潮騒の呼ぶ方へ
誰に言われたわけでもなく、ただ「行かなきゃ」と思った。
澪は平日の午後、電車を乗り継ぎ、人気のない港町にたどり着いていた。
特に理由があるわけじゃない。
けれど、朝起きた瞬間から胸の奥がざわついていて、
まるで何かに手を引かれるようにして、ここまで来てしまった。
潮の香り。
波音。
風の冷たさ。
知らない町のはずなのに、なぜか心が落ち着いた。
昔、彼と別れたとき、自分の人生のどこかが空洞になった気がしていた。
その空洞を埋めるために、いろんなことをした。
働いて、話して、笑って、泣いて。
でも、何かがずっと届かないままだった。
港の近くの小さな海辺で、澪は一人、ベンチに座っていた。
と、足元に小さな白い貝殻が転がってきた。
なぜか、それを拾ってポケットにしまう。
その時、背後から小さな声がした。
「それ、いい音がするよ」
振り返ると、小さな女の子が立っていた。
彼女はまるで、澪が来るのを待っていたかのような笑顔を浮かべていた。
「お姉さん、きっと海に呼ばれたんだと思うよ」
その言葉に、心の奥が揺れた。
「ここに来たこと、後悔しないでね。大切なもの、ちゃんと見つかるから」
そう言って、女の子は走って行ってしまった。
不思議な気配だけを残して。
澪はポケットの中の貝殻をそっと取り出した。
耳に当てると、波の音がした。
それはまるで、「よく来たね」と言われているようだった。
その瞬間、自分の中の空洞が少しだけ満たされた気がした。
埋めるんじゃない。
そこに風が吹き込み、波が届き、やがて音になる。
この場所に来なければ、あの女の子に会わなければ、
そして、貝殻の音を聴かなければ――
きっと気づけなかった。
自分の人生の“空白”は、悲しみではなく、
何かを迎える“余白”だったのだ。