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第二章 八角形の映画館


 決意が固まったあの日、俺は兄と一緒に両親を説得し、俺だけが藻川市へ向かうことにした。

 バスに揺られて五時間。流れる車窓の風景に目をやりながら、俺は百合ちゃんが過ごした最後の町を思い描いていた。

 彼女が生きていた頃には想像もしなかった旅路が、今、俺を運んでいる。

 拓真くんに教わった住所にたどり着いたとき、目の前に現れたのは、風変わりな八角形の映画館だった。

 インターホンを鳴らして扉が開くのを待つ間、上映スケジュールの看板に目を向けた。

「青写真……だけ?」

 午後六時の欄には、『青写真』とだけ記されていた。ほかの時間帯は、「ご相談ください」と書かれ、上映作品はぽつぽつと並んでいる程度だった。

「昔のばかりだな」

 少し退屈を感じて、視線をそらした。独特な構造の輪郭が目に留まる。興味を引かれて、一歩だけ下がった。

 ちょうどそのとき、扉が静かに開く。

 顔を出したのは、セミオートフレームの眼鏡をかけた男だった。

 はっきりとした目鼻立ちだが、表情はどこか不愛想だ。その口から「モトくん」と呼ばれて、わずかに意表を突かれる。

 けれど、寒さに肩を震わせている男に気づいて、すぐに名乗った。

「井ノ坂基将です。……永原さんですか?」

「そうだよ」

 その短い返事に、なぜか肩すかしを食ったような気分になる。

 永原夕一。大学時代からの友人だと聞いていたが、あの拓真くんが紹介するにしては、意外に距離のある人物に感じられた。

「案内するから入って。あ、雪はちゃんと払ってね」

 雪を払うくらいのマナーは心得ている。俺は、大袈裟に頭や靴の雪を払い落とし、中へ足を踏み入れた。

 建物からは、時代の匂いが微かに立ちのぼる。細部には丁寧なこだわりが息づいていた。あとで写真を撮らせてもらえないだろうか――そう思った瞬間、瑞々しい花の香りがふと鼻をかすめた。

 辺りを見回すと、出入口のそばに、大きな百合の花が花瓶に活けられていた。真っ白な花びらに目を引かれ、しばらく眺めていると、永原が声をかけてきた。

「いま、大学生だっけ」

「はい、次は三年生になります」

「じゃあ、これから忙しくなるね」

「……まあ、そうですね」

 たぶん、永原が言っていたのは就職活動のことだろう。早い人は二年の後半から動き始めるというが、俺はまだ、はっきりとした予定を立てられずにいる。

 とはいえ、聞かれれば答えるつもりはあった。

 けれど、永原はそれきり口を閉ざした。学生生活のことに、そもそも興味などなかったのだろう。言葉を切り捨てられたようで、少し胸に引っかかった。

 俺は、無言の背中を追いながら、足もとに沈む赤い絨毯を踏んで廊下を進む。わずかに弾むような感触が、歩くたび足裏に伝わってくる。この絨毯の感触は、昔から好きだった。

 気まずさを紛らわせようと、俺は壁に貼られた古びた映画のポスターに視線を移す。『オアシスの王冠』――授業で観たことのある作品だった。

 そのまま足を止めることなく、自然と視線を流しながら、案内された部屋へと入っていった。

 部屋に入った瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。

 開け放たれた窓から、外気がゆっくりと這い込んでくる。

 足元を見ると、床には箒の跡がまだ残っていた。掃除されたばかりらしい。

 隅には、椅子がいくつも重ねられている。

「ポータブルストーブはあるけど、暖房はないから基本的に寒いと思っておいて。あそこの椅子を好きにして良いし、ソファーをベッドの代わりにしても構わない。……あ、毛布が足りなかったら言って」

 永原は淡々と、けれど一定のリズムでそう話しながら開けっぱなしだった窓を静かに閉め、ストーブのスイッチを入れた。だが、空気が温まるまでには少し時間がかかりそうだった。

「くれぐれも火事には気をつけて」

「はい……あの、ご飯はどうしたら良いですか。永原さんは――」

「俺は近くの温泉で適当に食べるよ。一応ここでも料理はできるけど、君も今日はそこで食べておいで。他より手頃だから」

「一緒に行ってもいいですか?」

「……場所、あとで教えるよ。俺はひとりで行くから」

 その声には、どこか線を引くような静けさがあった。

 俺は言葉を探しかけたが、何も返せなかった。「分かりました」とだけ呟いて、視線を落とす。

 永原が部屋を出ていく背中を見送りながら、胸の内にじんわりと空虚が染みていくのを感じる。

 静寂だけが取り残され、窓辺からは冷気が部屋の隅々へと忍び込んでくる。

 しばらくして、俺は重い足を引きずるように椅子を運んだ。肩にかけていたボストンバッグを、その上に置く。

 赤いベロア生地の手触りに、少しだけ安心する。

 それから、簡単に荷解きを始めた。

 ボストンバッグの中から絵筆一式を取り出し、そっとテーブルに置く。

 中学生のころ、百合ちゃんが贈ってくれたものだ。

 スケッチブックを手に取り、ページをぱらぱらと捲る。

 道すがら見かけた猫や、想像で描いた改造バイク。どれも、ただ自分が好きなものばかりだった。

 ふと、胸ポケットから絵葉書を取り出す。窓の向こうの景色に、それをそっと並べてみた。

 見たものを描くのは、ずっと得意だった。けれど、この町だけは――その輪郭すら、心の中で曇ってしまう。

「自分のことだから、分かるんだよなー……」

 感情が技術を飲み込むとき、創作は濁り、やがて挫折に沈んでいく。

 それでも俺は、その絶望にどこまで喰らいつけるだろう。

 スケッチブックと絵葉書を机に並べる。ひとつ、息を吐いた。白い吐息が、冷たい空気に吸われるように消えていった。


 館内で温まれるのはストーブの前だけ。夜は、どこにいても息が白い。じっとしていられなくて、館内を歩きながら、俺は温泉に行くかどうか迷っていた。

 すると、暗い廊下に一本の光が伸びているのに気づいた。

 扉が少しだけ開いていた。俺はこっそり顔を出し、中を覗く。赤いベロアの座席が整然と並んでいる。

 そこはシアターだった。

 スクリーンは光っているだけで、何も映っていなかった。その静けさに、胸の奥がざわついた。

 永原と鉢合わせるかもしれないという気まずさが押し寄せ、俺は早くこの場を離れようと決めた。視線を逸らし、足早に踵を返したその瞬間、すぐ背後に永原が立っていた。

 不意を突かれたせいで、思わず「わっ」と声が漏れた。

 永原は目を丸くし、それでも声は落ち着いていた。

「その服……まだ風呂に行ってないんだろ。早く行っておいで」

 永原の肩から立ちのぼる湯気を見た瞬間、凍てついた感覚と、にじむような温かさが、同時に胸を満たした。

 ――風呂に入りたい。

 ただその気持ちだけが、はっきりと浮かんだ。

 俺は小さく頷き、足を向ける。

 その日、温泉の回数券を、一枚だけ、使った。


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