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第六章 流氷研究センター


 その日も、食事処の人手は足りているとのことで、俺はボウリング場に残って、ひとりボールを磨いていた。

 ふと顔を上げると、見覚えのある女の人が、こちらに向かって軽く会釈をしていた。

 俺も、反射的に頭を下げる。

 付き添っていたお爺さんの姿が見えず、あたりを見渡すと、受付で枝松さんと話しているのが目に入った。

 彼女はその様子にちらりと目をやると、ふいにこちらを向き、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして俺の前で、静かに立ち止まる。

「おじいちゃんったら、枝松さんと仲が良いんだから……」

 わざとらしくむくれた顔をしてみせたが、少しも怒っているようには見えなかった。

 それから、こちらに関心が移ったらしく、明るい声でたずねてくる。

「こっちに引っ越してきたんですか?」

「いえ、冬休みの間だけ、知り合いのところにお世話になってて。こっちでバイトしてます」

「どこから来たんですか?」

「幌井です」

「あ、そうなんだ。私も幌井の学校に通ってるんですよ」

 猫のような丸い目を細めて、彼女はふわりと笑った。切りそろえられた前髪が印象的で、なぜか少しだけ息が詰まる。

「ねえ、井ノ坂さん。よかったら、次のお休みに一緒にお出かけしませんか? 友達がまだ帰ってきてなくて、暇なんです」

 どうして俺の名前を知っているのか、一瞬とまどったが、制服の名札の存在を思い出し、すぐ腑に落ちた。けれど、胸の奥にかすかな居心地の悪さが残る。

「次の休みは火曜日です」

「じゃあ火曜日、十一時にボウリング場の玄関で待ち合わせ」

「……分かりました」

 うなずくと、彼女は「約束ね」と小さく笑い、祖父のもとへと戻っていった。



 約束の日、俺は少し早めに待ち合わせ場所へ向かった。

 日差しは出ていたが、立ち止まっていると身に染みるような冷え込みで、ポケットに手を突っ込み、体を左右に揺らす。肩にかけた三脚ケースがずれるたびに、無意識に手で位置を直した。

 寒いけれど、待つのは嫌いじゃない。

 靴底にこびりついた雪が、玄関のタイルの上で静かに溶けていく。淡い水たまりができ、クリーム色のタイルの上で水面がきらきらと光を反射していた。

 やがて、軽い足音とともに誰かの気配が近づいてきた。顔を上げると、彼女が小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。肩までの髪が、ふわりと揺れていた。

「お待たせしました! 早いですね」

「いい天気だったので、少し早めに出たんです」

 時間を確かめようとして、やめた。時計を見たり、携帯を取り出したりするのがなんとなく気が引けた。ポケットの中で指先をこすり合わせる。

「流氷研究センターには行きましたか?」

「いや、行こうとは思ってたんですけど、なんとなく、まだ……」

「じゃあ、そこに行きましょう。中にカフェもありますよ」

「それなら、ぜひ」

 屋根に残った雪が、じわじわと陽に溶けていく。どこかで雫の音がして、その響きが、静かな町の空気に小さく弾けた。

「バスでも行けますけど、どうします?」

 彼女の提案に空を見上げる。雲ひとつない快晴だった。

「歩きましょうか。せっかく天気がいいので」

「そう言うと思ってました」

 彼女は、にっこりと笑う。その笑顔につられて、自然と頬がゆるんだ。

 初対面でも臆さず話しかけてくる。その気さくさに、胸の奥をふっと風が通り抜けるような感覚を覚えた。


 海に向かって傾く坂道を下りながら、彼女は通い慣れた店の話をぽつぽつと挟んだ。俺が珍しそうに見た場所を拾い、気になった店は詳しく教えてくれる。

 そのくすぐったさを隠すように、ふと視線を落とした。

「あ」

 歩道の途中、雪の薄い一角に、模様の浮き出たマンホールの蓋が顔を出していた。俺はカメラを取り出して、シャッターを切る。

「それ、撮ってどうするの?」

「使いどころはないんだけど、この絵柄はここでしか見られないから。ちょっとしたコレクション、みたいなものかな」

 彼女は感心したように足元の雪を軽やかに蹴った。どうやら払ってくれたらしい。その無邪気な仕草に気がゆるんだのかもしれない。つい、そのまま名前を尋ねていた。

「私は月沢峰子っていいます」

 その名は、彼女の雰囲気にどこかしっくりきた。

 どうして声をかけたのかと訊くと、「友達になれそうだったから」と迷いなく返ってくる。直感というものなのかもしれないが、俺にはない感覚だった。

 敬語をやめようと提案すると、彼女は待ってましたと言わんばかりにうなずいた。ついでに年齢を伝えると、「ひとつ上。でもレディに年齢を聞くのは失礼」と肩をすくめ、わざとらしく睨んでくる。あわてて謝ると、「じゃあ代わりに呼び方を考えて」とすかさず返されて、少し面食らった。

 月沢さんじゃ堅すぎるし、峰子と呼ぶのも照れくさい。迷った末に「ミネ」と言うと、彼女はぱっと表情をゆるめ、「それでいいよ」と嬉しそうに言った。

 名前を交わしただけなのに、ふっと距離が縮まった気がした。

 ミネは目を細め、いたずらっぽくこちらを見る。

「君は、モトって呼ばれてるでしょ?」

 一瞬、口をつぐむ。なぜ分かったのか、考えるまでもなかった。たぶん、そんな気がしたんだろう。

 俺がちいさく頷くと、ミネは満足そうに笑った。

 呼び名が決まる頃には、すっかり坂を下りきっていた。

 海沿いの道に出ると、景色の大半は工場や倉庫に遮られていた。けれど、空に溶ける白煙や、等間隔に積まれた丸太には、見慣れない町の風景としての面白さがあった。

「映画とか、観る?」

 ぽつりと尋ねてきたミネに「観るよ」と答えると、「やっぱり」と嬉しそうに笑った。

「そうだと思ったの」

 ……いつも、楽しそうに話すんだな。

 そんな彼女の言葉に引き込まれるように、いつの間にか映画の話ばかりしていた。

 好きな作品を挙げ合い、知らないタイトルには素直に惹かれる。ジャンルも好みも違うのに、視点のどこかが似ていて、話すほどに弾んだ。

 そんなふうに語り合っているうちに、気づけば流氷研究センターが目の前にあった。

 中に入ると、温かさに鼻水がにじんだ。

 入場券を買い、展示室をのぞいていく。

「クイズ、難しいな。全部わかるの?」

「よく来てたからね。答え、なんとなく覚えちゃってるだけ」

「でも、それって立派な知識でしょ。遭難してもミネがいたら助かりそう」

 ミネは「大袈裟」と笑って、軽く肩を揺らした。

 タオルが凍るほどの体験室では、肩を寄せるようにして冷気に耐えながら、展示や仕掛けを巡った。

 赤いスイッチを押すと、シャボン玉がふわりと浮かび、冷たい風が頬に吹きつけた。

 あまりの冷たさに、思わずミネと顔を見合わせ、ふたりして笑い出す。

「いや、寒すぎ!」

「追い打ちだよね」

 吸い込んだ空気が肺を鋭く刺す。凍えるほど寒いのに、それすらおかしくて、つい口元がゆるんだ。

 シャボン玉はすぐに凍りつき、きらきらと砕けていく。

 その向こうで、頬と鼻を赤く染めたミネが、何度も見てきたはずなのに、まるで初めてのような顔ではしゃいでいる。

 飾り気のない笑顔が、ただ無邪気で――そんな姿を見るのが、どうしようもなく嬉しかった。

 夢のような光景に、思わず目を奪われる。

 ……けれど、鼻のむずむずに現実へ引き戻されて、くしゃみがひとつ、あっけなく弾けた。

 

 展示場を見終えたあと、受付に置かれていた流氷の本を一冊買った。展示にも使われていたと聞き、自然と手が伸びた。ついでに絵葉書も何枚かもらってしまった。

 カフェの窓際で温かい飲み物を手にひと息つく。テーブルにはもらった絵葉書がいくつか並んでいた。

「なんでだろうね。廃版って聞くと、つい欲しくなっちゃうんだよ」

 ミネは「わかる」と言ってやわらかく笑った。その顔を見ていると胸の奥にふと冷たいものが触れた気がした。

 ひとりで歩いていたときにはなかった「楽しい」がじわじわと罪悪感に変わっていく。

 今こうして笑っていることが、ほんの少しだけ後ろめたくなった。

 思い出を作りに来たわけじゃない――そんな言葉がふと頭をよぎった。

 アザラシの絵葉書をそっとテーブルに置き、組んだ指に視線を落とした。

「少し、暗い話していい?」

 静かな間が流れる。でも、「聞かせて」と返ってきた声は思いがけず穏やかだった。

 背中を押されるようにして口を開く。

「最近、家族みたいな人を亡くしてさ……その人、藻川に住んでたんだ」

 紙コップの縁から湯気が立ちのぼる。寒さに溶けて、ゆるやかに揺れていた。

「その女の人がいた町だったから、モトはここに来たの?」

「うん。……ただ、それだけの理由で来たんだ」

 ミネは、しばらく黙っていた。

 言葉を選ぶように、少し間をおいてから、続きを口にした。

「……その人のこと、大切だったんだね」

 その声は、ためらうように低く落ちた。

「もしかして……恋とか、そういう感じだったの? 傷心旅行とか、そういうの」

 一瞬、言葉の意味をうまく受け止められず、思わず顔を上げた。

 恋――その響きに、反射的に身構えてしまう。違う。そういう感情じゃない。感謝や尊敬を、恋にすり替えられるのは心外だった。なにより、ミネにまで誤解されたくなかった。

 けれど、否定の言葉はすぐに出てこなかった。どう伝えればいいのか、頭の中で言葉がまとまらない。黙っていると、ミネが少し困ったように首を傾げた。その仕草に、肩の力がふっと抜けた気がした。

「……ちがうよ。憧れの人、って感じかな」

 ミネはテーブルに置いていた肘を引き、静かに椅子の背にもたれた。

「それなら、たくさん見て歩かなきゃね」

 ふたりの間にそっと静けさが戻る。その沈黙は、どこか心地よくて、ほんの少しだけ、寂しかった。


 流氷研究センターを出たあと、ミネがさらに先を指さした。

 目を向けると、青と白の螺旋模様を描いた巨大なモニュメントが建っていた。

 海音貝を模したその造形には、大人が三人ほど入れそうな空洞があり、そこに立てば、潮騒がゆるやかに耳をくすぐった。

 近づいて見ると、白い斑模様の中にいくつものホタテの貝殻が埋め込まれているのが分かる。

 俺は距離を取ると、肩にかけていた三脚を取り出し、ケースを雪の上に置いた。

 そのまま三脚を立て、慎重にカメラを設置する。

「もう少し近づいて」

「もっと?」

「もっと。もっともっと」

 その場所は人気の撮影スポットらしく、車が一台、また一台とやってきては、人が降り、写真を撮って、すぐに引き返していく。

 その一方で、こちらはカメラの設定に少し手こずった。

 寒さのせいで電源が落ちたり、ボタンの反応が鈍くなったりして、なかなか思うように操作ができない。

 その間、ミネは車が来るたびに立ち位置をずらして、何度も撮影の邪魔にならないよう気を配ってくれていた。

「ねえ、モト」

 手元に集中していたせいで、返事が疎かになってしまう。

 それでもミネは、ためらいなく言葉を差し込んできた。

「モトはさ、きっと、好きだったんだよ」

 カメラをいじっていた手が止まる。

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。強い風が、周囲の音をさらっていく。赤くなった指先の痛みさえ、どこか遠かった。

 レンズの中で、彼女だけが雪景色のなかにくっきりと浮かんでいる。

 喉の奥で言葉がつかえ、視線は凍てつく空気ににじむように揺れていた。

 ふいに、現実へと引き戻される。

 ミネが、こちらに向かって大きく手を振っていた。

 タイマーの音に気づいた瞬間、はっとして駆け出した。

「十五秒だから!」

「うわ、急いで急いで!」

 思考が追いつかないまま、ピースの形をつくる。ミネがカウントを始めた。

「四、三、二……あ、消えた」

 赤い点滅は、ミネには見えても俺の目には映らなかった。

 新たな車が近づいてきたのを見て、俺たちはカメラのもとへ戻った。撮れているかなんて、もうどうでもいい。三脚を畳みながら、胸に引っかかっていた疑問が、ふと口をついて出た。

「……どうして俺が、その人を好きだって思うわけ?」

 無意識に素っ気ない言い方になっていて、自分でも少し驚いた。

 ミネは、何もなかったように続ける。気にした様子はない。

「好きじゃなきゃ、こんな遠くまで来ないよ」

「そうとも限らないでしょ」

「だって、家族みたいな人って言ったじゃん。本当の家族じゃないってことでしょ?」

 ちいさな言い合いになりかけたけれど、返ってくる声がどこまでも柔らかくて、気持ちが乗り切らない。

 ふとミネの方を見ると、彼女は海をじっと見つめていた。

 その横顔が、どこまでも静かだった。

 行き場を失っていた言葉が、思わずこぼれる。

「ミネには、わからないのかも」

 どこか、責めるような響きがあった。けれど、言い直す気にはなれなかった。

 やがて、彼女はぽつりとつぶやく。

「親しいとか、大切とかとは別にさ……家族って、やっぱり特別な線が引かれてる気がする」

 どうしても納得がいかず、俺は顔をしかめて俯いた。

 波音だけが一定の間隔で届き、それ以外のものは遠ざかっていくようだった。

「……怒った?」

 ミネが小さく問いかける。

 怒っているのか、傷ついているのか、それすらはっきりしない。ただ、ミネのさっきの言葉が、胸のどこかにひっかかっていた。うまく言えないもやもやだけが残っている。

「わからない」

 声はまた素っ気なかった。でもミネは、気に留めるそぶりも見せずに言葉を重ねた。

「自分のことなのに?」

 ぐらりと気持ちが揺れた。けれど、黙ったままでいるのも違う気がして、諦めたように口を開いた。

「自分のことでも、全部わかるとは限らないよ」

 わかろうとすればするほど、かえって輪郭がぼやけていく。もし、初めから見えていたのなら、ここに来ることもなかっただろう。

 返ってくる言葉を、俺は黙って待った。

「……それもそうか。ごめんね」

 ふたりのあいだに、気まずさだけが残った。

 感じが悪かったのは俺なんだから、謝らなくていいのに。それでも、声にはならなかった。

「じゃあさ、てんぷら奢るから。機嫌直してよ」

 ミネに視線を向けると、少し困ったように笑っていた。白い吐息がふわりと漂う。その笑顔を見て、胸のなかにもようやく静けさが戻る。

 空は深い紫に染まり始め、俺たちはタクシーを呼んだ。

 待っているあいだは無言だった。ここに来るまでたくさん話していたのが、嘘みたいに思えた。

 そんなふうに考えていると、冬道にもかかわらず、一台のタクシーが勢いよく向かってきた。

 タクシーがまだ走っているうちに、ドアが開いた。「井ノ坂さーん?」と、運転手が明るい声をあげる。

 拍子抜けするほどで、目が合った拍子に、俺たちは思わず笑ってしまった。


 ミネが「天ぷら屋」と呼んでいたのは、カマボコ屋だった。

 一階で好きな商品を選び、揚げてもらったものを、二階で食べることができる。

 衣は軽く、魚の味がしっかりしていて、思わず「うまい」と声が漏れた。

「そうでしょ」

「なんでミネが得意げなのさ」

 笑いながら箸を動かし、ふと窓の外に目をやる。海辺に、小さな建物がひとつぽつんと立っていた。あの小屋は、なんだろう。聞こうとして、やめた。見ただけでは分からないものもある。それもまた、旅らしく思えた。

 海を眺めながら、遥か遠くに想いを馳せる。

「流氷情報センターの北極資料、すごくロマンがあったね」

「ああいうの、好きなの?」

「うん。研究員って、格好いいじゃん」

 展示を思い返すうちに、会話は自然と途切れた。

 空は群青から藍へと、ゆっくり色を変えていく。その色を映した海が、窓の下に広がっていた。

 坂の上から見たときは、もっと遠く、深く思えたのに、今はただ、手が届きそうなほど近くにあるだけで、どこか懐かしく見える。

 気まぐれに小さな波が立っては崩れ、また戻る。見ているだけで、胸の奥が静まっていく気がした。

 やがて、港に灯りが点りはじめ、濃い青のなかに浮かぶ光が、不思議と心に残った。



 外に出ると、空気はすっかり夜の冷たさを帯びていた。通りには人影もまばらで、街灯だけが頼りなく光っている。観光地とは思えない静けさのなか、俺たちは言葉少なに歩き出し、帰路についた。

 もし坂道が凍っていたら、滑って笑うくらいの余白があったのかもしれない。けれど、足元は水を吸って締まった雪だった。踏みしめるたびにキュッと音が鳴り、滑る気配もなく、ただ真っ直ぐに進めてしまう。その確かさが、かえってささやかな軽さを拒んでいた。

「帰りはどっち?」

 ミネは「送ってくれるの?」と冗談めかして笑い、俺は「もう暗いし」と真面目に返す。心配されていると気づいた彼女は、ほんの一瞬だけ表情を止めて、それから目を伏せた。

「せっかくだから、このまま温泉に寄っていかない?」

 突然の提案に少し戸惑う。言葉の奥に、理由を伏せた何かがある気がした。

「映画館にはお風呂がないでしょ?」

 今日一日、ときおり感じていた違和感――どこかこちらの心を覗くような視線と、さりげなく様子をうかがうような言葉。その正体が、ようやく形を取り始めた。

「……映画館?」

 聞き返した声は、思った以上に頼りなかった。

 けれど、不安になるにはまだ早い。枝松さんから、彼女の祖父に話が伝わっていたのかもしれない。そんな可能性なら、いくらでも考えられる。だから、驚くことじゃないはずだった。

「永原さんのことも、百合さんのことも知ってるよ」

 立ち止まってしまった。

 その気配を察したのか、少し先でミネがふと振り返る。笑みをたたえながら、その目はどこか寂しげだった。

 白く吐いた息が街灯の光に溶け、視界を静かに曇らせていく。

「家族みたいな人が亡くなったって言ってたよね。それに、観光で来た人みたいに見えるのに、アルバイトまでしてる。……タイミングも」

 ミネは、親指、人差し指――順に折っていき、残る指もすべて畳んで拳を握る。

「憧れの人って、佐渡百合さんのことなんでしょう?」

 その名前が出た瞬間、胸の奥でヒビが入る音がした。楽しかった時間が、急に嘘のように思えた。

「そうだったら、何なのさ」

 刺々しい言い方に、すぐ後悔が押し寄せた。

 百合ちゃんの話になると、心の扱い方がわからなくなる。今日だけで、何度こうして余裕をなくしただろう。

 それでも、わざわざ近づいてきたんだと思うと、気分は最悪だった。

 警戒心ばかりが膨らんでいく。けれど、ミネの顔に冗談めいたところはなく、からかいの色もなかった。それが、かえって困惑を呼んだ。

「……永原さん、元気ないでしょ」

 まるで現実をそっとなぞるように、淡々としていた。

「うちのお母さんも言ってたよ。最近、なんだか顔色がよくないって。ちゃんとご飯を食べてるのかなって」

 丁寧に、慎重に、言葉を選んでいるのが伝わってきた。それなのに、焦りが募っていった。

 少し、怖かった。だから、踏み込まれる前に口を開いた。

「どうして永原さんのことを、そんなふうに気に掛けてるんだ?」

 俺には、まだ分からない。あの人が、なぜここまで気に掛けられているのか。言葉にしなければ、気持ちは伝わらない。

 俺たちは他人なのだから。

 雪景色の中、ぽつんと立っているミネの姿はどこか心許なかった。

「あの映画館はね、私にとって、秘密基地みたいな場所なの」

 声の調子がふと変わった。子供のような輪郭が、少しずつあいまいになっていく。

「高校生のときはね、ひとりになりたくてよく行ってたの。誰にも邪魔されない場所で……あそこにいると、いろんなことがちょっとだけ、どうでもよくなった」

 間を置いて、彼女は続けた。

「もともとは、前のオーナーさんが亡くなって、取り壊される予定だったの。そんなときに、永原さんがこの町に来てくれた。もう誰も期待していなかったのに――あの人は映画館を引き継いで、また動かしてくれた」

 ミネの声は、すこしずつ湿り気を帯びていく。感情の温度が、静かに、でも確かに高まっていくのがわかった。

「私は恩返しがしたいの。あの場所に助けられたから」

 感謝や尊敬、それだけじゃない。ミネの語りには、忘れようとせず、思い出とともに歩こうとする人の誠実さがにじんでいた。

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

「永原さんには元気でいてほしい。たぶん、他のみんなも同じ気持ち。私たちは、あの場所を大切にしたい。映画館を大事に思うのと同じくらい、永原さんのことも……」

 空気が、わずかに張りつめた。

 その瞬間、場の重心が変わり、ミネの言葉が何かを断ち切った。

「だから、何も考えずに藻川に来て、結果的にでも永原さんを傷つけるようなことをするなら――私は、許せない」

 一瞬、怯んだ。けれど、そのまま引き下がる気にはなれなかった。理屈では言い返せないとわかっていても、苛立ちが口を突いて出る。

「そっちこそ、永原さんのことが好きなんじゃないの?」

 怒らせるとわかっていたのに、止められなかった。

 氷に触れ続けていた指先が、あとから火傷のように痛む――そんな感覚に、心の奥が襲われていた。

「……違うよ。どうして?」

「だって、話を聞いてたらそうなのかなって」

 そこまで食い下がる意味が、どこにあるっていうんだ。

 自分の行動が、自分でも理解できなくなっていた。もう、止めよう。このやり取りが続いた先にあるのは、決裂だけだ。

 俺はこの場を収めるために、思ってもいない謝罪の言葉を探していた。

 けれど、それより先に目に入ったのは、彼女のぎゅっと握られた手だった。

 指先まで力が込められ、感情の行き場を探すように、ただ強く握られている。

 ミネは、こらえていた想いを、低く、鋭く、突き刺すように言葉にした。

「違う」

 顔を上げたとき、ひとすじの涙が頬を伝った。

 その静かな涙は、沈黙よりも雄弁に、彼女の中に沈んでいた怒りと痛みを語っていた。

 泣かせたんだ。

 その事実が、胸に突き刺さる。

 どうして、あんなふうに言わずにはいられなかったのか。

 後悔が、息をするたびに膨らんでいく。

 夜の澄んだ空気のなか、白とオレンジの街灯が、その涙を照らしていた。

 橙色――まるで、言いかけた言葉が燃え残ったような、死に際の星の色だった。

 俺が、自分の心を守るために投げかけた言葉は、彼女を傷つけた。無意識のまま、触れてはいけない感情に踏み込んでしまっていた。

「そういうこと、今の話からもわからない?」

 その言葉には、ほんのわずかに棘があった。思わず、半歩、足が引ける。

 ミネは、ふと口を閉ざす。次の言葉を発するまでに、かすかな間があった。さっきまでの勢いとは異なり、その呼吸には戸惑いと微かな震えがにじんでいた。

「私が惹かれたのは、ただ、幸せそうに笑い合うふたりだった」

 その声音のやわらかさに、胸が痛んだ。

 俺は、俯くこともできずに、ただ、立ち尽くすしかなかった。

 まさか、こんな寒空の下で、こんなにも心細い声を聞くことになるなんて――。

 雪は、真っ白で、綺麗だ。けれど、人の弱さをあっけなく覆い隠し、冷たい沈黙の中に閉じ込めてしまう。

 春の雪解けまでなんて待っていられない。北海道の冬は長すぎる。

 もし悲しむのなら、せめて暖かい部屋で。涙が凍らない場所で泣いてほしい。そうでなければ、きっと人は――いつか、自分の体温のありかさえ、わからなくなってしまう。

 そんなふうに思っても、何ひとつ届かないまま。

 ミネの頬を伝う光はとめどなく零れ続けていた。

「踏み込めないの。いくつになっても、私は子ども扱いで……全然、頼りにもされない」

 その言葉に、胸がかすかに軋んだ。ミネの言葉がどうしても他人事とは思えなくて――迫り上がる感情を、かろうじて押し留める。

 その語り口には、まるで自分のことを語るような苦しさがにじんでいた。

「深く傷ついた人って、傷を負ったことを忘れたりなんて、できないんだね。時間が経てば癒えるっていうけど……ずっと引きつれてる。皮膚の下で、ずっと痛み続けてるみたい」

 言葉にするたび、胸の奥に触れてしまっているようだった。

 それでも、ミネの目は、まっすぐにこちらを捉えていた。

「あなたは……どうして、この町に来たの?」

 言おうとして、俺は口を開いた。でも、声にならなかった。

「モトの行動には、ちゃんと意味があるはずだよね? 町の隅々まで見ようとしてる。見逃したくないって思ってる」

 その言葉に、返す声が出ない。心の片隅に、棘のような痛みがじわりと広がっていく。

「ねえ、ただ遊びに来たんじゃないって言って。百合さんに会いに来たんだって……言ってよ」

 唇をきゅっと結んで、ミネは俯いた。

 鼻をすする小さな音が、なぜか俺を責めているように聞こえた。

 さっきまで張っていた熱が、夜の冷たさに触れ、ゆっくりと消えていく――そんなふうに、ミネの勢いも沈んでいった。

 何を言えばいいのか、本当に分からなかった。

 答えなんて、まだ俺の中には見つかっていない。それだけは確かだった。

 けれど、今のミネの声を聞いていると、感情の底で、何かが砕けていく気配がした。

 百合ちゃんを失った痛みの形を、俺はちゃんと見ようとしてきただろうか。

 目を背けずに、受け止めたと――言えるだろうか。

 返す言葉も見つからず、ただ黙っていると、ミネが震えるように息を吐いた。

「……ごめん。でも、モトが百合さんのことを話したから。わたし、どうしても……堪えられなかった」

 俺は、ゆっくりと首を振った。

「ミネが謝ることなんて、ひとつもない」

 そう言って、手袋を外し、そっと彼女の頬に触れた。わずかに顔を上げたミネの目元を、親指の腹でやさしくなぞる。

 一緒に泣いてしまいたかった。

 でも――俺は堪えた。

 悲しみや怒りをきちんと言葉にしたミネに、何も答えられない俺は、その資格さえないように思えたから。

 そんなふうに思い詰めていた俺に、ミネがそっと手を重ねた。

 一瞬、胸の奥が跳ねた。驚いて指先に意識を向けると、彼女の手にも手袋はなかった――いつの間に、外したんだろう。

 冗談とも、真剣ともつかない言葉が、ふと口をついた。

「泣いたら、まつ毛が凍るよ」

「……でも、あったかい場所に行けば、すぐ溶けるでしょ」

「それでもダメ。目のまわりだって赤くなる」

 指の先も、心も。このまま冬の外にいれば、きっと凍ってしまう。

 そうなったら、もう戻れなくなる。冬を引きずることは、想像以上に堪えることだ。

「それは困るね。モトと出かけて泣いたなんて、勘違いされたら……評判が台無しだよ」

 怒らせてしまったと思っていたから、普通に話してくれるだけで、ほっとした。

 ほんの少し調子を取り戻したミネに、俺は目を細めて、ようやく言えた。

「だから、俺のために泣かないで」

 目が合った。ほんの一瞬、彼女の口元がゆるんだ。整った笑顔じゃない。でも、笑おうとしてくれたことに、胸が少しだけ軽くなる。

 重なったまま下ろされた手は、夜の空気の中でじっと動かない。俺は離れていかないその手を、そっと繋いだ。

 答えを返せなかったこと――その沈黙すら、ミネは責めなかった。言葉にならないものがあることを、きっと彼女はわかっていたのだと思う。

「温泉、入っていこうか」

「うん、それがいいよ」

 馬鹿みたいだと思った。きっと、ミネだってそう思ってる。悴む手をそのままにせず、手袋を履けばいいのに。これじゃあ、まるで痛み分けをしてるみたいだ。

 ……それでも、俺はミネの手を離せなかった。

 凍える指先じゃ、感覚なんてほとんどないのに。僅かな熱を探すように、ただ、握り続けていた――ほんと、どうしようもない。

「今度のときは着替えを持参、だね」

 今の俺にとって、軽い調子で話すミネの声だけがぬくもりの頼りだった。

 ようやく同じ方を向いて、ぽつぽつと続く道の先に目を向ける。

 太陽を浴びて水を含んだ雪が、細かな風をやわらかく跳ね返していた。

 町の灯りは、泣いている顔に、そっと光を置いていた。

 見て見ぬふりなんて、しなかったんだ。


 この日。

 温泉の券は、二枚、千切られた。



 帰り道、ミネはいくつもの話を聞かせてくれた。まるで百合ちゃんを過去にしないように、記憶の断片をひとつずつ、ていねいに差し出すように。

 そして今、湯上がりの肩をほんの少しすくめて、頭を下げていた。湯船に浸かりながら、きっとさっきのことを思い返していたのだろう。

「さっきは、本当にごめん。心の整理ができていないのは、私も同じ。……私、百合さんのこと、好きだったんだ。だから、信じられなくて帰ってきたの。いつもはアルバイトを入れて、実家に帰らないのにさ」

「俺も、似たようなもんだよ」

 本当は、少し救われたんだ。似た痛みを抱えた誰かが、すぐそばにいる。それだけで、張りつめていた気持ちがほどけていく気がした。

「……また会ってくれる?」

「私のほうこそ、お願いしたいよ」

 お互い、うまく笑えていなかったと思う。似た境遇に安心しているなんて、人に言えるような話じゃない。でも――それでも、少しだけ前を向ける気がした。

 ミネの背中が、家の扉に吸い込まれていく。見届けてから、俺はまたひとりになった。

 街を照らす灯りが、うっすらと雪ににじむ。白く凍てついた夜の静けさの中、ゆっくりと映画館へ向かって歩き出す。

 ミネの言葉が、頭の中で何度も反響していた。

 百合ちゃんは、ここにいた。今はもういない。けれど――たしかに、いた。

 きっと流氷を見て、シャボン玉を凍らせて、タオルを振って。クイズに頭をひねったかもしれない。

 楽しそうに笑う顔が、自然と浮かぶ。

 揺れる街灯の下、頬を一筋の涙が伝った。風にさらわれたそれは、すぐに冷たくなって、どこかへ消えた。

 まつ毛が凍る――そんなことを、もっともらしく言ったのは、ほかでもない、俺だったのに。

 足が自然と道を外れ、まっさらな雪山へと踏み出す。倒れ込むように、やわらかな冷たさに顔を埋めた。

 それでも、涙は止まらなかった。

 音のない夜。静寂が雪と同じ重さで、じわじわと身体を覆っていく。

 嗚咽を堪え、胸に空気を詰めた。声をあげたら、もっと辛くなる気がした。

 唾を飲み込み、そっと顔を上げる。信号が赤に変わり、街灯と重なったその光が、どこかやさしく滲んで見えた。

 深く息を吸い、吐き出す。冷え切った空気が、肺の奥を刺すように通り抜けていく。

「……ここで、生きていたんだ」

 ミネの涙を見て、ようやく、百合ちゃんの死が現実のものとして胸に落ちてきた。

 どうして、生きているうちに一度でも会いに来ようとしなかったのか。

 後悔が雪のように音もなく積もっていく。

「手遅れなんて言葉は、軽すぎるよな」

 声がかすかに震えた。まだ、心の奥では、事実を拒んでいる。

 葬儀で遺影を見たあとも、実感には届かなかった。

 それでも今、受け止めようとする気持ちが、ほんの少し背中を押していた。

 ――百合ちゃんは、もういない。この町の、どこにも。

 どうにか歩き出す。けれど、凍えた指先から足元へと、寒さがじわじわと染み込んでいく。

 青白く光る冬の道。静かな夜の中で、雪を踏む音だけが妙に大きく響いた。

 ミネの涙が、まだ頭から離れない。

 オレンジの街灯に照らされて、一瞬、赤く煌めいたその一粒は、夜空で瞬く星のようだった。脳の奥深くに沈んだその光は、やがて胸へと届き、内側からじんわりと熱を広げていく。

 ――このぬくもりこそが、現実というものなのだろう。


 映画館に着くと、永原は俺の帰りを待つかのように、寒空の下でタバコを吸っていた。

「遅かったな」

「ゆっくり帰ってきたんで」

 あまりにも、ぶっきらぼうな言い方だった。それでも、永原が気にした様子はない。煙の向こうにある顔をじっと見つめる。訊いてもいいのか、ためらう。けれど、今日の夜を越えてしまえば、もう聞けなくなる気がした。

 気がつけば、言葉が口をついていた。

「……百合ちゃんは、恋人だったんですか」

 一体、永原は何者なのか。百合ちゃんにとって、どんな存在だったのか。その声で、ちゃんとした答えが聞きたかった。

 タバコの先が、乾いた空気を弾くように小さく鳴った。

「そうだよ」

 永原は、そっと肯定した。

 俺は何も返すことができなくなって、半ば八つ当たりのように睨む。

 しかし、それすらもふやけた目ではできなかったかもしれない。自分があまりにも幼稚でこの場にいることに耐えられなくなった。

 横を通り抜けようとすると、永原が声をかけた。

「その様子じゃ、すぐ寝るんだろう? 歯だけは磨けよ」

「言われなくてもそうします……おやすみなさい」

「おやすみ」

 今、優しくされたって、受け止めきれない。

 俺は、永原に根拠のない苛立ちをぶつけて、部屋に戻った。

 ふと窓に目をやる。

 開けたままのカーテンの向こう――真っ黒な世界が、じっと広がっていた。

 海だ。

 無意識に涙が零れ、慌てて手の甲で拭う。

 それでも止まらなくて、両手で顔を覆った。

 泣くのが、怖い。

「……さびしい」

 つぶやきは、しじまの中に消えた。

 分からないふりを続ける自分と向き合う夜は、ひどく耐え難かった。でも、誤魔化し続けることは、もうできない。それもまた、耐え難い。

 これ以上、口を開かないようにするため、勢いよく布団に潜り込む。

 瞼の裏に赤い光。懸命に繰り返し、ただ輝いていた。




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