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第七章 カウンター


 筆を動かすたび、ざらつきが指先に伝わった。

 壁と床を覆うブルーシートの上、俺は映画の看板を描いていた。

 絵の具の匂いが鼻の奥をつんと刺す。

 長く吸い続けるのはよくないと分かっている。けれど、この匂いは嫌いじゃなかった。

 ストーブを焚いても寒さが残るこの季節、俺は窓を開けたまま作業を続けていた。そのちぐはぐさも、どこか気に入っていた。

 永原は空想科学映画や西部劇が好きらしい。看板を描き始めたとき、昔のポスターについて楽しそうに語ってくれた。そのときの様子を思い出すと、自然と手が止まらなくなる。

 銀朱の背景に、風をまとって駆ける人馬を描き込んでいく。

「よ。進歩はどう?」

「今日中に『死せる金星の弾丸』を仕上げる予定です」

「ほぉー! さすが、美大生。上手だな」

 背後に立つ永原が、手元をのぞき込んでくる。

 俺は筆を水で洗い、雑巾の上に置くと、一息ついた。

「休憩するかい?」

「そうします」

 振り向くと、永原が目元をゆるめていた。直感的に思った。その表情は、人好きのするものだと。

 こうして休憩に誘われるのも、もう珍しくない。

 暇そうにしていると、玄関先を箒で掃けと言われたりもするようになった。

 その扱いが、どこか嬉しい。

「コーヒー、紅茶、牛乳……あー、ココアもあるな。何にする?」

「ココアがいいです」

「じゃあ、俺もそうしようっと」

 永原は牛乳をマグカップに注ぎ、ふたつまとめて電子レンジに入れる。庫内のぼんやりとしたオレンジ色が灯り、皿が静かに回りはじめた。

 俺は、カウンターの外の椅子に腰を下ろし、その動きをぼんやりと眺めた。

「俺がここにいるのって、変なんですかね」

「なんで? 誰かになんか言われた?」

「遠からずって感じです」

 あの夜の街灯が浮かんだ。

 けれど、瞬きの奥に、そっと沈めた。

 永原は火のついたタバコを咥え、カウンターに肘をつきながらこちらに視線を向ける。

「……まあ、変といえば変だな」

「どのへんがですか」

「どこって、全部だよ。どれだけ可愛がられてたとしても、百合とモトの家はまるっきりの他人だろ? なのに、わざわざこんな遠くまで来て……。それなりの理由があれば納得できるけど、今のところ、それが見えてこない」

「……他人、ですか」

 その言葉は、やっぱりしっくりこなかった。

 百合ちゃんは遠い人なんかじゃなかった。血縁も名前も違うけど、自分にとっては、ずっと特別だった。

 永原は、少し間を置いてから続けた。

「実際そうだろ? お前は、部屋の片づけにも来なかった。声がかからなかったからだ。葬儀では、モトの家族は親切にされたかもしれないけど……あれは親族としてじゃない。あくまで、客人としてだ」

 一緒に過ごしてきた――その時間だけを頼りに、自分にも何かを名乗る資格があると思っていた。けれど、それでは届かないこともある。永原の言葉は、そんな現実を突きつけてくるようだった。

 その一方で、小さな違和感が胸に引っ掛かった。まるで彼自身も、自分をどこか外に置いているように聞こえたんだ。

「……葬式、来てたんですか?」

 永原はタバコを指に挟んだまま、視線を落とす。

「人目を避けて、少しだけな」

 ぽつりと返し、灰皿に灰を落とした。彼は読めない表情で、火先をじっと見つめている。その目に映っているのが、火なのか、過ぎた時間なのかは分からなかった。

「どんなに近しかったとしても、越えられない線がある。俺たちは――他人だ。深く立ち入ることはできない」

「本当は、立ち入りたかったんですか?」

 永原は口元に戻したタバコを深く吸い込み、ゆっくりと白い煙を吐いた。

 こちらに向けられた視線が、わずかに鋭い。問いが図星だったのか、それとも、触れてほしくなかっただけなのか――判別がつかない。

「恋愛として百合が好きだったわけじゃないって言ったけど、本当か? その執着は、それそのものみたいだ」

 また、それだ。口を揃えてそればかり。他にないのか。

「好きでしたよ。こんな遠くまで来るくらいには」

 ――さっきの仕返し。そんな気持ちが、どこかに混じっていたのかもしれない。

 カウンターに置かれた永原の指先が、ごくわずかに反応した。それを、俺は見逃さなかった。

「でも、やっぱり違う。遊びに来てねって、手紙をもらってたのに、ずっと――変わらない未来があるんだって勘違いしてて、結局、俺は行かなかったんです。……それを、恋だったとは思えません」

 ちょうどそのとき、電子レンジが「チン」と軽い音を立てて止まった。

 永原は、火のついたままのタバコを灰皿の溝に置き、無言でマグカップをふたつ取り出した。

 粉を入れて、スプーンでゆっくりと数回かき混ぜる。そうして用意したうちのひとつを、こちらへ差し出す。もう片方は、自分の前に置いた。

 それから、またタバコを拾って口に戻す。

「どーぞ」

「あざっす」

 口に含んだココアは、ほんのりと甘かった。

 視線を向けると、永原はタバコの煙を吐き出したあと、ズズッと音を立てて飲んでいた。よくあれで飲めるな……。

 俺は目の前のカップを見つめ、息を吐くように口を開いた。

「何しに来たのか、自分でも分からないんです。気持ちはあるのに、当てはまる言葉が見つからないというか……」

 この場に及んでも、俺は自分の心を守っていた。踏み込ませないように、分からないふりをして――それも、もう限界なんだろうけど。

「頭で考えるから分からなくなるんだよ。お前は、その心に抱えている感情を一度でも声に出したのか?」

 ふいに、ミネの言葉が脳裏をよぎる。あのとき、うまく言葉にできなかった。

 たった一言。それだけに尽きる。けれど、声にするのが怖かった。言葉にしてしまったら、そのあと、どうしたらいいのか分からなくなってしまいそうで――。

 湯気の立ちのぼる先を、ぼんやりと見つめる。また、黙るのか。

 そのとき、永原の声が、落ち着いた調子で響いた。

「どうして、お前はここに来たんだ?」

 幾度となく投げかけられてきた、この問い。あのときのミネの涙は、今も心のどこかで響いている。

 本当は分かっていたんだ。あの涙が、もう逃げるなって、はっきりと俺に言っていた。

「俺は――」

 言うなと、心が拒んでいた。けれど、ここに「モトくん」と呼ぶ人はいない。子供のままでいることを望む人はいないんだ。

 言葉にするために、勇気を振り絞って、息を深く吸い込む。

「後悔してるんだ」

 ココアの湯気を見ていると、視界がにじんだ。目が熱い。

「約束をしたわけじゃないけど、せっかく、はがきをくれたのに……放っておいたから」

 ぽとりと、マグの中に涙が落ちた。慌てて袖で拭ったが、次から次へと溢れてくる。

 だから、嫌だったんだ。こうなるのが。

 視界の端で、永原がタバコを灰皿に置くのが見えた。白い煙が一本、まっすぐ立ちのぼり、やがて空気に溶けていった。

 永原が口を開きかける気配に、思わず身構えた。

「……人間は賢いから、馬鹿にもなれる。でもな、それはいつまでも続けられるもんじゃない。きっと、苦しいことだ」

 低い声が胸に染み込んでいく。言葉がこぼれても、受け止めてもらえる気がした。

 声にならない音が喉の奥で漏れた。それでも、奥歯を噛みしめて堪えた。今、言葉にしないと、前を向けないと思った。

「でも、俺は本物のバカだから。藻川の町を歩いていると、一緒に見て歩いたかもしれないって、そんなふうに思うことがあったんです。たくさん写真を撮って、見て回って……それで、百合ちゃんは元気だったよって、家族に報告する。それが、これからの普通だと思ってた」

 話すことが苦しくて、俺は腕に顔を伏せる。服はあっという間に湿っていった。

「後悔しても、しきれないんです。遅すぎて、もうどうにもならないから。それに、俺……みんなに、迷惑かけてる」

 藻川に来ても、百合ちゃんと一番親しかったのは自分だと思っていた。家族みたいなもんだったから。けど――百合ちゃんはここで新しい関係を築いていた。

 俺の知らない、彼女の人生が、ちゃんとここにあった。

「ごめんなさい」

 何の義理もない俺を受け入れてくれたこの人に向けた、心の底からの謝罪だった。

 積み重ねられてきたものの重さに気づき、無知なまま踏み込んだ自分を悔いた。

 軽率さが、ただただ情けない。

「……やっと泣いたなあ、お前」

 意外な言葉に、俺は恐る恐る顔を上げた。

 永原は穏やかな表情を浮かべたまま、ふたたびタバコを手に取る。

 深く吸い込んでから煙を吐き出し、視線を逸らさずに、静かに言葉を継いだ。

「涙も見せないやつが、百合の何を語れるんだって思ってた。……でも、お前、ずっと泣くのを我慢していたんだな」

 ただ受け入れてくれようとする言葉に、息が小さく跳ねる。これじゃあ、本当に子供みたいだ。

 永原は、安堵のようなため息とともに、ぽつりとこぼした。

「……なんか、安心した」

 涙が溢れて仕方なかった。拭うそばから、また一粒、こぼれてくる。

 こんなときにだけ子供みたいになる自分が、情けなく思えていた。

 けれどこの人は、そんな弱さも人間らしいと伝えてくれているようだった。

「泣きたい時は、泣いとけよ。こういうのを、ちゃんと受け止められる人なんて、そうそういないんだから。恥ずかしいことなんかじゃない。……それに、俺はお前がここに来たことを、ちゃんと意味のあるものとして受け止めたいんだ」

「まだ、ここに居てもいいんですか?」

「泣いて謝る奴を追い出すほど、俺は冷たくないよ」

 永原はわざとらしく笑った。明るく振る舞おうとするその無理のなさが、逆に頼もしく映った。

「不思議なもんで、泣きたい時にかぎって、泣ける場所が見つからなかったりするんだよな」

 軽口のように聞こえたけど、その裏に滲んでいたのは、きっと俺への気遣いだった。俺は黙って頷いた。

「そういう時はな、映画館に来ればいい。スクリーンを見ながら泣いてりゃ、それっぽくなるし、誰も理由なんか聞かない。涙を流せば、少しは気が楽になるだろ? ……それに、離れた席で誰かが泣いてるのを見ると、寂しさが紛れる気がするんだ。ここは、マナーさえ守れば、笑ったり、怒ったり――泣いたりしてもいい場所だ。だから、お前を拒みやしないよ」

 肩をすくめる動作に、どこか照れ隠しのような色が混じっていた。

「……なんて、前のオーナーの受け売りだけどな」

 慰めの言葉はひとつもないのに、今の俺には十分すぎるくらいだった。

「峰子ちゃんも、俺に気を使わなくていいんだけど……まだ無理か。なんていうか、モトがいる時に、少しでも気が向いてくれたらいいんだけど」

 ミネの名前を出したときの声は、届かない誰かに語りかけるような、そんな無力さを含んでいた。

 永原は笑みを引っ込め、遠くを見るように目を細める。

「百合がいないと……てんでダメだ」

 眼鏡の奥に見える瞳が、かすかに揺れていた。

 次の言葉を探すような沈黙に、思わず息を詰める。

「永原さんは、ダメじゃないです……」

 情けないほど小さな声しか出なかった。自分の言葉の頼りなさに、思わず口を噤みたくなる。

 永原は煙草の煙を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。白煙は、ふわりと宙に溶けていった。

「前みたいに振る舞えばいいって、分かってる。けど、それができない。……百合を知らずに生きてた頃の自分すら、もう思い出せやしない」

 俺は、そっと永原に心の中で頷いた。

 ここに百合ちゃんがいれば――何度そう思ったことか。でも、それはもう叶わない。喪失は、こんなふうに現実へと変わっていく。

 水っぽい鼻で空気を吸い込むと、古びた絨毯と甘いココアの香りが、ゆっくりと胸を満たしていった。

 映画館が誰かの心の拠り所になるように、この場所も、そっと誰かの痛みに寄り添っている気がした。


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