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第一章 訃報

 絵葉書が届くのは、いつも突然だった。

 裏返せば、すぐに読める。

 気軽で、どこか無防備な便り。


 切手の絵を眺めて、手書きの文字をなぞる。

 そんな小さな仕草が、そっと胸をひらかせた。


 誰にも見せたくなくて、こっそり部屋で読んでいた。

 ペンを選ぶ。シールを探す。

 そんな時間も、どこか楽しかった。


 俺も、最初のうちはちゃんと返していた。

 届いたら書いて、ポストに入れる。

 それを、何度も繰り返していた。


 けれど、ある日から、やめてしまった。

 止めたのは、俺だった。

 理由は、ない。


 ――あのとき返事を出していたら。

 会いに行っていたら。

 そんなふうに、ふと戻らない日々を思い出す。


 受け取ってくれる人が、いつまでもそこにいるなんて。

 どうして、あんなにもまっすぐ信じられたんだろう。



 温かな陽差しに目を細め、庇い手の軒下から空を見上げる。屋根の縁からは、雪解けの水がぽたぽたと静かに滴り落ちていた。

 俺は胸ポケットから、一枚の絵葉書を取り出す。宛名の下には、丸みを帯びた綺麗な文字で、他愛のないことが綴られていた。体調を気遣う言葉と、その土地で見つけた美味しい食べ物の話。そして、最後にはこう書かれていた。

『ぜひ遊びに来てね』

 その文字を、親指の腹でそっとなぞり、ハガキを裏返す。白い氷に覆われた海の写真が印刷されていた。俺はそれを目の高さまで持ち上げ、遠くの景色と重ねてみる。

 凍てついた海の写真とは対照的に、陽を受けてきらきらと光る群青の海が、穏やかに、遠く揺れていた。


第一章 訃報


 隣の家のお姉さんが亡くなった。

 訃報が届いたのは、兄を除いた家族が揃っていた昼下がりのことだった。

 昼食を食べ終えたあとも、俺たちはダイニングテーブルについたまま、両親と一緒にテレビを見ていた。

 そのとき、不意に家の電話が鳴った。珍しいことだった。今では、連絡のほとんどが携帯電話で済んでしまう。家の電話が鳴ることなんて、滅多にない。

 受話器を取った母が「え!」と叫び、俺と父は顔を見合わせた。思わず母の方へ視線を向ける。

 詐欺の電話かもしれない――そんな考えが一瞬、頭をよぎった。

 俺はテーブルに頬杖をついたまま、受話器の向こうにいる誰かの声を、聞こえないはずなのに、つい聞こうとしていた。

 電話口の母は明らかに取り乱していて、顔を覆ったまま動かない。それを見ていた父が眉をひそめる。

 やがて電話を切った母がダイニングに戻ってくると、沈んだ声で呟いた。

「百合ちゃん、亡くなったんだって」

 言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。

 ――佐渡百合。

 隣に住んでいた、十歳年上の優しいお姉さんだ。

 その名前は、俺たち家族にとって、あまりにも馴染み深いものだった。

「明日、葬儀があるって。アンタ、行けるでしょ?」

「……絶対に行くよ」

 そう言うだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。言葉は出たけれど、それ以上は何も言えなかった。

 沈んだ空気に背を向けるように、俺は席を立ち、自室へと戻った。


 翌日、斎場に着くと、母をはじめ俺の家族が百合ちゃんのご両親と兄の拓真くんに声をかけた。

 そこで聞かされたのは、冬の寒い日に、百合ちゃんが心臓を痛めて亡くなったということだった。

 母は堪えきれずに泣き出し、百合ちゃんの母親――沙織さんが、そっとその肩を抱いた。

 悲しみにあるはずの人が、他人を支えている。その姿に、どうしようもないやるせなさが込み上げた。

 俺はその場の空気に耐えきれず、視線を彷徨わせた。

 遺影の中の百合ちゃんと、目が合う。

 笑っていた。

 思わず写真から顔を背けると、今度は拓真くんと視線がぶつかった。

 気まずさに、思わず目を逸らす。

「改めて、久しぶり」

 声をかけられて、おそるおそる顔を向ける。

 拓真くんは、ぎこちなく笑った。

「……はい」

 小さく返すのが精一杯だった。

 目元の赤みが視界に入り、反射的に目を逸らす。正面から向き合うには、少しばかり躊躇いがあった。

 気まずい沈黙が落ちたような気がして、何か言わなければと焦った。さっきのこと――泣いてしまった母のことを謝ろうとして口を開きかけたが、思いとどまる。それはきっと、彼に余計な気を遣わせてしまうだけだと思った。

「急だったのに、来てくれてありがとうね。百合も喜んでるよ」

 俺は視線を落としながら、頷くのがやっとだった。


 葬儀は静かに終わった。帰り支度を始めようとしたとき、沙織さんが二冊の絵葉書のホルダーを手渡してくれた。中には観光地の絵葉書が数枚収められており、そのうちの一枚がひときわ目を引いた。

「それね。旅行に行ったときとか、百合が住んでた町の絵葉書なのよ。モトくんにも送ってたか……どうだったかしら」

「はい。綺麗だったので、写真立てに入れて部屋に飾っています」

 懐かしい気持ちに包まれながらページをめくったとき、何かが挟まっているのに気づいた。

 沙織さんがそれを取ろうと、手を伸ばしかけた。

 俺は、咄嗟に指をさして止める。

「これ、なんですか?」

「温泉の回数券よ。百合、家のお風呂より温泉が楽だって言って、よく通ってたの」

「どうするんですか?」

「しばらく手元に置くつもりだけど、いずれ……捨てるわ。使う人もいないし」

「俺、使ってもいいですか?」

「え、でも。藻川にある温泉なのよ?」

 沙織さんは、わずかに驚いたような表情を見せた。その瞬間、まるで「無理だ」と告げられたような気がして、胸の奥にざらついたものが広がる。

 藻川に行くことは、大変だ。それでも、行きたいと思っていた。

 口を開こうとして言葉に詰まった俺の代わりに、拓真くんがそっと声を出した。

「モトくんにあげちゃいなよ。俺たちは……使う気になれないんだし。その方が百合も喜ぶよ」

 俺は、手にしていたホルダーをそっと握りしめた。

 その言葉は、遠くから届いた声のように思えた。けれど、素直に受け止めるには、まだ心の整理がついていなかった。

 意識の底に、ひとつの思いが静かに浮かび上がる。

 ――今この瞬間にも、百合ちゃんは過去になっていく。

 そのたびに思う。語る術を失った心は、いったいどこへ向かうのだろうか。

 残された絵葉書は、彼女の『言葉』であり、『心』そのものだった。

 綴られたひとつひとつの文が、今も変わらず、彼女の思いを伝えてくれている。

 言葉にならない感情が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。どうにか言葉にしようとするたび、ますます何も言えなくなっていく。

 結局、俺には立ち尽くすことしかできなかった。どんな言葉も、この空気には重たすぎる気がした。

 ふと、肩にそっと手が添えられる。兄だった。

「俺も、後押ししてやるよ」

 仕事を休んで駆けつけた兄の言葉は、妙に頼もしく響いた。

 その一言に、拓真くんの表情がわずかに緩んだ。堪えていた呼吸を、そっと吐き出したような静かな変化だった。

「それなら、宿泊先に伝手があるから話しておくよ。モトくんなら大丈夫。それに、きっと百合も喜ぶはずだから」

 百合も喜ぶ――それはもう確かめられない。けれど、絵葉書に写るあの町を訪れれば、その言葉が少しでも真実に近づく気がした。



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