答えられないなら、別にいいよ。それが答えってことでしょ」

 これは誰かの影響なのか、それとも、ただのひねくれ者なのか。拗ねたような声音に、思わず苦笑する。

「大学に行く意味、だったっけ? まあ、目的があれば意味はあるだろ」

「じゃあ、その説明をしてみてよ」

 今さらながら、部屋に上げたことを後悔し始めた。まったく、面倒くさい奴を招き入れてしまったもんだ……。

「そうだなあ……じゃあ、まずは評価について話してみるか」

 否定してほしいような口ぶりなのに、瞳の奥にある期待は隠しきれていなかった。こいつの環境については、知るはずもない。けれど、考えは柔軟に持つべきだと思う。

「それなりの成績が欲しいだけなら、課題をこなせば十分だよ。でも、本当に描きたいものがあるなら、その先に行かなきゃいけない。ただの花丸じゃ足りないし、もらうなら花束がいいだろ。もちろん、評価をつけるのは先生だ。でもさ、最後によくやったって言えるかどうかは、自分にしかわからないんだよ」

 気づけば、思ってた以上にすらすらと話していた。陽向のひと言に、ちょっと意地を張ってたのかもしれない。

 俺は、自分で思ってるより学校が好きだったらしい。

「そんなに大事なこと? ……花丸とか、もう子どもじゃないんだからさ」

 言い方だけは一丁前なのに、それでも子どもっぽさは抜けきらない。そのまっすぐな言葉が、正直な気持ちを引き出そうとしてくる。けれど同時に、胸の奥では波が引くように、静かな余韻が広がっていった。

「それなりに大事だよ。でも、それ以上に、自分で自分のことを評価できないってのは、やっぱり情けない気持ちになる。どれだけ心身を燃やしても、俺は――所詮、凡人でしかない。いや、それ以下なのかもしれないって、何度も思うことがある。それでも、描きたいんだ。描けない日もあるし、完成しない絵ばっかりだ。でも気づけば、また、絵を描いてる。……そんなやつが、大学に来てまで、絵を描いてる」

「……どうして、そこまでして描きたいの?」

 陽向の問いに、すぐに答えは浮かんだ。

 だけど、口に出すには少し照れくさい。

 それでも、今の俺には、きっとこれしかないんだ。

「描くことが、俺の人生だと思いたいからだよ」

 格好をつけるつもりはなかった。

 自分でも、少し青くさいと思う。でも、それが本音だった。

 評価の声は、他人よりも、むしろ内側から響いてくる。未熟でも、矛盾を抱えていても――そんな思いを胸に、作品に向き合う人たちのなかにいられることが、今の俺にはささやかな誇りだった。

 通っている立場だからこそ、悩んでいる年下には、ちゃんと伝えておきたくなった。

「大学は自由な場所だよ。俺は学べることが楽しい」

 陽向の目から、ほんの少し毒気が抜けたように見えた。しかし、それも束の間。視線に、かすかな迷いが宿り――すぐにかき消された。

「……だから、あんたはここに来れなかったの?」

 一瞬、胸の奥でふくらみかけていたものが、音もなく、すっとしぼんでいった。

 藻川に来た理由を尋ねる人はいた。けれど、来なかった理由を問いかけた人間は、これまで誰ひとりいなかった。

 陽向の問いは、その沈黙の隙間をまっすぐに射抜いてくる。

 僅かな沈黙のあいだ、胸の奥を冷たい風がかすめた気がして、小さくかぶりを振った。黙り込むことはあまりにも情けない。動かないままやり過ごす――それだけは、もう二度としたくなかった。

「来ようと思えば、来られたさ」

「じゃあ、なんで――」

 陽向が言葉を飲み込んだのと、俺が目を伏せたのは、ほぼ同時だった。後悔が静かに闇の中に沈んでいく。

 ――いつでも会えるって、思っていたから。

 けれど、それを口に出すことは、どうしてもできなかった。

 部屋の空気は一層重くなり、胸の中で言葉が詰まっていくのを感じた。

「……百合さんは、あんたの話をしていたよ。いつか遊びに来てほしいって、楽しそうに言ってた。……手紙、届いたんだろ」

 陽向は後悔を口にしてほしいのかもしれない。けど、言ったところで、それは何の意味も持たない。俺に藻川に来なかった理由らしい理由なんてなかった。再会なんてものは、いつだってある――そんなふうに思い込んでいた。その結果が、いまに繋がっている。

 言葉を見つけられないまま視線を上げると、陽向の表情が、ほんの一瞬だけ曇ったのを見逃さなかった。

 陽向は手にしていたスケッチを静かに閉じ、立ち上がって、それを俺に突き返した。

「なんか、ガッカリした。――帰る」

 その言葉には、深い失望が滲んでいた。

 陽向は、これ以上ここにいたくないとでも言うように、足早に部屋を出ていった。

 やって来るときも唐突なら、去っていくのもやっぱり唐突だった。

「目まぐるしい奴」

 呟いたその言葉は、あまりにも空々しい。部屋の静けさがやけに堪えて、深く息を吐き出した。

 藻川は、確かに面白くて、美しい場所だった。

 けれど、それだけじゃ意味がなかった。百合ちゃんがいなければ、風景だけが残る。

 そこに意味なんて、どこにもなかった。

 ……俺は、選択を間違えたんだ。


 あの日、急に態度を変えた陽向に、俺はそれ以来、小さなモヤを抱えたまま過ごしていた。

 そんな気持ちなど、どこ吹く風といった様子で、あいつは現れる。

 思春期の気まぐれだと言ってしまえばそれまでだが――もしかすると、俺の考えなんて、あいつの見ている景色とは、ずいぶん違っていたのかもしれない。

 そもそも、大学のことを聞いて、あいつは何を知りたかったんだ?

 百合ちゃんのことは――。

 ぽすっと音を立てて、柔らかい雪玉が当たった。

 文句のひとつでも言ってやろうとしたが、「肉まん奢ってよ」と先に言われた。

 思わず顔を顰める。

「なんで」

 大人げないほど不愛想な声が出た。だが、陽向はまるで気にした様子もなく、「いいから」とさらに催促してくる。

「他のふたりはどうした?」

「アイツらは部活」

 そういえば、あのふたりはまだ夏の名残をまとっていた。焼けた肌が引くには、もう少し時間がかかりそうだった。

「コンビニでいいか?」

「え……いいの?」

 まさかいいって言ってもらえるとは思ってなかったのか、目を丸める陽向に、「お前が言ったんだろ」と苦笑まじりにつぶやいた。

 陽向と話していると、ふと永原の俺への反応が思い出された。大学生といっても、彼にとっては俺もまだ未熟な存在だったのだろう。気づくと、妙に歯がゆかった。

 コンビニで、温かいペットボトルのお茶と肉まんをふたつ買って、俺たちは目的もなく歩き出した。

 手元のお茶を見つめながら歩く陽向に、俺はたわいもない話をふってみた。

「陽向は部活に入っていないのか?」

「文芸部に入ってるけど、ほとんど幽霊部員。……塾があるから、あまり行けてない」

 聞かれてもいないことまで話すあたり、何か言いたいことがあるのかもしれない。けれど、俺にはどう返せばいいのかうまく掴めない。「忙しいんだなあ」結局、そんな言葉しか出てこなかった。

「親が、資格が取れる大学に行けって言うんだ。……いい大学に行って、資格を取って、大きい会社に入れって。だから、出席とか気にしなくてもいい部活なら入ってもいいってさ」

 息抜きとして行けるなら、それでもいい。しかし、それを言葉にすれば、あまりにも他人事に聞こえそうで、俺は「ふぅん」とだけ返した。

 ぶっきらぼうに聞こえたかもしれないが、陽向は気にした様子もなく、話を続ける。

「でも、俺……本当は、もっと部活に行きたくてさ」

 ぽつりとこぼれた声には、言い訳とも、誰かへの訴えともつかない色が混じっていた。きっと、家庭には俺の知らない事情がある。だからこそ、軽々しく言葉を返すことなんてできなかった。

「芸術って、感性がすべてだろ。ああいうのって、持って生まれたもんで……後から身につけようとしても、限界があるんじゃないの?」

 努力を重ねても届かない壁がある――陽向は、そんなふうに思いたいのかもしれない。それでも、ただ頷くだけでは、何かが置き去りになる気がして。

 俺は、少しだけ間を置いてから話し始めた。

「……なんていうか、種みたいなもんなんじゃないかな。もともと持ってた大きさに差はあっても、感性って、育てていけるもんなんだよ。ちゃんと向き合っていれば、少しずつでも」

 空を見上げながら、感性とは何かを考える。

「……たとえば絵。ただ綺麗な景色を見ただけじゃ、綺麗な絵は描けない。どうして綺麗だと感じたのか、それを自分の内側で掘り下げなきゃ、誰の心にも残らないし、実際の風景よりかえって薄っぺらくなってしまう。人の関わり、その土地の歴史――そういう背景を知っていくうちに、景色には奥行きが生まれる。そうやって思い入れが深まれば、描き方も自然と変わってくる。人生も、きっと同じだ。なんとなくでも生きていけるけど、細部に目を向けて、考えながら歩いていけば、その人の中に深みが宿る。そうして紡がれる言葉や表現には、自然と光が差す気がする。それが、感性っていうものなんじゃないかな」

 伝えたかったことを、どうにか言葉にした。けれど、少し語りすぎたかもしれない……。

 俺は、ためらいながら陽向に視線を向けた。

「豊かな人ほど、作品は輝く……目に見えなくても。学ぶってことは、そのきっかけに過ぎないってこと? ……きっかけは、探す気がなければ、見つからない」

 俺は顔をしかめた。口ぶりは軽いのに、どこか引っかかる響きが残る。まるで、最初から彼の内側に根づいていた信念のような、芯のある言葉だった。

 言葉は、常に思考と共にある。考えている人間だけが、それを使いこなせる。思いを巡らせ、場面に応じて選び取ろうとする者でなければ、言葉は自然に零れたりはしない。

 ただ自然に語れるということは――こいつには、ちゃんと伝える力があるってことだ。

 俺の反応に気づいたのか、陽向はちらとこちらを見る。何かを言いかけたようだったが、唇を閉じた。

 そのまま、迷うような手つきでカバンに手を伸ばし、「これ」とだけ添えて、一冊のノートを差し出してくる。

 俺は、意識するより先に、それを受け取っていた。

 渡したあと、陽向は小さく息を吐いた。何かを手放すような、そんな仕草に見えた。

「中身は……まあ、共同制作ってやつかな。百合さんと」

 どこか迷いのある声だった。言葉を選んでいるというより、いま口にすることにためらいがあるような、それでも言わなきゃいけないと思っているような。けれど、その理由までは、俺には分からなかった。

「……俺なんかが読んでいいのか?」

 陽向はしばらく黙っていた。やがて、眉をひそめるようにしてから、深く頷く。

「俺なんかが、って言うあんたなら、読んでもいいと思う」

 それは、一体どういう意味なのか――俺が口を開くよりも先に、陽向が言葉を続けた。

「後悔してるあんたなら、良いよって言ってんの。……俺はね」

 陽向はそう言って、「これ、ありがとう。ご馳走さま。俺、時間だから、もう行くね」と続けたかと思うと、くるりと背を向けて駆け出した。

 呆然と、その背中を見送る。角を曲がって姿が見えなくなるまで、ただ立ち尽くしていた。

 どうして、これを俺に?

 いくつか疑問が浮かんだが、それ以上に、手の中のノートが放つ重みが、問いかけを押し黙らせた。

「……帰るか」

 小さく呟き、渡されたノートの背を下にして、そっと力を込めて持ち直す。こんな大事なもの、歩いてる途中に落としたら取り返しがつかない。

 来た道を戻ろうと振り向いた瞬間、「うわっ」と声が漏れた。足元に、柴犬がいた。その首から伸びるリードを辿ると、少し離れた場所に見覚えのある老人の姿があった。

 ミネの祖父――栄吉さんだ。

「こ、こんにちは」

 声を上げてしまったことに恥ずかしさを感じながらも、なんとかそう言葉をかけた。栄吉さんは、変わらぬ穏やかな調子で応じてくれる。アルバイト先以外で顔を合わせるのは、これが初めてだった。

 ハッハッハと息を吐く犬に視線を落とすと、「コロっていうんだよ」と、栄吉さんが教えてくれる。俺が「撫でてもいいですか?」と尋ねると、快く頷いてくれた。

 肉まんの入った袋を腕に通し、ふわふわの毛をそっと撫でる。――犬は、冬でも元気でいいな。

 ふと、視線を下げる。「手作りですか?」と尋ねながら、コロの首にぶら下がっていた小さな布をそっと手に取る。『おまもり』と、どこかアンバランスな文字が縫い付けられていた。

 栄吉さんは目を細めるようにして、優しく笑った。

「それね、百合さんが作ってくれたんだよ」

「……裁縫、苦手だったもんなあ」

「コロも、私も、嬉しくてね」

 静かに語られる思い出が、冷たい空気の中に、ほのかに温もりを広げていく。

 あの人は、たいていのことを器用にこなしていたけれど、苦手なものもあった。――そのひとつが裁縫だ。それでも、作業そのものは好きだったらしく、彼女はときどき、不思議なものを作っては見せてくれた。

 愛嬌たっぷりのその作品たちを見るのが、俺は大好きだった。

 柔らかな記憶に浸っていたところへ、不意に声が差し込んだ。

「今日は峰子がいなくて、残念だっただろう」

 思わず、胸の奥がどきりとした。

「え? あ、いや……まあ、残念ではあるんですけど……大丈夫、です」

 自分でも恥ずかしくなって、曖昧に笑いながらコロを撫でつけた。

 コロは、大人しく身を預けていた。

「そのうち、ボウリングしに行くからね」

「はい。あの、待ってます」

 ミネに会いたい気持ちと、少しの気まずさが入り混じって、また曖昧に笑ってしまった。



 窓の外では、雪が静かに舞っていた。

 冷たい夜の空気のなかに、街灯や家々の窓明かり、部屋のストーブの赤い光が、ぽつぽつと灯っている。まるで、凍えた景色のなかに点在する、小さな温もりのようだった。

 俺は、部屋にこもって、陽向から受け取ったノートの表紙をじっと睨んでいた。

 これは、本当に俺が読んでもいいものなのだろうか。百合ちゃんは――。

「そんなこと言っていたら、読めないか」

 つぶやいた言葉は、自分の胸の奥に沈んでいった。いまの俺は、きっと、寂しいのだと思う。

「……次に会ったときに、読んでないなんて言えないもんな」

 そう呟いて、俺はそっとノートを開いた。ページの冒頭には、ふたりが交わした約束が、丁寧な字で綴られていた。

『楽しく書く!』

『完結は、ふたりが揃ったときにする。』

『書き終えた日は、かならず日付を記すこと。』

 他愛のない決まりごとのようでいて、どれも、妙に胸に残った。たぶん、そのみっつのうち、どれかひとつでも欠ければ物語は終われない。

 俺は、パラパラとページを捲ってみた。最後のページまで、しっかりと使われていた。

 始めたことを終わらせる――それがどれほど難しいことか、俺はよく知っていた。しかも、それを誰かと一緒にやり遂げるとなると、なおさらだ。

 またノートの表紙と向き合うと、俺はそっとページに指を置き、深く息を吐いた。

 そして、静かに、次のページを捲った――。


 サボテンのこころ


 乳白色の鉢植えには、まるくて小さなサボテンがちょこんと佇んでいました。花の咲かせ方を忘れてしまったサボテンに、今日も少女はお水をあげます。

 毎日、少女は朝と夜にごあいさつをして、土の渇き具合を確かめてあげます。

 育て方に間違いはありませんでした。けれど、サボテンはどこか満たされていないような日々を過ごしているようにみえました。

 ある時、少女は栄養をあげてみました。しかし、サボテンは「いらないよ」と言いたげに元気をなくしてしまいました。

 次は、陽ざしが足りないのかと思って、外に出してあげました。はじめのうちは、気持ちよさそうに見えたサボテンでしたが、やがてまた元気をなくしてしまいました。

 今度は、お部屋の温度が低いのかと、あたたかくしてあげました。でも、やっぱり変わりません。

 どうしたらいいのか分からなくなった少女は、お母さんに相談しました。

 お母さんは、サボテンを見て、にっこりと微笑みました。

「もっと話しかけてあげなさい」

 少女は、朝と夜にあいさつしていると伝えました。けれどお母さんはもう一度同じことを言って、お菓子を作りにキッチンに行ってしまいました。

 それから少女は、もっとたくさんサボテンに話しかけるようになりました。

 朝起きてから、夜眠るまでのこと。

 誰と遊んだのか、何を食べて美味しかったのか。

 外では花が咲いて、やがて枯れて、山が眠りについたことも話しました。

 しかし、サボテンは相変わらず、元気がなさげに鉢に収まっているだけ。

 少女は何も言わずにじっとしているサボテンの針に、そっと指先でふれて、寂しそうにこうつぶやきました。

「花が咲いたら、きれいなんだろうなあ」

 その夜のこと。

 少女は大きなサボテンの夢を見ました。

 サボテンは、山のように高くそびえ立っていました。

 少女は、その上に立っています。まるで森に迷い込んだように思いましたが、ここはサボテンなのです。

 針はゴムのようにやわらかくて、触ってもちっとも痛くありません。

 少女はホッと安心し、胸に手を当ててみました。

 ドキドキと高鳴る心臓に、自分が喜んでいることに気がついたのです。

 そして、少女はさらに針に触れてみました。すると、緑色の足元が少女の心臓と同じようにドキドキと揺れ、胸の中の温かい感情がふわりと広がりました。少女はとても嬉しくなりました。

 針の森の中を歩いていって、てっぺんまでのぼると、まんなかに小さなくぼみがありました。

 少女はそっと近づいてのぞいてみると、そこに――ほんのり、赤が見えたのです。少女はくぼみのそばにちょこんと座って、やさしくその赤をなでました。

 赤色は、やわらかくて、しっとりとしていました。

 それから、少女はたくさんのことを話しました。

 家族のこと。

 友達のこと。

 季節のこと、歌って踊ったこと。

 そして、起きるとき、眠るとき、サボテンがあることが嬉しいこと。

 たくさん、たくさん、お話しました。


 ――朝。

 目を覚ました少女は、寝ぐせもそのままに、急いでサボテンのところへ駆けていきました。

 夢の話を聞かせたくて、たまらなかったのです。

「あっ!」

 サボテンを見た少女は、大きな声をあげました。

 なんと、それまで何も語らなかったサボテンのてっぺんに、かわいらしい赤の花が咲いていたのです。

 少女はうれしくなって、小さく跳びはねました。

 気がすむまでくるくると踊ってから、そういえば朝のあいさつをしていなかったことに気がついて、サボテンのそばに手をついて、やさしく声をかけました。

「おはよう」

 そして、やわらかく咲いた花びらに、そっとふれてみました。

 しっとりとしていて、それは夢で触れた赤と同じでした。

 サボテンは、相変わらずなにも話しません。

 けれど、「ふれてくれてうれしいよ」と言っているみたいに、緑色の体がふっくらして、針の先がきらりと光って伸びていました。

 たったひとつだけ、サボテンがふれることを許した花びら。

 少女は、それをサボテンの「こころ」みたいだと感じました。

 だからこそ、むやみに触れず、嬉しいことを分けあいたいときだけ、そっと、そっと、ふれることにしたのです。


 物語を読み終えると、静かな余韻だけが部屋のなかに満ちていた。柔らかな文章を読むのは、久しぶりだった。そっと息を吐き、ノートに触れていた指先から、ほんの少しだけ力を抜く。

 続きを読むには、少しだけ心の準備がいる気がした。


 タフタのコバルトブルー


 白波の透かし模様のドレスが風にひるがえり、わたしはつま先で円を描く。

 スピログラフに誘われるように交差する足跡が、永遠を物語っていた。

 渦巻く潮に、岸を見失ったタフタのコバルトブルー。

 小さな海が、わたしを包み込む。

 泡がまとわりついた手で掬い、やさしく波を返した。

 すると、一度は小さな海だったその場所が、今、貴方の待つ岸へと変わり、わたしはようやくそこにたどり着く。

 もう二度と離れない。

 そう言って、あたたかな腕の中にしっかりと留めて。


 愛してる

 その言葉は 貴方の名前

 愛している

 この気持ちは 貴方の名前

 私の名前を呼んで

 何度でも 何度でも――


 熱を帯びた詩。

 この話を考えたのは、百合ちゃんなのかもしれない。

 けれど、文章を書いたのは、たぶん陽向だ。

 百合ちゃんがくれた絵葉書の文字は、少し丸みを帯びていて、どこか落ち着きのある、大人びた筆跡だった。

 対して、このノートに書かれた字は違う。線の一本一本に、丁寧に書こうとした気配がある。まるで、機械で書いたように几帳面で、隙がない。誰かに読ませるために、神経を使って書かれた文字だった。

 俺の手は、そっと次のページを捲った。

 夢中で読み進めた物語は、どれも優しさを湛えていた。

 読んでいるうちに、ふと思う。きっと、この物語を必要としている誰かが、どこかにいる。

 そんな気がしてならなかった。

 文章のことは、正直よく分からない。けれど、それを絵に置き換えれば、なんとなく分かる。

 心から求めるものがある人は、その縁に自然と引き寄せられていく。

 そして、俺もまた、このノートの中に、そんな縁を見つけたのだろう。

 最後に書かれていた物語は、ただ「良かった」では言い足りない、胸の奥に、静かに灯るような世界だった。


 ヴィントレダイ――冬の楽園


 肺の底から吐き出される白い息。視界が開けると、冬の海の上には雪の道がまっすぐに延び、その先で凛としたエゾオオカミが静かに振り返り、私を待っていた。

 一歩踏み出すと、背後で氷の鼓動が聞こえたが、振り返ることなく前へと歩み続ける。

 エゾオオカミは先導するように私の前を歩き、白い道はどこまでも伸びていく。

 鼻の奥に、春の匂いがかすかに漂った。

 春の別れが花咲く頃なら、これは冬の別れ。

 氷に包まれた時間が、静かに移ろうとき。

 流氷は広大な海原で静かに溶けて消えていく。

 それは、冬の間に一瞬だけ現れて消えゆく、命の痕跡だ。

「どこへでも行けるね」

 私の言葉に、エゾオオカミは機嫌よく尻尾を揺らした。

 私たちは、流氷の名のもとにこの地に戻ってきた。

 春の死には花の香り。

 夏の死には蝉の声。

 秋の死には、枯れ葉が舞い、鈴虫の音が足音を重ねる

 流氷の帯は冬の精霊が歩んだ道。

 そして、今日。冬が去ることを知らせにやってきた。

 ガラン、コロン――。

 氷の中で静かな音が響く。

 ここからは、冬の終わりと春の始まりが交錯し、約束が交わされる場所。氷の旅路が終わりを告げる。

 流氷が大地と繋がり、白い道が引き連れてきたその場所は、過ぎ去った命の痕跡が静かに響くところ。

 私は、冷たい風と共に流氷の残像を感じながら、エゾオオカミの後を追い続ける。

 氷と大地がひとつになった場所――その名は、ヴィントレダイ。冬の氷の楽園をそう呼ぶ。

 流氷が溶け、やがて大地を解き放つその瞬間、私たちは再び出会うことになる。

 失った影を、誰かは見るだろう。

 冬と春の境目で、約束を交わしながら。


 俺はノートを見つめたまま、しばらく動けずにいた。

 百合ちゃんにまつわるものに触れられるというだけで、最初は胸が熱くなった。だが、その熱もやがて静かに引いていき、代わりに妙に澄んだ感覚が残った。

 それは、正解にたどり着いたときだけ訪れる、あの揺るぎない確信に似ていた。音もなく、深く沈んでいくような感覚。まるで、流星が夜空を裂いたあとに訪れる、一瞬の静けさのようだった。

 世界が、ほんのわずかに明けていく。

「バカだよな……」

 信じていたというより、ただ疑いもしなかったのだと思う。動物も、花も、空さえも――いずれ人の理屈に収まっていくものだと。百合ちゃんの死が、その無自覚な思い込みを鮮やかに突き崩した。

 道端で目にする命の終わりが、これまでも胸をかすめることはあった。けれどそのたび、「これは自然の摂理だ」と流して、目を逸らし、忘れるようにしてきた。

 生き物は死に、やがて土に還る。人間もまた、その流れの中に組み込まれている――そのことを、頭ではわかっているつもりだった。けれど、身近な人がいなくなるという現実は、それまでとは違う痛みを連れてきた。

 それは、腹底にこたえるものだった。

 百合ちゃんと陽向は、命の終わりが辿り着く場所を、きっと作りたかったのだと思う。

 冬と春の狭間にある物語を読んで、俺は絵を描きたくなった。

 今なら描ける気がした。この胸の奥に沈んだ、確かなものを。

 きっとそれが、人間として生きるってことなんだ。

 ふたりは、凍てついた白い地にそっと名前を与えた。そこに満ちていたのは、命ある者よりも、遥かに多くの失われた命の記憶だった。

 物語はこの町を越え、雪と氷の大地を伝いながら、誰の耳にも届かない白い気配の中を遠く滲んでいった。

 誰も知らない、白銀の楽園。

 ヴィントレダイは、その冷たく透きとおる世界の遥か彼方で、ひっそりと息づいていたのだろう。

 ノートの文字は整然としていたが、ところどころに書き直した跡があった。同じ言葉を何度もなぞったような筆跡には、陽向のひたむきさが浮かび上がっていた。

 これは、誰かに読んでもらうために書かれた物語なのだと、俺は思った。

 余韻の中、何気なく目をやった先に、日付の書き込みがあった。それまでの整った字とは違い、何度も消しゴムでこすられ、書き直された跡が残っている。乱れた線には、迷いや戸惑いがにじんでいた。

 それでも、読めてしまう。

 記されていたのは、世界からいくつもの色が失われた、あの日。そのすぐ隣に、あとから書き足された、別の日付が添えられている。

 息を呑み、思わず声がこぼれる。

「あいつ、百合ちゃんが亡くなった日に――」

 よく見ると、日付のまわりがかすかに波打っていた。それが涙の跡だと気づいたとき、ことばが消えた。

 書き足された日付は、終わりを告げるものではなく、百合ちゃんの気配がふたたびこの世界に触れるための継ぎ目だった。

 陽向は信じたんだ。語り手を失ったあとであっても、まだ名を与えられると。

 目の奥が熱くなり、そっとノートを閉じて絵葉書の隣に置いた。

 ふたつは、隣合っているのがいい――そう思った。



 昨日の夜はなかなか寝付けなかった。だからといって、絵が進んだわけでもない。ただ、いつもより重たい頭を、どうにか支えていただけだった。

「酷い顔してんな。寝不足か?」

 永原は俺の頭をガシリと掴み、顔を覗き込むと、困ったように言った。

「やっぱり、部屋寒いか」

 俺は、手を振って否定した。部屋の寒さのせいじゃない。俺自身の問題だ。

 永原は訝しげな顔のまま手を離し、前開きにしていたコートのチャックを上げた。

「……あの、永原さんは陽向と知り合いなんですよね」

「ん? まあな。読書仲間から始まった友達だよ」

 永原が、自分から誰かを友達と呼ぶのを初めて聞いた。

「映画に限らず、新しいものから渋い作品まで知っててさ。言葉も綺麗に使うし、たまに、新しく入れた映画のあらすじを考えたりしてくれてたんだよ。……俺は、あの子以上の本食い虫を知らない」

 永原が言った『読書仲間』には、陽向と百合ちゃんが書いた物語のことも含まれてたのかもしれない。

 そんな気がしたけど、もしそうなら──それは三人だけの大切なもの。俺が軽々しく口にして良いものじゃない。あのノートの話をするのは止めておこう。

「バイト休みなんだろ? 今日は寝るなりして、ゆっくりしとけ」

 支度を終えたのに、引き止めてしまっていた。俺は、素直に頷く。

「じゃあ、俺は銀行に行ってくる。留守番は頼んだ」

 永原はそう言い残し、映画館を後にした。

 穏やかな時間の大切さは、わかっている。けれど、物語のことや陽向のことが頭から離れず、じっとしているだけで心がざわついた。

 気分を変えようと、上着を羽織って外に出る。

 雪かきをするほどでもない。でも、雪は積もっている。暇つぶしに整えようか。ぼんやりと外を眺める。

 すると、ふわふわと柔らかな雪が降っている中、少し離れた場所に見覚えのある人影があった。

 栄吉さんだ。

「こんにちはー!」

 声をかけると、栄吉さんは片手を上げた。足元にはコロがいる。コロは軽やかに雪を蹴って、小さく跳ねるように歩いていた。

 ふたりはそのまま散歩道へ向かうのかと思ったが、栄吉さんはこっちへ歩いてくる。それを見て、自然と足が動いた。あと数歩。ゆっくりと話ができるくらいの距離に近づいた、そのときだった。

 栄吉さんの体が、ふらりと傾く。一度踏みとどまったが、足が流れ、そのまま崩れ落ちた。咄嗟に駆け寄って、体を投げ出す。頭が地面に触れるより早く、腕を滑り込ませて受け止めた。

 目の前で、栄吉さんが痛みに顔を歪めている。頭は打っていない。けれど、どこか骨を折っているかもしれない。

 俺は栄吉さんを無理に起こさず、ポケットに手を入れた。

 携帯が、ない。

 部屋に置いたままかもしれない。このまま栄吉さんをひとり残して戻るしかないのか――でも、それでいいのか。すぐ傍で、コロが甲高く吠え続けている。鳴き声が耳を刺す。

 誰か、気づいてくれ。

 そのとき、遠くから声が飛んだ。

「大丈夫か!」

 雪を踏む音が近づく。振り向いた先、駆けてくる影があった。

 ――陽向だ。

「転んだ? 救急車は?」

「携帯、部屋に置いてきた」

「俺、持ってる」

 陽向は雪の上に膝をついたまま、ポケットからすぐに携帯を取り出す。俺はそれを受け取り――。

「栄吉さん、ミネさんの番号は分かりますか?」

 救急車か、それとも家族か。瞬時に判断できなかった。

 間違っていたらどうしよう。怖かった。でも、俺が選ばなきゃいけなかった。

「ああ、ええと……」

 栄吉さんが痛みに耐えながら答えるのを聞き、俺は言われたとおりに番号を入力した。

 呼び出し音は続いた。

 待つか、切るか――迷いの中で、指が動いた。

 救急車だった。

 俺たちは不安から落ち着かず、栄吉さんに声をかけ続けていた。

 栄吉さんは「大丈夫だよ」と何度も繰り返し、俺たちを安心させようとしていた。

 救急車の到着までは、それほど時間はかからなかったのだと思う。

 俺と陽向は、身内じゃないから救急車には乗れないだろう。

 けれど、栄吉さんは隊員に向かって、落ち着いた様子でこう言った。

「そこにいる子ね、私を庇ったときに腕を痛めたかもしれません。ひとりで行くのは不安ですし、彼も一緒に連れていってもらえますか」

 栄吉さんの言葉に返す言葉もなく、俺はそのまま、救急車に乗り込む直前まで来ていた。

 そのとき、陽向の携帯をまだ握ったままだったことに気づく。

「これ、返しておく。なんかあったら、映画館の方に電話する」

 陽向は無言のまま携帯を受け取り、力なく腕を下げた。

 扉が閉まる直前、血の気の引いた顔が目に入った。

 揺れた瞳が、この状況に怯えているように見えた。



 病院に着いて、俺は栄吉さんとは別に診察を受けた。特に大きい怪我もなく、打ち身だけで済んだ。

 栄吉さんはすでに処置室へ運ばれていたようで、診察を終えても姿は見えなかった。

 せめて家族が来るまで残ろうと思い、近くにいた看護師に尋ねると、もう来ていると告げられた。安心したはずなのに、どこか放り投げられたような気持ちが残った。

 ……このとき、他人だというのは、きっと、こういうことなんだと思った。


 病院のロビーにあった公衆電話から映画館にかけると、永原が出た。

 事情は、すでに陽向から伝わっていたらしい。コロと一緒に映画館の前に立っていたという。

 栄吉さんの様子はまだ分からないけど、もう家族が来ているから、俺は会計を済ませたら帰るつもりだと伝えると、永原は「気をつけて帰って来いよ」と言った。声は、いつもより少しだけ低かった。

 受話器を戻し、そのまま総合待合室の端に歩いていく。

 何も考えず、空いている椅子に腰を下ろした。

 多分、永原は怒っていない。でも、心配はしているだろう。俺が勝手にしていることだったとしても、あの人は俺の保護者の立場にいるんだ、仕方ない。

 どんな顔をして帰ったら良いのかな。

 いくら考えても答えは出ず、俺は指を組んでぼんやりとした。すると、頭の上から声が降ってきた。

「帰っちゃったのかと思った」

 顔を上げると、ミネがそこに立っていた。彼女は隣に腰を下ろし、静かに言った。

「電話に出られなくて、ごめん」

「いや、こっちこそ。焦って、どうしたらいいか分からなくて……勝手に救急車を呼んじゃった」

 俺がボソボソと話すと、ミネはゆっくり首を横に振り、「本当に助かりました」と視線を落とした。

「腕、大丈夫? おじいちゃんから聞いたけど、庇ってくれたんだって?」

「俺は大丈夫。ほら、動かせるし、痛くもないよ」

「……大切な手なのに、本当にごめん」

 無意識に眉を寄せていた。ミネは、すぐにそれに気づいたようだった。小さな変化にも、彼女は敏感になっているのかもしれない。それでも、こういうことだけは、勘違いされたくなかった。

「俺の怪我は治るから、心配しなくていいよ。でも、栄吉さんが怪我するのは、大変なことだろ? 俺は後悔してない」

「うん、そうだね。ごめん……ありがとう」

 どこにも着地しない感謝と謝罪が、ぐるぐると渦を巻いている。こういう空気には、どうしても馴染めない気がする。

 俺は黙って、何か共通の話題を探しながら、遠くの掲示板を見つめた。

「……コロ、お守りつけてるんだね。百合ちゃんの」

 俺は、組んでいた指をもう一度組み直す。この話を避けることもできた。でも、そうしないことを選んだ自分がいた。

「うん、そうなんだ。……実は、私も持ってるんだよ」

 思いがけない言葉に、俺はミネに視線を戻す。

 ミネは首にかけていたものを外して、手のひらにのせて見せてくれた。そこには、「がんばれる おまもり」と縫われた、小さな布があった。

「昔、テニス部に入ってたから。大会で頑張れるようにって、作ってくれたんだ」

 テニスラケットを片手に練習しているミネの姿が目に浮かぶ。

 ふわふわの髪が揺れて、きっと誰よりも、よく似合っていたんだろうな。

「いつも身につけてるんだよ」

「効力はあった?」

「百合ちゃんのことでモトが来て、おじいちゃんを庇ってくれた。――十分すぎるくらい、あったよ」

「それは、ミネのためのお守りでしょ」

 ミネが少し困ったように笑った。それだけで、俺の胸の緊張がすっとほどけた。

 しばらくして会計を済ませた。

 ミネは母親に、先に帰っていていいと言われたらしく、一緒に病院を出た。

 ふたり並んで歩くと、初めて出かけた日のことが、ぼんやりと頭に浮かんできた。あの気まずさは、やっぱりまだそこにあった。

「ねえ、私がどんな専門学校に行ったか、当てられる?」

 唐突な問いだった。ミネも気まずさを感じていて、空気を和らげようとしてくれたのかもしれない。あの日はお互いのことを話さなかったのに、今はしている。俺は、その話に乗ることにした。

 そのほうが、少し気が楽になりそうだったから。

「経営とか……そういうの?」

 そう答えると、ミネは「なんで?」と、本気で不思議そうな顔をした。

「正解は、服飾でした」

「服を作ったりする学科だっけ?」

「そうそう。進路が決まらなくって、ぐるぐるしてたとき、百合ちゃんと布小物作るのが、ちょうどいい息抜きでさ。楽しくて……それだけで決めちゃった」

 俺が進路を決めたときも、たぶん似たようなものだった。絵が好きだから、絵を描ける学校に行った。それだけ。興味のない人からすれば、なんだそれって言われるかもしれない。でも、俺にとっては、それで十分だった。

 ミネは、いま着ている服も自分で作ったのだと言った。俺は「すごいな」と、つい何度も言っていた。

 そして、ふと気づいた。出会った頃から、ずっと思っていたこと――ミネは、いつもお洒落だった。それは、さりげないようでいて、ちゃんと根のあるこだわりだった。

「納得した」

「何を?」

「だって、ずっとかわ――」

 慌てて口を閉じた。もう少しで、「可愛い」と言いそうだった。

「……お洒落だなぁって思ってたから」

 ごまかした俺に気づく様子もなく、ミネは「本当?」と明るい声で返し、嬉しそうに顔を輝かせた。その笑顔を見ていたら、胸の奥がじんわり温かくなっていった。

 忘れていたものが、静かに戻ってくるような感覚だった。

 このまま、ただ歩き続けられたらいいのに。けれど、それは叶わなかった。

 坂道を上りきった先に、もう映画館の建物が見えていた。

 ミネには、前もって陽向がコロと一緒にいることを伝えていた。でも、映画館が見えてきたとき、胸の奥がふとざわついた。

 ミネと永原が顔を合わせるかもしれない――そう思ったら、言いようのない緊張が込み上げてきた。

 ふたりには、いつか会ってほしい。でも、それが今じゃなくてもいい気がした。どちらかの気持ちだけが置き去りになるような形にだけは、なってほしくない。

 そんな俺の心配をよそに、ふたりは落ち着いたやりとりを交わしていた。

「永原さんも、ご迷惑をお掛けしてすみません」

「いや、それは大丈夫だよ。それより、栄吉さんは大丈夫だった?」

「はい。今は母が付き添っていて、これからレントゲンを撮って、怪我の具合を見ていくそうです」

 永原が「そっか」と言い終えると、しばらく沈黙が流れた。

 ミネの視線が永原の瞳に向かうことはなかった。言葉を探しているようでいて、もう探すのをやめたようでもあった。

 声にならなかった思いだけが、ふたりの間にそっと残されたまま、消えずにいた。

「今日は、本当にすみませんでした。陽向くんも……。それじゃあ、また」

 再び深く頭を下げると、ミネはコロと共に足早に信号を渡って行ってしまった。

 去っていくミネの背中が遠ざかっていくのを見届けた後、俺は振り返る。

 永原は、少し寂しげな表情をしているように見えた。

「大変だったな。それで、モトの怪我の調子は?」

「俺は打ち身だけです。何も支障はありません」

「……陽向くんから話を聞いて焦ったんだぞ。ともかく、大事になっていないようで良かった」

 永原は深く安堵の溜息を吐き、俺の肩を軽く叩いた。そして陽向に一言かけて、映画館の中に入っていった。

 これまで黙って会話を聞いていた陽向に視線を向けると、伏せがちな目が、彼の気まずい心境を物語っていた。

「そこで待ってて」

 陽向の返事を待たずに、ノートを取りに部屋へ戻る。雪で濡らさないように、折れないように、カバンにそっと仕舞った。

 館内から出ると、陽向は素直にその場で待っていた。

「肉まん、食べる?」

 唐突にそう言ってみると、真っすぐ前を見ていた陽向がこちらを向いた。眉間に力を込め、目元をきゅっと引き結んでから、「食べる」と短く答えた。

 その顔は、不機嫌というより、今にも泣き出しそうに見えた。

 コンビニに行き、ふたり分の肉まんとお茶を買った。店を出て、レジで分けてもらった袋を渡すと、陽向はさっそく肉まんを取り出してかぶりついた。

「少し歩くか」

 陽向は黙ったまま頷いた。まだ、さっきの出来事が尾を引いているのだろう。

 俺たちは海には繋がらない道を歩き出した。

 ふと、海がよく見える公園が目に入り、そこへ向かった。

 あたりはすっかり雪に覆われていて、座れる場所も見当たらない。俺たちは脛まである雪に足を取られながら、雪をかぶった手すりのそばで立ち止まった。

「永原さんと、なんか話した?」

 救急車の扉が閉まる直前に見た、不安げな目が、忘れられなかった。

 沈黙のあと、陽向は小さく呟いた。

「ううん。……永原さんを目の前にしたら、無意識に気遣っちゃうんじゃないかって。それで、傷つけるんじゃないかって……そう思ったから、喋れなかった」

「それでも、少しずつ繰り返すしかないんじゃないのか」

 陽向は口を閉ざしたまま、少しだけ身じろいだ。

 目の奥に何かが沈んでいる。

 俺は、それを乱さないように黙っていた。ただ、聞こうと思った。うまく言葉にできない想いは、急かさずに、そばにいることでしか届かないような気がしたから。

 そして、陽向はそのまま、そっと言葉をほどいていった。

「うまく言葉にできないんだ。……何もしないでいるのは、ひどく苦しいのに、何をすればいいのかも分からない」

 その声音には、手を伸ばせば壊れてしまいそうな、かすかな温度があった。

「……何かしなきゃダメ、なんてことはないだろ」

 そう言ってみたものの、言葉が宙を漂うような心もとなさがあった。たしかに胸の奥には熱があったのに、口にすれば、ひどく遠く感じた。

 陽向は、重たげに口を開く。

「でも、ただ立ち直るのを待ってるだけなんてさ、何もしてないみたいで、すごく嫌なんだ。……それって、もう他人みたいじゃん」

 陽向は、手すりに積もった雪をじっと見つめていた。

「永原さんと百合さんは、友達だって言ってくれた。大人の、俺の友達。でも俺は、大人みたいに振る舞えない。それが、悲しくて仕方ない。……そんなふうに感じてる自分が、本当に嫌になる」

 友達。

 永原の口からも、同じ言葉を聞いた。

 きっと、立場も、意味も、少しずつ違ってる。けれど、それを大切に思う気持ちは同じなのだろう。

 遠くには、光の粒を散らしたような海が広がっていた。その青さは、今は目をそらしたくなるほど眩しかった。

「でも、あんたは違う。ぎこちない様子も出さずに、あの映画館にいることができてる」

 自分に向けられた言葉に、俺は思わず首を傾げた。

 違うって、何が――。

 俺の行動は、百合ちゃんのための顔をして、結局は自分のためだった。

 温泉の券のことを話していた永原の声が、頭の隅でくぐもって聞こえてくる。

 ……俺は、違わない。きっと、何ひとつ。そのくせ、自分で決めたことのような顔をして、誰かに寄りかかっている。

 ふと、言い訳のような言葉が、喉の奥で疼いた。

「俺だって、俺が嫌だよ。毎日、迷惑かけてまで永原さんの世話になってる。……それしか、方法がなかったから」

 陽向に視線を向けると、どこか不安定な空気を纏っていた。

 指先で、手すりの雪を静かに崩していく。その仕草が、何かをこらえるように見えた。

「……大人なんだから、こんなとき、どうすればいいか知ってるんじゃないの?」

 声は弱々しかった。けれどその中に、俺にしか向けられない苛立ちが、奥の方に沈んでいた。

 俺は視線を落とす。陽向の足元に積もった雪は、白くて、冷たくて、輪郭が曖昧だった。

「そんなこと言ったって、百合ちゃんがいない世界を生きるなんて、俺だって初めてなんだよ。どうしたらいいのかなんて、わかんねえよ」

 気づけば、口にしていた。誰に向けたわけでもない。ただ、こぼれ落ちた本音だった。

 言葉にならない思いだけが、降りはじめた雪のように、俺たちのあいだに静かに積もっていく。

 ふいに、聞こえるはずのない波音が耳の奥で揺れ、潮のにおいが鼻を刺した。

 その瞬間、やりきれなさが胸に満ちていく。

 流氷を見るまでは帰らない――そう決めていたのに、時間だけが何も言わずに背中を押してくる。

 流氷のことを思い出すと、ノートのことが頭をよぎった。

 この時間のなかで返しそびれたままだったもの。

 俺はそっと、それを取り出して陽向のほうへ差し出す。

「これ、返す」

 陽向は黙ってノートを受け取り、ページの端にそっと指を置いたまま動かさなかった。表紙を見つめる視線に、かすかな緊張が宿っている。言葉にはならないものを胸の奥で押しとどめているような、そんな静けさがあった。

 俺は海へ目を向けた。冷たく、澄んだ広がりがそこにある。

「ヴィントレダイ、見れるかな」

 問いかけたとき、気配がわずかに揺れた。陽向が顔を上げたのがわかった。

「……あんたが藻川にいるあいだに見られるかは……分かんない」

 俺はしばらく黙った。

 予想できない話をしても、虚しいだけなのかもしれない。陽向から無理に肯定的な返事をもらおうとするのは、さすがに情けない。

 百合ちゃんが見せたがった、流氷の景色。それに執着しているのは、結局、俺だけなのだ。

 沈黙の中で、ふと、現実から少しだけ離れたくなった。

 ノートのことが頭をよぎる。

 そういえば――聞きたいことが、あったんだった。

「ヴィントレダイさ……日付がふたつあったけど。……あとから、書き足したんだな」

 返事はなかった。沈黙のなかで、気配がわずかに変わった気がする。

 ふと横を見ると、陽向は驚いたように口を開けたまま、こちらを見ていた。

 ――そんな細かいところまで見てるとは、思ってなかったんだろうな。

「その意味に気づいたんでしょ。それなのに、聞くなんて、デリカシーがない」

 散々な言われようだが、言いたくなる気持ちも分かる。俺は気にせず続けた。

「ひとつは、忘れることもできない、あの日。その後の日付に関しては、あの部分だけ、乱れていた。……ずっと綺麗に書いていたのに、そりゃ目立つ」

 陽向は眉間を寄せ、ちらりと俺に視線を向けた。けれどそれは一瞬のことで、すぐに手元のノートに目を落とす。

「……楽園の名前は決められなかったんだ。百合さんとは、次に会う約束をしてたんだけど……結局、それっきりだったから」

 白い息が、長く伸びて、すうっと消えていった。

「もし、あの日ふたりで決めてたら、きっと名前は違っていたんだろうね」

「そのままにしておくっていう選択肢も、あったんじゃないか?」

 完成させる力を持った人が、あえて手を止める。

 百合ちゃんとの記憶を、そのまま残すために――。

 けれど陽向は、独りで物語に手を加えた。

「楽園は、名前を与えられたときに初めて存在するものなんだ。だから、完成させるしかなかった」

 唇を内側に巻き込みながら、陽向は今までにないほど小さな声で続けた。

「夢みたいな話って思われるかもしれないけど……」

 伏せられた瞳には、かすかな諦めがにじんでいた。

 俺はビニール袋を握る手に、知らず力を込めていた。まるで、言葉にならない何かをぎゅっと押しとどめるみたいに。

「夢なもんか。実際、俺はヴィントレダイがやって来ることを信じてる。名前がついたら、それは存在するって。お前だって言っただろ」

「……でも、約束を破ったんだよ? それで完成って……ズルいじゃんか」

「ズルいなんてことあるかよ。陽向、おまえ……百合ちゃんに会いたかったんだろ」

 思ったより声が強ばった。目の奥が熱くなり、言葉が喉の奥でつかえそうになる。けれど、飲み込むことはできなかった。

「作品ってさ、人の目に触れるたびに、鼓動を大きくしていくんだよな。信じる気持ちが夢を形にして、それを少しずつ現実に引き寄せてくれる。……あの物語の世界は、もうちゃんと、存在してる」

「……約束を守れなかったとしても?」

 陽向の肩が、わずかに震えている気がした。問いかけるような声には、許しを求める気持ちがにじんでいた。物語を完成に導くまでに、どれほどの痛みを抱えてきたのか。その重さを想像し、胸の奥が締めつけられる。

「百合ちゃんが、そんなことで怒る人だと思ってるのか?」

 陽向は激しく首を振り、黙ったまま俯いた。その仕草に、なぜかほっとする気持ちが芽生える。

 あの人は、優しい人だった。誰よりも相手のそばに寄り添えて、言葉がなくても、そこにいるだけで安心させてくれるような人だった。

 そんな人が、本気で怒るはずがない。きっと、悲しみを抱えたまま黙ってしまうような陽向のことを、一番心配するのも、百合ちゃんだったはずだ。

 まさか、その日に会っていた友人がいなくなってしまうなんて――想像できるわけがない。

 その上で堪えてきた痛みを、誰にも話せないまま抱えていたなら、気持ちを見せることも、誰かの気持ちに向き合うことも怖くなって当然だ。

 俺は、自分の掌の真ん中に、何度も握りしめたあの熱を思い出す。

 傷はときに、ほんとうに好きなものを見えなくしてしまう。けれど、それを閉じ込めてしまうことを、百合ちゃんが望むとは思えなかった。

「俺さ、あのノートの物語を読んで、本当に良かったって思った。今の俺に必要な世界があそこにはあったんだ。俺たちみたいに、悲しみ方すら分からずに立ち止まってる人にも、あの物語は届く。……なあ、陽向。勇気を出して、見せてくれて、ありがとう」

 陽向は、ゆっくりと顔を上げた。まつ毛についた水滴が、光の粒になってかすかに揺れていた。

 俺と目が合うと、助走をつけるように息を吸い、ゆっくりと口を開く。

「百合さんに……もっといろんな言葉に触れてみたいって言ったら、応援してくれたんだよ。俺、小さい頃から文章が好きでさ。小説とか、絵本とか、新聞のコラムとか……お茶のパッケージにあるのだって、なんだってさ」

 目元と鼻が赤くなり、瞳に涙の膜が広がっていく。揺れる視線がまっすぐに俺を捉えていた。

「綺麗なものって、光って見えるだろ。海とか、宝石とか、星とか――ちょっと眩しくて目が熱くなる。俺にとって、言葉もそうなんだ。目に見えないけど心の奥で光ってる。……そんな言葉の全てが、好きなんだよ」

 白い息がかすかに揺れ、震える声の奥に、消えそうで消えない芯のようなものが宿っていた。――ああ、これが陽向の本音なんだ。ようやく、そう確信できた。

 冷たい空気に、言葉が静かに溶けていく。その余韻の中で、俺は陽向の言葉をもっと知りたくなった。

「こういう気持ちのことを、なんて言うんだろう」

 その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがゆっくりと形を持った気がした。

 同じようで、違う傷を持った俺たちだけど――。

「……寂しい、かな」

 たった一言。それだけだった。ぽつりと呟かれた声に、俺は腑に落ちた。

 それは、前に、誰にも聞かれないようにして、そっとこぼしたことのある言葉だったから。

「飾る必要なんてないんだから。……零れるままでいいんだと思う」

 顔を引き締め、そっと頷く。

 同じ言葉でも、宿る思いは人それぞれだ。陽向は今、何を思い出しているんだろう。そうやって問いかけたくなる瞬間も、たしかにあった。けれど――『寂しい』。その一語を胸に落とせたとき、ようやく、声にすることも、誰かと分け合うことも、許される気がした。

 なら、陽向はこれからどうするんだろう。寂しさと向き合った先で、どんな一歩を選ぶんだろう――そんなことが、ふと頭をよぎった。

 俺と違って、好きを貫くことさえ難しい環境。それが周囲によるものなのか、はたまた陽向自身の諦めによるものなのかは分からない。

 けれど、黙って見ているだけじゃ、きっと何も変わらない。

 そう思ったときには、もう、口を開いていた。

「……なあ。お前さ、書くことを続けろよ」

 陽向は、「え?」と目を丸める。

「言われなくても、そうするつもりだったけど……」

「うん。でも、続けるって、ただひとりで書くだけじゃない気がしてさ。他にも方法があるんじゃないかって、ふと思ったんだ」

 不思議そうな表情を見ていると、なんだか笑えてきた。

 真剣な話をしているときほど、相手のちょっとした仕草に、気が緩むことがある。

 その気配に救われるような気がして、そっと言葉を継いだ。

「色々な方法があるってことだよ」

 俺は、ビニール袋から肉まんを取り出して、すっかり冷えて固くなっている皮を摘んで口に入れた。甘い。

「たとえばさ、好きなことを突き詰めて、それを仕事にする道を探すとか。それまで出来る事をして、環境を整えてくっていう手もある。家で創作を続けるとかさ。発表の場だって、いろいろあるよな」

 話しているうちに、いつのまにか違う話題に踏み込んでいた。

 けれど、それも嘘のない気持ちだった。

 好きなことを続ける。その方法に、決まった形なんてない。

 あのとき、陽向が問いかけてきたこと――その奥にあった想いが、ようやく、少しだけ分かった気がした。

 だからこそ、今の自分なりの言葉で返したくなった。

 陽向は少し目を伏せて、「大学の話……?」と、言葉の奥をそっと探るように言った。

「もっと先までの話。……はじめはさ、進路のことに俺が口を出すのは違うって思ってたよ。あとから文句言われたら、たまったもんじゃないし。でもこれは――もっと先を見据えた話だと思ったからさ」

「……すぐには答えを出せないよ。将来設計もできてないんだから」

 そうか。そりゃそうだ。

 わかってたはずなのに、いざ言われると、少し拍子抜けする。

 俺は、自分の熱の空回りに苦笑しながら、手にしていた肉まんを平らげた。中までもすっかり冷めていたが、なぜか――妙に、旨く感じた。

  結局、今さら口を出すようなことじゃなかったんだよな。

 陽向が決めて、どんな道でも、自分で選んでいくんだ。

 そんな当たり前のことに、ようやく手を離した気がした。

「……でも、うん。小説は書く。あんたには、気が向いたときに読ませてやってもいいけど……読みたいの?」

「読みたい」

 何の迷いもなく答えた。

 陽向は、何かを確かめるようにほんの少し間を置いて、小さく目を見開いた。その表情が、ちょっとだけ嬉しそうで――でも、すぐに照れ隠しのように視線を逸らす。

 その反応に、思わず笑ってしまった。

「なに驚いてんの。お前が言ったんだろ?」

 太陽に照らされて、水分を含んだ雪の表面が、キラキラと輝いていた。凍える夜には街灯が、晴れた日には空からまっすぐに光が射す。

 冬って、つい家にこもりがちだけど――外に出てみると、どんな景色より、ずっと眩しいものが広がっている。

 俺たちは、そんな景色を、きっと心のどこかで覚えている。

 冬は、毎年、必ずやってくるんだから。

 ゆっくりと息を吸って、心から思っていることを言葉にする。

「書いたんだったら――やっぱ、読んでほしいよな」

 それは、気取ったものじゃない。ただ、心から出た素直な声だった。

 作品をつくる者同士、きっと、わかり合えると思った。

 陽向の表情が、ほんのわずかに緩む。頷いた、その瞬間――大きな涙が、ぼろっと音を立てるようにこぼれ落ちた。

「……あれ?」

 陽向は不思議そうに声を漏らし、袖で慌てて目元をぬぐった。

 俺はその涙を見て、何か所も書き直された文字を思い出した。

 誰かに読んでもらうために綺麗に書いた、優しい物語たち。それを俺だけが読んでいるなんて、もったいない。

 心に見えるものを描いたなら、誰かに見て欲しくなる。

 誰かの心にそっと置いてもらえたとき、鼓動が強まる。

 作品は、多くの人の心に届いたとき、熱くて濃い血が巡る。

 書きたくてたまらない俺たちは、きっと、そういうふうにできているんだ。

「いつから泣くのが怖くなったんだろうな。俺たち」

「今だって泣きたくなんかないっての」

「でも、悪い気分じゃないんだろ?」

 陽向は何も言わなかった。

 海を背にして俺が手摺りに寄りかかると、小さなため息が聞こえた。

「……初めて会った時から、あんた、偉そうだ」

 振り向かなくたって、声からして分かった。

 きっと、不貞腐れた顔をしているに決まってる。



 少し経ってから、散歩の帰り道に栄吉さんの姿を見掛けた。声をかけると、いつもと変わらぬ反応が返ってきた。

「家族にボウリングはまだ早いって言われてね。枝松さんにまで止められたら、さすがに逆らえない」

 やれやれ、といった様子で栄吉さんは首を振った。立ち話もなんだと思い、座れる場所はないかと考えたが、栄吉さんは「慣れてるから、気にしなくて良い」と言った。

「この前、永原さんから挨拶を貰ったよ。以前より、少し元気そうに見えたかな」

「……栄吉さんの姿を見て、安心したんじゃないですか?」

「それもあるんだろうね」

 栄吉さんの口調は変わらないのに、ふとした相槌ひとつで、永原の内心まで汲み取っていた気がした。栄吉さんの前では、永原でさえ、まだどこか若いままに見える。

「……俺、栄吉さんや永原さんが羨ましいです。なんというか、間違いとかなさそうで」

 つい口にしてから、しまったと思った。俺は気まずさをごまかすように、栄吉さんへと視線を向けた。

「私は君たちが羨ましいけどねぇ。だって、転んだだけで大事になるんだよ。参ったもんだ」

 冗談を交え、場を和ませてくれる栄吉さんに、俺は改めて頭が上がらない気持ちになった。

「……何か困っているのかい?」

 ほら、やっぱり。気づいてくれるし、見逃さないんだ。

「俺、うまい言葉が浮かばなくて、そんなつもりなくても、人を傷つけてしまったりして……早く、ちゃんとした大人になりたいです」

 思わず言葉にしたことで少しだけ楽になった。栄吉さんみたいに静かで、確かな経験を持つ人には、自然と素直になれてしまうのだと思う。

「時には必死に成長してきたけど、寂しいことだってあるよ――そう、今も」

「今も、ですか?」

「そうだね。……たとえば、成長した木は、見ることができるかもしれない。でもそのぶん、昔の友人とは、同じ目線に立てなくなることもある。背が高くなれば、木登りが苦手な友だちとは、もう並んで景色を見られないんだよ。手を差し伸ばそうとしても、それもできない。枝には、もしかしたら鳥の巣があるかもしれないからね。……だから、自分の成長を実感するのは、いつも喜びの時ばかりじゃないんだ」

 栄吉さんほど歳を重ねていても、そう思うのか――。いや、むしろ、だからこそなのかもしれない。

「君は、自分が未熟と感じているかもしれないけど、成長過程に見える景色だって、素晴らしいものだろう?」

「……そうですね。昨日も、今日も。悩んでるときも、悪くないのかも」

 俺は、少し寂しい気持ちになって、視線を下げた。すると、コロと目が合う。顔の真ん中の毛が白くなっていて、年齢を感じさせた。毛並みは少しゴワゴワしていて、どこか硬そうだった。

 栄吉さんが優しく撫でると、コロは口角を上げて、短く息を吐く。まるで、笑っているように見えた。

「そういえば、峰子が君の話をしていたよ」

「あ、俺……峰子さんをその……」

 ――泣かせてしまったんです。

 その言葉は喉に突っかかり、口から出せなかった。

「これからも、仲良くするんだよ」

 昔からそう言われてきたかのように、不思議とその言葉はすんなり心に落ちた。

 俺がそっと頷くと、栄吉さんは満足そうに目尻をゆるめた。


 栄吉さんとコロに別れを告げ、映画館への道のりを歩く。

 足取りは、ほんの少しだけ軽くなっていた。

 ふと、空を見上げる。分厚い雲が、どこまでも重たく垂れ込めていた。

 その灰色の広がりを見ているうちに、描きかけの絵が浮かんだ。

 どこか晴れやかになれない気持ちと、この空模様は、よく似ていた。



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