序章 4話 <怪物の証明>
「―――作戦はこうです。僕等は早急に木城家領内を脱出し、帝国内に侵入します。本来であれば僕等のような旧国の人間は立ち入ることは許されていませんし、わざわざ死ぬ可能性のある危険を冒してまで侵入することすらしません。『旧国に居るものは人に非ず』。帝国内での常識であり、もし旧国の人間だと知られれば死ぬよりも恐ろしい目に遭うとされています。ですから僕等が帝国内で最も優先すべきは身元がバレない事。なので不本意でしょうが木城家令嬢である貴女にも一芝居打っていただきます」
「分かりました。私に出来ることがあれば何でもします、お医者様は勿論、柊様と梟様にも助けて頂きましたから」
「いいですね」という念を押す学者の問いに弱弱しくはあるものの答えたその言葉が本心から来るものであることはその瞳を見れば理解できた。
言葉がどこか弱く聞こえるのは意思の弱さ、優柔不断さからくるものではなく、ひとえに彼女の体調の悪さから来るものなのだろう。
「本当に大丈夫か?」
「心配して頂くような程ではありません。お医者様にも治療して頂けて、痛みも大分引きましたし、何より体調が悪いのはいつものことです。ですから、柊様、私のことなんて気にしないで下さい。―――柊様の心労に比べれば些事のようなものです」
木城蕾が目を伏せるのはこれから起こる惨事を容易に想像できるからだろう。わざわざ危険を冒してまで帝国の領土に踏み入るのは、今生き残る確率が最も高いからだ。その確率は向かう先にある街に人が多ければ多い程上がる。
―――詰まるところ、これは大勢の人間を犠牲にして自分達だけが助かろうとしているに過ぎない。
一分、一秒、ほんの少しでも長くこの世界で生き残る為に他者を踏み台にして生き残る。
他者への責任転換、これまで幾度も行われたそれを自分達が行う。それで失われるのは地位でも名誉でもなく命だ。その前の前座を柊が担当することになったのだ。
「幾ら最下層の住む街といえど警備の目があります。こっそりと侵入することも出来ますが、そんな時間はありません。ですので、僕達は正面から侵入する他ない。旧国の人間に対する帝国の人間に態度はご存じの通り、容赦も無ければ躊躇いも期待しない方が良い。ただの警備員であっても、害獣駆除の為に銃器が支給されていますから」
そう、帝国に住む人間にとって外に住む人間は人では無いものとして扱われる。良くて自分達人間と近い姿をした獣程度の認識しか持ち合わせていない。徹底的なまでの排他と駆除を持って帝国、引いてはその中心である都の安寧を保ってきたのだ。
「やられるくらいならこちら側仕掛けるまで。帝国の最南端に位置する街ミグマに防人は派遣されませんし、休暇であってもミグマに立ち入る人間は居ません。ですので、ミグマに居る殆どが戦闘経験の無い警備員とほんの少し腕が経つ衛兵程度でしょう。どれも常日頃から異形を相手にしている柊さんの敵ではありません」
「何人殺せばいい」
「―――目に付く限り全員。侵入者が居たと言う情報すら僕等にとっては致命的です。後々捏造した情報を拡散させますが、侵入者が居たと言う噂は少ない方が良いので」
「......。了解した」
正面突破には不可欠であり、後々自分達の首を絞める目撃者は限りなく減らすには殺す他ない。ミグマの街の人間であれば賄賂でも送れば黙らせることは可能だが、学者の言っていた通り今回自分達に用意された時間は少ない。
「これから馬にブーストを掛けます。一時的に吸血鬼の眷属と距離が離せるでしょうが、街を少し過ぎたところで馬が限界を迎えます。そうなる前に僕と梟さん、蕾さんの三人で移動の足を確保、それまでに柊さんには足止めと口止めをお願いします」
「...お医者様、やっぱり殺さなくても―――」
「殺さなければ殺されますよ。それにいずれ吸血鬼の眷属が街に到達すれば大勢死にます、それに比べれば柊さんが手に掛ける人間は遥かに少ない。大事の前の小事、―――仕方の無い事と割り切るのも時には必要です」
納得も理解もしなくていい。ただ、それが必要のあることならば柊にはそれを完遂する為の良い訳が用意できる。
「柊さん、この作戦を考えたのは僕です。ですからこれから失われる命は僕が殺したも同然、貴方が気に病む必要はありません。僕達を助けてください、その為に―――」
...言い訳はいい加減思いついたことだろう。
必要の無かったこと、仕方の無かったことと簡単に割り切れないから、その間に言い訳を挟む。そうすれば罪悪感を感じることも無い。
ここに居るのは自分だけではない。梟、学者、木城蕾、守らなければいけない命が3つもある。名前も半生も知らない赤の他人と、その人間がどんな人間か知っており、情が芽生えた人間、―――命の天秤にかけるまでもなく、お前には前者を守る責務がある。
命には価値がある。命には重さがある。平等な命など世界には存在しない。
だから―――だから、
「殺す」
―――馬が目の前を過ぎ去っていった。唇を噛み締めて全力で馬を走らせる男と、荷台を覆う布の隙間から不安げにこちらを見る女の瞳。そして―――どこまでも、冷徹で、冷静で、正しい青年の目。
「何者だ、貴様ら!!外の衛兵は何......ぉ?」
警備の男がすぐ横を駆けていった馬を追う事が出来ないと判断し、城壁の外から現れた人影に当然の疑問と共に視線を向ける。
男の手に握られた人の頭部から流れる新鮮な血が大地を赤く濡らし、返り血を全身に浴びた男の目には光は無く、どこまでも黒く澄んだ黒瞳が正面から警備員達を見据える。
それは物語で見たような怪物を彷彿させ、辺りに恐怖と怒りを伝播させていく。
怪物とは言っても何か具体的な例がある訳でもないが、本能が目の前に立つそれを人間として認識出来ず、正気を徐々に擦り減らしていく。
「ひ、ぃ......」
本能で危機を察知した警備の男が逃げ出そうとした瞬間、その喉元に何か鋭利なものが突き刺さる。
喉にある違和感がすぐに痛みに変わり、疑問の声が苦悶の声に変わる。
「や―――」
「逃げるな」
脳天をもう一振りの斧が叩き割り、男の抱いた恐怖と痛みが死によって遠ざけられる。一瞬の出来事に周りにいた警備員と衛兵は何も出来ず、目の前で同僚の死ぬ様をただただ眺めることしか出来なかった。
「う、あぁぁぁぁぁぁ!!」
その間に男の喉元から引き抜かれた斧が念入りにその首を切り落とすと、まず初めに恐怖で正常な判断を失った青年が手に持った警棒で目の前にいる怪物に飛び掛かった。
―――無謀だった。
互いの力量すら知らない若さだけが取り柄の人間がよくやるミス、出来ない事を出来ないと判断することも出来ず、それが自分には出来るとも信じることすらせず、何も考えないでやるから何も出来ずに死んだ。
「俺が止める!!お前らはすぐに連絡を!!」
斧が突き刺さった胸を押さえながら倒れる青年を見て、その青年の同僚だった男が歯を食いしばり声を上げる。
―――蛮勇だった。
さっきの青年と同じ、自分と相手の力量を判断できない愚か者。だが、自分ならば足止めを出来ると信じているという点だけはさっきの青年よりもマシだった。だが、捉えようによってはさっきの青年以上に愚かで、救いようのない愚か者と言える。
だから、すぐにその首を落とされて死んだ。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
責務を忘れて一目散に逃げた警備の女目掛けて投げられた手斧がすぐにその悲鳴を止め、次いで斬りかかって来た屈強な衛兵を蹴りを食らわせて退かせ、振り向きざまに先程殺した青年の警棒を男の眼球目掛けて放ると、その鍛えられた屈強な体を意にも介さず、脳まで到達し、少しの間痙攣をしたのちに巨漢は絶命した。
「なんだ、なんだ。こんな夜中に喧嘩かぁ?」
これは危機感の無い愚図、与えられた平穏に浸りきった立場だけが取り柄の役立たず。
―――ほら、死んだ。
女の悲鳴を聞いた時点で喧嘩などというものではなく、それ以上の凶行があったと判断する能力があればこんなにも呆気なく死ぬことは無かっただろう。
額に開いた穴と、立ち込める硝煙の匂い。殺しに獲物は関係ない、使えるものを取っ替え引っ替えしながら目に付く人間、正確には自分を認識したと明らかに異常な速度で走り抜けた荷台付きの馬を見た人間を優先的に殺していく。
―――自分はまともなのだと思っていた。
この狂った世界では命というものは唯一無二のものでもなければ代用のきかないものでもない。だって、この世界で失った命はこの世界の終わりと共に、次の世界へ引き継がれ、記憶も同時に多少の欠けはあれども持ち越されるものだ。
自分が自分であるという確証である記憶があれば、それだけで人はこうも変わってしまうのだ。誰も彼も原初の恐怖を忘れ去り、歪な生き方をさも当然のようにしている。
自分もこの世界以外ではそういった生き方をしていたという自覚もあるし、その狂った価値観で生きていた記憶も確かに存在する。だが、それもあの日を境に全て変わってしまった。
『―――お前は誰だ』
水を注いだコップの縁をなぞる指が消えることはない。
白いローブに身を包んだ女の問いは柊という人間を狂わせた。これまで忘れていた恐怖を記憶の底から引きずり出し、その恐怖を忘れることのないように大切な人達の死で蓋をした。
そして。
―――もう、コップに注がれた水が溢れることは無い。
「お疲れ様です。柊さんのおかげで目撃者が出ることはなさそうですね。なので―――それを下ろしてください」
聞きなれた声がして、どこか遠くへと向かっていた意識を現実に引き戻す。モノクロの景色に色が戻り、記憶の回遊から戻った意識で振り上げた斧を振り下ろす寸前で止める。
「旦那!!その方は学者さんでさぁ!」
「柊さん...」
辺りに目を配れば、そこかしこに転がる死体と、一面赤に染め上げられた床に立ちながら必死の形相で叫ぶ男と、不安げにこちらを見つめる女が居た。
視線を戻し、眼下を見ればそこには見境なく死を振りまいていた自分に地面に押さえつけられた学者がこちらを見ていた。その顔には恐怖も無ければ、押さえつけられていることへの怒りもない。ただ、いつもと変わらない青い瞳がこちらを見ている。
透き通る青の瞳、その先に映る自分の姿は赤黒い血に濡れていた。
斧を持たない左手には誰のものか分からない頭部が握られていて―――。
「そう...だったな」
―――俺は死なせない為に殺していたんだった。
ようやく記憶の底に沈んでいた意識と視界全てを現実に引き戻し終え、振り上げた斧をゆっくりと下ろして、馬乗りになっていた学者から離れて左手に握っていた見知らぬ誰かの頭部と一緒に右手に握っていた斧を腕の脱力と共に手放すと、肉が地面に叩きつける音が一瞬して、その音が金属が床に叩きつけられた音にかき消される。
そのまま力なくぶらさがった右腕を震えながらも動かし、血濡れの手で顔の半分を覆う。
「なぁ、俺は狂っているか」
「...どうでしょうか。死というものに過剰なまでに忌避感を持つその考えはこの世界では当たり前ではないでしょうが、本来の人間という種族であれば持っていて当然のものだと言えます。―――そういうことじゃない?あぁ、そうですか。考えではなく、行いを指しているのであれば、」
名を持たない狂学者はいつもと変わらない笑みを浮かべ―――いや、いつも以上に喜びを込めた笑顔で周囲に視線を巡らせた後に笑う。
「―――立派に狂っていますとも」
無造作に積まれた死体と並べられた首、四肢をもがれた人間。そこに老若男女の区別はなく、おびただしい数の骸が転がっている。何も知らない者であれば、この惨状がたった一人の人間の手によって齎されたものとは思いもしないだろう。
だが、狂学者はこれが柊という男が齎した結果であることを疑う事はない。決して衛兵や警備員の中で内部分裂が起きた訳でも無ければ、全員で殺しあって生き残った人間を逃がすと柊が言ったことで起こったものなどではない。
この光景は結果などというそんな陳腐なものではなく、もっと崇高で、人類という種の進化の証明に他ならない。
―――柊アカリ。
被検体№【無】 家族構成【不明】出自【不明】発生要因【不明】年齢【認識上23歳】
秘密主義の帝国内においてもその情報の全てを削除された特例中の特例。数年前、ある民家で起きた事件を発端とし、旧国に逃亡してきた廃退者。本人はそう言っていたが、それを証明するものは何一つとして残っていない。
「正直に言うと期待以上でした。僕の考えではよくて十人程でしたが、衛兵が報告したことで区別をつける必要が無いと分かれば庁舎内の人間全員を殺すとは思いませんでした。気分はいかがでしょうか?」
―――視界は鮮明で、頭痛もなければ思考にノイズは無い。むしろ清々しさすら感じている自分に心の底から嫌悪感が沸いた。
「―――最悪だ」
「それは良かった。ここでそれ以外の解答であれば貴方は柊さんではない、柊アカリという人間によく似た怪物であるという証明に他ならない」
柊という男は死そのものを忌避し、その死の対象が自分であろうと他人であろうと受け入れることがあってはいけない。彼から人間性というものが完全に無くなってしまった時、彼は正真正銘の怪物となる。
「僕としては貴方が狂っていようといなかろうと関係はありませんよ。それに言ったでしょう?貴方が殺した人間は僕が殺したも同然です、この惨劇を引き起こしたのは貴方ではなく僕だ、―――今はそれでいいでしょう?」
「...逃げる為の、足は?」
「えぇ、梟さんの持ってきた改良馬程ではありませんが、移動用に品種改良された馬を見つけました。早急にここを脱出しましょう、ほら外の声を聞いてください」
その言葉の通りに耳を澄ませば、外からは悲鳴と怒号が聞こえ、外壁の外側から迫る異形の足音で大気が僅かに振動し始める。
一つの街の終わりを告げるのは鐘の音でも無ければ天使の角笛でもない、人によく似た何かの足音と死の間際に発せられる悲鳴と絶叫が一つの街の終わりを告げる。
「行きましょう、ここも直に異形の群れに飲まれる。彼等は生者にしか興味を示さない。ここに居たら狙われるのは僕達です」
「旦那、これを」
茶色のコートで赤に染まった体を隠すように覆う。それで何かを隠そうという訳でもなければ、この行いをしたのは自分という罪悪感を誤魔化せる訳でもない。
「外は雪でさぁ、そんな薄着じゃあ寒くて仕方ねぇでしょう」
「お医者様、行きましょう」
「そうですね、ここに居ては危険です。きっと賢い人間であれば都へ向かう筈です。それに乗じて僕達も街から逃げ出した人間を装い、帝国の中で一日だけ療養しましょう。その先は事前に伝えた通りにお願いします」
新しく乗り換えた馬車の中に乗り込み、人の少ない道を選んで走り出す。街を出てから少しした後に通った道は人で埋め尽くされ、やがて街道は赤に染まる。
遠ざかる悲鳴と怒号。―――その日、一つの街が滅びた。