第十二章 長距離バス
別れの日。
空がオレンジ色に染まり始めた頃、俺は幌井行きのバスの横に立っていた。
見送りに来てくれたのは、永原、ミネ、栄吉さん、陽向、それに枝松さんだった。
枝松さんからは、抱えるのも大変なくらいのお土産をもらい、そのずっしりとした重みに、感謝の気持ちが込み上げてきた。
「いや〜、随分たすかったよー。またこっちに来たら、お店のほうもよろしくね」
「はい。俺のほうこそ、大変お世話になりました。本当に、ありがとうございました」
一歩、枝松さんが下がると、鼻の頭を赤くした永原が、掌を差し出した。
俺は、それにハイタッチを返す。
穏やかな表情を浮かべながらも、少しだけ寂しそうに見えるのは――俺の願望だろうか。
「ここで得た感覚に縛られず、自由に絵を描けよ」
「……言われなくっても」
まるで陽向と同じ返しじゃないか。
俺は照れ隠すように、つま先で雪を数回、かいた。
俺のことは、もう心配しなくていい。
絵を描くこと以上に、何を描くかで悩む時間の方が、きっと長くなる。
でも、それでいい。その時間には、苦しさも、楽しさもあって、まるで長い旅路を歩いているような気がするから。
卒業制作展の日は、必ずやって来る。
それは、四年間のすべての集大成だ。
技術だけでなく、俺という人間が、どんなふうに変わったかを映すものになる。
今も、構想はゆっくりと形になりつつある。
下書きに辿り着くまでに、まだまだ時間はかかりそうだけど――それすら、きっと一興だ。
「今度は、楽しみにしてる」
永原は、物思いにふけるような笑みを浮かべながらも、その目は、まっすぐに俺を見つめていた。
――船の上では、交わらなかった視線。
今、ようやく交わった。
俺は、永原の言わんとすることを、確かに理解した。
「また来ます」
結局、温泉の回数券は使い切れなかった。
けれど、それでもいい。再会したときに使えばいいんだ。
まだ、残っている未来のために。
ふと視線を動かすと、栄吉さんと目が合った。
ミネがそっと背に手を添えていた。
支え合える人がいる。
その姿が、何よりも心強く見えた。
「君は、友だちの家になれるような木だね」
あの日、聞かせてくれた話の続きだと気づいた。
高く評価されているようで、少し気恥ずかしかった。
「……いるだけで、雨宿りになれるなら……それは、嬉しいかもしれないって、そう思います」
藻川で過ごした日々のなかで得た後悔は、言い訳のような理屈で自分を守っていた俺を解き放ってくれた。
胸の奥から、少しずつ言葉が溢れていく。
そのとき、不安げに瞳を揺らすミネと目が合った。
その視線に、胸が詰まるような思いが込み上げてきた。
「これでお別れ、なんて……やめてよ?」
「それはこっちのセリフ」
「じゃあ、言わせてもらうけど。……またね」
「うん。また」
離れるのが、こんなにも辛くなるなんて――藻川に来たばかりの頃の俺には、想像すらできなかった。
「また」その一言が、こんなにも嬉しいものだなんて。
言葉ひとつに、こんなにも大切な意味が込められているなんて、知らなかった。
今なら、その重みを、ちゃんと胸に受け止めることができる。
次に、俺は陽向に視線を向けた。
けれど、陽向は落ち着かない様子で、別れの時だというのに、俺たちのやり取りにただ相槌を打つばかりだった。
何か声をかけようとした、そのときだった。
「これ!」
陽向が唐突に、小さな紙を俺に差し出した。
受け取ると、それはメモ用紙の切れ端だった。
「新しい話、書くから。できたら連絡するから!」
緊張のせいか、可笑しいほど大きな声だった。
でも、その初々しさが眩しくて、俺を含め、みんな自然と表情が綻んでいた。
紙を開くと、相変わらず隙のない、綺麗な字で、住所と電話番号、メールアドレスまで書いていた。
繋がりを求められた気がして、嬉しかった。
「それ、絶対な」
拳を軽く合わせた。まるで、男同士の約束みたいで――俺は思わず、笑ってしまった。一番やらなそうなやつだったのに。
俺は、改めてみんなを見渡して、頭を下げた。
ただ、寂しさの居所を探しに来ただけの旅だったのに。
結局、多くのものをもらったのは、俺のほうだった。
百合ちゃんには、叶わないなあ。
今だって、あなたがこの場にいないことが、変だって思ってるんだからね。
空からは、儚くて脆い雪が降っていた。
その中に佇む、八角形の映画館を思い浮かべる。
俺が描いた看板が、少しだけ、あの場所を明るくしていた気がした。
まるで、大役を果たしたあとのような、そんな気持ちだった。
ああ、寂しいなあ。
でも――その気持ちごと、連れていくことにした。
俺は、重たい足で離れる。
そして、みんなに手を振って、バスに乗り込んだ。
◇
俺を乗せたバスは、静かに発車した。
視線を逸らし、町の風景ががらりと変わったその瞬間、思わず息を飲む。
「ヴィントレダイ」
呟いたのか、それとも、ただ胸が震えただけだったのか。
町の中を走っているだけでは、実感は湧かなかった。けれど――ようやく、その瞬間が訪れた。
窓の向こうには、昨日よりも格段に多くの流氷が、岸に押し寄せていた。
今年初めて、流氷が接岸したのだという。
ふと、百合ちゃんのことを思った。
まだ白い楽園に名前がなかった頃、この世には、死んだ命のために描かれた大地が、未完成のままだった。
彼女は、この白い風景を見て、何を感じたのだろう。
楽園の名前を知ったとき、「素敵ね」と笑ったかもしれない。そうなる――はずだったのだと思う。
きっと、輪郭のない思いだけが、静かに心に積もっていく。
俺は、彼女の笑顔を思い浮かべながら、少しでもその気持ちを理解し、話せるようになれるだろうか。
永原とは、どんな会話をしたのだろう。そんな言葉を言える日が、いつか来たらいい。
今はまだ、悲しみが勝っていた。
デジタルカメラを起動し、真っ白な海を画面に収める。
スライドを進めると、ぎこちなくピースをしている俺とミネの写真が映った。思わず、笑みがこぼれる。
次に会ったとき、あの言葉を言えるだろうか。
ミネは、驚くだろうか。それとも、少し照れたように笑うだろうか。
できれば、照れ笑いがいい。
それだけで、俺は嬉しくなるんだ。
呆れた顔だって、きっと可愛いに決まってる。
カメラの電源を切り、窓に視線を戻した。
太陽は、あっという間に暮れていた。
流れていく青白い雪と、真っ黒な木の影を眺めていると、ひどく寂しくなった。
俺は、冬の藻川に――言葉にできないままの想いを、そっと置いてきた。
その気持ちを、胸の奥にそっと抱えたまま、目を閉じた。




