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真球理説  作者: root
序章
8/21

序章 6話<無駄なもの>

「―――そうでやしたね。アザレアさんが元気そうで安心しやした」


「まぁ、記憶の淵にしまい込んでいた御友人とも再開しましたし、木城百合の金魚の糞共にはやり返しましたから、心のつっかえが取れたんでしょう」


正確に言うならば木城蕾、いや、アザレアが木城蕾として最後にやったことは一方的に突き放した友人への贖罪と、辛い時に側で支えてくれた従者の実家への些細な仕送りと礼であり、前者は前々から学者が彼女の従者から言われていた木城百合の私刑に付き合っていた貴族の子息や令嬢を吸血鬼覚醒の共犯者として祀り上げ、ついでにこれまでの悪事をちょっとした証拠と共に新聞記者へ売りつけたことで木城蕾自身があずかり知らぬところで学者が勝手に行なった嫌がらせにすぎない。


「あの遺書の内容が正しいか正しく無いかは関係なく、世論はあの遺書に名の上がった貴族たちを糾弾することでしょう。そうなれば王がその事に興味を持たずとも王宮としては処分を下さずには居られない。こんなことで臣民から不満を買っていては万全な統治に支障が出る、ってな感じですかね」


「...絶対に学者様は敵に回したくありやせんね」


「政治的な立場に物を言わせて散々やってきた人間らしい散り様ですよ。政治的に立場のある人間こそ、些細なことで信用を失う。信用が回復するまえに吸血鬼覚醒の援助だ、社交界での立場も失い、帝国の民からの信頼も失い、彼等に待っているのは死んだ方がマシに思える地獄のような日々。今まで木城蕾にやってきたことをこれからは自分達がやられることになるんです。その様をこの目で見れないのがほんとーーーーっうに残念で仕方ない」


「アザレアのお嬢には言わないでおきやすよ...」


学者がその罰を望んでいてもきっと彼女が聞けば、すぐにでも辞めてくれと止めるような所業だ。彼女は復讐を望まない、そのように生きてきたからこそ、彼女は実の妹に家督を奪われ、家族を奪われ、友を引き離し、理解者を失った。


貴族という身分、社交界という場所においてその優しさはあまりに致命的だ。優しさは弱みであり、冷酷さが強みになるような環境に身をおいて尚変わらなかったその在り方がどれだけ尊いものなのかも、少なくとも自分達には分かる。


「分かるこそ、学者様がやったんでやしょう。少しでも木城蕾という人間の尊厳を取り戻せるように」


「...そんな大層なものではありませんよ。僕がやりたいからやったんことです。それにアザレアさんには失礼ですが、木城蕾が妹である木城百合とその取り巻きに行われていた私刑とは比べ物にならない、それすら霞んでしまう程の悪行を僕はしてきました。僕はそれを後回しにする術を持っているだけで、いつかは僕も積み上げた悪行に相応しい罰を受けるでしょうね」


「...あっしは学者様が悪行だけを積み上げてきた訳じゃないのを知ってやすよ」


「そんな不良が捨て猫を拾ってたみたいな言い方...。僕は今も死んでいないのが不思議なほどの屑ですよ。ま、誰かの為に死んであげるつもりは毛頭ありませんが」


学者は自身が他者とは違う事を自覚している。学者は自身の行いを悪として自覚している。

だが、これまでの行いはどれをとっても常に人の為に在ろうとし、その選択はいずれ来ると言われている終末を回避するために役立つことを信じている。


善人ほど命は平等と言う。詭弁だと、ある世界の自分が鼻で笑ったことすらあるその考えを今は否定しようとは思わない。

物事に答えは無く、同時に答えがある。どれも正しくて、どれも間違っている。


人にとって無数の考えがあり、その考えはその人間にとっては正しくとも他者から見れば間違っているとも言える。故に否定をするではなく、その考えもありだと受け入れる。そうすれば幾らか無用な衝突は減り、他人から邪険に思われることが少なくなった。

だが―――受け入れた上で、それは無いと断言できる。


「梟さんにとって僕達は特別な人間ですか?」


「どうしたんです?藪から棒に...」


脈絡のない突然の問いかけに戸惑う梟に「まぁまぁ、答えてくださいよ」と梟の疑問に答えることなく自身の問いに答えるように促す。


「うーん、そうさなぁ。柊の旦那と学者様とはもう10年近い付き合いです。あっしにとって一番は家族ですが、お二人も大切なのは人間なのは確かですぜ」


「そうですか。では家族の命と僕等三人の命、どちらの方が貴方にとって価値がありますか?」


「価値なんてそんなもの、同じに―――」


「―――貴方の愛娘と柊さんが死に瀕しているとして、どちらか片方しか命を救えないとしたら貴方はどっちを選びますか」


一度目の問いを言い切るよりも前に突如割り込んできた二問目、最初は何も考えることなく出た答えに僅かな躊躇いが生まれる。


「そいつぁ、あんまりな質問だ」


そう、最低で意地の悪い質問だ。答えを出すこと自体が間違いのような、そんな問題としては最低の問いに即答できる人間は数少ないだろう。


「この質問は一人一度きりと決めているんです。意識外から質問することに意味がありますし、この質問をされることを予め知っている人間にしてもつまらない答えが返ってくるだけですから」


「それを急にあっしにしたのは何ででやしょう」


「僕の考えを共感してもらおうと」


「それはどんな?」


「命の価値、それは平等なのかそうでないのか。僕は命に価値の違いがあると思っています。僕の知っている人間とそうでない人間とでは圧倒的に命の質、価値が違います。僕は柊さんのように優しくはありませんから、四人が生き残る為ならどれだけの数の人間が犠牲になっても良いと思っています。そして、僕等の為に失われた命の数がどれほどのものだろうとそれに見合うものではないとも」


その証明はこれまでの行いが物語っている。一つの街を壊滅に追い込んだ吸血鬼の眷属達、それは吸血鬼が意図してそうした訳でも、たまたまその街で吸血鬼の眷属が現れたからでもなく、吸血鬼の眷属から逃げ延びる為に、本来であれば被害を被らなかった街に眷属を引き入れ、なるべく早い段階で眷属が街の中で分散するように入り口で足止めをさせず、門番を柊に殺させた。


求められたのは自分達の情報を漏らさせないための口止めと、他の都市から衛兵や軍の増援が来るよりも早く街が滅びる為のスピード。変に粘られては生き残りが増え、生き残りが増えれば増える程、自分達の存在が露見するリスクが高くなるからだ。


「さぁ、貴方はどんな答えを―――」


「―――そんな意地の悪い質問に答える必要は無いぞ。そいつの言う事に一々考えてたらこっちがおかしくなるだけだ」


廊下と隣接した襖が開かれ、そこからふたりだけの会話に割って入る声がした。彼こそが今回の最大の功労者にして、この屋敷の主。


「おや、柊さんでは無いですか。まだ寝てなくてよろしいので?」


「寝れんから来た。そしたらお前らが居た、それだけだ」


「そう言って殆ど寝れてないじゃないですか。折角の長期休暇、休まなくては休暇とは言えませんよ」


「...寝れる訳がないだろう」


誰に向けるでもない、吐露にも似た小さな声。その声の主は部屋の棚からスティックコーヒーが入った袋を取り出し、電気ケトルでお湯を注ぐ。


「寝れないのにコーヒーを飲むのは逆効果ですよ」


「どっちみち寝るつもりはないんだから関係ないだろ」


「柊さんが良くても僕にとっては良くない。僕がここに留まっている理由は初めて会った時に言いましたよね」


「―――その期待も無意味だと俺は言った筈だが」


学者に対して一瞬不快感を態度に示すも、すぐにそれが彼に対しては効果を持たないことを思い出し、殺気に似た威圧感が息を潜める。


「まぁいい、用事はこれだけだ。今更お前にとやかく言うつもりは無い、好きにしろ」


旧国に来てから早十年、その時間の分だけ一緒に過ごしてきたというのに二人の仲が友人と呼べるものになることは無い。

柊にとって学者の男は自分が生き抜く上でのあくまで協力者、学者の男にとっては自分の興味と研究の対象であるのがこの男だっただけ。それ以上でもなければそれ以外でも無い。


「―――梟、その問いに答える必要は無い。その質問は意地も悪ければ意味も無い、本来ならお前が俺達に初めてあった時に問われる筈だったが、その必要が無かったからしなかったものだ。それに、お前が最終的に出す結論は俺もそいつも知ってるよ」


去り際、襖の縁を掴んだ柊は悪趣味な質問に答える必要は無いとだけ言い残して部屋を後にすると、その扉の先で箒を持ってきたアザレアと偶然鉢合わせになる。


「あ、柊さん。おはようございます」


「あぁ、箒なんて持ってどうした」


「学者様がコーヒーカップを割っちゃって...。踏んだりしませんでしたか?」


「気づかなかったが、踏んではいない。お前もあまり無茶はするなよ」


「はい!」


元気のない柊とは対照的に長年住んだ故郷を失い、家族を失い、唯一の理解者を失い、二度と会う事もないであろう友人に別れを告げたアザレアは元気とやる気に満ち溢れている。


「柊さん!!」


別れ際、長い廊下を進む柊は後ろから呼び止められる声でその歩止める。


「私、ここに来てよかったです。確かに悲しい事もたくさんありましたけど、お医者様のおかげで毎日のように続いた頭痛も体の痛みも治ってきて...」


「そうか」


「だから―――」


その違いは何なのか。いつも通りに仕事を終えて、吸血鬼から命からがら逃げ延びることが出来た柊と家族を友人を、名前すら失ったアザレア。本来であれば感傷に浸っているのは逆のはずで、救われた私よりもすくってくれた人が笑顔であるべきだ。


「こんな事を言うのはきっと人として最低だと思うし、許されないことだとは分かっています。けど、―――けど。柊さんのおかげで私は今ここに居ます。だから、そんなに苦しまないでください」


「――――――、気のせいだよ。俺は苦しんでなんかいない」


嘘だ。苦しんでなんかいないと言うのなら何で去っていくその背中はそんなにも悲しそうなのだ、どうしてその痛みを共有もせず、理由をつけて正当化しようともしない。ただ受け入れ続けてしまうから、その苦しみを罰として受け止めてしまうから―――。


「その感傷は無駄ですよ。十年の付き合いがある僕と梟さんが何を言っても変わらないのに、会って一週間程度の貴方が何を言ったところであの人は変わらない」


部屋の襖が開けられ、そこから話を隠れて聞いていた学者が思い悩んでいた様子のアザレアに助言をする。今更何を言っても柊と言う人間がこれまでの人生で確立させていった生き方が変わることは無いと。


「柊さんは異形を殺すのは躊躇わないのに人を殺す時には理由を欲しがる。意味の無いものにも意味をつけて、無理やり飲み込んだ理由を終わった後に傷として吐き出す。何故だか分かりますか」


「...いえ」


「―――不安だからですよ。あの人は自分が柊という()()()()()()()()()()。誰しもが抱く自分が紛れもなく自分であるという確信も、人間であると言う証明をあの人は出来ない。痛みを感じにくい体、人とは思えない身体能力に、先を見る瞳。自分が人間では無いという証明をするなら幾らでもあるのに、自分は人間だと証明するものは殆ど無い。なら、この罪悪感だけは捨ててはいけないと思っている」


虚生証明、かつての大賢者が発見したという、何度も繰り返して、思い出すことすら出来なくなっていった数百回前の記憶に居るその人物が自分であったという証明はこの世界には無いのに、それは紛れも無く自分であったという意味不明な確信。

今の人間が死に対して恐怖と抵抗感を覚えなくなった最大の要因である虚生証明は未だ謎の多い前回の世界からの引き継ぎの解明の一環として発見されたものだ。


傷が癒えやすく、容易に痛みを忘れてしまう体だからこそ、心に刻まれたその痛みだけは忘れてはいけない。

数年前、柊は人を殺した仕事帰り、洗面台でその日の夕食で唯一喉を通ったおかゆを吐きながら、学者の「どうして今更人殺し程度で思いつめるのか」という質問に対してそう答えた。


「そんなもの、生き残る為には無駄な感情でしょう。すぐに慣れた方が良いと助言したんですがね。結果はあの様です」


一見呆れているようにも聞こえるその言葉は学者の顔を見たらその言葉に乗せられたものが呆れでも糾弾でもないことは容易に理解できた。どこか納得したような、それでいてどこか嬉しそうな顔。


「柊さんのこと、好きなんですね」


「えぇ、大好きですよ。今まで見てきた人間の中で一番怪物に近いのに、その精神構造は人そのものだ。何度も繰り返し、この世界においての死が終わりでない人間が生きていく上で罪悪感は無駄なものです。木城家の令嬢として一時期社交界に身を置いていた貴女なら分かるでしょう、―――あそこ(社交界)では優しさも罪悪感も不要なものであると。社交界と言う場所は特別その気質が濃かろうと、帝国の民が旧国の人間を人と思っていないのも罪悪感の欠如が所以です。見た目も同じで感情というものがあるのにも関わらず、人として認識できないその歪な考え方こそ今の人間には必要なんですよ」


それは今までの人間社会と何ら変わりのない変化、ともすれば当たり前になってしまった変化ですらない常識だ。


「大昔、自然に対して敬意と恐れを持っていた人類がそれを忘れてしまったように。人類は次の進化の過程で罪悪感を忘れていく。必要の無いものを捨て去るのも進化の一つですよ。第三の目の喪失に尾を持つ人類が一時期姿を消したようにね」


必要でないものならそれを捨てるのは道理であり摂理。この世界において体に現れる進化は少なくとも、心に対する変化、適応は長い年月を経て着々と進んでいる。いずれこの世界に生きる人間の誰もが罪悪感を忘れ、それが悪であるという認識すら出来なくなってしまうだろう。

しかし、数は減ろうと種は存続する。どこかでまた罪悪感と言う者が繁栄に必要だと見なされれば未来の人類がそれを獲得するだろう。


「難しい話で、私にはよくわかりません。実際、私も周りの虐げれらている人間に見向きもしなかったことがありました。それが友人を、引いては私を守る為には仕方の無い事だと割り切りました。醜悪な催しも、楽しめは出来ませんでしたが、傍観はしていました。今私が感じている罪悪感が人々から無くなっていくのも理解できます。だって、この痛みは生きていくには重すぎます」


でも―――、


「お医者様はそれを無駄だとは言っても()()()()()()()()()()()()()。だったら、これ(罪悪感)はきっと大切なものなんですよね?」


「さぁ、どうでしょうね。でも、世の辞書には寄り道という言葉があったり、自分にとって何の利にもならない共感というものや、他者を慈しみ、思いやるという気持ちがある。そんな()()があっても良いと、僕は思いますがね」


「あはは、お医者様らしい言葉です」


その言葉にアザレアは少し嬉しそうに笑い、学者は口元に手を当てて笑うアザレアを見て同じように微笑む。

春にはまだ早いが、穏やかで暖かな午後の始まりだった。



~ ~ ~



―――帝国某所。光の差し込まない薄暗い地下にて赤く淡い光が輝く。


冷たい大理石の床に乱雑に書かれた線や文字が意味を為していくように陣に形を変え、地面に描かれたそれは空へ舞い上がりその輝きを増していく。


陣が放つ光でその地下室の全貌が明らかとなると、そこには無数の拷問器具が壁にかけられ、大理石で造られた壁には赤黒い染みが点々と続いていた。

部屋の隅には手足をもがれた子供の遺体が冷たく硬いベッドの上に転がっており、ここで行われたであろう拷問、実験がどれだけ凄惨なものだったかを物語っている。


「―――くそ!ふざけるなよ!!これのどこが木城蕾の死体だ!!傷も作り物だったら、記憶も無いこんな木偶人形があの人である筈が無いだろう!!あの防人め、分かっていて僕にこれを売ったな!?」


光が収まったのちにこの儀式によって何かを確認していた豪華な身なりの青年が甲高い声で叫ぶ。

混在の街ミグマが滅びた事を伝えた号外の記事、吸血鬼の再活動を記したその記事は飛ぶように売れ、今やその記事の内容を知らない帝国の人間は居ない。


吸血鬼の瞬間的な覚醒と、その眷属による街の消滅に、血に飲まれた木城家領土。どれも一国に留まる程の事件ではなく、明日にも各国の調査隊と討伐体が、閉鎖されたミグマと周辺地域の眷属の処分を行いながら吸血鬼の新たな居城へ向かうという。


久方ぶりの心を震わせるビッグニュースに心躍ったが、それもつかの間、その記事の隅に書かれた小さな見出しが男の興味と目を奪った。


木城家蕾の水死体が発見されたとという吸血鬼の覚醒に比べれば取るに足らない報せは、周りにとってはどうでも良いことであっても男にとってはどうでも良いものなどでは無かった。


「そうだよねぇ、君が何も言わずに僕の前から二度も居なくなるなんてありえないもんねぇ...。ねぇぇ、蕾ちゃん。蕾ちゃんが社交界に急に来なくなった時、僕すごく悲しかったんだよぉ。それなのに、急に死んだって聞いて、―――何としても君が欲しくなったんだ」


木城蕾に似せた偽物の死体の血で濡れた両手で顔を覆い、恍惚の笑みを浮べてその青年は電池切れが近い乳白色のライトで照らされた地下室の天井を見つめる。


「けど、大金をはたいて君の死体を買ってみれば出来の悪い人形。―――君の体にあったあの傷跡も、美しい顔も全部が造り物だ!記憶を抜き取っていながら、そこにコピーすらしてない粗悪品をよくも...よくも!!」


怒りの感情に身を任せて床に転がっていた使い捨ての死体を力一杯に蹴りつける。木城蕾を模したこの死体はもちろん、記憶を抽出するこの儀式に必要な材料も決して安くは無かった。千年前のものとはいえこの儀式は王宮の神秘に該当するものだ。この儀式を知るのにも多くの苦労と対価を支払った。


それも全ては木城蕾と言う人間の全てをこの手中に収める為、死んでしまったのならせめてその亡骸と共に記憶も保存し、鑑賞して、愛でようと多くの金を支払った。だがしかし、これでは金をドブに捨てたようなもの。それも安い額じゃない、ともすれば一つの街をそこに住む人間ごと買い取れるような、そんな途方もない額を―――。


「―――けど、まぁいいや。君が生きてるならそれでいい。あぁ、愛しい僕だけの君。―――僕の与えた愛しいその傷も、君と交わったあの熱い夜も、君と隣で語り合えるのならそれに勝さる幸福は無いんだからねぇ」


男は笑う。男は歓喜する。

この不幸の先にある幸福はどんなものにも勝る価値を持つ。木城家の跡取りを妹の策略によって略奪され、家族を薬漬けにされ、社交界で立場を失い、一人孤独で生きるあの後ろ姿を美しいと思ってしまった。


悲劇こそ人を最も輝かせる、その中でも彼女ほど悲劇の似合う人間は後にも先にも現れなかった。

初めて会った時は奇跡だと思った―――この人と会う為に僕は生まれたんだ、そう思えてしまうほどの衝撃と感動が全身を駆け巡った。


だから、


「―――絶対に僕が君を見つけて助け出してみせる」


それは、酷く身勝手で歪んだ愛の証明。

浮かべた笑みは狂気に彩られ、発する言葉は呪いのごとく執念を宿し、誰にも聞かれる事無く血に濡れた大理石の壁の中に吸い込まれていき、陽の光が届かぬ閉ざされた部屋の軋む音が凍えるような午後の訪れを告げる。

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