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第十章 もかわ展望タワー


 その日の枝松さんは、いつもより機嫌が良かった。理由を聞くと、孫が遊びに来ているのだという。

 家で子どもを相手にしている癖か、枝松さんは俺のことを「モトくん」と呼んだ。

「急になんですか?」と返すと、俺が藻川に来る前はその呼び名の方が聞き馴染みがあったから、ちょっと呼んでみたんだと言った。

「イメージに近づいたっていうかね」

 枝松さんは饒舌に続ける。

「やっぱり、あの建物は良い人を呼び寄せてくれるなぁ」

「一度は閉館したんでしたっけ」

「そうだよ。……もともと画家が建てたアトリエでね。それを銭田さんが引き継いで、今の形にしたんだ」

 画家。

 その言葉を、口のなかでそっと転がす。

「あの形は、きっとその画家のこだわりだったんだろうね。私は会ったことがないけど、人好きのいい人だったみたいだよ」

「映画館に変わった、というのは……?」

「ああ。アトリエを建てて、わずか数年でその画家は亡くなってしまったらしくてね。そのあとを銭田さんが引き継いで、映画館として開いたんだ。とにかく、面白い人でね。何度も話を聞かせてもらったよ。……永原さんとは、旅先で出会ったって言ってたかな」

「旅? 身内かなんかじゃないんですか」

「そう、そこが不思議でね。ふたりとも世界を回っていたらしいんだよ。どこかで意気投合して、それ以来の仲だったらしい」

 枝松さんの話に、思わず言葉を返しそびれる。

 旅なんて、聞いたことがなかった。永原が――?

 そんな素振り、見せていただろうか。……そういえば、ときどき異国の料理を作っていたっけ。

「でも、しばらくして体を壊してね。……誰かに引き継いでもらおうって思ったときに、永原さんのことが浮かんだんじゃないかな」

 枝松さんの言葉を聞きながら、俺は目の前にない情景を、なんとなく思い描いていた。どれも、この町で昔から耳にしてきたような話なのかもしれない。

「実際、永原さんは、あの建物を本当に大事にしてくれてるよ。丁寧に掃除して、手入れしてさ。話に聞いていた通りの人だったよ。……ああいうのって、気持ちがないとできないんだよね」

 俺が借りている部屋には、埃が積もっていた。でも、建物全体がそうというわけじゃない。

 学校のアトリエだって、作業のたびに掃除をしていても、いつのまにか埃がたまる。

 あの建物も、家としての機能がないぶん、生活の匂いが染み込まない。

 きっと、ひとりで維持するには、広すぎるんだ。

「モトくんも、あの建物に招かれたひとりなんだろうね」

「それは、まあ……よく分かんないですけど。……それより、呼び方を戻してくださいよ」

 照れ隠しのつもりでジトッとした視線を向けると、枝松さんは、「いつか孫にも同じことを言われるのかな〜」と、悲しんでいるふりをしながら仕事に戻っていった。

 しばらくして、来客があった。そちらを見て、胸がざわつく。

「こんにちは」

 笑顔で挨拶をしてくれたのは、ミネだった。栄吉さんは枝松さんに声をかけられたのか、椅子に座っていた。

 俺は挨拶を返して、記入を促す。ペンを持つミネを見つめていて、まつ毛の長さに目を奪われた。

 また会えたら話そうと思っていたことがあった。でも、言葉が出てこない。

 拳を握る。じんと熱くなった。

 俺は、気持ちを押して、そっと声をかける。

「今度さ、炉端焼きでも食べに行かない?」

「え、炉端焼き?」

「そう。船乗り場の近くの」

 ミネが顔を上げた。目を見開いて、少しの間、俺を見ていた。

「……何もないことには、慣れちゃった?」

 その言葉に、胸の奥がひやりとした。

 俺は、ゆっくりと首を横に振る。

「慣れないよ。まだ、悲しいし、寂しい」

 少しだけ黙って、それから続けた。

「手紙を貰っていたんだ、百合ちゃんから。『遊びに来てね』って書いてあった。だから、なんていうか……知りたくなった。永原さんからふたりで行ったことあるって聞いてさ。どんな味だったのかなって。……何も知らずに帰るなんて、百合ちゃんに合わせる顔がないよ」

 ミネは少し俯いて、眉間を寄せた。

「一緒に行くの……私でいいの?」

 こちらをうかがうような瞳は、不安げに揺れていた。

「俺はミネと行きたい。……あ、でも炉端焼きって煙とかすごいらしいから、臭いがつくかも。ヤだったりする?」

「ううん! そんなことはないけど」

「良かった。……俺さ、ここに来てすぐ、ミネが話しかけてくれたの、嬉しかったんだ」

 ミネはペンを持ったまま小さく揺らし、落ち着かない様子を見せて、「……嬉しい?」と照れくさそうに言った。

 落ちた髪を耳にかける仕草に、目が止まっていた。

「うん。それに、話してると楽しい。だから、ミネと一緒がいいって思った」

「なにそれ」

 吹き出しかけたミネは、唇を押さえて小さく笑った。

「まるで、チープな口説き文句みたい」

 確かにそうだ。俺は少し気恥ずかしくなって、頭を軽く掻いた。……誘い方を間違えたかもしれない。

 そんな俺の様子を見て、ミネはふっと微笑んだ。

「お洒落とか、しないからね!」

 ミネはビシッと指をさした。

 気分は、いま最高に高揚してると思う。

 それでも俺は勢いに押されるように黙って頷いた。



 約束の日。早めに出たつもりだったが、ミネはもう、先に来ていた。

「はやいね」

「……前、待たせちゃったでしょ」

 そんなふうに気にしてくれていたなんて。ちょっと驚いたけど、嬉しかった。

 俺は、ミネの姿を盗み見る。

 お洒落はしないって言ってたのに、なんていうか、今日のミネは少しいつもと違って見えた。

 けれど、それを口にするのはやめた。

 変に意識させてしまうのが、もったいなく思えたからだ。

 柔らかな癖毛が風に揺れて、ミネはときどき、目を細めながら空を見上げていた。その横顔に、気づけば目が留まっていた。

 胸の奥がそわそわする。そのくすぐったさも、どこか楽しかった。

 そんな明るいスタートをきったというのに、炉端焼きを食べに行くと、もうすぐ団体客の予約が入るとのことだった。

 無情な張り紙を前に、ミネと目を合わせる。彼女も残念そうな顔をしていた。

 こればかりは、どうしようもない。

 諦めかけたその時、少し離れた店先から、関係者と思われるおじさんが声をかけてきた。

「早く行けば間に合うぞー!」

 その声が合図になった。ふたりで階段を駆け上がり、息を整える間もなく、食事処に飛び込んだ。

 店員さんは「十五分くらいなら出せますよ」と言ってくれて、思わず顔を見合わせる。

「ぜひ、お願いします!」

 声がぴったり揃った。

 気の毒に思ったのか、本来なら自分たちで焼くはずのところを、店員さんが手伝ってくれた。

 慌てて食べながらも、真ん中にイクラが乗ったカニ飯の甘さに唸る。カニの食べ比べ味噌汁や炉端焼きのホタテやエビ、特にホッケは油が乗っていて、とにかく美味しい。あっという間だった。気づけば、ふたりともひと言もしゃべらず、夢中になっていた。

 満腹になると、俺たちはお礼を言って、すぐに店を出た。

 それが、なんだか可笑しかった。あんなに美味しいものを、焦るように掻き込んで、言葉も交わせないまま出てきたなんて。

 外の静けさのなか、目が合って、ふたりして声を立てて笑った。

 胸の奥まで空気が透き通っていくような、そんな笑いをこぼしながら、俺たちはそのまま白い道を並んで歩いた。

 途中、道端で雪をかぶった笹が目に留まった。俺はカメラを取り出して、シャッターを切る。

「そんな笹を撮ってどうするの?」

「まっさらな雪の中にあるんだよ。風情があるじゃないの」

「珍しくもないし」

「だから、いいんだよ」

「……だからって?」

「見慣れてるものって、違和感なく見られるし、落ち着くんだ。ほら、家に飾るなら派手な絵より静かな絵のほうがしっくりくるでしょ」

 カメラをしまい、近くの雪をそっと手で払った。

 舞った雪が、ぽたぽたと笹のまわりに落ちていく。そのあとに小さな穴ができた。

 これでもう、俺たちが見た景色は、誰も見ることができなくなった。

「それに、俺にとっては見知らぬ景色だからさ」

「……それじゃあ、どこを見ても新鮮ってわけだ」

「そーゆーわけ」

「というか、前にも似たような話した?」

「マンホールを撮ったときかな」

 誰の足跡もない真っ白な雪を背景に、ミネは笑っていた。頬は風で赤く、でもどこか楽しそうに。

 重たい雪を踏み分けながらの道のりは思いのほか大変で、いつの間にか、厚着の下はほんのり汗ばんでいた。

 途中、ミネが気になると言っていたカフェの看板が見えたが、また今度となり、俺たちは海に張り出した建物――もかわ展望タワーへ足を向けた。

 行き先なんて決めていなかったはずなのに、不思議と、そこへ導かれるように歩いていた。

 館内では魚が泳ぐ姿を眺め、海をイメージした青いゼリーを食べ、仮想現実シアターを覗いた。

 上階に上がると、窓の向こうに、かすかに島の影が浮かんで見えた。

 ふたりで同じ景色を見ているあいだ、そのときの静けさが、ただ心地よかった。

 しばらくして、俺たちは展望タワーをあとにした。

 そしてまた、当てもなく歩きはじめる。

 ときどき、手と手が当たる。でも、分厚い手袋越しじゃ、何も伝わってこない。それが妙にくすぐったかった。

 そして歩き続けた果てに、雪に覆われた海沿いの遊歩道にたどり着いた。

 潮のにおいが鼻の奥に張りつき、遠くではカモメが飛んでいる。

「さっきのポストカード、買わなくてよかったの? しばらく見てたけど……」

「うん。いいんだ」――もう、持ってるから。

 藻川に来るきっかけになった、絵葉書。

 それを売り場で見つけたときは、百合ちゃんとの思い出をひとつ共有できた気がして、少しだけ嬉しかった。

 導かれていた。……それは、大袈裟じゃなかったのかもな。

 積もった雪が風に舞い、温かな陽に照らされて、キラキラと光りながら落ちていく。そんな光景を見ていたら、ふと話したくなった。

「……なんか、してあげたかったって、あんまり考えたことなかったけど……でも、ひとつだけ、できたかもしれない」

 それは、今さら思い至った未来であり、遅れてきた後悔だった。

 藻川で百合ちゃんを辿るうちに、人と関わるということが、自分の中でようやく形になってきた気がする。

「なに?」

「俺さ、百合ちゃんを卒展に招待したかった。絵、見てほしかった。子どもの頃みたいに、褒めてほしかった」

 人が死ぬということは、叶わないことが積み重なっていくことなのかもしれない。だとしたら、これから先の人生とは、なんて虚しくて、悲しいものなんだろう。

「気づいてないだけで、今さらって思うこと、きっとたくさんあるんだろうな」

 あらゆる悲しみが、消化不良のまま心の奥に沈んでいた。それが今になって、少しずつ浮かび上がってくる。ゆっくりと波に運ばれて、打ち上げられるようにして。きっとこれから先も、そのたびに、俺は寂しくなるんだ。

「私には見せてくれないの?」

 しんとした空気を和らげようとしたのか、ミネは明るい調子で顔を覗き込んできた。

 その顔を見た瞬間、俺は思わず前のめりになる。「見てほしい」――その言葉に、ミネは少し目を見開いた。予想外だったのかもしれない。

「……見に行っても、いいの? 幌井に帰っても、会いたいって言ってもいいの?」

 不安げな表情を見せるミネに、俺は頷いて笑って見せた。

「俺も会いたい。だから……次に会うときまで、元気でいよう」

 再会の機会は当たり前にあるとは限らない。そんな常識を知った今、祈りのような思いが生まれた。

 ミネは握りしめた拳を眉間に押し当てて俯き、振り絞るような声で「ん」とだけ言った。

 肩を震わせる彼女に伸ばした手が、もう少しで触れそうになって、俺は迷った。そのまま引くことも、触れることもできず、指先は宙に彷徨う。

 やがて、彼女の涙がぽとりと雪の上に落ちた。

 その雫を辿るように視線を落としたとき、髪の先に残っていた雪が、ひとつ、解けながら落ちていった。

 小さな穴を穿ち、その底に――水色が、そっと光っていた。

 海を眺めながら、しばらく言葉もなく並んでいた。

 やがてミネが、少し遠慮がちに言った。

「もしよかったら、青写真の絵を見てみたい」

 その言葉に頷いて、俺たちは映画館へ戻ることにした。

 並んで歩く足跡が、さっきよりも少し近くに残っていた。

 映画館に着き、部屋に入った瞬間、出かける前に、もっと片付けておけばよかったと少し後悔した。

 散らばった画材に、丸めたラフ。寝ていた場所の跡も、そのままだ。

「えっと……」

 気の利いた言葉を探しながら、頬を掻いてごまかす。

 けれど、ミネはそんな俺の様子には気づきもせず、開きっぱなしのスケッチブックを指差した。

 それを差し出すと、興味深げに絵のあれこれを尋ねてくる。応じているうちに、自然と話は大学のことや、幌井での暮らしへと移っていった。

 ミネの視線が、机の上の一枚の絵葉書にふと留まった。

「百合ちゃんがくれたんだよ」

 そう言って渡すと、ミネはそっと受け取り、しばらく指先で縁をなぞったあと、ゆっくりと目を伏せた。

「……だから、買わなかったんだね」

 その言葉が、まっすぐに届いたのがわかった。

 ミネは宛名の面には目をやらず、かわりに快晴の藻川の町と海が映った面を撫で、小さく微笑んだ。

 その仕草から、彼女が気持ちを汲み取ってくれたことが伝わってきた。

 やがて、絵葉書の向こうを見つめながら、小さく、重たげに息を吐いた。

「……ひとりで考えていると、百合さんがいないなんて、やっぱり嘘だって思いたくなって。何度も、そうやってごまかしてた。でも、モトは、そんな私の話をちゃんと聞いてくれたよね。……あのとき、私ね。泣いて、安心してた」

  ミネは泣きたくないとでも言うように目元を手のひらで覆い、かすかに首を振った。

 俺は、その気持ちを守りたいと、強く思った。心の痛みにまっすぐ向き合うミネの、その混じりけのない悲しみを――ただ、純粋に。

 だからこそ、少しでも寄り添いたくて、口を開いた。

「泣きたいときは、映画を観るといいんだって。どんな顔をしてたって、誰も見てないから。……永原さんが、そう言ってた」

 この映画館を『秘密基地みたいな場所』と言ったのは、ミネだった。

 俺は、それがすごく素敵だと思った。

 自分の言葉じゃないのは、少し情けないけど――。

 ミネが、泣きたくなったときにこの場所を選んでくれるなら、それだけでいいと思ったんだ。

「モトがこの町に来てくれて、本当に嬉しい。……ありがとう」

 耳の先がじんわりと熱くなる。寒さのせいじゃない。自分でも、それはわかっていた。

「ちょうどいい他人だったから、近づく勇気が湧いたのかも」

 言ってから、自分でもしっくりきた。

 すると、ミネがそっと顔を上げた。その表情は、どこかすっきりとしていた。

「でも、次に会う時は友達ってことになるんだね」

「うん、気心の知れた友達」

「……そっか」

「そうだよ」

「そうだね」

 鼻の頭を赤くして笑ったミネの目には、少しだけ光が戻っていた。



 少しの間、静けさが部屋を満たしたあと、俺たちは、棚に並ぶパンフレットやチラシを眺めながら、知っている映画の話をした。

 どれも少し昔の作品ばかりだったけど、くだけたやりとりのなか、ときどき熱が入るのが妙に面白かった。

 貴重な資料かもしれないと思い、触れるのはためらったが――崩れかけた部分だけ、そっと目立たぬように整えておいた。

 棚を眺めていた俺の背中越しに、ふいにミネが少し硬い声色で名を呼んだ。

「……モト、ちょっと来て」

「ん?」

「これ、本の下になってたんだけど……」

 ミネが見つけたのは、シルバーの小さなラジカセと、いくつかのカセットテープだった。

 彼女はそのうちの一本を抜き取って、ラベルの文字を俺に見せる。そこには、『百合』の名前と日付が書かれていた。

 俺たちは顔を見合わせた。

 ミネはケースからカセットテープを取り出すと、慎重な手つきでラジカセに差し込んだ。

 電池はまだ生きていたらしく、再生ボタンを押すと、テープが静かに回り始めた。

 音量を少しずつ上げていく。

 やがて、スピーカーから女性の声が流れた――その瞬間、手が震えた。息を呑むことさえ忘れて、俺は耳を澄ませた。

『ソルペの山は寒いよりも、あま~いのであります!』

『そのセリフ、好きだよなあ』

『イエッサー少尉の名言は全部好き』

 耳の奥がじんと痺れる。

 息を吸うのも忘れたまま、俺は固まった。

 ――百合ちゃん。名前が、喉の奥まで込み上げてきた。けれど、呼んではいけない気がして、俺は慌てて口を押さえた。

 僅かな音ですら、聞き逃したくなかった。

 そして、応える声――永原の声。

 ふたりの声が重なるたび、時間が巻き戻されていくような錯覚に襲われた。

 永原の声が、セリフをなぞるように流れた。甘えるような、冗談めいた口調だった。

『百合が今日いなくなったら――俺も、明日を終わらせるよ』

『そんなのはダメ。再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも、聞かせてくださいな』

『では、今すぐソルペの山に特攻して、共に散りましょう』

『死ぬときは一緒ってこと?』

『そりゃあ、もちろん!』

『夕一ったら、ほんとうに私のことが大好きなんだから……って、ああーっ! 今、録音してるでしょ!』

『してる』

『だめ、カット! 今のなし。再収録を求めます!』

『却下します。イエッサー少尉も言ってただろ? 人生にリテイクはない、って』

 カチリ、と小さな音を立てて、テープが止まった。

 楽しげな声だけが、その場に残された気がした。

 ぽつんと胸に残ったのは、行き場をなくしたまま取り残されたような寂しさだった。

 俺は、ほとんど無意識に口を開いていた。

「……ミネは、いまも永原さんが、午後六時に『青写真』を上映してるの、知ってる?」

 目を合わせると、ミネは戸惑うようにかすかに目を細め、ラジカセにそっと触れる。

 そして、静かに首を振った。

「あの人、ずっと決まった時間に観てるんだ」

 ミネは、小さく目を見張り、俺の顔を見た。

「……毎日?」

 頷くと、ミネは少しのあいだ黙った。

 そして、ラジカセを見つめると、ぽつりと呟いた。

「……今でも、ふたりが好きだったラブロマンスを観てるってさ」

 ラジカセの微かな傷をそっとなぞる手が、小さく震えていた。

「それってさ……口に出さなくても、『愛してる』って伝えてるのと同じじゃない?」

 ふっと笑ったあと、ミネの目から涙がこぼれた。目尻がぴたりとくっついて、こらえていた感情が堰を切ったようだった。

 ミネの言葉が、胸にすとんと落ちた。

 映画館を守り、この場所に立ち続けること――永原は、生きることが自分にできるせめてのことだと言った。

 でも、それだけじゃない。ミネが言ったことも。それもまた、ひとつの本当なのかもしれない。

 きっと、あの人は、百合ちゃんが戻ってくるのを待っている。百合ちゃんが、ふらっと映画館に現れることを。流れるフィルムの音に紛れて、どこかの席にそっと座る、その姿を。

 俺は、その涙を見ていられなくなった。

 ミネは掌でそれを拭いながら、かすかな声でつぶやく。

「これ、ずっと仕舞い込んでたのかなぁ……」

 沈んだ声だった。だから俺は、励ますように――あるいは、自分の不安をごまかすように、口を開いた。

「探してたのかもしれないよ。ずっと、見つけたかったのかも」

 そうであってほしいと、どこかで強く願っていた。

 耳の奥で、スクリーンの中のモノクロのふたりと、ラジカセから流れた声が重なり、胸に響いた。

 その余韻の中で、胸の奥に、そっとひとつの決心が芽を出した。

 いつの日か、冬は終わり、春は必ずやって来る。

 花は、暖かな陽の下にあるべきだ。

「永原さんに、渡そう」

 ミネは何も返さなかった。少し、戸惑っているように見えた。

 俺は、カセットテープのケースを手に取り、『百合』の文字を見る。それだけで、特別なんだと思った。

 愛している人の名前を書くとき、人は、その文字にできるかぎりの丁寧さを込める。

 伝えるためじゃない。ただ、そこに心ごと置いていくみたいに。

 絵や物語が人を引き寄せるように、誰かのそばにいることで自然と生まれる居場所もある。

 このラジカセは、永原のそばにいることを、きっと望んでいた。



 午後七時四十五分。

 重たい扉を押し開け、遮光カーテンをそっとくぐる。薄暗いシアターの中、永原が中央の席に静かに座っていた。

 ミネは俺にカセットテープを託し、帰っていった。

 ひとり、大切な役目を任された俺は、ラジカセを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。

 この場所に俺を送り出した人のことが、ふと頭をよぎった。

 あの券が、たまたま挟まっていたとは――今になって、もう思えなかった。

 してやられた、そんな気持ちも少しあった。でも、うまくいくなら、それでいい。

 たぶん、それくらいのことだったのだろう。

 拓真くんが俺をここへ寄こしたのは、きっと、自分では会う覚悟が持てなかったからだ。

 永原は、妹を救えなかった――その事実が、どうしても胸に引っかかっていたのだろう。回数券を渡せずにいた理由も、そこにある。

 それでも、拓真くんは永原を責めていなかった。

 だから、俺が来た。

 最後の手段として、俺を託したんだ。ほんの少しの希望に、静かに賭けるようにして。

 スクリーンでは、湖を眺めながら身を寄せ合う恋人たちが、そっと口づけを交わしていた。

 握っていたラジカセが、ほんの少し重くなった気がした。

 その重さごと、足を前に出す。

「永原さん」

「上映中は不要な移動、私語はお控えくださーい。……っていうのは冗談で、何? どうした」

 俺がラジカセを差し出すと、永原の顔に、はっきりと驚きが浮かんだ。

「これ、どこにあった」

「俺が借りてる部屋に」

「中、聴いたか?」

「……すみません」

 永原はラジカセを受け取り、「いや、いい」と言って、ゆっくりと首を横に振った。

 指先で表面をそっとなぞり、ひと呼吸、深く息を吸って、吐いた。

「……少し、ひとりにしてくれ」

 俺は「はい」とだけ答えて、ゆっくりと出入り口へ向かう。

 重い扉に手をかけた、そのとき――スピーカーから、声が流れた。思わず、足が止まる。

『ピエールは今日もつまみ食いに勤しんでばかり! そろそろ鉄槌を下す時が来たのではないでしょうか』

 場違いなほど明るい声が、スピーカーから流れる。

 つづいて、永原がひとつ、重たげに息を吐くのが聴こえた。

 ラジカセのボタンが押される音。再生が止まり――そして、再生。

『再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも、ちゃんと聞かせてくださいな。たとえ今日、私が死のうとも。明日、貴方が死のうとも――私たちを引き離せるものなんて、何もない。つまらない人になんて、どうか成り下がらないで頂戴』

 すぐに止まる。

 ……そして、もう一度、再生。

『再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも――』

 また、止める。

 永原は、何度も、同じ言葉に手を伸ばしていた。

 そして、三たび、再生ボタンが押される。

 百合ちゃんの声の上に、永原の声が重なる。

 まるで、思い出すように。なぞるように。

「再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも。ちゃんと……聞かせてくださいな。たとえ今日、私が死のうとも。明日、貴方が死のうとも。――私たちを引き離せるものなんて、何も……」

 あの人は、ただ、愛する人を求め続けていた。

 どれだけ時間が過ぎても。……今も。

 こらえていた感情が、胸の奥から、せり上がる。

 空気が震えていた。

 届く場所にいるはずのない人を、引き止めるように――

「百合」

 嗚咽まじりに名前を呼びながら、永原が前のめりに崩れ落ちていく。

 気づけば、スクリーンにはエンドロールが流れていた。

 まるで何事もなかったように、映画は終わろうとしていた。


 俺は、静かに踵を返し、そっとシアターを出た。

 閉じた扉に背を預けると、映画の音だけが聞こえていた。

 出入り口の傍に、百合の花が一輪、花瓶に挿してある。

 白く大きく咲いたその香りが、古びた赤い絨毯の匂いと混じり合い、わずかな瑞々しさを、この場所にもたらしていた。

 思い返せば、永原という男は、意外にも細やかな気配りを見せる人だった。

 古い建物の中で、新しいものは、あの花だけだった。

 けれど、だからこそ思う。この場所は、過去のまま、そっと佇んでいる。

 俺はこの町で、いくつもの綺麗なものに出会った。

 燃える朝焼け。

 時の名残を照らす街灯。

 人が差し出す、温かな手。

 そして、群青の海。

 そのすべての中に、「今」が確かに息づいていた。

 けれど永原は、どんなときも、百合ちゃんを見ていた。

 映画の台詞を諳んじるほど繰り返される『青写真』。それは、流れない時間の痕跡だった。

 寄り添う恋人たちの映像の中に、誰にも届かないすすり泣きが響いた。

 脳も、心も、五感のすべてが、絶望と、そして幸福に満たされていく。

 これほど悲しく、これほど美しいものを、俺はこれから先、知ることがあるのだろうか。

 永原と百合ちゃんが並ぶ未来を、胸の奥で何度も描いた。

 けれど、その風景はいつも遠く、静かだった。

 記憶のなかで、熱を帯びた詩が言葉と手をつなぎ、今もなお、踊っている。

 百合ちゃんを想い、涙を流す人がいる。

 その姿が、ようやく、彼女の死を俺に教えてくれた。

 想像もできないほどの愛が、彼女の人生には宿っていた。

 それを、ただ――確かめたかっただけなのかもしれない。

 それしかなかったから。だから、あとのことなんて、考えていなかった。

 名前を呼ぶ声が、いつまでも耳の奥に残っている。

 悲しみは、ずっと、そばにある。

 正しさなんて、わからない。

 けれど――悲しむということそのものが、愛なのだとしたら。

 このまま、そっと抱えていくしか、ないのだろうか。

「……立ち直るのを待っているのは、他人みたい、か」

 あのときの陽向の声が、ふいに胸の奥に落ちた。


 暫くして、目元を真っ赤にした永原が、シアターから出てきた。

 何も言わず、ただこちらを見る。

「お前、ずっとここにいたのか」

「永原さん。俺、風呂、入ってきます」

「あ? ……あー……そうか」

「一緒に行きませんか」

 永原は、露骨に顔をしかめた。俺の行動が理解できないらしい。

「なんで?」

「まだ一緒に行ったことないから……その。なんとなく、です」

 タイミングが悪かった。思いつきで口にした言葉に、足元がふわつく。

 さっきまで胸にあった熱も、音を立ててしぼんでいった。

「相変わらず空気読めないな」

 反射的に謝ろうとしたそのとき、永原が喉の奥で、小さく笑った。

「行くか」

 感情を切り替えたというより、一瞬だけ力を抜いたような声だった。湿った余熱が、まだどこかに残っている気がした。

 着替えを取りに戻り、俺たちは靴を履く。一緒に映画館の扉を出るのは、まだ少し新鮮に感じた。

 夜道を並んで歩くあいだ、互いに言葉はなかったけれど、不思議と気まずさはない。

 やがて温泉の灯りが見え、静かな足音のまま、玄関をくぐった。

 今夜は回数券を使わず、永原が入浴代をまとめて払ってくれた。

 脱衣所では、彼のほうが手慣れた様子で、ためらいなく支度を進めていく。

 洗い場で体を流し終えると、ふたり並んで湯船に身を沈めた。

 永原は、時折誰かに声をかけられては軽く応じ、またすぐに目を閉じる。その仕草が、妙に彼らしく思えてくる。

 俺は湯の表面に視線を落とし、揺らめく光を、ただ静かに追っていた。

「あの……、相変わらず空気読めないって、俺、いつも読めてなかったっすか」

 永原はぼんやりと天井を見つめた。

「思い当たるのは、今回だけかもな。でも、ここに来たこと自体が空気読めてなかっただろ」

「……迷惑でしたか?」

「もう帰るやつが何を聞いてんだよ」

 俺は、思わず黙り込んだ。永原が言うように、幌井に帰る日が、確実に近づいていた。

 まだ、ここにいたい。そんなことは言えなかったし、言ってどうにかなるとも思っていない。自分がいちばんよく分かっている。

 言葉に詰まって、口を尖らせる俺の様子に気づいたのか、永原は柔らかく息を吐いた。

「ここに来てよかったか?」

「……はい」

「なら、また来いよ。あの部屋は寒いから、夏とか――」

「いいんすか?」

 勢いで永原に向き直った拍子に、目が合った。途端、顔が熱くなる。

 そんな言葉が出た自分に、後から驚いた。

 永原はとうとう、笑い声をあげた。

「ははは! ……くくくく」

 この人は、豪快に笑ったあと、口元を手で押さえるんだな。破顔した永原を見て、思わず俺は目を丸くした。すると、彼は軽くデコピンをお見舞いしてきた。

「別に。お前は勝手にしたらいいよ」

 温かな水の流れる音。泡のはじける音。話し声。冬の寒さが届かない、どこか安らげる場所。

 永原は目を閉じたまま、肩まで湯に浸かりながら言葉を続けた。

「ときどき、何をやっても、良い方向に進む奴っているんだよなあ。他人を巻き込んでさ――まるで、お前みたいなやつ」

 それじゃあ、まるで俺が、ここに来て良かったってことになるじゃないか。

 ……ああ、ダメだ。

 ここに来てから、どうしてだろう。涙が出るんだ。

 永原が目を閉じているあいだに、俺はそっと顔にお湯をかけた。


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