【短編小説】誰も急がない街
人生はクソだ。
戦う価値すら曖昧だ。
同意するだろ、季節のミルフィーユは疲労という名前で毎日ぶ厚くなっていく。
違うな、それはツラの皮だ。
鏡の中でおれが嗤う。
そいつは裏切られた青年だ。鏡を見ているのは裏切った大人だ。
いつまで生きているつもりだ?
これでも焦っているんだ。おれはおれの死を死にたいのに、そううまくいかない可能性がある。
だがケツに詰まった焦燥感は引きこもりになって出ようとしない。
駅から南北に伸びる幹線道路を南に下る。
おだやかな流れの広い河にぶつかる。
河の名前なんてどうでもいいんだ。
その河にかかった小さな橋を渡ったところに、誰も急がない街がある。
橋の名前なんてどうでもいい。
必要なのはその街では誰も急がないと言うことだ。
制限速度まで出して走るセンチュリーもいなければ、車間距離の近すぎるベントレーもいない。
こっちでは急いでるのは金持ちばかりだが、もしかしたらそこには貧乏人しかいないのかと思ったよ。
でも違う。
なんなら信号はランダムに変わる。
つまり赤信号と右折のサインの後に青信号になったりする。
しかし誰もクラクションを鳴らさない。
他にもまだある。
収穫の時期を逃した完熟の西瓜が畑の上で爆発したように割れていたんだ。
腰に手ぬぐいを下げたおじさんの眉間に蜻蛉が止まっている。
誰も急がないんだ。
そこでは影がどこまでも薄く間延びしている。
誰も急がないんだ。
おれはその街の中心で立ち止まった。
車が止まる。バイクも止まる。
しかし誰もクラクションなんて鳴らさない。
そうしているうちに信号は三回変わる。
誰も先を急がない。
ドブに捨てられていく時間。
カップラーメンを喰って煙草を吸いながらクソする時間よりも多くの時間が交差点で無駄にされていく。
生きているうちに喰えるメシの数をかぞえる。
生きているうちに抱ける女の数をかぞえる。
犬が回って鳴く。
飛び魚のアーチを潜る。
元恋人たちは知らない男と腰を振っている。
世界はクソだ。
「本当か?」
裏切られた青年が訊く。
「あぁ、本当だ」
裏切った大人が答える。
「そうか、本当か」
影はどこまでも薄く、間延びしている。
空は高く遠く淡い色合いでぼんやりと笑っている。
嘲笑っているんだ。
その小さな橋を渡ったところにある誰も急がない街におれは立っている。
恐ろしいほどの風だまりに、丸まった四方木が転がっている。
その向こうにはじゃんけんでグリコ遊びをしている子供たちが見える。
みんなグーしか出さないから誰も進まない。
それでも楽しそうに遊んでいる。
その影はどこまでも薄く、間延びしている。
西で橋が落ちた。東で太陽が沈んだ。
おれの女は知らない男に犯されて妊娠した。
世界はクソだ。
「本当か?」
裏切られた青年が訊く。
「あぁ、本当だ」
裏切った大人が答える。
「そうか、本当か」
おれは一番近くに止まっている車の窓ガラスを叩く。
運転手は緩慢な動作でガラスを下げた。
おれは渾身の右拳を運転手の鼻に叩き込んでそのまま髪の毛を掴み頭をステアリングに叩きつける。
誰も急がない街にクラクションが鳴り響いた。
あの間抜けな音だ。
そう、お前のお袋が放り出す屁みてえなクソどうしようもない音だ。
おれは何度もそのクラクションを鳴らした。
運転手は血塗れになって気絶した。
信号は青になった。
誰もクラクションを鳴らさない。
その運転手以外は誰も。
おれは運転手を引きずり降ろした。
シートに座りペダルを踏んだ。
車は猛スピードで走り出した。
反対車線でランダムに変わる信号を待っている車にぶつかった。
その車の運転手は何の反応もしなかった。
ギアをバックに入れた。
アクセルを床まで踏んだ。
後ろの車にぶつかった。
運転手は何の反応もしなかった。
おれは何度も繰り返した。
車は変形した。
そこら中の車が変形した。
誰も逃げようとしなかった。
誰もクラクションを鳴らさなかった。
誰も救急車を呼ばないし誰も警察を呼ばなかった。
子どもたちはじゃんけんをしている。
繰り返しグーを出している。
拳がお互いの鼻にめり込んでいる。
手ぬぐいを腰に下げたおじさんの眉間は蜻蛉に食いちぎられている。
影はどこまでも薄く、間延びしている。
おれは持ち込んだポリタンクをひっくり返してガソリンを撒いた。
おれはポリタンクをひっくり返して灯油を撒いた。
おれは燐寸を擦って火をつけた。
誰も急がなかった。
誰も急がない街だった。
おれは嗤うしかなかった。
人生はクソだ。
だが急いで死ぬ価値も無い。




