第十三章 集大成
数年が過ぎ、俺は学生生活を終えようとしていた。
俺の大学には、八十二歳で入学した同級生がいる。年齢に関係なく、挑戦を恐れず、夢を追い続けていることに、俺は何度も心を動かされた。
彼が入学した当初から、新聞社は継続的に取材を続けていた。今日は、俺たちの卒業制作展の日。もちろん、彼の卒業も記事になった。
それを読んで訪れた人たちは、彼の「新しいことに挑む姿勢」に感動したと、時に涙ながらに語っていた。
誰もが声をかけ、賞賛を寄せる――あの人がようやく一息つけるのは、きっともう少し先のことだろう。
小さな人だかりを眺めながら、同級生の作品を見て回っていると――ふいに、名前を呼ばれた。
待ち望んでいた声だった。
パッと振り向くと、峰子が立っていた。目が合うと、彼女は小さく手を振った。
「早く着いちゃった」
俺は「あ」と小さく声を漏らした。ポケットから携帯を取り出す。峰子からの通知が届いていた。
「ごめん、気づかなかった」
「いいのよ」
峰子が動くたびに、柔らかな髪が揺れる。
俺は機嫌良く、目元に弧を描きながらその姿を見つめる。
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「今日も可愛いね」
思ったままを口にしたつもりだったが、場所が場所だけに、峰子は小さくお礼を言うだけだった。
彼女の姿が視界に入った途端、周囲の喧騒が妙に遠くに感じられた。
「それで、基将の絵はどれ? ……あ、やっぱり待って。自分で見つけたい」
彼女の顔には、自信のようなものが浮かんでいた。
俺も似たような表情で、「すぐに分かるよ」と頷いた。
峰子は、入り口から順に、キャプションが読める程度の距離を保ちながら、足早に作品を見ていく。
版画、シルクスクリーン。
デジタルデザイン、ロゴデザイン。
小さな動物の陶器人形。
木の食器、木の家具。
水彩、油彩、テンペラ画。
多様な作品群の間を、峰子の視線が流れる。
その横顔を見ながら、俺は小さく声をかけた。
「明日、拓真くんも来てくれるんだ」
「……ふたりは、最近どうしてるの?」
「時々連絡してるみたい。拓真くんなんて、このまま永原さんが独身を貫くんじゃないかって心配してた」
「お兄さんにしてみたら、それ、嬉しいことなんじゃないの?」
「それはそれで、重いらしいよ」
「ああ……間違いない、かも」
峰子は、クスクスと肩を揺らした。
「陽向は部活の友達と同人誌を出すんだってね」
「そうそう。それと、今年は美術部の子に表紙を書いてもらうんですって。……おじいちゃんったら、助けてもらったのをきっかけに、見かけるたび陽向くんに話しかけてるんだって。それで……」
「栄吉さんにも読んでもらってるって言ってたし、いい刺激になってるんじゃない?」
いろんな人の言葉に触れるって、やっぱり大切だ。
俺にも、思い当たる節があるからこそ――その話が、どこか微笑ましく感じられた。
話をしているうちに、峰子はひとつの絵の前で立ち止まった。
何かに気づいたように、そっと歩みを止める。
俺は、その横顔を盗み見ながら、胸の奥に少しずつ熱が満ちていくのを感じていた。
峰子は、無言のまま視線を滑らせ、絵の細部に目を凝らしている。
見慣れたモチーフに、彼女だけが気づいてくれることを、俺はどこかで願っていた。
やがて、峰子が小さく息を呑んだ。
「看板と、同じ」
俺は、嬉しくて、グッと目尻を寄せる。
「ご名答」
得意げに言うと、峰子は口元を綻ばせた。
そして再び視線を絵に戻し、全体が見える位置まで、ゆっくりと歩を進める。
やがて立ち止まると、ぽつりと呟いた。
「これって――」
水面を縁取るような、澄んだ声だった。
細くて綺麗な指先が、キャプションをそっと指し示す。
「青写真って意味だよね?」
「そう。永原さんが観ていた映画のタイトルは、呼び方が違うんだ」
「あれから、夏も、次の冬も藻川で会ったのに……」
俺が描いたのは、使い古された映画館の入り口に飾られていた、百合の花だった。その傍には、あのラジカセも添えた。
藻川で描いた『青写真』の看板と同じ、グリザイユ画法に青を重ねて仕上げている。
百合の部分だけは、白く塗るのではなく、光の縁取りだけで白さが際立つようにした。
子供のころから知っていた、輪郭だ。
しばらくの沈黙の後、峰子が小さく呟いた。
「不思議……潮の匂いと、百合の瑞々しさ、それに、ふと白檀のような懐かしい香りが混ざってるみたい。……でも、貴方の絵は少し違うんだね。まるで、フィルムが滲んで、姿が見えるように……温かくも見える」
峰子の感性と、その言葉選びに、俺の心は躍った。
彼女の目に、俺の絵がこんなふうに映っていることが、素直に嬉しかった。
そして、そのひとつひとつに、尊敬の念を抱いた。
彼女の存在は、俺の心を、確かに明るく照らしてくれる――そう思えた。
幾度も見た、あのときの赤。
迷わないようにと、静かに道を示してくれた、あの色――。
「太陽に焼きつけるように、残すんだって。……だから、あのやり方を選んだよ。忘れないために」
絵を見つめる峰子の目が、ふっと細められる。
あの日、『青写真』の絵を初めて見たときも、彼女はこんな表情をしていた。
「残りの二年間で、たくさん学んだはずなのに……基将が選んだのは、あの場所だったんだね」
「その二年間が、俺を大きく変えたんだ。たとえ、縛られてるって言われたとしても、本望だよ。……俺は、あの時間があったからこそ、今の自分があると思ってる」
自然と視線が重なり、どちらからともなく、小さく頷いた。
「永原さんは来たの?」
「明日、来てくれるって。今日は枝松さんのお孫さんの誕生日で、シアターを貸し切ってるらしい」
「それは断れないね。……早く見てほしいな。すごく喜ぶよ」
「そうだといいけど。……まさか、拓真くんと一緒じゃないよね」
「なくもない、かも」
ふたりで並んで絵を見ていると、俺は藻川で過ごした日々を思い出した。
悲しみに大きさはないのだと、少しずつ理解できるようになった今でさえ、永原の心を思うと、胸の奥に小さな痛みが残る。
愛を伝えるどんな言葉よりも、深く、静かに突き刺さるもの——それは、ただ、愛する人の名前だった。
枯れた花が花瓶に飾られないように、彼の愛が消えることはない。
青は、言葉にならなかった別れのかわりに、ふたりへ届けられた、唯一の形だった。
永原が、今も「百合」と名を呼び続けていること。それは、どんな祈りよりも確かに、彼女をこの世に繋ぎ止めている。
俺は改まって、峰子に向き直った。
「今日は、来てくれてありがとう」
軽く頭を下げると、峰子は「私のほうこそ、招待してくれてありがとう」と目を細めた。
「これからだって誘うよ」
肩をすくめると、「何度でも?」と、いたずらっぽく笑ったその仕草に、俺の不器用なアプローチが、そっと受け止められた気がした。
あの夜、感覚のない手を握り合って探した熱が、ふいに思い出された。
後悔を残さずに生きるのは、たぶん、難しい。一瞬のうちに消えてしまうものばかりだから。
それでも君を前にするたび、見失わないようにと、自分に言い聞かせてきた。
人生にリテイクはない。
曖昧にすれば、あっという間に過ぎ去る。
だからこそ、繰り返す。
「何度でも」
そう口にして、自分に刻む。
絵のタイトルは『サイアノタイプ』。
あの日々を焼き付けた、青の記憶である。




