第八章 白黒の湖畔
映画館は、いつも変わらずそこにあった。
朝から開いていることもあれば、昼から開くこともある。誰かが訪ねてくれば、それが開館の合図になる。休館日なんて知らないとでも言いたげに、扉はすんなりと開いていた。
「いやあ、悪いね」
「なんもですよ。楽しんで」
キャップ帽のおじさんは「あいあい」と片手を上げ、入館チケットをポケットにしまった。
「そういや、外にある『死せる金星の弾丸』と『落下傘とクラスペディアの町』の看板、見たよ。立派なもんだなあ」
「この子が描いたんですよ」
「上手いなー、君」
豪快に笑っていたおじさんだったがふいに声を落とし、「それで、最近は元気にしてんのかい」と永原に目を向けた。
永原は笑顔で「そこそこ、ですかね。……さあ、映画が始まりますよ。足元に気を付けて」と促した。その笑顔はまるで完璧に演じたようなものだったが、どこか無理が見え隠れしていた。
おじさんは気づいていたが、何も言わなかった。ただ、「映画も自動でセットされるんだっけ? ここしか映画館を知らないと、本当、不思議なもんだよな」と話を逸らした。
ふと気づいた。この映画館は、永原がひとりで運営しているはずだ。その彼が上映間近にもかかわらず出入り口にいるのは、どう考えても不思議だ。自動でセット――そうか、それなら納得だ。映画館の上映といえば、フィルムを使うのが当たり前だったが、技術は進歩しているらしい。
映画が始まると、外の廊下は静かになった。
カウンターの奥で、永原が壁に背を預け、深く息をついている。その姿には言葉にできない疲れがにじんでいて、思わず目を逸らしそうになった。
声をかけようとしたが、永原は「廊下の声、割と中まで聞こえるから」とだけ言い残し、映写室の扉へ向かった。
この映画館には最新のデジタル設備がある。それでも永原は、上映前には必ず映写室へ足を運ぶ。何かあったときに備え、自分の目と耳で確かめておく――それが館を預かる者の務めなのだろう。
すれ違いざま、ちらりと見えた横顔はさっきの笑顔とはまるで別人のようだった。
最近になってようやく、そういう変化が見えるようになった気がする。けれど、それで永原のことが分かるわけじゃない。どれだけの疲れをどこまでひとりで抱えているのか。差し伸べた手がどれほど彼にとって重荷になるのか。永原はそんなことさえ何も言わない。
知っているつもりのことも、その奥にある気持ちまでは届かない。根の部分はいまだに手探りのままだ。それでも、そこに立つ彼の姿だけは確かで、何も言えずにいる自分が、ただ情けなかった。
上映後の静けさのなか、座席に残る余韻を拭いながら掃除をしていると、出入り口の遮光カーテンがバサリと音を立てて閉じられた。中腰のまま背筋を伸ばして振り返ると、永原がこちらに視線を向けていた。目を細めた彼はスクリーンへと目を移し、そっと息を吐く。
「観るか?」
「いいんすか?」
「構わないよ」
永原が座ると、その後頭部に目をやったあと、俺は斜め後ろに座り、スクリーンに視線を向ける。
映し出されたのは、白黒のロマンス映画だった。
貴族の女性と、ひとりの紳士。波乱に満ちた日常を生きるふたりは、ときにアクションを交えながらも、ただ真っ直ぐに、互いを想い合っていた。
あらゆる困難を乗り越えて、ようやく並んで立ったその姿には、言葉より先に、深い信頼のようなものが滲んでいた。
さっきまでの喧騒が嘘のように、画面は静けさだけを映していた。
モノクロのふたりが、互いを見つめ、語らい、ただ黙る。
「この映画、好きなんだ。俺も、百合も……」
これまで黙っていた永原がぽつりと呟いた。
「よく、観たんですか」
「うん……そう」
座席に頭を預けたその姿は、くつろいでいるように見えた。声もまた、背景の音楽に溶け込むように穏やかだった。
けれど、後頭部を見つめても、そこにある感情までは読み取れない。なんとなく視線を戻し、スクリーンを見つめる。モノクロのふたりは、過去を回想するように語り合っていた。
小さく笑い合い、ときどき黙って、その繰り返し。
「日課だったんだ。午後六時になるとこの映画を観て、それから温泉へ行って……帰りは近くのラーメン屋に寄って。それで、俺は毎回、何かと理由をつけて、百合の家の近くまで一緒に歩いた」
それは、家まで送っていた――そう言うべきじゃないのか。
恋人の永原が、どこか遠い出来事のように語るのが、不思議に思えた。
「毎日のことだった。……いつしか、俺たちは温泉の回数券を買った。だから、俺の手元にあるものと、お前が持ってる綴りは、もともと同じ数だったはずだよ」
永原から百合ちゃんの話を聞けることに、少しだけうれしさを感じていた俺は、その言葉に戸惑った。そんな大切なものだとは思いもせず、気づけばもう何枚も使ってしまっていた。
「……あの」と声をかけかけて、ためらいながら少し身を乗り出す。手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。
その気配に気づいたのか、永原の背から、ふっと空気が緩んだ気がした。
「百合は、お前に使って貰って嬉しいと思うよ」
その一言が胸の奥に沈んでいった。だけど、どう受け止めていいのか分からず――言葉は出てこなかった。
本当にそうなんだろうか。
心のどこかが静かに冷えていく。
「永原さんまで、そんなことを言うんですか」
体から力が抜け、視線を落とす。椅子のベロア生地の隅に染みを見つけ、それをただ見つめた。
言葉にはしきれない思いが、胸の奥でじわじわと滲んでいった。
「おかしな考えだってことは自分でもわかっています。でも――百合ちゃんが言っていないことを、まるで本人の気持ちかのように語らないでほしいんです」
百合ちゃんがもうこの世にいないことは、頭ではわかっている。それでも、生きている人と同じように、できる限り思いやってほしかった。
誰かの心を勝手に語った瞬間。大切な何かが、指の隙間からこぼれ落ちてしまう気がした。そんなのは嫌だった。
永原が、小さく息を吐いた。
沈黙を破るように、低く、言い淀む声が落ちてくる。
「……百合が死んだ日のこと、聞いたか?」
スクリーンの中の囁き声よりも、小さな声だった。耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて拳を握る。聞かねばならない――そう自分に言い聞かせ、「少し」とだけ返した。
「あの日は寒かったから、その夜に――」
顔を上げる。永原の後ろ姿が、遠くに映るモノクロの男女の像と重なる。どこか皮肉だった。
「不条理なこともさ、いつかは飲み込んで納得しなきゃいけないんだよ」
「だからそのうち、いなくなった人の気持ちを代弁するようになるんですか……だって、みんなの言葉はただの願望でしょう。百合ちゃんの声は、もう、あの人が遺したものからしか聞こえないのに」
永原の吸い込む息がわずかに震えた。
その揺らぎに希望を感じた。これ以上、失望したくなかった。
「お前だけは、百合がいるように話をしてくれるんだな」
心許なげに呟いたその声を聞きながら、少しだけ気づいた。
永原の痛みは、たぶん――周囲と自分との温度差にある。みんなが百合ちゃんを少しずつ過去にしていくなかで、永原だけがそこに取り残されたままだった。
「……なんで、まるで百合ちゃんが思ったかのように言ったんですか? 永原さんはそれができない人だと思いましたけど」
永原も、俺と同じだと思っていた。誰かの気持ちを勝手に語るような人じゃないと。死んだ人にだって、それはしてはいけないことだと、そう信じていた。
けれど、永原の返答はそれよりもずっと確かだった。
「俺たちが、生きるためだ」
胸の奥に、鈍い痛みが突き刺さった。
永原でさえ、百合ちゃんを過去に置いていこうとしている。
捨てられそうになっていた券を、どうにかして貰った。
無意識なりに、俺は……俺なりに、必死だったんだ。
それだというのに――
申し訳ないと思わないのか。
凍える冬の夜。
独りきりの部屋で。
春を待つこともなく、この世を去った百合ちゃんに……!
拳に力がこもる。
「……貴方にだけは語ってほしくなかった。環境に馴染んで、百合ちゃんを作らないで」
声が震えて、喉の奥が熱い。言葉を押し出すだけで、精一杯だった。
けれど、俯いた彼の姿が視界に入った瞬間、その熱はすっと引いていった。
その背中越しに伝わってくる、深く染み込んだ悲しみ――言葉にせずとも、それは確かに感じ取れた。
「生きるためなんだ」
繰り返されたその言葉には、どこか無理に納得しようとする響きがあった。
深いため息が漏れる。それは、何の感情も伴わない、ただの空っぽな空気だった。
……俺は、この人を傷つけるために、ここまで来たわけじゃない。
百合ちゃんが生きていた町を、少しでも知りたくて来た。
――それなのに、心の底から、自分に落胆した。
永原の言葉に反発したのは、百合ちゃんの最期が「無念だった」って……。どこかで、ずっと決めてかかってた自分がいたからだ。
拳に残る熱だけが、まだ何かを語りかけてくる。
百合ちゃんの心を、他人に語られるなんて――それだけは、受け入れられなかった。
後悔していた。
だから、藻川に来た。
その反面、俺は、ちゃんと納得したかった。
たとえ、それが、誰かの言葉を通したものでも……。
きっと、今の俺には、まだ難しいことだ。
それでも――百合ちゃんがいないという現実を、少しずつ受け入れていこうとするための、俺なりの行動だったのだと思う。
映画は、いつの間にか終盤に差し掛かっていた。
スクリーンの中の女は、静かに男に凭れている。
モノクロの男は、微睡むように口を開いた。
『君が今日いなくなったら――俺も、明日を終わらせるよ』
胸の奥がざわめき、焦燥のような熱がにじんだ。
ゆっくりと永原に目を向ける。けれど彼は、前を向いたまま、ただ光を見つめていた。
「それは面白くないわ」
永原の声と、スクリーンの中の女性の声が不思議と重なる。
「再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも、ちゃんと聞かせてくださいな。たとえ今日、私が死のうとも。明日、貴方が死のうとも――私たちを引き離せるものなんて、何もない。つまらない人になんて、どうか成り下がらないで頂戴」
スクリーンの中の男は、何も応えなかった。
画面は静止しているようで、どこか遠い時間だけが流れていくように感じられた。
風がそよぎ、湖が揺れる音がシアター全体に広がり、深く残響していた。
永原の背中は微動だにしなかった。ただ、沈黙のなかに沈んでいる気配が、ほんのわずかに伝わってくる。何を思っているのかまでは分からない。けれど、黙っていることの重みだけは感じられた。
「券、俺は貰えなかったんだ」
「……え?」
「あの時の俺は、とにかく何でもいいから、百合と一緒にいた証みたいなものが、ただ欲しかったんだと思う。けれど、拓真に、百合の物は全部持って帰るって言われた。……だから、お前がその券を持ってるって聞いて、正直、動揺した。優しくなんて、できる気がしなかったよ」
交わされた言葉のひとつ、ひとつに、戸惑いと悲しみ、そして――行き場をなくした熱が滞っていた。
「でも、お前は、百合の大好きな『モトくん』だから――」
動かない背中には、声よりも重たい何かが貼りついていた。スクリーンの光が、その輪郭だけを淡く浮かび上がらせている。
しばらくの沈黙。
悲しみを越えたスクリーンの中の男女は、それでも、ただ共にいた。
「拓真は、怒ってるんだと思う」
反射的に返しかけて、ほんの一瞬、息が詰まる。けれど、問いかけずにはいられなかった。
「……どうして、ですか」
声が、酷くかすれていた。
語られたのは、ほんのわずかなやり取りだったのに――それだけで、拓真くんの気持ちが少し見えてしまった気がした。
それでも、そうだと認めるには、まだ何かが足りなかった。
「どうしてって」
声は、笑っているようで、どこか歪んでいた。
永原は、首の裏に手を添え、少しだけ身をすくめる。
「俺が近くにいながら――百合、死んじゃったから」
呟いた声は、すり減った古い刃のように、静かで鈍かった。
言い終えると、永原はゆっくりと項垂れる。その背中から、ひとりでは抱えきれないほどの後悔がにじんでいた。
その重さを言葉で計ることなんてできない。
目を閉じれば、ふたりが並んで歩く姿が不意に浮かんできた。肩と肩が、あたりまえのように寄り添っている――そんな幻のような光景が。
胸の奥が波打つ。気づけば、自分がこの場所に座っていることがひどく場違いに思えた。
この映画館という大切な場所で、静かに百合ちゃんを思い続けていたこの人の、……その心の奥を、俺は、知らずに踏みにじっていた。……そんな気がして、ならなかった。
「拓真が言ったんだ。生きるために百合の話をしろって。百合が喜ぶことをしろって。……それは、この上なく辛くて、難しかったよ。本音を言えば、お前の考えにはおおむね同意。百合が言ってもいないことを、まるでそうであるかのように語るのは、不本意だ。……だから、百合が好きだった映画を、ただ流し続けるしかなかった。ここに残された俺にとって、それが唯一……せめてもの、できることだった。だから――俺はここに居続けるしかないんだ」
言葉の余韻が、胸の奥に静かに沈んでいく。視線は自然と足元に落ち、永原の声しか聞こえてこなかった。
「俺には、もう百合のことに関わる資格なんてない。……そういう立場なんだよ」
張りつめた空気のなか、ただ時間だけが過ぎていく。それでも、永原の姿は何より雄弁だった。沈黙に宿る、百合ちゃんへの深い想いが、痛いほど伝わってくる。
永原がそうなら、俺は――なんなんだろう。俺なんか、もっと……。
「でも、お前は違う。百合の弟みたいなもんで、家族みたいなもんだろ? 俺とは、違うんだ」
永原が俺を受け入れてくれたのは、拓真くんに対する引け目だけじゃなかったのかもしれない。百合ちゃんが喜ぶことのひとつだった――そう思えば、この人の無愛想な優しさにも、ようやく心から頷ける気がした。
けれど、言葉は何も出てこなかった。
未熟な言葉も、この場しのぎの慰めも、話すべきではないと思った。掛ける言葉が見つからないのなら、今ばかりは黙っている方がいい。
俺は永原から目をそらし、スクリーンに顔を向ける。映画はクライマックスを迎えていた。
バイオリンの独奏がシアターに沁み込むように響き、スクリーンには、原っぱにピクニックシーツを敷いて湖を見つめる男女の姿。画面いっぱいに英語表記のエンドロールが静かに流れていく
最後の締めを奏でるのは、ピアノと四弦楽器。物寂しげな旋律にのせて、映像はふたりの後ろ姿を遠ざけながら、花や蝶、女性が読んでいた本に挟まれた栞、銀色の飛行船、男が住んでいたレンガ作りの小さな部屋――そんな細部を、ひとつずつ映し出していく。
そして、物語は静かに遡る。ふたりが出会う、その最初の場面へと。
スクリーンの光に照らされた永原は、まるで巻き戻されるフィルムのように、百合ちゃんとの日々を、心の中でひとつずつ辿っているように見えた。
◇
少し埃っぽい椅子に腰を下ろし、筆を手に取った。だが、無意味に下地を重ねていた手はすぐに止まり、不満だけがじわじわと胸の奥に溜まっていく。
見たままの景色を描いたつもりだった。けれど、色を塗るとすべてが台無しになる。ダメにしてしまった画面には、綺麗な青だけが残っていた。
自惚れているつもりはない。淡い色彩が頭の中を駆け抜けるような、そんな瞬間も確かにあった――けれど、それ以上にはなれなかった。
救いのような何かを求めて目を閉じても、まぶたの裏に広がるのは、川のような血管の網だけ。
赤い星は、ひとつも瞬かなかった。
今の俺には、あの星の色――情熱と、慈しみと、悲しみを宿したあの赤すら、もう作れないらしい。
失敗しても色は乗せられる。やり直せる。でも、この絵だけは違った。理解し、導かれるままに描きたかった。
街灯に照らされた涙が、百合ちゃんの死を告げていた。あのとき、現実の苛烈さが光とともに弾け、目の奥を焼いたんだ。
「想いって、もっと、こうさぁ……ッ」
気づけば拳を振り上げ、太ももを叩いていた。
「……安っぽかねぇじゃん」
呟いた言葉は、情けなく、空を切った。
全然、足りない。俺の中には、まだ火が灯っていなかった。これじゃダメだ。心から求めるものを描ける状態じゃない。
苛立ちを逃すように息を吐いても、胸の奥で空回りするばかりだった。
今夜、筆を握り続ける意味は、きっともうない。
それでも――今の自分にはどうにもできなくても、朝は来る。
辺りが明るくなるにつれ、夜の厳しさが嘘のように和らいでいく。
夜の終わりに気づいたとき、細く滲む朝日が差し込み、小鳥の鳴き声が耳に届いた。
穏やかさとは、時に困りものだ。
俺は、カーテンを引くように、苦しみの滲んだ絵に布をかけ、そっと隠した。




