第十章 もかわ展望タワー
その日の枝松さんは、いつもより機嫌が良かった。理由を聞くと、孫が遊びに来ているのだという。
家で子どもを相手にしている癖か、枝松さんは俺のことを「モトくん」と呼んだ。
「急になんですか?」と返すと、俺が藻川に来る前はその呼び名の方が聞き馴染みがあったから、ちょっと呼んでみたんだと言った。
「イメージに近づいたっていうかね」
枝松さんは饒舌に続ける。
「やっぱり、あの建物は良い人を呼び寄せてくれるなぁ」
「一度は閉館したんでしたっけ」
「そうだよ。……もともと画家が建てたアトリエでね。それを銭田さんが引き継いで、今の形にしたんだ」
画家。
その言葉を、口のなかでそっと転がす。
「あの形は、きっとその画家のこだわりだったんだろうね。私は会ったことがないけど、人好きのいい人だったみたいだよ」
「映画館に変わった、というのは……?」
「ああ。アトリエを建てて、わずか数年でその画家は亡くなってしまったらしくてね。そのあとを銭田さんが引き継いで、映画館として開いたんだ。とにかく、面白い人でね。何度も話を聞かせてもらったよ。……永原さんとは、旅先で出会ったって言ってたかな」
「旅? 身内かなんかじゃないんですか」
「そう、そこが不思議でね。ふたりとも世界を回っていたらしいんだよ。どこかで意気投合して、それ以来の仲だったらしい」
枝松さんの話に、思わず言葉を返しそびれる。
旅なんて、聞いたことがなかった。永原が――?
そんな素振り、見せていただろうか。……そういえば、ときどき異国の料理を作っていたっけ。
「でも、しばらくして体を壊してね。……誰かに引き継いでもらおうって思ったときに、永原さんのことが浮かんだんじゃないかな」
枝松さんの言葉を聞きながら、俺は目の前にない情景を、なんとなく思い描いていた。どれも、この町で昔から耳にしてきたような話なのかもしれない。
「実際、永原さんは、あの建物を本当に大事にしてくれてるよ。丁寧に掃除して、手入れしてさ。話に聞いていた通りの人だったよ。……ああいうのって、気持ちがないとできないんだよね」
俺が借りている部屋には、埃が積もっていた。でも、建物全体がそうというわけじゃない。
学校のアトリエだって、作業のたびに掃除をしていても、いつのまにか埃がたまる。
あの建物も、家としての機能がないぶん、生活の匂いが染み込まない。
きっと、ひとりで維持するには、広すぎるんだ。
「モトくんも、あの建物に招かれたひとりなんだろうね」
「それは、まあ……よく分かんないですけど。……それより、呼び方を戻してくださいよ」
照れ隠しのつもりでジトッとした視線を向けると、枝松さんは、「いつか孫にも同じことを言われるのかな〜」と、悲しんでいるふりをしながら仕事に戻っていった。
しばらくして、来客があった。そちらを見て、胸がざわつく。
「こんにちは」
笑顔で挨拶をしてくれたのは、ミネだった。栄吉さんは枝松さんに声をかけられたのか、椅子に座っていた。
俺は挨拶を返して、記入を促す。ペンを持つミネを見つめていて、まつ毛の長さに目を奪われた。
また会えたら話そうと思っていたことがあった。でも、言葉が出てこない。
拳を握る。じんと熱くなった。
俺は、気持ちを押して、そっと声をかける。
「今度さ、炉端焼きでも食べに行かない?」
「え、炉端焼き?」
「そう。船乗り場の近くの」
ミネが顔を上げた。目を見開いて、少しの間、俺を見ていた。
「……何もないことには、慣れちゃった?」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。
俺は、ゆっくりと首を横に振る。
「慣れないよ。まだ、悲しいし、寂しい」
少しだけ黙って、それから続けた。
「手紙を貰っていたんだ、百合ちゃんから。『遊びに来てね』って書いてあった。だから、なんていうか……知りたくなった。永原さんからふたりで行ったことあるって聞いてさ。どんな味だったのかなって。……何も知らずに帰るなんて、百合ちゃんに合わせる顔がないよ」
ミネは少し俯いて、眉間を寄せた。
「一緒に行くの……私でいいの?」
こちらをうかがうような瞳は、不安げに揺れていた。
「俺はミネと行きたい。……あ、でも炉端焼きって煙とかすごいらしいから、臭いがつくかも。ヤだったりする?」
「ううん! そんなことはないけど」
「良かった。……俺さ、ここに来てすぐ、ミネが話しかけてくれたの、嬉しかったんだ」
ミネはペンを持ったまま小さく揺らし、落ち着かない様子を見せて、「……嬉しい?」と照れくさそうに言った。
落ちた髪を耳にかける仕草に、目が止まっていた。
「うん。それに、話してると楽しい。だから、ミネと一緒がいいって思った」
「なにそれ」
吹き出しかけたミネは、唇を押さえて小さく笑った。
「まるで、チープな口説き文句みたい」
確かにそうだ。俺は少し気恥ずかしくなって、頭を軽く掻いた。……誘い方を間違えたかもしれない。
そんな俺の様子を見て、ミネはふっと微笑んだ。
「お洒落とか、しないからね!」
ミネはビシッと指をさした。
気分は、いま最高に高揚してると思う。
それでも俺は勢いに押されるように黙って頷いた。
◇
約束の日。早めに出たつもりだったが、ミネはもう、先に来ていた。
「はやいね」
「……前、待たせちゃったでしょ」
そんなふうに気にしてくれていたなんて。ちょっと驚いたけど、嬉しかった。
俺は、ミネの姿を盗み見る。
お洒落はしないって言ってたのに、なんていうか、今日のミネは少しいつもと違って見えた。
けれど、それを口にするのはやめた。
変に意識させてしまうのが、もったいなく思えたからだ。
柔らかな癖毛が風に揺れて、ミネはときどき、目を細めながら空を見上げていた。その横顔に、気づけば目が留まっていた。
胸の奥がそわそわする。そのくすぐったさも、どこか楽しかった。
そんな明るいスタートをきったというのに、炉端焼きを食べに行くと、もうすぐ団体客の予約が入るとのことだった。
無情な張り紙を前に、ミネと目を合わせる。彼女も残念そうな顔をしていた。
こればかりは、どうしようもない。
諦めかけたその時、少し離れた店先から、関係者と思われるおじさんが声をかけてきた。
「早く行けば間に合うぞー!」
その声が合図になった。ふたりで階段を駆け上がり、息を整える間もなく、食事処に飛び込んだ。
店員さんは「十五分くらいなら出せますよ」と言ってくれて、思わず顔を見合わせる。
「ぜひ、お願いします!」
声がぴったり揃った。
気の毒に思ったのか、本来なら自分たちで焼くはずのところを、店員さんが手伝ってくれた。
慌てて食べながらも、真ん中にイクラが乗ったカニ飯の甘さに唸る。カニの食べ比べ味噌汁や炉端焼きのホタテやエビ、特にホッケは油が乗っていて、とにかく美味しい。あっという間だった。気づけば、ふたりともひと言もしゃべらず、夢中になっていた。
満腹になると、俺たちはお礼を言って、すぐに店を出た。
それが、なんだか可笑しかった。あんなに美味しいものを、焦るように掻き込んで、言葉も交わせないまま出てきたなんて。
外の静けさのなか、目が合って、ふたりして声を立てて笑った。
胸の奥まで空気が透き通っていくような、そんな笑いをこぼしながら、俺たちはそのまま白い道を並んで歩いた。
途中、道端で雪をかぶった笹が目に留まった。俺はカメラを取り出して、シャッターを切る。
「そんな笹を撮ってどうするの?」
「まっさらな雪の中にあるんだよ。風情があるじゃないの」
「珍しくもないし」
「だから、いいんだよ」
「……だからって?」
「見慣れてるものって、違和感なく見られるし、落ち着くんだ。ほら、家に飾るなら派手な絵より静かな絵のほうがしっくりくるでしょ」
カメラをしまい、近くの雪をそっと手で払った。
舞った雪が、ぽたぽたと笹のまわりに落ちていく。そのあとに小さな穴ができた。
これでもう、俺たちが見た景色は、誰も見ることができなくなった。
「それに、俺にとっては見知らぬ景色だからさ」
「……それじゃあ、どこを見ても新鮮ってわけだ」
「そーゆーわけ」
「というか、前にも似たような話した?」
「マンホールを撮ったときかな」
誰の足跡もない真っ白な雪を背景に、ミネは笑っていた。頬は風で赤く、でもどこか楽しそうに。
重たい雪を踏み分けながらの道のりは思いのほか大変で、いつの間にか、厚着の下はほんのり汗ばんでいた。
途中、ミネが気になると言っていたカフェの看板が見えたが、また今度となり、俺たちは海に張り出した建物――もかわ展望タワーへ足を向けた。
行き先なんて決めていなかったはずなのに、不思議と、そこへ導かれるように歩いていた。
館内では魚が泳ぐ姿を眺め、海をイメージした青いゼリーを食べ、仮想現実シアターを覗いた。
上階に上がると、窓の向こうに、かすかに島の影が浮かんで見えた。
ふたりで同じ景色を見ているあいだ、そのときの静けさが、ただ心地よかった。
しばらくして、俺たちは展望タワーをあとにした。
そしてまた、当てもなく歩きはじめる。
ときどき、手と手が当たる。でも、分厚い手袋越しじゃ、何も伝わってこない。それが妙にくすぐったかった。
そして歩き続けた果てに、雪に覆われた海沿いの遊歩道にたどり着いた。
潮のにおいが鼻の奥に張りつき、遠くではカモメが飛んでいる。
「さっきのポストカード、買わなくてよかったの? しばらく見てたけど……」
「うん。いいんだ」――もう、持ってるから。
藻川に来るきっかけになった、絵葉書。
それを売り場で見つけたときは、百合ちゃんとの思い出をひとつ共有できた気がして、少しだけ嬉しかった。
導かれていた。……それは、大袈裟じゃなかったのかもな。
積もった雪が風に舞い、温かな陽に照らされて、キラキラと光りながら落ちていく。そんな光景を見ていたら、ふと話したくなった。
「……なんか、してあげたかったって、あんまり考えたことなかったけど……でも、ひとつだけ、できたかもしれない」
それは、今さら思い至った未来であり、遅れてきた後悔だった。
藻川で百合ちゃんを辿るうちに、人と関わるということが、自分の中でようやく形になってきた気がする。
「なに?」
「俺さ、百合ちゃんを卒展に招待したかった。絵、見てほしかった。子どもの頃みたいに、褒めてほしかった」
人が死ぬということは、叶わないことが積み重なっていくことなのかもしれない。だとしたら、これから先の人生とは、なんて虚しくて、悲しいものなんだろう。
「気づいてないだけで、今さらって思うこと、きっとたくさんあるんだろうな」
あらゆる悲しみが、消化不良のまま心の奥に沈んでいた。それが今になって、少しずつ浮かび上がってくる。ゆっくりと波に運ばれて、打ち上げられるようにして。きっとこれから先も、そのたびに、俺は寂しくなるんだ。
「私には見せてくれないの?」
しんとした空気を和らげようとしたのか、ミネは明るい調子で顔を覗き込んできた。
その顔を見た瞬間、俺は思わず前のめりになる。「見てほしい」――その言葉に、ミネは少し目を見開いた。予想外だったのかもしれない。
「……見に行っても、いいの? 幌井に帰っても、会いたいって言ってもいいの?」
不安げな表情を見せるミネに、俺は頷いて笑って見せた。
「俺も会いたい。だから……次に会うときまで、元気でいよう」
再会の機会は当たり前にあるとは限らない。そんな常識を知った今、祈りのような思いが生まれた。
ミネは握りしめた拳を眉間に押し当てて俯き、振り絞るような声で「ん」とだけ言った。
肩を震わせる彼女に伸ばした手が、もう少しで触れそうになって、俺は迷った。そのまま引くことも、触れることもできず、指先は宙に彷徨う。
やがて、彼女の涙がぽとりと雪の上に落ちた。
その雫を辿るように視線を落としたとき、髪の先に残っていた雪が、ひとつ、解けながら落ちていった。
小さな穴を穿ち、その底に――水色が、そっと光っていた。
海を眺めながら、しばらく言葉もなく並んでいた。
やがてミネが、少し遠慮がちに言った。
「もしよかったら、青写真の絵を見てみたい」
その言葉に頷いて、俺たちは映画館へ戻ることにした。
並んで歩く足跡が、さっきよりも少し近くに残っていた。
映画館に着き、部屋に入った瞬間、出かける前に、もっと片付けておけばよかったと少し後悔した。
散らばった画材に、丸めたラフ。寝ていた場所の跡も、そのままだ。
「えっと……」
気の利いた言葉を探しながら、頬を掻いてごまかす。
けれど、ミネはそんな俺の様子には気づきもせず、開きっぱなしのスケッチブックを指差した。
それを差し出すと、興味深げに絵のあれこれを尋ねてくる。応じているうちに、自然と話は大学のことや、幌井での暮らしへと移っていった。
ミネの視線が、机の上の一枚の絵葉書にふと留まった。
「百合ちゃんがくれたんだよ」
そう言って渡すと、ミネはそっと受け取り、しばらく指先で縁をなぞったあと、ゆっくりと目を伏せた。
「……だから、買わなかったんだね」
その言葉が、まっすぐに届いたのがわかった。
ミネは宛名の面には目をやらず、かわりに快晴の藻川の町と海が映った面を撫で、小さく微笑んだ。
その仕草から、彼女が気持ちを汲み取ってくれたことが伝わってきた。
やがて、絵葉書の向こうを見つめながら、小さく、重たげに息を吐いた。
「……ひとりで考えていると、百合さんがいないなんて、やっぱり嘘だって思いたくなって。何度も、そうやってごまかしてた。でも、モトは、そんな私の話をちゃんと聞いてくれたよね。……あのとき、私ね。泣いて、安心してた」
ミネは泣きたくないとでも言うように目元を手のひらで覆い、かすかに首を振った。
俺は、その気持ちを守りたいと、強く思った。心の痛みにまっすぐ向き合うミネの、その混じりけのない悲しみを――ただ、純粋に。
だからこそ、少しでも寄り添いたくて、口を開いた。
「泣きたいときは、映画を観るといいんだって。どんな顔をしてたって、誰も見てないから。……永原さんが、そう言ってた」
この映画館を『秘密基地みたいな場所』と言ったのは、ミネだった。
俺は、それがすごく素敵だと思った。
自分の言葉じゃないのは、少し情けないけど――。
ミネが、泣きたくなったときにこの場所を選んでくれるなら、それだけでいいと思ったんだ。
「モトがこの町に来てくれて、本当に嬉しい。……ありがとう」
耳の先がじんわりと熱くなる。寒さのせいじゃない。自分でも、それはわかっていた。
「ちょうどいい他人だったから、近づく勇気が湧いたのかも」
言ってから、自分でもしっくりきた。
すると、ミネがそっと顔を上げた。その表情は、どこかすっきりとしていた。
「でも、次に会う時は友達ってことになるんだね」
「うん、気心の知れた友達」
「……そっか」
「そうだよ」
「そうだね」
鼻の頭を赤くして笑ったミネの目には、少しだけ光が戻っていた。
◇
少しの間、静けさが部屋を満たしたあと、俺たちは、棚に並ぶパンフレットやチラシを眺めながら、知っている映画の話をした。
どれも少し昔の作品ばかりだったけど、くだけたやりとりのなか、ときどき熱が入るのが妙に面白かった。
貴重な資料かもしれないと思い、触れるのはためらったが――崩れかけた部分だけ、そっと目立たぬように整えておいた。
棚を眺めていた俺の背中越しに、ふいにミネが少し硬い声色で名を呼んだ。
「……モト、ちょっと来て」
「ん?」
「これ、本の下になってたんだけど……」
ミネが見つけたのは、シルバーの小さなラジカセと、いくつかのカセットテープだった。
彼女はそのうちの一本を抜き取って、ラベルの文字を俺に見せる。そこには、『百合』の名前と日付が書かれていた。
俺たちは顔を見合わせた。
ミネはケースからカセットテープを取り出すと、慎重な手つきでラジカセに差し込んだ。
電池はまだ生きていたらしく、再生ボタンを押すと、テープが静かに回り始めた。
音量を少しずつ上げていく。
やがて、スピーカーから女性の声が流れた――その瞬間、手が震えた。息を呑むことさえ忘れて、俺は耳を澄ませた。
『ソルペの山は寒いよりも、あま~いのであります!』
『そのセリフ、好きだよなあ』
『イエッサー少尉の名言は全部好き』
耳の奥がじんと痺れる。
息を吸うのも忘れたまま、俺は固まった。
――百合ちゃん。名前が、喉の奥まで込み上げてきた。けれど、呼んではいけない気がして、俺は慌てて口を押さえた。
僅かな音ですら、聞き逃したくなかった。
そして、応える声――永原の声。
ふたりの声が重なるたび、時間が巻き戻されていくような錯覚に襲われた。
永原の声が、セリフをなぞるように流れた。甘えるような、冗談めいた口調だった。
『百合が今日いなくなったら――俺も、明日を終わらせるよ』
『そんなのはダメ。再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも、聞かせてくださいな』
『では、今すぐソルペの山に特攻して、共に散りましょう』
『死ぬときは一緒ってこと?』
『そりゃあ、もちろん!』
『夕一ったら、ほんとうに私のことが大好きなんだから……って、ああーっ! 今、録音してるでしょ!』
『してる』
『だめ、カット! 今のなし。再収録を求めます!』
『却下します。イエッサー少尉も言ってただろ? 人生にリテイクはない、って』
カチリ、と小さな音を立てて、テープが止まった。
楽しげな声だけが、その場に残された気がした。
ぽつんと胸に残ったのは、行き場をなくしたまま取り残されたような寂しさだった。
俺は、ほとんど無意識に口を開いていた。
「……ミネは、いまも永原さんが、午後六時に『青写真』を上映してるの、知ってる?」
目を合わせると、ミネは戸惑うようにかすかに目を細め、ラジカセにそっと触れる。
そして、静かに首を振った。
「あの人、ずっと決まった時間に観てるんだ」
ミネは、小さく目を見張り、俺の顔を見た。
「……毎日?」
頷くと、ミネは少しのあいだ黙った。
そして、ラジカセを見つめると、ぽつりと呟いた。
「……今でも、ふたりが好きだったラブロマンスを観てるってさ」
ラジカセの微かな傷をそっとなぞる手が、小さく震えていた。
「それってさ……口に出さなくても、『愛してる』って伝えてるのと同じじゃない?」
ふっと笑ったあと、ミネの目から涙がこぼれた。目尻がぴたりとくっついて、こらえていた感情が堰を切ったようだった。
ミネの言葉が、胸にすとんと落ちた。
映画館を守り、この場所に立ち続けること――永原は、生きることが自分にできるせめてのことだと言った。
でも、それだけじゃない。ミネが言ったことも。それもまた、ひとつの本当なのかもしれない。
きっと、あの人は、百合ちゃんが戻ってくるのを待っている。百合ちゃんが、ふらっと映画館に現れることを。流れるフィルムの音に紛れて、どこかの席にそっと座る、その姿を。
俺は、その涙を見ていられなくなった。
ミネは掌でそれを拭いながら、かすかな声でつぶやく。
「これ、ずっと仕舞い込んでたのかなぁ……」
沈んだ声だった。だから俺は、励ますように――あるいは、自分の不安をごまかすように、口を開いた。
「探してたのかもしれないよ。ずっと、見つけたかったのかも」
そうであってほしいと、どこかで強く願っていた。
耳の奥で、スクリーンの中のモノクロのふたりと、ラジカセから流れた声が重なり、胸に響いた。
その余韻の中で、胸の奥に、そっとひとつの決心が芽を出した。
いつの日か、冬は終わり、春は必ずやって来る。
花は、暖かな陽の下にあるべきだ。
「永原さんに、渡そう」
ミネは何も返さなかった。少し、戸惑っているように見えた。
俺は、カセットテープのケースを手に取り、『百合』の文字を見る。それだけで、特別なんだと思った。
愛している人の名前を書くとき、人は、その文字にできるかぎりの丁寧さを込める。
伝えるためじゃない。ただ、そこに心ごと置いていくみたいに。
絵や物語が人を引き寄せるように、誰かのそばにいることで自然と生まれる居場所もある。
このラジカセは、永原のそばにいることを、きっと望んでいた。
◇
午後七時四十五分。
重たい扉を押し開け、遮光カーテンをそっとくぐる。薄暗いシアターの中、永原が中央の席に静かに座っていた。
ミネは俺にカセットテープを託し、帰っていった。
ひとり、大切な役目を任された俺は、ラジカセを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
この場所に俺を送り出した人のことが、ふと頭をよぎった。
あの券が、たまたま挟まっていたとは――今になって、もう思えなかった。
してやられた、そんな気持ちも少しあった。でも、うまくいくなら、それでいい。
たぶん、それくらいのことだったのだろう。
拓真くんが俺をここへ寄こしたのは、きっと、自分では会う覚悟が持てなかったからだ。
永原は、妹を救えなかった――その事実が、どうしても胸に引っかかっていたのだろう。回数券を渡せずにいた理由も、そこにある。
それでも、拓真くんは永原を責めていなかった。
だから、俺が来た。
最後の手段として、俺を託したんだ。ほんの少しの希望に、静かに賭けるようにして。
スクリーンでは、湖を眺めながら身を寄せ合う恋人たちが、そっと口づけを交わしていた。
握っていたラジカセが、ほんの少し重くなった気がした。
その重さごと、足を前に出す。
「永原さん」
「上映中は不要な移動、私語はお控えくださーい。……っていうのは冗談で、何? どうした」
俺がラジカセを差し出すと、永原の顔に、はっきりと驚きが浮かんだ。
「これ、どこにあった」
「俺が借りてる部屋に」
「中、聴いたか?」
「……すみません」
永原はラジカセを受け取り、「いや、いい」と言って、ゆっくりと首を横に振った。
指先で表面をそっとなぞり、ひと呼吸、深く息を吸って、吐いた。
「……少し、ひとりにしてくれ」
俺は「はい」とだけ答えて、ゆっくりと出入り口へ向かう。
重い扉に手をかけた、そのとき――スピーカーから、声が流れた。思わず、足が止まる。
『ピエールは今日もつまみ食いに勤しんでばかり! そろそろ鉄槌を下す時が来たのではないでしょうか』
場違いなほど明るい声が、スピーカーから流れる。
つづいて、永原がひとつ、重たげに息を吐くのが聴こえた。
ラジカセのボタンが押される音。再生が止まり――そして、再生。
『再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも、ちゃんと聞かせてくださいな。たとえ今日、私が死のうとも。明日、貴方が死のうとも――私たちを引き離せるものなんて、何もない。つまらない人になんて、どうか成り下がらないで頂戴』
すぐに止まる。
……そして、もう一度、再生。
『再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも――』
また、止める。
永原は、何度も、同じ言葉に手を伸ばしていた。
そして、三たび、再生ボタンが押される。
百合ちゃんの声の上に、永原の声が重なる。
まるで、思い出すように。なぞるように。
「再会のときに、私が見たかったものも、聞きたかったことも。ちゃんと……聞かせてくださいな。たとえ今日、私が死のうとも。明日、貴方が死のうとも。――私たちを引き離せるものなんて、何も……」
あの人は、ただ、愛する人を求め続けていた。
どれだけ時間が過ぎても。……今も。
こらえていた感情が、胸の奥から、せり上がる。
空気が震えていた。
届く場所にいるはずのない人を、引き止めるように――
「百合」
嗚咽まじりに名前を呼びながら、永原が前のめりに崩れ落ちていく。
気づけば、スクリーンにはエンドロールが流れていた。
まるで何事もなかったように、映画は終わろうとしていた。
俺は、静かに踵を返し、そっとシアターを出た。
閉じた扉に背を預けると、映画の音だけが聞こえていた。
出入り口の傍に、百合の花が一輪、花瓶に挿してある。
白く大きく咲いたその香りが、古びた赤い絨毯の匂いと混じり合い、わずかな瑞々しさを、この場所にもたらしていた。
思い返せば、永原という男は、意外にも細やかな気配りを見せる人だった。
古い建物の中で、新しいものは、あの花だけだった。
けれど、だからこそ思う。この場所は、過去のまま、そっと佇んでいる。
俺はこの町で、いくつもの綺麗なものに出会った。
燃える朝焼け。
時の名残を照らす街灯。
人が差し出す、温かな手。
そして、群青の海。
そのすべての中に、「今」が確かに息づいていた。
けれど永原は、どんなときも、百合ちゃんを見ていた。
映画の台詞を諳んじるほど繰り返される『青写真』。それは、流れない時間の痕跡だった。
寄り添う恋人たちの映像の中に、誰にも届かないすすり泣きが響いた。
脳も、心も、五感のすべてが、絶望と、そして幸福に満たされていく。
これほど悲しく、これほど美しいものを、俺はこれから先、知ることがあるのだろうか。
永原と百合ちゃんが並ぶ未来を、胸の奥で何度も描いた。
けれど、その風景はいつも遠く、静かだった。
記憶のなかで、熱を帯びた詩が言葉と手をつなぎ、今もなお、踊っている。
百合ちゃんを想い、涙を流す人がいる。
その姿が、ようやく、彼女の死を俺に教えてくれた。
想像もできないほどの愛が、彼女の人生には宿っていた。
それを、ただ――確かめたかっただけなのかもしれない。
それしかなかったから。だから、あとのことなんて、考えていなかった。
名前を呼ぶ声が、いつまでも耳の奥に残っている。
悲しみは、ずっと、そばにある。
正しさなんて、わからない。
けれど――悲しむということそのものが、愛なのだとしたら。
このまま、そっと抱えていくしか、ないのだろうか。
「……立ち直るのを待っているのは、他人みたい、か」
あのときの陽向の声が、ふいに胸の奥に落ちた。
暫くして、目元を真っ赤にした永原が、シアターから出てきた。
何も言わず、ただこちらを見る。
「お前、ずっとここにいたのか」
「永原さん。俺、風呂、入ってきます」
「あ? ……あー……そうか」
「一緒に行きませんか」
永原は、露骨に顔をしかめた。俺の行動が理解できないらしい。
「なんで?」
「まだ一緒に行ったことないから……その。なんとなく、です」
タイミングが悪かった。思いつきで口にした言葉に、足元がふわつく。
さっきまで胸にあった熱も、音を立ててしぼんでいった。
「相変わらず空気読めないな」
反射的に謝ろうとしたそのとき、永原が喉の奥で、小さく笑った。
「行くか」
感情を切り替えたというより、一瞬だけ力を抜いたような声だった。湿った余熱が、まだどこかに残っている気がした。
着替えを取りに戻り、俺たちは靴を履く。一緒に映画館の扉を出るのは、まだ少し新鮮に感じた。
夜道を並んで歩くあいだ、互いに言葉はなかったけれど、不思議と気まずさはない。
やがて温泉の灯りが見え、静かな足音のまま、玄関をくぐった。
今夜は回数券を使わず、永原が入浴代をまとめて払ってくれた。
脱衣所では、彼のほうが手慣れた様子で、ためらいなく支度を進めていく。
洗い場で体を流し終えると、ふたり並んで湯船に身を沈めた。
永原は、時折誰かに声をかけられては軽く応じ、またすぐに目を閉じる。その仕草が、妙に彼らしく思えてくる。
俺は湯の表面に視線を落とし、揺らめく光を、ただ静かに追っていた。
「あの……、相変わらず空気読めないって、俺、いつも読めてなかったっすか」
永原はぼんやりと天井を見つめた。
「思い当たるのは、今回だけかもな。でも、ここに来たこと自体が空気読めてなかっただろ」
「……迷惑でしたか?」
「もう帰るやつが何を聞いてんだよ」
俺は、思わず黙り込んだ。永原が言うように、幌井に帰る日が、確実に近づいていた。
まだ、ここにいたい。そんなことは言えなかったし、言ってどうにかなるとも思っていない。自分がいちばんよく分かっている。
言葉に詰まって、口を尖らせる俺の様子に気づいたのか、永原は柔らかく息を吐いた。
「ここに来てよかったか?」
「……はい」
「なら、また来いよ。あの部屋は寒いから、夏とか――」
「いいんすか?」
勢いで永原に向き直った拍子に、目が合った。途端、顔が熱くなる。
そんな言葉が出た自分に、後から驚いた。
永原はとうとう、笑い声をあげた。
「ははは! ……くくくく」
この人は、豪快に笑ったあと、口元を手で押さえるんだな。破顔した永原を見て、思わず俺は目を丸くした。すると、彼は軽くデコピンをお見舞いしてきた。
「別に。お前は勝手にしたらいいよ」
温かな水の流れる音。泡のはじける音。話し声。冬の寒さが届かない、どこか安らげる場所。
永原は目を閉じたまま、肩まで湯に浸かりながら言葉を続けた。
「ときどき、何をやっても、良い方向に進む奴っているんだよなあ。他人を巻き込んでさ――まるで、お前みたいなやつ」
それじゃあ、まるで俺が、ここに来て良かったってことになるじゃないか。
……ああ、ダメだ。
ここに来てから、どうしてだろう。涙が出るんだ。
永原が目を閉じているあいだに、俺はそっと顔にお湯をかけた。




