父の甘酒
私の父は町工場に勤める真面目だけが取り柄の人だった。
全く料理をしない人だったが、それでも唯一の得意料理があった。
甘酒。
休みの日。
冬になると父はお米と米麹で自分で甘酒を作っていた。
こたつの中に毛布で包まれた甘酒の鍋がある。
それが我が家の普通だった。
「甘酒、飲むか」
父がそう尋ねると私は当たり前のように「うん!」と答えた。
父の甘酒は甘くてあったかくて、とてもやさしい味がした。
私がおいしそうに飲むのを父は嬉しそうに目を細めてただ眺めていた。
その時間が変わってしまったのはいつだったか。
ああ、そう、中学生、思春期と呼ばれる頃だった。
家族と過ごすよりも友達と過ごす方が楽しくて。
父と話すことや触れ合うことが面倒くさいと感じるようになっていた頃。
寒い寒い冬の日だった。
「甘酒、飲むか」
いつものように父は私にそう尋ねた。
私は「いらない」と答えた。
その時の父の表情はなんと言ったらいいのだろう。
悲しさの中にさびしさがあって、それでも、それを表に出さないように必死に堪えていた。
「そうか……」
やっと口に出したその言葉は少し掠れていて、口元には絞り出したような小さな笑みが浮かんでいた。
「友達と遊んでくる」
約束なんてなかった。
私はただ逃げるように玄関に向かった。
「今日は寒いからあたたかくして行きなさい」
後ろから聞こえてくる父の言葉。
私は返事もしなかった。
私は悪くないと思った。
父の甘酒を飲むことがとても恥ずかしいことのように思えた。
ただそれだけのことだった。
それからも父は毎年、冬になると甘酒を作った。
でも、私がそれを飲むことはなかった。
父も「飲むか」とは二度と尋ねてこなかった。
母と2人だけでそれは消費され、私の分はただ余っていった。
大学を卒業し、私は家を出た。
都会の企業に就職し、今はワンルームのマンションで一人で暮らしている。
働くことと生活することは大変だ。
そんな当たり前のことを思い知る日々だった。
『元気なの? ちゃんと食べてる?』
母からは頻繁に電話が掛かってくる。
電話じゃなくメッセージを送ってくれればいいのに。そしたら、どこでも返せるのに。
そう言うと「声が聞きたいから」と言われ、何も言えなくなった。
元気だよ。ちゃんと食べてるよ。
私は繰り返す。
嘘だった。
そんなに元気じゃないし、「ちゃんと」と言えるような食事もしていない。
食べられればいい。お腹がふくらめばいい。朝昼晩。3食はそんな感じで終わっていく。
さすがと言うか、私が分かりやす過ぎるのか。
嘘は簡単にバレて母からはよく荷物が届いた。
段ボールいっぱいに入った私の好きだったお菓子や果物。冷凍された母の手作り料理が届くこともあった。
有り難いけれど、心配させてしまう自分が情けなくもある。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ。
季節はいつの間にかと過ぎて行く。
実家に比べればここの冬はまだやわらかい。それでも冬は冬だった。
母から荷物が届いた。
開けると中身は母の手作り料理で。私は申し訳なく思いながら一個一個取り出して冷凍庫にしまう。
保存袋に黒マジックで書かれた料理の名前。きんぴらごぼうに煮込みハンバーグ、ロールキャベツ。
今日の晩ごはんはどれにしよう。
そんなことを考えていると──
「あれ?」
見慣れないものがあった。乳白色の……。なんだろう、これ。
不思議に思いながら文字を見る。
『元気が出るから』
父の字だった。
その瞬間、それが何なのか分かってしまった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
こまってしまう。
父がどんな風に入れたのか想像ができてしまう。
たまらない気持ちになる。
私は立ち上がると中身を鍋に入れる。
水を足してかき混ぜながら沸騰する寸前で火を止める。
それから塩をひとつまみ。
父がやっていたやり方だった。
お気に入りのマグカップに注ぐ。
一口。
甘くて、あったかくて、とてもやさしい。
父の甘酒はあの頃と何も変わっていなかった。
大切に大切に全てを飲み切る。
からっぽになったマグカップと一緒に写真を撮る。
『おいしかったです。ありがとう』
書いては消した。気の利いた言葉も綺麗な言葉も出てこなくて、ありきたりな言葉と共に父に送る。
メッセージはすぐに読まれた。
でも、全然返事が返ってこなかった。
あれ?
不安になっていると母からメッセージが届いた。
『今のお父さんです』
言葉と共に添えられたのは携帯電話を持ちながら右腕で顔を覆って泣く父の姿で。
私は笑いながら泣いてしまった。