第一章 10話 <罪の在処>
「―――では。あなた方の言う罪とは、悪魔をこの世界に呼び出し、まだ十にも満たない幼子を利用し殺したことなのですか?」
城塞都市を治めていた王の眠る墓所、そこで解かれた呪いと、新たに発生した呪い。
学者は柊が目を覚まさぬ内に住民たちに掛かっていた口外の一切を禁じる呪いを解呪するため、彼等の言う伝播する呪いの真意を聞いていた。
「その程度の事で、呪いが伝播すると?知ると言う行為自体に罪を課すものだとでも?」
そうも忌々しいものなのか?と学者は思案する。子供が生贄に捧げられること等、人類史上幾度となくあった事だ。人は往々にして救いを求め、その為の犠牲を厭わない。
自己中心的で、愚かで浅ましい。逆に言えばそれこそ人間である証明だ。
「...違う。王様を当時の貴族連中が殺したのは間違いないが、俺達も罪を犯したんだ。後世に残る最低で最悪の罪だ」
子を王に祀り上げ、利用したのは宮廷に居た人間であり、その国に住まう民は王を信じることはあれど、その危害を願う人間は誰一人としていなかった。彼の采配はそれほどまでに完璧で、完全だった。
一切の不平、不満が出ぬほどに。
しかし、彼等もまた人間であった。王を信じ、平和を願いながらも―――その身を犯す妬み、僻み、怒りは消えない。
「違う、違うんだ。―――許してくれ、頼む」
これまで学者に事の顛末を説明していた男が突如顔を抑え、呻くように許しを乞い始める。
と、同時に暗い洞窟の中を鬱屈とした何かが漂い始めたのを学者は感じ取る。男に端を発して生じた、その黒く、ドロドロとした何かは次第に周囲の人間に付き纏い、やがてはその狂気を伝播させていく。
何が起きているかは明白だ。これは呪いの発動、彼は過去の記憶に囚われている。自身が犯した訳でも無い罪に苛まれているのだ。
「…その罪も、僕が全て背負いましょう。ですから貴方はありのままを、心に浮かんだ言葉を僕に伝えるだけでいいんです。さあ、深呼吸をして」
老人の肩に手を置き、落ち着かせるように優しい声音で囁く。今必要なのは恐怖ではなく、優しさだ。心を落ち着かせ、真実を吐かせる必要がある。
「あ、あぁ。俺達の王様、私達の星。捧げて、焚べて、燃え尽きるまで」
正気を失っている。心が呪いに耐え切れていない。その証拠に顔を抑えている手が徐々に炭のように黒くなっている。周囲の人間も、先程から虚空を見上げて口をあんぐりと開けているだけで何も言葉を発していない。
———踏み込み過ぎたか?いや、まだ立ち入っただけだ。
これは呪いのほんの一端。それで不特定多数の人間を一時的にとはいえ、廃人化させる程の効力をこの呪いは持っている。
そう、これは一過性のものだ。しかし、その苦しみは、身を焦がすような灼熱は───人を苦しめるにはあまりにも的確だった。
この苦しみをトラウマとして深く心に刻み込み、その呪いを忘れることを許さず、より罪悪感を膨張させる。
───やがてはその魂すら取り込み、悪魔は成長するだろう。より永く、より深く、世界に根付く呪いとして悪魔は永遠を生きる。
「...柊さんが意識を失ったのはまさに不幸中の幸いと言えますね」
であるのなら、学者は先達に学ぶ。狂学者リリー・アントワネットが人に伝える呪いを口外を禁じるという真逆の呪いで封じたように。
───喋れないのなら、喋らせればいい話だ。
「少しだけ痛いでしょうがご心配なさらず。記憶に残らぬようにこちらで仕込んでおきます」
学者が老人の額に人差し指を当て、そこに印を刻む。
主に拷問や、手っ取り早く喋らせる為に用いる呪いだ。学者自身、呪いというものを知っていてもそれに特段興味を持たず、あくまで情報として知っているに過ぎないため、同僚とは呪いの発動時間と効力に天と地ほどの差がある。
そもそもの話、呪いというものを学者はあまり好いていない。効率的で、便利なものなのだというは分かるのだが、人との対話も、暴力を持って行う拷問も必要としないそれがあまり人間的に思えないから。
人には口があり、手があるだろう。話をして無駄なのなら、武力を行使するのが人間の性というもの。必要な時に使うことはあっても、それを積極的にやることを学者の美学は許さない。
「───美学といっても狂っていますがね」
そう、ただの美学ではなく狂った美学。狂美学が許さない。
故に、時間が掛かってしまうのだ。詳しく知らないものを最初に行う時、時間が掛かるように、呪いは複雑に組み合わさった機構を1から創り上げ、構築する必要がある。
常人であれば30年、情報通であれば10年、或いはそれ以上の時間を要して行うそれを13人の狂学者は数分でやり遂げる。
しかし、その数分が武器として扱うにはあまりに致命的だ。銃で例えるのなら、臨戦態勢に入り、いざ銃を撃つぞ、と思ってから3分後に弾が出るようなもの。しかもその間動くことが出来ないとなれば、その間に殺されて終わってしまうだろう。
故に、この状況は呪いを発動させるにはうってつけだ。身動きの取れない老人の額に数分手を置くことが出来ればそれでいいのだから。
そうこう言っている間に老人の額に刻まれた印が完成し、紫色の光を放つ。やることは単純、精神に干渉して、本人の意志に関係なく無理矢理喋らせるだけ。
───だったのだが。
「まさか、ここまで深く根付いているとは」
精神への干渉、これまで幾度となく行ってきた経験則でもこれには気付けなかった。いや、その経験則があったから気づくことが出来なかったのだろう。
学者の鼻筋をボトボトと赤い液体が流れ落ちていく。
悪魔の呪いは一度目のリリー・アントワネットの干渉によって既に外部からの呪いに対して耐性を獲得していた。呪いが呪いに対して耐性を持つなど、聞いたことがない。
やはり、この呪いは危険だ。これでは呪いというより一つの生命だ。外界からの脅威に対し耐性を獲得し、より強固で深い呪いを育てている。
道理で感触が少し変だった訳だ。
「───魂を切り分けて、寄生させていましたか」
語りかけるように老人の精神世界に救う呪いに言葉を放つ。しかし、それは自意識を獲得できるほど大きくはないのだろう。あくまで数千、数万に切り分けた悪魔の一部を人に寄生させ、徐々に増殖させているのだ。
これは呪いであると同時に悪魔そのものであると言える。───本当に、この場に居るのが自分で良かった。
その膿を学者は羽虫を殺すように握りつぶす。ぷちっと不快な感覚がして、老人の精神に巣食っていた悪魔の分け身を排除し、その奥にある原罪へ踏み込む。
王が犯した訳でも、宮廷に住む貴族が犯したでも無い、正真正銘、当時の民が犯した大罪を。
───鼻腔をくすぐる硝煙と血の匂い。長い間繋がれていた鎖が腐食し、牢の鍵はいつの間にか空いていた。
同時に数年ぶりに感じた外の空気、常時ではむせかえるようなその匂いも、今となっては懐かしい。
壁にもたれかかり、這いずるように階段を一歩、また一歩と上がっていく。
地上に近づくにつれ、外の異変は明確に形を帯びていく。
血の匂いと、人々の泣き叫ぶ声、それを───は知っている。
これまで幾度も繰り返した世界で、嫌になるほど聞いた死に際に救いを求める声。外はきっと地獄だ。もしかしたらまた世界が滅びるのかもしれない。
でも、進まずにはいられなかった。きっと一度でも止まってしまったら私はもう二度と立ち上がれなくなる。私はずっと、ずっーと走り続ける。
ぜいぜいと息を切らしながら、時に足を失い、時に光を失い、時に欠けた方の腕を支えたりしながら。
時に───息すらも出来なくなって。それでも進まなくちゃいけなかった。
如何なる仕打ち、如何なる罰。如何なる苦しみをもってしても、私にはそれしか出来ない。
───そうして、階段を登った先、農作に用いる鍬などを持った血走った目の人間達に私は出会った。
そうして、私は枯れた声で、潰れた喉の奥から声にならない声でも、微笑み、手を差し出す。
「───助けに、きました」
そうして、伸ばした手の先、怯える彼等が振り落とした何かが視界を覆い、私はまた眠りにつく。温かく、パチパチと音のする特等席。
周りでは皆が救いを求めて、私は静かに微睡んでいく。香ばしい何かが焼ける匂いが一層濃くなり、私は夢の中で並べられたご馳走に手をつける。
───並べられた料理は、私の匂いがした。
「───っ、ぁ。何だ、今のは。記憶の追体験?いや、|僕にそんなものは...。じゃあ、誰が、何の為に?」
───見せられた?
学者の意思でも、異能でもなく、これが彼女の持っていた力によるものだとしたら、それはあの瞬間、耐え切れなくなった心が上げた刹那の断末魔。
人が人である内は超えられない心の限界を踏み越えた彼女が残した遺言が、今になってようやく聞きとどけられたのだとしたら。
———血に塗れた女。数多の世界を旅し、世界の救済を願う人類の希望。いずれ来る正しき絶滅、それを良しとしなかった誰よりも尊き存在。
「―――まさか」
学者の顔が途端に青ざめていく。あり得ない、まさか。そんなことがあっていいのか?
普段は人間性を見せない彼が数百年ぶりに見せた不理解。これまでの彼の旅路、その根幹にあった存在の結末は、あまりに惨い光景だった。
「救世の巫女を───」
男の額に当てていた手で今度は自身の顔を覆う。その隙間から覗く瞳に映るのは今はもう数えることも馬鹿馬鹿しい程の年月にある過去の記憶。
僕は覚えている。あの人を、救いを求められ、その救いを求めた人々によって炎で焼かれた女性の顔を。
幼い頃、擦り切れる程読み、耳がタコになるほど聞かされた物語。13の賢人の前身、そして統一帝国建立の立役者。身近に居ながらも百に及ぶ世界で人類を纏め上げ、戦果を挙げた高潔なる存在。
狂学者という存在を今の人類が生理的に嫌悪するように、その存在は人類が抱く希望の象徴。畏れ、敬い、救いを求めるべき存在をあろうことか彼等は炎に焚べたのだ。
表舞台で王が貴族の傲慢によって殺されたように、その裏では燃え盛る国の中で——―巫女殺しが行われていた。
いずれ世界を救う一因となる筈だった存在を、こんなにも簡単に、侮辱的に―――。
「黙れ、悪魔。僕の心をそう簡単に乗っ取れると思うな」
『───化け物め』
その言葉を最後に、心の奥底に侵入していた何かが消える。
学者の顔や手、服の隙間から覗く素肌にぼんやりと輝く刻印が浮き出ており、非常事態に発動するよう仕込んでいた精神干渉を弾く保険が一つ彼から消える。
「...防人を懐柔するのにどれだけの労力を———。いえ、今は素直に保険を用意していて良かったというべきでしょうか」
悪魔が完全に学者の体内からも排除され、今度こそこの場に残る人間から悪魔の分け身が霧散する。巫女殺し、その大罪を知ることをトリガーとして悪魔はその情報を知った存在に干渉し、自身の魂を切り分けて与える。
そうして人の精神に巣くい、負の感情などを糧に成長し、宿主の死と共に本体の下へ還る。この呪いはそういう風に出来ている。
まさか、表層に張ってある簡易的な防壁をすり抜けて魂に直接アクセスしてくるとは思わなかったが、これはこれでいい経験になったと割り切る他ない。
悪魔との交戦経験はこれまでに何度かあるとはいえ、これほどの力を持っていてはその経験も意味を成さなかった。
言葉で誑かすのでも無く、契約によって縛るでもなく、知ることによって発動する呪いそのものが悪魔の本体だ。実体ではなく、最早概念として形を保たなくとも、かの悪魔は存在を確立させている。
ありえない話だ。元より実体化することで存在を確立させる筈のエンプティーが空想のまま在るなど。
人の空想が齎した災害は長い年月を経て、変質しつつある。その事は近年の研究で分かってはいたが、こうも飛躍的な進化を遂げている個体が居るとは。
「いや、そもそも性質が違う?人の心に住み、トラウマの想起を齎し、罪の意識を植え付ける。実体が無いのでなく───」
「───学者」
学者が一つの仮説に辿り着くと同時に、その隣で意識を失っていた柊が意識を取り戻す。
───最高のタイミングだ。
悪魔祓いが住み、今思いついた仮説を補強する為の判断材料を持った彼が目を覚ました。
「柊さん。さっきまでどんな景色を見ていましたか?そこはどんな場所で、体の感覚は?意識と自我の有無は?」
「急にどうし───いや、いい。分かった」
目覚めと同時に出迎えた質問の嵐に一瞬呆気を取られていた柊だったが、何かを思案する青年の姿を見ておおよその事態を把握した。
何があったかは知らないが彼等廃壁外の老人達の言う呪いの正体、或いはそれを拡散させた元凶が判明する一歩手前まで来ている。
「景色は一面、白い世界だった。いや、違うな。2つの空間があった。その空間を創造した少年が創り出した白い世界と、当時王宮で勤めていた人間の記憶。前者では意識的に体を動かすことは出来たが、記憶の中では時には夢の主の視点でもあり第三者視点だった時もあった。感覚は、少し妙だった。いつもの未来視では明確にあった自我が薄く、情景や考えはその記憶の持ち主の感情によって左右されていて───すまない、詳しく言葉にできない」
「いえ、十分です。寝起きにいきなり質問なんてすみません。彼等が起きるまでの間、少し休んでいてください」
「...お前は、休まなくてもいいのか」
「何故です?」
「自分の顔を見てみろ、といってもここに鏡は無いか。───疲れているぞ、お前」
そうして、こちらを見つめる柊の瞳。そこにおぼろげながらも映る自分の顔は何とも情けない疲れ切った幼子のような顔で───。
「そう、ですね。きっと疲れているんでしょう」
なんて、らしくもない言葉が出て、今更いつものようなヘラヘラとした態度でやり過ごすことも出来ず、しばしの沈黙が辺りを包む。
「昔のことか」
「...分かっちゃいます?」
「お前が本当の感情を見せる時は昔話をしている時くらいだからな。いつもは少しの怒りと、諦め。今回は───後悔か」
怒りや諦観はそれなりだが、後悔という感情を柊はよく知っている。仕事で人の命を奪い、吐瀉物を吐き出した洗面台で見つめる自分の顔を、これまで何度も見てきた。
命の価値を知っていながら、それを奪ってしまった事への罪悪感、徐々に死に慣れていく事への嫌悪感、そういったものに苛まれながら憔悴している愚かな男の顔を。
「何があったかくらいは聞いてもいいか」
「そんな、いつもは饒舌なくせに都合の悪いことになると黙り込む子供みたいな言い草しなくても」
「そこまで含んでない。...仮に含んでたとしても事実だろう」
「...言いますね、柊さんのくせに」
その場によっこいせと言いながら腰を下ろし、学者は体育座りのようなしせいで体を丸め、学者は疲れ切ったように短く息を吐く。
───重症だな、と柊は一人心のなかで呟いた。
幾ら目を覚ましている人間が自分以外居ないとはいえ、彼がそんな弱さを見せるのはこれまで片手で数えられる程しかない。
しかし、学者はとかく自分のことを話さない。それは彼が意識的にやっていることだし、今更自分が言ったところでその方針を変えるつもりは無いだろう。
「柊さん、昔話は好きですか」
「どう、だろうな。種類によるとしか言えない。楽しかったこと、嬉しかったことを話すのはいいが、そうだな。───言いたくも無ければ思い出したくもないものもある」
「でしょう?それと同じです。自分にとって嫌な記憶は足枷にしかならない。であれば、言うのは勿論、考えることすらしたくない。僕にとって過去とは総じて後悔でしかない。───そんなことを話したとて僕は何も面白くない」
「人の傷口は抉る癖にな」
「人とは利己的で自己中心的な生き物ですよ。自分が楽しくないことはしたくない、という理由は理由たりえるでしょう?」
それに、と学者は言葉を付け加える。
「他者を思いやる気持ちなんてものは生きるという目的だけに限れば邪魔で余分なものでしかない。僕達はそれを徹底的に排除しなければいつ誰に殺されるか分からない。だから、そういう事には疎いし、意図的に欠落させているんです」
そうすることで徐々に罪悪感は消えていく。現に今の狂学者に人を殺すことに躊躇する者は殆ど居らず、彼等は街を、そこで息づく全ての生命を容易く焼き払うことが出来る狂人ばかりだ。
一国を相手取っても問題がない実力を持っているからこそ、彼等は誰かを助けて、いずれは窮地に陥った時にその人間に助けてもらうなんて発想を抱きもしない。
誰かに命の手綱を握らせることに、一種の嫌悪感すら抱いているかもしれない。
「僕は狂学者、引いては13賢人の中でも最年少です。まだその境地に至れていないというのもあるでしょうが、友人には素体が良くないと言われました。お前のベース、根幹にあるのは常に後ろ向きな考えだと。何かをしたい、やりたいという思っても、心の奥底では自分には出来やしないと思い込んでいる」
「......」
まさかここまで学者が自分のことを話すと思っていなかったのか、柊は押し黙ってしまう。
「とまぁ、そんな僕にも名前を捨てる事は出来ましたし、後は本当に慣れの問題ですよ。そう柊さんが思い悩む必要はありません」
名前を捨てるということは過去を捨てるということ。過去を捨てるとは、忘れること。じきに、この感傷も、柊さんと過ごした記憶もこの世界が終わったのだとしたら僕は忘れて、また前に進む。
「───僕も、あの人のように」
最後まで、一つの目的に殉じて死ねたなら、僕はそれでいい。人の願いを一身に受けた救世の巫女が、その身を焼かれて尚、世界を救うことを忘れなかったように。
「あ、れ?柊の旦那、起きたんですかい?」
「意識を失っていたのはあなた方もですよ。ですがその間に悪魔の呪いは除去できました。どうです?」
「そうだ!学者様、俺達の先祖は巫女様を殺して、ってあれ、喋れる?」
「呪いは大丈夫そうですね。では行きましょうか。陰気な場所に居ると気持ちも落ち込む。日光を浴びれば少しは柊さんの体調も良くなるでしょう」
といって学者は立ち上がり埃を払い、周囲の視線を柊へと誘導させる。
「やっぱり体調が悪かったんだな。ほら、肩を貸すから掴まって」
「......」
そうして何も言わずに男の肩を借りて歩き出した柊を見送り、学者は壁に描かれた壁画に手を触れる。
そこに描かれているのは天に捧げられる子供と女の姿。空から伸びる腕が国を焼き、地獄の業火と悪魔の呪いがこの地を包んだ。
国を焼き尽くした炎は世界に広がる前に寸でのところで一人の男によってせき止められるが、呪いは消えず、世界を侵す。
やがては目覚めた悪魔が世界を再びその炎で世界を燃やし、多くの命と土地が灰と化す。かつてその炎が一つの国を焼いたように、今度は誰にも止めることのできぬ大火となって世界を覆う。そうして初めて悪魔の願いは成就する。幾度の世界を経て、人々の想いを踏みにじり、膨れ上がったその体躯で真球を飲み込まんとする。
おおよそ、この壁画に刻まれている内容はこうだろう。しかし、その隅で焼かれる一人の女の壁画を見つけて、学者はそこへ手を滑らせる。
その面影は懐かしく、後悔で溢れる昔の記憶でも光を放つ希望の印。
学者が13賢人に名を連ねた時に己に課した命題の道標となった人。───救世の巫女、そう人々に呼ばれたあの人の後を追いかけて、遂にここまで来た。
「貴女であればきっと世界を救える。僕には成せない偉業も、きっと貴女であれば成せるでしょう。ここには彼も居る」
柊アカリ、この世界において不在と思われた救世の巫女に代わり世界を救う程の力を持った人間の誕生は人類にとってのこれとない好機であると言える。
神は腐敗した世界を見放し、天球を支える天秤を投げ捨てた。これまで空想に傾き続けた天秤がようやくその均衡を戻しつつあるのだ。人類にとって、この周回はまたとない好機、長い旅にようやく果てが訪れる。
そんな希望が、僅かに胸の内から湧いてくる。それを学者は懐かしむように撫ぜて、階段を上がる。




