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第十一章 映写室


 朝、普段ならアルバイトの準備をしている時間だったが、枝松さんから「今日は休み」と電話があった。理由を尋ねても、笑うだけで「おじさんは気が利くんだよ。じゃあね」と機嫌よさそうに言い残して通話を切った。ぼんやりした頭では二度寝もできず、俺はしぶしぶ布団を出た。

 朝食は、永原が用意してくれたアカラとアカム。ナイジェリアでよく食べられているらしい。

 揚げたてのアカラは外がカリッとしていて、豆の香りがふわりと立つ。アカムは、ほんのり甘くて、どこか優しい味だった。

 最近、永原はいろんな国の食事を作ってくれた。「世界を旅していた」という話が、こうして現実味を帯びていく。

 当の本人は、朝からタバコを吸っていた。

 健康を気遣いたい気持ちはあったが、せっかくの朝食の手前、口に出すのはやめた。

 テーブルの端には、あの日渡したラジカセが置かれていた。それが嬉しくてたまらなかった。

 毎朝、それを使ってラジオを聞くのが、日課になりつつある。

 ちょうどタイミングを測るように、天気予報が流れはじめた。

「本日の天気は曇り時々晴れです」

「続いて流氷情報センターからのお知らせです。――本日午後、流氷帯が観測される見込みです」

 流氷という言葉に、ぼんやりした頭がすっと覚めた。

「永原さん、百合ちゃんと流氷を見に行ったことありますか?」

「何度もあるよ」

「今日、流氷帯が来るらしいですよ」

「聞いてた」

 永原は笑って、「……行くんだろ」と言った。俺は頷く。

「一緒に行きましょう」

 返ってきた反応は、やっぱりという感じだった。

 一瞬、理解できないような顔をしてから。

「俺と? 峰子ちゃんと行けよ」

 そう言って、あからさまに嫌そうな顔をした。

 それでも、俺は引かなかった。

「ここに来て、永原さんの嫌がることばかりしてる自覚はあります」

「いや、え、なんで。別に、そんなことばかりじゃ――」

「だから、無理やりでも、連れて行きます」

「あのな……俺はまだ、そういうところには――」

「百合ちゃんが見た景色を、俺も見たいんです……永原さんも、そこにいたんですよね?」

 両手を合わせて、頭を下げる。

 口の端に食べかすがついてる気がしたが、もう気にしていられなかった。とにかく、お願いするしかない。

 しばしの沈黙ののち、永原は「……駐車場までなら」と、十分ばかり逡巡した末に、渋々うなずいた。

 俺は思わず顔を明るくして、「あざす!」と大きな声を上げた。

「約束っすよ」

「すごい妥協してやったんだからな。これ以上の意地悪は言うなよ」

 嬉しさを噛みしめながら、俺は牛乳を一気に飲み干した。

 

 ――それが、あの朝の出来事だ。

 そして今、俺は永原と一緒に交流館に来ている。

 駐車場で待つと言い張る永原を、時間がないと急かしてフードコートまで引っ張ってきた。

 俺はそのまま、チケット売り場の列に並んだ。

 順番が来て、「大人二枚ください」と言い、指で二を示す。

「あ、おい。俺は乗らないって言っただろ」

「二枚ください」

 受付の女性が戸惑いながら、「あの……お連れさまは」と、列の外の永原を見た。

 俺はそれを無視して、「大丈夫です。お願いします」と押し通す。

 永原は非常に重たい溜息を吐いたが、それ以上の抗議はしなかった。

 俺たちを乗せた船が岸を離れ、エンジンの低い唸りが響きはじめる。

 俺は甲板に出て、カメラを構えた。

 風が冷たく、頬を打つたびに目を細める。

 永原にレンズを向けると、あからさまに嫌そうな顔をしながら、無理やりピースをしてみせた。

 その不器用さがおかしくて、思わず笑ってしまった。

「お前、データがいっぱいになるぞ」

「予備を持ってきてるんで、大丈夫です。――あ、うわ、あそこ降りられるんだ。ドリルすげー」

「前に見なかったのか? 動いてるところも面白いぞ」

「じゃあ、あとで見に行きましょう」

「ひとりでも行けるだろ」

「一緒に見たいんですって」

 永原はときどき、居心地の悪そうな表情を見せた。

 それが俺の我儘のせいなのか、それとも、まったく別の理由なのか――いまの俺には、まだ分からない。

 けれど、永原が隣にいることが嬉しくて、それ以上に気を配る余裕なんてなかった。

「ほら、記念に撮ってやるよ。カメラを寄こせ」

「え、あざっす!」

 船が揺れ、波が荒く船体を叩く。その振動を足元に感じながら、俺は船に取り付けられた機械のそばに立ってポーズを決めた。

「永原さんも撮ります?」

「俺はいいよ」

「いやいや、せっかくだし撮りましょうよ。ひとりが寂しいなら、俺と一緒に……」

 永原の反応が強くないのを見て、俺は近くにいた親子に声をかけた。

「すみません、写真お願いしてもいいですか?」

 誰かを巻き込めば、永原は強くは断れない――それを、俺はもう知っていた。

 船内、海、空。

 一通り撮り終えて、船が向かう先をぼんやりと見つめる。

 隣で手摺をつかんでいた永原が、ぽつりと呟いた。

「すげぇーのな……」

 その言い方は、感心というより、どこか呆れているように聞こえた。

「写真を見返したときに、一緒に行ってよかったって思えるじゃないですか。だから、並んで撮るって、意外と大事なんすよ」

 機嫌良く話す俺とは対照的に、永原は眉を八の字にして、ふっと肩の力を抜いた。

「なんだかんだで、似たようなことを言ってるんだよな……」

 呆れたようなその声に、少しだけ、やわらかな色がにじんでいた。

「風呂の券でこんな場所まで来る奴だ。知らん人に話しかけるなんて、造作もないってか」

 永原が呆れたように笑う。

 そういうわけで、もう俺の行動力については、諦めてくれたらいいんだけど――なんて。流石にそれは、ちょっと生意気か。

 俺は曖昧に笑って、海を眺めた。

「ここに来て、行動力が身につきましたからね。だって、匂いや温度を知るには、たくさんのことを経験して、自分のものにしないと」

 土産屋で、届いた絵葉書と同じものを見つけたとき――確かに、百合ちゃんの気配を感じた。

 足跡を辿ったとき、目が、心が、あの人に通じているような気がしたんだ。

「藻川での日々は、百合ちゃんの痕跡を辿ることで、俺の中に静かに冥合していきました。その形や色を、自分の奥でなぞるようにして、絵にしていく――」

 言いながら、自分でも驚いていた。

 これまで意識してこなかった。でも、きっと俺は、ずっと――。

 何も分からないなりに、それでも大切なものを守りたくて、ここまで歩いてきたのかもしれない。

 まるで、それだけを握りしめていた、自分だけの指針だったかのように。



 遥か遠い記憶――まだ知らないことばかりで、世界がどこまで広がっているのか、想像すらできなかった。

 でも確かにそのとき、俺は知った。

 世界は、無限だって。


「モトくん、絵を描いたんだって? お母さんから聞いたよ」

 幼い俺は背を向けたまま、黙って消防車の玩具を床に走らせていた。

 赤いボディが光を反射しながら転がっていき、やがてカーペットの端で止まる。

 その一連の動きを、ただじっと見つめていた。

 言葉にしたくない思いが、小さな胸の奥で渦を巻いている。

「上手だもんね。お姉ちゃんにも見せてよ」

「じょーずじゃない」

 乱暴に玩具を放り投げると、プラスチックの車体がブロックにぶつかり、鈍い音を立てた。

 その音が、心の中の小さな痛みを反響させるようだった。

「こうじくんに、へんっていわれた。かおのせんは、ちゃいろとかみどりじゃないって」

「そうなの?」

「かみのいろはちゃいろとくろ。めもそれ。くちのなかは、あかだって」

 それまではただ、夢中で描いていた。

 けれど、頑是ない子どもの言葉が、こんなにも簡単に、他人を傷つけることがあるなんて思いもしなかった。

 好きだったはずの絵を描くことが、あの日からひどく億劫になったのを覚えている。

 百合ちゃんは黙って俺の肩にそっと手を置いた。

 そして、ゆっくりと向き合わせる。

 癇癪を起しかけている俺に対して、どこまでも穏やかに、構えてくれていた。

「これは?」

 舌を出して見せる百合ちゃんに、「あか」と答える。

 舌が引っ込められ、また聞かれる。

「これは?」

 今度は、口の中を指していた。

「あかじゃない。くらいあか……ちゃいろ」

「モトくんもやってみて」

 真似して舌を出すと、百合ちゃんはふわりと笑った。

「本当だね。じゃあ、私の顔の線は何色?」

「……しろ」

 頬の片側にだけ、窓から差し込む光が白く映えている。それが俺には、はっきりと「色」として見えていた。

 そっと、受け止めるように。

 百合ちゃんは、ゆっくりとまばたきをした。

 その仕草が、幼い俺にはとても綺麗で、まるで光がきらめくように見えた。

「でも、しろでせんはかけないんだって。しろは、はとか、ゆきのいろ。でも、ぬるだけなんだって」

「どうして?」

「そう、いわれたから」

「モトくんには、そう見えているのに?」

 恥ずかしかった。放っておいてほしかった。

 俺の見ている世界が、みんなのそれと違うのだと、気づいてしまったから。

 視線をそらし、じっと手を握る。

「どこが白に見えたの? 触って、教えてくれる?」

 俺は、涙をこらえながら、百合ちゃんの頬を指で押した。

 温かくて、柔らかかった。

「こっちのほっぺは?」

「しろじゃない。こっちだけ。まどのひかりとおんなじ、しろ」

 百合ちゃんは、花が咲くように微笑んで、俺の頬に触れた。

「モトくんのほっぺも、こっちだけ白い線」

 それは、特大の肯定だった。

 胸がいっぱいになって、俺は幼稚園で描いた絵を取りに、部屋へ走った。

「これ! これ! おかあさんとおとうさん! はれのひは、かみのうえが、ちゃいろにみえるの! くさのはじっこは、しろとか、うすいきいろになる! それで、それで、くさにちかづいたら、かおがすこしみどりになるんだよ! ほしのいろは、きいろだけじゃないの、あかもあるんだよ! めのはじっこみたいなの! めも、めも、ひかりがあたるとちがういろになるの!」

 ぴたりとくっついて話す俺の背中に、百合ちゃんの手が、そっと添えられた。

 言葉が止まらなかった。

 知ってほしかった。たくさんの発見をしていたことを――。

 涙が、ぼろりと零れる。

 おれは、へんじゃない。

 うそをついていない。

 どうして、みんなはわからないの。

 百合ちゃんは、俺を膝の上に抱え、優しく背中を撫でてくれた。

「モトくんは絵が上手だね。きっと、これからも、もっとたくさんの色に気づけるよ」

 ふわり、ふわりと浮かんでは掬われる、悲しみや悔しさ。

 温かな手が、小さな子守唄のように、背中をそっと撫で続けていた。

「色ってね、無くても在るの。透明だって、ある。音も、匂いも、温度も……全部、色を持ってる。モトくんには、その色を見る目があるんだよ。世界を、ちゃんと、美しく見つめることができるんだよ」

 今でも、その言葉を覚えている。

 色を想像するとき、つくるとき、心と頭の中に、やさしい渦が巻く。

 穏やかで、小さなハリケーン。

 それは、これまでの認識を変えてくれた。

 描くための目を、俺に与えてくれた。

 優しさに満ちた言葉だった。


 だから――泣かないで。

 たくさん、絵を描いて。

 それで、また、お姉ちゃんに見せてね。

 モトくんの描いた絵、大好きだよ。



 剛悍な波に、船が大きく軋む。

 凍てついた冬の海。手すりを握る指先に、力がこもる。

 耽ることすら、許されない場所。

 それでも俺は、揺れる視界に目を凝らした。

 ずっと探していた何かが――ようやく、見えた気がした。

「……やっと気づけた」

「なに?」

 視線の先に、白い帯が広がっていた。どこまでも続く静寂。

 息を呑むほどの光景だった。

 流氷は、広大な海に帯のように連なり、そのただ中に立つと、畏怖すら芽生える。

 けれど、その奥には、確かに――希望がある気がした。

 まるで、記憶の向こうへと続く道。

 白銀の楽園を連れてくる、静かな道標。

「知っていますか? 寒さも匂いも、色を見るための要素なんですよ」

 船が氷を割る。鈍い衝撃音とともに、砕けた欠片が海面を跳ねた。

 すぐそこに広がるのは、深く青緑に染まる冬の海。

 冷たい風が頬を刺し、肌を引き締める。

 その痛みでさえ、世界の一部として、確かにそこにあった。

 心が震えた。

 ずっと知りたかった景色が、今、目の前にある。

 アナウンスが響き、船はゆっくりと動きを止める。

 手すりに身を寄せ、真下を覗き込むと――

 透き通るような世界が、そこにあった。

 氷の下には、エメラルドグリーンの海。

 水に浸した絵の具が、そっと滲むように広がっている。

 ひび割れた氷の断面には、静かな時間の流れが刻まれていた。

 限られた時間と場所の中で、いくつもの条件が重ならなければ見ることのできない、美しい自然の光景。

 俺はその景色を、目に焼きつけた。まぶたの裏に映る残像までも、そっと閉じ込める。

 今夜、目を閉じれば、赤い星が暗闇の中で瞬くだろう。

 少し怖いとさえ感じるほど広大な氷の世界に、ひとつの弔いの光が灯る。

 やがて、船がゆっくりと動き出す。

 ガリガリと鋭い音を立てて氷を砕きながら、ゆっくりと道をつくる。

 砕けた氷片が水に沈むたび、冷たく硬質な音が、深く響いた。

 手袋の中で、指先がかじかんでいく。それでも俺と永原は、船内に戻ろうとはしなかった。

 寒ささえも、この景色の一部だと感じていたからだ。

 やがて、流氷帯の端が見えてきた。

 あそこを抜ければ、きっと、深い青の世界にたどり着く。

 空はあいにくの曇りで、灰色の奥に、白い太陽が淡く光を放っていた。

 俺は、期待を胸に膨らませながら、前を見据える。

 流氷帯を抜ける、その瞬間を――

「迫力、すご……」

 船は、いつのまにか穏やかさを取り戻していた。

 風もどこか柔らかくなり、肌に当たるたび、ほんの少しだけ温かく感じる。

「感動した」

 胸の奥から、自然と声が漏れた。

 興奮が冷めきらないまま言うと、隣で永原が「俺も」と短く応えた。

 その一言が、妙に嬉しかった。思わず、笑みがこぼれる。

「百合と一緒に見たときは、海の向こうまで流氷が覆い尽くしてたんだ。そりゃあ、音も振動も、比にならないくらい凄かったんだよ」

 永原が、百合ちゃんと見た流氷のことを話しはじめた。

「いいなあ」と相槌を打ちながら聞いていると、昔はもっと氷が厚かったとも言った。

 永原たちが見た景色は、今よりもっと迫力があったのかもしれない。

「本当に、綺麗だったんだ」

 俺はムッとして、思わず永原を振り向く。

 ――今、俺たちが一緒に見た景色だって、十分に綺麗だったはずだ。

 そう言い返したかった。でも、口を開きかけたまま、すぐに閉じる。

 語るには、まだ辛いはずだ。それなのに、永原は懐かしさを込めて、その言葉を口にした。

 彼にとって、それがどれほど大きな意味を持つのか――今日まで共に過ごす中で、少しずつ分かるようになってきた。

 俺は、無理にでも何か言葉を探して、「寒いっすね」と口にする。

 ほんの僅かな時間だったけれど、お互いに、気持ちを言葉にしようとしてきた。

 表情を見せ、少しずつ歩み寄ってきた。

 けれど、まだ、傷みを分け合うには距離がある。

 永原は「うん」とだけ答え、少し間を置いてから、言った。

「俺さ、お前が来るの、楽しみにしてたんだよ」

 全然そんな雰囲気じゃなかったのに――そう言いかけて、ぐっと堪える。

 優しげに目を細めた永原の視線の先にある景色が、ここにはないものだと、悟った。

「……それって、去年までの話ですか?」

 戸惑いながらも、聞かずにはいられなかった。

 今と昔では、状況がまったく違うのだから。ひとつひとつの言葉の真意を、ちゃんと知りたかった。

 永原は「そうかもな」とだけ言って、白い息を吐いた。

 以前の俺なら、きっと責められているように感じて、落ち込んでいただろう。

 でも、今なら分かる。永原に、そんな意図はない。

 彼の言葉は、ただ心の底からこぼれたものだった。

 俺はしばらく、黙って景色を見つめていた。

 ただそうしていると、言葉にしようのない何かが、胸の奥で――ひとつ、弾けた。

「あの、後悔してるからこそ、言いたいことがあります」

「なに?」

「俺が帰ったあと、ひとりになろうとしないでください――。永原さんには、話したい人がいるし、会いたい人もいる。必要としてくれてる人だって、ちゃんといます。……悲しいままでいるのは、たしかに辛いです。でも、そのままでいることが、悪いことだとは思いません。ただ……永原さんが、ひとりのときに何かあったら……それだけが、心配なんです」

 言葉が、少し震えた。

 俺は、この人の幸せを願いたいと、心から思った。

「それに……それに、俺がここに来られたのは、拓真くんの声があったからです。その意味、永原さんなら……きっと、分かりますよね」

 恩返しがしたいと言ったミネの言葉が、今も焼き付いて離れない。

 映画館を大切に思う人たちのひとりに、俺もなれたんだろうか。

 息切れをしたって気にしてられない。俺は、ここで、この人と向き合いたい――。

「俺は、いろんな人に導かれて、ここに来ることができたんです。――貴方も、そのひとりなんです」

 永原から返事はなかった。

 それでも、俺は気にしなかった。ただ、伝えなければならないと思った。

 俺の言葉なんて、拓磨くんの言葉やあのカセットテープほどの意味を持たない。ただの子供の駄々。

 永原にとって、視線の先に百合ちゃんがいないなら、何を見ても空虚に感じるのかもしれない。

 彼が見ていた世界は、百合ちゃんを中心に回っていたのだろうから。

 これから残された者が出会う景色も、過去の色を帯びていくのだろう。

 そんなことさえ生きていく意味となるのだから、未来とは明けるばかりのものではない。

 沈黙の中、砕かれた氷が静かに遠ざかっていくのを、ただ見送った。



 交流館を後にして、部屋に戻る。

 中途半端に開いていたカーテンを、思いきってすべて引いた。

 陽光が一気に部屋へと流れ込み、空気が一変する。

 窓の外には、さっき見た流氷帯が、白い線となって海に浮かんでいた。

 描きかけだった映画の看板。その上にかけていた布を、思いきって剥ぎとった。畳む余裕なんてない。ただ、キャンバスに向き直り、俺は青、緑、白、黄色と、さまざまな絵の具をパレットに絞り出した。

 目の前にあるのは、映画『青写真』のワンシーン。グリザイユ画法で描いた、白黒の世界だ。

 その最終場面に、どんな色を差せばいいか――今日まで決めかねていた。

 俺は目を閉じる。

 浮かぶのは、船の上で見た景色だった。

 グレーの曇天。それに映える、オレンジの船。空によく似た海の底は、どこか緑がかっていた。

 求めていた色を見つけたとき、俺はゆっくりと目を開けた。

 筆を手に取り、たっぷりと水を含ませる。バケツの中の水は、いつでも描けるよう、きれいに澄んでいる。

 絵全体に、薄く水を塗る。丸筆で滲ませながら、いくつかの青を、面にそっと置いていく。

 白黒だった世界は、白濁した結晶が滲み、やがて湖となり、海へと変わっていった。

 寄り添う男女の輪郭は白く、その光は、湖面の水光よりも強く、そして柔らかかった。

 筆跡がわずかにぼやけると、衣服の繊維が馴染み、草や葉も滑らかになっていく。

 ひとり残された男は、ソルペの山へと特攻しようとしていた。それを思いとどまらせた、断腸の決意――その想いに応えるため、俺は筆を握る指先にすら、隙を与えなかった。

 絵が浮かび上がるたび、湖畔の風に凍てつく潮の匂いが混じり、迷っていた画面の中に、一条の光が差し込んだ。

 錯綜する感情は、ただ一枚の絵に向かって注がれていた。

 柔らかな帽子に塞がれた耳で聞いたのは、遠い土地から、遥々と流れてきた分厚い氷がぶつかる音。力強く、確実に――俺たちを乗せた船は突き進んでいた。

 シアターで聞いたのは、自らを罰する怨嗟の声。

 そして、悲しみに濡れた言葉だった。

 俺が幌井に帰ったあと、永原が元の木阿弥にならないように。幻想を遡るように、過去の欠片を辿るように――手を動かす。動かす。

 汗に滲む指先で、痛むほどに筆を握りしめ、ただ描いた。

 そして、未来の予感が道しるべとなるように。

 誓うように、謹厳に。

 俺は、絵を描いた。

 完成を迎えたとき、俺は息を切らしていた。

 これまで塗ることを躊躇っていた時間、空は暗い雲に覆われていた。そのあいだに積み重ねてきた恣意的な行動が、深い慚愧を呼び起こし、胸の奥が焼けるように熱くなった。

 ――けれど、とうとう空は開けた。

 終わりを迎えたはずなのに、不思議と始まりのように感じた。

 ようやく俺は、絵葉書の景色を、ほんとうに見ることができたのだ。

 完成させた看板を眺める。

 すると、開け放たれた扉の向こうから、永原の声が届いた。

 俺は、ひとつ息をつく。

 『青写真』の文字ですら、ようやく絵の一部として仕上げることができた。

 大丈夫。そう心の中で、何度も唱える。

「……帰ってから、こもりっぱなしだけど。休憩、しないか?」

 俺は、「三枚目が完成しました」とだけ答えた。

 すると、永原はゆっくりと部屋に入ってくる。

 その顔に残ったわずかな緊張が、なぜかこちらまで伝わってきた。

 永原は『青写真』を描いた絵の前に辿り着くと、目を見開いたまま棒立ちになり、「青い」とだけ呟いた。

 俺は机の上に置いていた絵葉書を手に取り、永原の横に立つと、腕を伸ばして絵と並べて見せた。

「この青は、藻川の色です。湖畔は潮の香りに満ちて、葉擦れの音は、氷が砕ける音に変わる。寄り添う男女の姿は、優しさに恵まれた藻川の町の景色そのものだと思いました」

 俺は、言下に続ける。

「午後六時の青は、毎日、少しずつ塗り重ねられて、やがて深みに変わっていきます。思い出も、きっと同じです。たとえ後から何色で塗り潰したとしても、その下で、絵は静かに、確かに、息をしている。だから、消えることはありません」

 どうか、明けないシアターの席に、いつまでも座り続けないでほしい――俺は、心の中で祈った。

 分厚い扉の向こうには、白い光が差し込んでいる。

 それに目を細めながら、入場客に挨拶をして。

 そして、この場所で談笑することを、どうか、心の負担だなんて思わずに過ごしてほしい。

 もし、永原と百合ちゃんの思い出を、この場所の唯一の核にするのなら――。

 完成を迎えた『青写真』の看板を、希望に満ちた映画館の顔として、どうか置いてほしい。

 まるで、思い出そのもののように。

 そして毎日、午後六時に『青写真』を上映するんだ。見飽きたと言われたって構わない。

 ここは、永原と百合ちゃんのために在る映画館なのだから。

 俺の様子を知ってか知らずか、永原は頭をガシリと掴み、乱暴に撫でつけた。

 目線だけを向けると、そこには、相好を崩した永原の顔があった。

 ああ――

 ふたりが、重なるなんて。

 視界が滲む。百合ちゃんは綺麗で、可愛い。永原と、似ているはずなんてない――なのに。

「本当、基将は絵が上手いな」

 ――名前。

 永原の口から「基将」と呼ばれたこと。

 それだけで、描いてよかったと思えた。

 百合ちゃんがこの地に蒔いた繋がりから、俺自身も、少しずつ根を広げることができた――。

 まるで、まだ芽吹かぬ種に、初めて陽が差したかのように。

 大きな手が頭から離れていく。

 百合の花は、この手によって、冬の中でも笑っている。

 名残惜しさを感じながら、俺はそっと瞼を閉じた。

 ――遠い記憶の中。

 優しく背を叩きながら、いくつもの言葉をくれた、百合ちゃんの声が、聴こえる気がした。



 永原は椅子に腰掛けたまま、じっと『青写真』を見つめていた。

 しばらく沈黙が続いたあと、ふいに立ち上がると、「今日の六時、映写室においで。いいもんを見せてあげるから」と、背中越しに言った。

 午後六時となり、俺は映写室の扉を開けた。

 既に、中には永原がいた。

 俺は後ろ手に扉が静かに閉まるのを耳で聞き、永原の傍に歩みを進めた。俺は、珍しく緊張していた。

 永原は銀色の丸い缶を開けると、「久しぶり」と呟き、フィルムを両手でそっと撫でるように持った。そして、スプロケットに噛ませながら、慎重に映写機へと通していった。フィルムに触れる永原の指先は、どこか祈るようでもあった。

 薄い明かりが灯り、映写機が小さな駆動音を立てて回転を始める。

 その動きに導かれるように、フィルムが一定の速度で送り出されていく。次第にスクリーンに白く光が広がり、白黒の映像が映し出される。俺はその映像に見入った。

 小さな覗き窓から、スクリーンをのぞく。

 この映写室は、きっと永原にとって、大切な場所だった。そこに居られることが、ただ嬉しかった。

 そして、これまでの葛藤が、ようやくひとつの形となったことを実感する。

 映画館の看板として描いた『青写真』は、永原と百合ちゃんが愛した映画の象徴。

 今、この映写室でその映画を観ることが、どれほど特別なことか、俺は言葉では表しきれない。

 画面に映るふたりの穏やかな時間が、まるで永遠のように流れていった。

「今なら、色が見える」

 永原の言葉が、静かに落ちてきた。

 彼に視線を向けると、穏やかな顔をしていた。

 スクリーンを見つめる瞳には、百合ちゃんへの深い愛情と、長い年月を超えた感慨が込められていた。

 俺は、永原の零した言葉に胸を打たれた。

 永原の言葉が触れた瞬間、自分の描いた『青写真』が確かに、色づいていく気がした。それは、永原にとって、ただの記憶の具現化ではない。時を超えて色を帯び、確かな価値を持ったものとして、今ここに存在していた。

 映画の最後の場面が近づくと、思わず目を閉じた。

 永原と百合ちゃんのセリフが重なって聞こえるようだった。

 看板を描いていた時が、映画のラストであるなら、今こうしている時間はエンドロールなのだろう。映画の挿入曲が次々と流れていき、心に静かに染み込んでいく。達成感と喜びが、胸の奥から溢れ出してきた。あの葛藤がすべて溶け、ひとつの完成された形となったのだ。

 全てが終わり、スクリーンが静かに暗くなる。

 深呼吸をして、永原を見ると、彼は優しく微笑んだ。

 映写機の音が止み、静けさが戻る。

 無言のまま、映写室の中で静寂が広がっていく。その空気が、俺たちにとって大切な時間であることを感じていた。

 永原が静かに席を立ち、フィルムを巻き戻し始める。

 その動きは儀式のようで、時間の流れを確かめるかのようだった。

 フィルムが巻き戻され、映写機のライトが消える。

 永原は、ゆっくりとこちらを向き、ぽつりと言った。

「ありがとう」

 たった一言。

 それだけで、充分だった。

 当たり前に笑い返せることが、ただ、嬉しかった。


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