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第四章 交流館


 早朝五時。

 観光船乗り場の交流館には、すでに何人かの観光客が集まりはじめていた。思ったより人がいる――正直、少し驚いた。

 俺はその輪から少し離れ、海の向こうに目を向ける。

 どこまでも続く暗い水平線。流氷の気配はない。

 朝ごはんを食べようにも、交流館のフードコートは営業時間前だった。

 乗船チケットを購入したあと、俺は自販機で買った温かい飲み物を手に、しばらくぼんやり過ごした。

 そういえば、家族にはお土産を買ったほうがいいんだろうか。

 シャッターの向こうに見える、暗い売り場をぼんやりと眺める。

 ボストンバッグの空きはほとんどないし、手で持って帰るのも少し億劫だ。

 クッキーは箱がかさばるし、生ものも扱いが難しい。

 かといって、グミを買って喜ぶような家族でもない。

 いっそ配達にすれば、ホタテやカニ、カマボコといった名産品も選べるけれど――。

 ……何のために買うのか。何しに、ここに来たんだったか。

 そもそも、俺は遊びに来たわけじゃない。

 必要、ないのかも。

『ご利用ありがとうございます。五時四十五分から乗船のお客さまは、チケットをご用意の上、列にお並びください』

 乗船を知らせるアナウンスが聞こえた瞬間、思考がぷつりと途切れた。

 周囲の流れに合わせて、俺も立ち上がる。

 早朝にしては人が多いと思っていたが、実際に並んだ列の長さには少し驚いた。

 冬休み中というのも、影響しているのかもしれない。

 俺はチケットを片手に、その列の中へと紛れた。

 始めから最後まで、デッキに立っていよう。遠路はるばる、ここまで来たんだ。見逃すわけにはいかない。

 外は、深い闇の中にあった。灯りらしい光といえば、交流館の室内照明と船、それに周囲のライト。あとは、夜空に浮かぶ大きな白い月だけだ。

 それでもこのあたりは、早朝とは思えないほどの賑わいがあった。

 期待に満ちた乗客たちの話し声。交流館の館内で流れる、どこか懐かしいポップソング。船着き場の壁にぶつかる波の音が、規則正しく耳に届く。

『日の出が見える予定時刻は、午前六時三十分頃です』

 船内放送を聞きながら、俺は腕時計に目をやる。だいたい三十分後くらいか。

 交流館側のデッキに立っていると、タラップが静かに引かれていった。

 そのまま、船がゆるやかに岸を離れていく。スタッフが、こちらに手を振っていた。

 少し離れた場所で、その姿に気づいた母親が、幼い子供と一緒に手を振り返していた。

 その光景に、俺の中でふと好奇心が芽生えた。

 きっと百合ちゃんがこの船に乗ったら、手を振ったんじゃないだろうか。

 そんな気がして、俺もスタッフに向かって手を振ってみた。

 すると、その動きに応えるように、さらに大きく両手が振られた。

 まるで、目が合ったかのような錯覚すら覚える。

 このとき、すでに心が満たされていたのかもしれない。

 俺は、その浮ついた気持ちのまま空を見上げた。

 不思議なことに、空が白み始めても、月はまだ、さっきと同じ場所に浮かんでいるように見えた。

 近づいてくる太陽の気配をよそに、夜の名残を引きずるその光景は、現実と幻のあいだを揺蕩うようだった。

 それでも空はじわじわと明るさを増していく。気づけば、船内にいた人たちも次々とデッキに現れ、手すりに手をかけて海を眺めていた。

 そのとき、優しげな声が投げかけられた。

「もう少しで見えそうですねー」

 話しかけられたのが自分なのかも分からず、反射的に振り返った。

「そろそろ予定時間ですよね」

 目が合ったのは、さっき親子で手を振っていた女性だった。

 首を少し傾けて、にこりと笑う。間違いなく、俺に向けられた言葉らしい。緊張しながらも、「そうですね」と、不器用に笑い返した。

 そのすぐあとだった。舌足らずな小さな声が、足元からぽつりとこぼれた。

「みえた」

 声のする方に視線を下げると、雪ん子のように着込んだ小さな子供が、腕をいっぱいに伸ばして海を指差していた。

 身長は俺の膝ほどしかない。ぶつからないようそっと距離をとった。

 この身長では、大人の足と海しか見えない。けれど、船の上では危ないからか、母親は抱き上げようとはしなかった。

 親子は、静かに列に並びながら、夜明けを待っていた。

 俺は手すりと身体のあいだに、子供が覗けるくらいの空間を作ってやる。母親にはどうにもできないことでも、子供の目に映る景色だけは、少しだけ開けた気がした。

「きた!」

 船の先端から歓声が上がる。俺も思わずそちらを見やったが、この場所からでは太陽は見えなかった。

 船内放送では『交代しながらご覧ください』と案内されていたが、誰ひとり、その場を離れようとはしなかった。美しい景色を目に焼き付けようと、カメラを構えたまま、じっと立ち尽くしている。

 その様子に、自然と気持ちが引き下がった。

 開き直った俺は、他人のカメラ越しに、ようやく太陽の姿を捉えることができた。

 まるで、誰かの配信をぼんやり眺めているような気分だった。

 その熱の中に、自分だけが入り損ねた気がして――。

 なのに、なぜだか、それが可笑しくてたまらなかった。

 太陽の姿をはっきりと見られたのは、それからだった。

 海面から太陽が離れ、シャッターを切り終えた人たちが次々に船内へ戻っていく。

 その流れのなか、甲板に残っていた親子の声が、ひときわ澄んで耳に届いた。

「あさになった!」

「朝になったねー。綺麗だねぇ」

 子供は、手すりの隙間から朝日を見つめ、ぽつりと呟いた。

「あか」

 聞こえた声を反芻しながら目の前の景色にもう一度、そっと意識を重ねる。視線の先には海面の縁からちろりと覗く太陽があった。

 これだって、紛れもなく立派な日の出だ。

 ひとつでも、何か感動を持ち帰りたくて。そう自分に言い聞かせる。

 実際、燃えるような朝焼けは見事だった。穏やかでいて、どこか力強い。静けさに包まれながら、胸の奥に小さな熱が灯る。俺はその光景に、そっと見入っていた。

 そしてふと、思う。百合ちゃんはこの景色を見て、どんなことを思ったんだろうか。

 ――来た甲斐があった、とか。

 口にしたそばから、少しだけ照れくさくなって、そっと息を吐いた。それでも、胸のあたりに残るのは、悪くない感触だった。

 子供の素直な言葉は、残念に思うはずの出来事さえ、どこか和らげてしまう。あの親子がそばにいてくれたことが、この朝の景色に、ささやかな救いを与えていた。

 思えば、どこかで落胆に備えていたのかもしれない。肩の力が抜けていくのを、ゆっくりと実感する。

 ゆらゆらと揺れる波が、かすかな光をたたえて視界の隅を横切っていく。

 その流れに気持ちもつられた。

 手の先まで冷えていたはずなのに、不思議と、動こうという気にはなれなかった。


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