表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

第十二章 長距離バス


 別れの日。

 空がオレンジ色に染まり始めた頃、俺は幌井行きのバスの横に立っていた。

 見送りに来てくれたのは、永原、ミネ、栄吉さん、陽向、それに枝松さんだった。

 枝松さんからは、抱えるのも大変なくらいのお土産をもらい、そのずっしりとした重みに、感謝の気持ちが込み上げてきた。

「いや〜、随分たすかったよー。またこっちに来たら、お店のほうもよろしくね」

「はい。俺のほうこそ、大変お世話になりました。本当に、ありがとうございました」

 一歩、枝松さんが下がると、鼻の頭を赤くした永原が、掌を差し出した。

 俺は、それにハイタッチを返す。

 穏やかな表情を浮かべながらも、少しだけ寂しそうに見えるのは――俺の願望だろうか。

「ここで得た感覚に縛られず、自由に絵を描けよ」

「……言われなくっても」

 まるで陽向と同じ返しじゃないか。

 俺は照れ隠すように、つま先で雪を数回、かいた。

 俺のことは、もう心配しなくていい。

 絵を描くこと以上に、何を描くかで悩む時間の方が、きっと長くなる。

 でも、それでいい。その時間には、苦しさも、楽しさもあって、まるで長い旅路を歩いているような気がするから。

 卒業制作展の日は、必ずやって来る。

 それは、四年間のすべての集大成だ。

 技術だけでなく、俺という人間が、どんなふうに変わったかを映すものになる。

 今も、構想はゆっくりと形になりつつある。

 下書きに辿り着くまでに、まだまだ時間はかかりそうだけど――それすら、きっと一興だ。

「今度は、楽しみにしてる」

 永原は、物思いにふけるような笑みを浮かべながらも、その目は、まっすぐに俺を見つめていた。

 ――船の上では、交わらなかった視線。

 今、ようやく交わった。

 俺は、永原の言わんとすることを、確かに理解した。

「また来ます」

 結局、温泉の回数券は使い切れなかった。

 けれど、それでもいい。再会したときに使えばいいんだ。

 まだ、残っている未来のために。

 ふと視線を動かすと、栄吉さんと目が合った。

 ミネがそっと背に手を添えていた。

 支え合える人がいる。

 その姿が、何よりも心強く見えた。

「君は、友だちの家になれるような木だね」

 あの日、聞かせてくれた話の続きだと気づいた。

 高く評価されているようで、少し気恥ずかしかった。

「……いるだけで、雨宿りになれるなら……それは、嬉しいかもしれないって、そう思います」

 藻川で過ごした日々のなかで得た後悔は、言い訳のような理屈で自分を守っていた俺を解き放ってくれた。

 胸の奥から、少しずつ言葉が溢れていく。

 そのとき、不安げに瞳を揺らすミネと目が合った。

 その視線に、胸が詰まるような思いが込み上げてきた。

「これでお別れ、なんて……やめてよ?」

「それはこっちのセリフ」

「じゃあ、言わせてもらうけど。……またね」

「うん。また」

 離れるのが、こんなにも辛くなるなんて――藻川に来たばかりの頃の俺には、想像すらできなかった。

「また」その一言が、こんなにも嬉しいものだなんて。

 言葉ひとつに、こんなにも大切な意味が込められているなんて、知らなかった。

 今なら、その重みを、ちゃんと胸に受け止めることができる。

 次に、俺は陽向に視線を向けた。

 けれど、陽向は落ち着かない様子で、別れの時だというのに、俺たちのやり取りにただ相槌を打つばかりだった。

 何か声をかけようとした、そのときだった。

「これ!」

 陽向が唐突に、小さな紙を俺に差し出した。

 受け取ると、それはメモ用紙の切れ端だった。

「新しい話、書くから。できたら連絡するから!」

 緊張のせいか、可笑しいほど大きな声だった。

 でも、その初々しさが眩しくて、俺を含め、みんな自然と表情が綻んでいた。

 紙を開くと、相変わらず隙のない、綺麗な字で、住所と電話番号、メールアドレスまで書いていた。

 繋がりを求められた気がして、嬉しかった。

「それ、絶対な」

 拳を軽く合わせた。まるで、男同士の約束みたいで――俺は思わず、笑ってしまった。一番やらなそうなやつだったのに。

 俺は、改めてみんなを見渡して、頭を下げた。

 ただ、寂しさの居所を探しに来ただけの旅だったのに。

 結局、多くのものをもらったのは、俺のほうだった。

 百合ちゃんには、叶わないなあ。

 今だって、あなたがこの場にいないことが、変だって思ってるんだからね。

 空からは、儚くて脆い雪が降っていた。

 その中に佇む、八角形の映画館を思い浮かべる。

 俺が描いた看板が、少しだけ、あの場所を明るくしていた気がした。

 まるで、大役を果たしたあとのような、そんな気持ちだった。

 ああ、寂しいなあ。

 でも――その気持ちごと、連れていくことにした。

 俺は、重たい足で離れる。

 そして、みんなに手を振って、バスに乗り込んだ。



 俺を乗せたバスは、静かに発車した。

 視線を逸らし、町の風景ががらりと変わったその瞬間、思わず息を飲む。

「ヴィントレダイ」

 呟いたのか、それとも、ただ胸が震えただけだったのか。

 町の中を走っているだけでは、実感は湧かなかった。けれど――ようやく、その瞬間が訪れた。

 窓の向こうには、昨日よりも格段に多くの流氷が、岸に押し寄せていた。

 今年初めて、流氷が接岸したのだという。

 ふと、百合ちゃんのことを思った。

 まだ白い楽園に名前がなかった頃、この世には、死んだ命のために描かれた大地が、未完成のままだった。

 彼女は、この白い風景を見て、何を感じたのだろう。

 楽園の名前を知ったとき、「素敵ね」と笑ったかもしれない。そうなる――はずだったのだと思う。

 きっと、輪郭のない思いだけが、静かに心に積もっていく。

 俺は、彼女の笑顔を思い浮かべながら、少しでもその気持ちを理解し、話せるようになれるだろうか。

 永原とは、どんな会話をしたのだろう。そんな言葉を言える日が、いつか来たらいい。

 今はまだ、悲しみが勝っていた。

 デジタルカメラを起動し、真っ白な海を画面に収める。

 スライドを進めると、ぎこちなくピースをしている俺とミネの写真が映った。思わず、笑みがこぼれる。

 次に会ったとき、あの言葉を言えるだろうか。

 ミネは、驚くだろうか。それとも、少し照れたように笑うだろうか。

 できれば、照れ笑いがいい。

 それだけで、俺は嬉しくなるんだ。

 呆れた顔だって、きっと可愛いに決まってる。

 カメラの電源を切り、窓に視線を戻した。

 太陽は、あっという間に暮れていた。

 流れていく青白い雪と、真っ黒な木の影を眺めていると、ひどく寂しくなった。

 俺は、冬の藻川に――言葉にできないままの想いを、そっと置いてきた。

 その気持ちを、胸の奥にそっと抱えたまま、目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ