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第五章 シアター


 この映画館を知ることは、百合ちゃんを知ることに繋がる気がした。根拠なんてなかったが、そうとしか思えなかった。

 けれど永原は、その入口にさえ立たせてくれない。

 ぶっきらぼうで、距離が詰めづらく、どこか掴みどころがない。

 そんな彼がアルバイトを紹介してくれたのは、親切だったのか、それとも気まぐれだったのか。その曖昧さが、どうにも引っかかる。

 だから、休みの日にはつい、彼の様子をうかがってしまう。

 動こうと決めたのは、そんな日々が続いたある日のことだった。

 館内を箒で掃いていた永原に声をかけ、手伝わせてほしいと申し出た。

 けれど、彼はやんわりと断った。

 映画館のことに他人が手を出すのは、あまり好ましく思っていないようだった。不用意に踏み込むな――そんなふうに釘を刺された気がして、少し意地をくじかれた。

 それでもその日をきっかけに、何度か小さな空振りを重ねることになる。

 もっと関わりたいのにうまくいかない。永原と百合ちゃんの関係についてもまだ聞けずにいる。どうして気になるのか説明しようとすれば、枝松さんから聞いた話に触れなければならない。それは避けたかった。

 結局、住まわせてもらっているだけで何ひとつ関われず、自分の居場所はかえって曖昧なものになってしまった。

 そんなことを考えていた矢先、ふと足が止まる。

 シアターの扉が、ほんの少し開いていた。

 重たい音が中から漏れていて、遮光カーテンの隙間から淡い光もこぼれている。どうやら映画が上映中のようだった。

「そんなところで突っ立ってないで、中に入って観たら? 今、誰もいないし気楽だよ。お金は後でいいから」

 背後から突然声をかけられ、思わず肩が跳ねた。

 振り返ると永原がこちらを見下ろしていた。

 相変わらず表情は読めない。

 けれど、その声には妙な圧もなく、ただ淡々としていた。少し身構えてしまったのは、たぶんあの図体のせいだ。

 永原は俺の横をすり抜け、遮光カーテンを片手で押さえた。あっさりした仕草だったが、こういうところは意外と気が利くのかもしれない。

「……っす」

 聞こえたかどうかも分からないくらいの声だった。

 まだ素直に感謝できるほどの距離ではない。それでも、少しずつ印象が変わっていくのを、自分でも感じていた。

 永原が出入口に立ったままなのを感じながら、俺は少し離れた席に腰を下ろし、シアターの暗がりでそっと彼を見やった。

「始まるよ」

 その声に、慌ててスクリーンへ顔を戻す。

 どうやら見られていたらしい。


 上映されていたのは、色褪せた古い映画だった。すべてがアナログで作られた時代の作品だろう。

 粗さや古さがかえって、画面に奥行きを与えていた。そこには、今の映像ではなかなか見えない、人の手の跡のようなものがあった。

「モトくんは、もしかして百合が初恋だったりする?」

 不意にかけられた声に、思わずむせそうになった。

「そんなんじゃ、ないです」

「じゃあさ、ただの好奇心? ……あんまり感心しないんだよね、そういうの」

 シアターの空気がひやりと冷え、肩がこわばった。

 このままだと、ただ黙って受け入れることになってしまう気がして、負けじと声を整える。

「……そう思われても仕方ないかもしれませんが、冷やかしとか観光気分とか、そんな軽い気持ちじゃないんで」

 心のどこかで、そう思われたくない気持ちが、言葉を押し出していた。

「それなら、なに? 百合の何が気になって、わざわざここに来たんだ?」

 出入口付近に立っていたはずの永原が、いつの間にか俺の真後ろにいた。座っている椅子の背を掴まれた拍子に、わずかに体が沈む。気づけば、覆いかぶさるような姿勢で見下ろされていた。

 眼鏡の奥にある冷たい視線とぶつかった瞬間、永原が怒っているのだと気づいた。

「百合ちゃんは、家族みたいな人だったから……」

「家族みたいってだけで、他人でしょ?」

「小さい頃から俺を気にかけてくれて、大人になっても可愛がってくれて、本当の姉ちゃんみたいな人だったんです」

 必死に言葉を探す。うまく説明できないまま、それでも永原を納得させたくて、話を続けた。

「俺、最近の百合ちゃんのこと、あまり知らなかったけど。ただ――」

 言葉の先に、ふと一枚の絵葉書が浮かんだ。

「送ってくれた風景がすごく綺麗だったから……だから、どんな場所に住んでたのか、気になって」

「その勢いで来たと」

「ダメですか」

 後悔が喉にせり上がる。やっぱり浅はかだったかもしれない。それでも永原は「……いいや。ダメなことはないよ」と言って、静かに手を離した。

 そして俺の座る列の端に黙って腰を下ろす。それだけのことが、妙に重く感じられた。

「風呂の券をきっかけに此処まで来るなんて、フレッシュだねぇ」

「フレッシュ……?」

 永原の声には、さっきより幾分やわらいだ調子があった。

「ハツラツとしてて、若者らしいってこと」

「はあ……というか、券のこと知ってたんですか」

「拓真から聞いた」

 そう言いながら永原は、癖毛を背もたれに預けて、気の抜けたように身を沈めた。

「友達もいない土地なんて、すぐ飽きると思うけど」

「……たぶん、飽きません」

「なんで?」

「流氷が来るじゃないですか。この町。今はないけど、三月くらいまでには……戻ってくるかもしれないし」

「ふうん」

「それまでに写真をいっぱい撮って、絵も描いて……たぶん、それだけで時間は過ぎていくんだと思います」

「絵、描けるんだっけ?」

「まあ……一応、美術の学校に通ってるんで」

 永原が、ふとこちらを見た。暗がりの中、その目をとらえたが、怒っているようには見えなかった。爆発音が響きわたるなか、それが妙に意外だった。

「そうか、百合が言っていたっけな。ダメだな、興味ないことには覚えが悪い」

 興味がないって俺のことなんだろうけど、いちいち嫌な言い方をする人だ。

「じゃあ、看板を描いてよ」

「……映画館の、ですか?」

「そう。ここってどこか趣があるだろ? だから絵看板が似合うと思ったんだ。……知らない? 昔あったんだよ、手描きの映画の看板。一週間の芸術っていってさ。作品もそう頻繁に変わらないし、そのまま飾っておける。宿と鑑賞代はそれでいいから」

 正直、宿泊費が浮くのは助かる。でもそれ以上に、役割があること自体が思いがけない救いだった。

 気づけば、俺は頷いていた。

「……分かりました」

 永原は姿勢を戻しながらそっと息を吐き、言った。

「この建物も、きっと喜ぶよ」

 思いがけない言葉に、少し間が空いた。

 嬉しそうにも見える表情。不思議に思って首を傾けた瞬間、彼はハッとしたように顔を背け、乱暴に頭を掻いて眼鏡を持ち上げた。

「あー……お前、夕飯はどうする? 一緒に食べてもいいけど」

 さらなる不意打ちだった。返事に詰まりかけた俺は、心の中で天気を疑う。まさか、明日は吹雪じゃないよな。

 素っ気ない声のはずなのに調子を崩される。

 戸惑っているうちに、永原は気にした様子もなく続けた。

「カレー……そうだった、今日はそれがいい」

 自分に言い聞かせるような口ぶりだった。冗談とも、思い出ともつかない調子の中で、永原の声も少しずつ落ち着きを帯び、どこか明るくなっていった。

「どうする?」

「食べます」

 思わず食い気味に答えてしまった。恥ずかしさが募る。それでも、今を逃せば二度とない気がした。

 ごまかすように頬を掻くと、隣から「はは」と小さな笑い声が聞こえた。



 カレーの支度を始めた永原の手元を、カウンター越しにそっと覗いていた。何か手伝おうかと思ったが、言葉は出なかった。台所の勝手も分からず、俺の居場所もまだ探している途中だった。

「驚くかもな」

 永原がぽつりと呟いた。

 フライパンの中で、飴色の玉ねぎが溶けたバナナに絡んでいく。美味しさのことか、それとも――。どちらにせよ、俺はその光景から目を離せなかった。

 肉や香辛料、水が加わると、鍋の中から静かな音が立ち始めた。溶けたルゥが混ざり合い、スープの色は徐々に深みを増していく。

 会話のないまま時が流れ、やがて湯気をまとった皿がそっと目の前に差し出された。

 永原がひとつ席を開けて腰を下ろしたのを見て、俺は姿勢を正し、手を合わせた。決まり文句の「いただきます」。

 一口。まろやかさの奥にじんわりとした旨みが広がった。気づけば、二杯目に突入していて、自分でも少し驚いた。

「……やっぱり、バナナって合うんですね」

 口にしてから、自分の声に何かが滲んでいたことに気づく。

 永原はちらりと視線をよこし、すぐに皿へ目を戻したまま、「……そうだな」と短く返した。

 たぶん、気づいている。

 俺が、何に気づいたのかを。

 甘さと香ばしさが混ざり合い、不思議と力が湧いてくるような味。

 この味は、紛れもなく百合ちゃんのものだった。

 永原と百合ちゃんは、きっと――近しい関係だったのだろう。

 ほぼ確信に近い。けれど俺は、それをごまかすように大学芋を口に運んだ。なのに、その味に「これ」と言いかけて、スプーンが宙で止まった。

 まるで、試されているみたいだ。

 言葉は喉の奥でかろうじてとどまり、ため息ごと、なにもかも飲み込んだ。


 食後、部屋に戻ってひと息ついた途端、胃の重さが気になりはじめた。さっきの旨さにまかせて、つい無理をしたせいだろう。それでも後悔はなかった。

 薄暗い部屋の天井を見つめながら、頭の中をゆっくり整理する。

 カレーの味も、添えられた大学芋のやわらかさも、どこか懐かしい。

 あの大学芋は、母さんがよく作る味に似ていた。

 そういえば百合ちゃんは、母の料理を気に入っていた。あれが好きだとか、どうやって作るのかと、何度か尋ねていた気がする。

 思い返せば、きっと教わっていたのだ。その味が百合ちゃんを通って、今ここに届いたのかもしれない。

 カレーも、同じだった。あの香りとまろやかさが偶然とは思えない。懐かしい味が、知らないところで、ちゃんと繋がっている気がした。

 どうしてなんて――そんなことを考えるほど、俺は野暮じゃない。

「……結局、永原だったかぁ」

 飲み込んだはずのため息が、思わず漏れた。それでもスッキリはしなかった。兄に彼女ができたときとは、まるで違う。

 そもそも永原がそう言ったわけじゃない。……まだ。

 諦めが悪いことは自覚していた。でも、意味のないことだとしても、ほんの少しだけ、そうじゃない可能性を残しておきたかった。

 試しにあぐらをかいて体勢を変えてみたが、気持ちは収まらない。

「……風にでも当たってくるか」

 独り言が妙に大きく響き、虚しさが増した気がして、俺は立ち上がった。少し歩けば気晴らしになるかもしれない。そう思って、外へ出た。


 藻川の夜道には、どこか異国にいるような、不思議な感覚があった。

 見慣れない街並みに、自然と足取りもゆっくりになる。

 コンビニの看板は、珍しいミント色。夜の静けさの中で、それが妙に爽やかに感じられた。

 店の名前はパルマ。扉には、「旅行の荷物をお預かりします」という手書きの案内があった。

 その隣の土産屋の壁には、「パルマさんのご厚意で駐車場をお借りしています」と書かれた看板が掛かっている。

 そんな些細なやり取りから、この町の人々のつながりが伝わってくるようだった。

 助け合いは、あたりまえのように暮らしに溶け込んでいた。

 潮風のようなその優しさが、胸の奥にまで染みていく。

 味とともに、静かに受け継がれてゆく思いもある――そんな気がした。


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