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真球理説  作者: root
第一章 原罪
18/21

第一章 9話 <21g>

 これは持論だが、魂とは、人を形作る基礎であり、肉体と魂、その両方を持ってこそ、その人間は生きていると言えるのではないだろうか。

 少なくとも彼の防人、紫苑はその魂を観測する術を持ち、彼は人を構成する内容物を大きく2つに分けて説明した。


 しかし、それは生物的に生きていることの証明ではあっても、その人が生きていることの証明にはなり得ないことを後に知る。


 人には名があり、記憶があり、経験があり、それらを持って人格形成が成される。


 これまで生きてきたそれまでの記録こそ、その人がその人たる証明になり、同一の魂と肉体を持っていようとそこに刻まれている情報が異なれば、それは果たして同じ人間であると言えるのだろうか?


 友からのその問いに対する答えをまだ、彼は持ち得ない。


「私の名前はシオン。貴方の見ていた記憶の本人そのものだ」


「でも、あんたは」


「えぇ。私はまだ死んでいない。肉体的にも、精神的にもね。歪とはいえ、防人としての記憶を持った人間は生半可なことでは死ななくなります。故に私の肉体は今もどこかを彷徨い歩いていることでしょう」


「じゃあ、なんであんたはここに?」


 そう、シオンという存在はその在り方を幾分か変えていようと今も生きている。であればその魂がここに留まり続けている筈かない。


 失われていないものがここにはあり、外にもある。それは同一の魂が2つもあることになってしまう。


「...その疑問も当然ですね。擬似的とはいえ、魂を観測し、その在り方の一端を知った貴方にとって、これは酷く歪で、あり得ようのないものだと思うでしょう」


 だが、柊も知っているはずだ。彼の記憶を見たのなら、その理由を───。


「私は(シオン)が置き忘れ、そして最後には重荷になるからと捨て去った善性の集合体。シオンの後悔にして、忘れ形見となった思い出(温かな記憶)です」


 そう言って悲し気に微笑む彼の顔、その仕草、紛れもなく記憶の追体験で見た彼が目の間には居た。


 ようは2つに分かれたのではなく───()()()()()

 そのようなとんでもない芸当が出来るのは魂を観測するという能力をシオンが持っていたからなのだろう。


 彼は魂を物質として捉え、それを綺麗に切り分けた。ルピナスが愛し、息子として生きたかつての自分、それを持ったままでは進めぬと判断し、記憶とここに置き去ったのだ。


 その情報が長い時を経て、自我を獲得し、微弱ながらも魂としての存在を確立させたのだ。


「奇跡のようだ、と思いましたね。まさしくその通りです。本来であれば切り分けられ、捨てられた以上、私は回収されるのを待つのみでした。しかし、そんなものを───あの方は拾い上げた」


 その人生の全てを利用されて終わった、人を恨みこそすれ、それ以上の事を知らないはずの少年はその眩い記録を大切そうに掬い上げた。


 弱々しくある輝き───温かな記憶を幼き王ヴェローレン・ツクンフトはこの世の何よりも代え難い大切なものとして掬い上げ、抱きしめた。


「人と人の繋がりを証明するのはその身に流れる血だけではないと私は知っていたにも関わらず、私はそれを認められなかった」


 ヴェローレン・ツクンフトに先王ルピナス・ツクンフトとの血縁関係は無く、彼は先代の王と面識すらない。


 しかし、確かに繋がりはあったのだ。血でもなく、共に過ごした記憶でもない。


 ───その意志にこそ、ルピナスは宿った。


 何を知らなくとも、善くあろうと。民を知らずとも、民を愛そうと。寝床と食べ物を与えてくれた人達には感謝を。


 ───暗く寂しい夜、隣で寄り添い子守唄を歌ってくれた一人の女性には信頼と愛を。


「ヴェローレン様は、あの子は確かにルピナス様の後継者でした。それを知ってからはあの方の手伝いをしています。これもその手伝いの一環です」


 そう言ってシオンは砕かれた記憶の欠片を拾い上げ、その一部を柊に差し出す。


「───本来であればこれ(シオンの記憶)は貴方に見せるべきものでは無かった。貴方の知りたがっていた廃壁外の老人達の言う呪いを連想することは出来ても、呪いの内容が何であるかを正確に知ろうとしているのなら、余分な情報が多すぎるし、何より───貴方が混乱してしまう」


 この記憶は既にシオンによって切り離されているが、その際何らかの干渉と編集が施されている。

 明らかに誰かに見てもらうことを前提に、シオンには無かった視点が追加されているのだ。


 しかし、それでもヴェローレンとここにいるシオンは見せざるを得なかった。

 秘密隠しの女王、遠い未来に起きるこの事態の為に彼女が干渉し、記憶の編集を行ったことを知っていて尚見せざるを得なかった理由、───それは。


「───廃壁外の呪いを貴方が受ければ確実に死んでしまう。あれは特定の人間を殺すために悪魔がばら撒いた呪いの一つなのですから」


「───」


 悪魔は狡猾で、人間のことを人間以上に知り尽くしている。自分達に仇なす存在、世界を救う者が持ち合わせるそれを。


「巫女とそれに連なる存在のみを殺し、それら以外には罪の意識を植え付ける陰湿な罠こそ、彼等廃壁外の老人が言う呪いにして、悪魔が残した三つの呪いの一。───巫女殺しの悪夢です」


 巫女と、巫女に近い性質、或いはその協力者のみを対象とした恐ろしき呪い。それ以外の人間には忘れてはいけないという罪悪感を植え付け、徐々にその精神を蝕み、果てにはそれを忘れまいと後世に伝えさせようとさせる。


 人間の魂にすら干渉するその呪いは廃壁外の老人達のように大勢の人間を餌として撒き、それに釣られた巫女や英雄などといった善性、助けなくてはという意思を利用して助けさせる。


 その一環で彼等はその罪を知ろうとする。そして、彼等は罪を見て、発狂し、死んでいく。何とも残酷で悪辣な呪いか。


「そうはさせまいとヴェローレン様は貴方の干渉を弾き、私の記憶を君に見させました。外にいる方にはそうする必要はありませんが、貴方には必要な処置でした。とはいえ、どちらの記録も貴方を苦しめるものであったことに変わりは無いでしょうが」


「いや、俺は大丈夫だ。ただ、他人の記憶を見ていただけだ。───あの頃と、何も変わらずに、ただ見ることしか出来ずに」


 何とも、難儀な性格だろうか。時に人を殺すことを躊躇わない心を持ちながら、他者の痛みを理解できるのか。


 怪物であらなければいけないというのに───心は人間のままだ。


 これでは毎日が拷問だろう。生きるための選択肢は一つしかなく、その選択によって失われた命に許しを請い、その1日の殆どを罪悪感と自責の念に駆られながら生きなければならない。


 ───矛盾したその生き方はまさしく人間そのものであり、同時にそれが自分が人である証明になる。


「柊アカリ、その名と同じ人間と私は前世で面識があります。彼もまた、貴方のように人を救うために戦っていました」


「別人だ。俺はあんたの知るその人じゃない。あれは同じ名前を持ってはいるが、俺の何倍も強く、───何倍も苦しそうに見えた」


「えぇ、僅かに面影が無くもありませんが、あのヒイラギアカリと名乗った人間は貴方ではありません。というより、彼は防人として目覚めた状態で城塞都市に訪れていました。防人としての自認を持った以上、それから先の人生、及び世界では不変の存在として確立される。記憶を失うことなど出来はしない」


 であれば、こうして城塞都市に女王の命も無しに訪れる筈がない。防人は王に付き従い、如何なる命であってもそれを遂行する道具となる。


 同時に防人も人の姿をしている様に、人としての理性も、自意識も確立はいるが、王の命令はそれらを凌駕する。


 その人間の生きる意味が我が王の為に生きる、というものに上書きされるのだ。


「貴方のご両親のお名前をお聞きしても?」


「......?父は柊秋人(ひいらぎあきひと)。母は結婚して柊(ひいらぎさくら)になったと聞いた。柊の性は父方の方で間違いないが、顔も名前も違うし、防人なんて言葉を父から聞いたことも無かったが」


「───なるほど。では、私の勘違いでしょうね。偶然、とは言えないでしょうが、そういった存在にヒイラギアカリと名を付けられるように出来てるのでしょう」


 自分と同じ出自、或いは同姓同名の人間が過去英雄として伝わっていたり、御伽噺や伝説、民話として伝わっている事は物語では往々にしてある話だ。


 そういった人間の想像、思念が寄り集まって、世界の法則に干渉した結果、同じ使命を持った人間に同じ名が与えられたのだとしたら、それは最早世界の仕組みなってしまったのだろう、と付け加えてシオンは話を元に戻した。


「話を逸らしてしまい申し訳ありませんでした。私が言いたいことはこの状況はどうしようもなかったことであり、仕組まれたものである可能性が非常に高いということです」


 そもそも、ここに来るのが柊ではなく外にいる学者であれば何も隠す必要は無かった。


 呪いに該当する記録も、本体の置いていった記録も、彼に見せるだけでありとあらゆる事態が丸く収まっていたことだろう。しかし、ここに呼ばれたのは学者では無く柊だった。


 今は成せずとも、成らずとも、世界を救う可能性を持った英雄の卵。ここで彼に全てを見せ、死なせる理由は無く、同時に彼にも呪いの大枠を知ってもらわなければならない。


「仕方のないこの状況を彼女は読んでいた、或いは誘導した可能性すらある。───貴方も彼女の脅威は認識済みでしょう?」


「...あぁ。学者からある程度は聞いている、───会ったことも、一度だけある」


 全てはそれが始まりだ。燃え盛る炎、そこで自分を逃がした二人の姿が脳裏をよぎるが、柊はその炎の記憶を奥底へ引き戻し、冷静を装う。


「...外の様子を聞いてもいいか」


「勿論。今は貴方のお連れの方が前に訪れた狂学者の呪いを解き、彼等から真実を聞いていることでしょう。そのお話が終わり次第、ここから貴方を現世にお戻しします」


「...そうも、呪いとは恐ろしいものなのか」


「何せ()()ですからね。世界がこうなってしまう以前から呪いというものはとかく人に恐れられていました。呪いの存在を示す確証が無くとも、数多の人々はそれを実在するものと認識し、畏怖した。であれば、人々の心から生じたエンプティーや数多の災害同様、呪いというものも世界を終わらせる要因となったのですから」


 かつて人類を敗北の一歩手前まで追い込んだ大厄災、呪いを孕んだ子の生誕は人類からリスタートの機会すら奪うところだったと言う。


 世界の作り変えられた仕組みすら呪いで満たし、その機構そのものを破壊しかけたことで、人類は呪いを武器とすることを禁じ、呪いに関わる多くの古文書を破棄した。


「101回目以前ですら正しい意味で世界を滅ぼしかけたんです。それから幾千、幾万と繰り返したのなら呪いに対する人々の認識はその時とは比べ物にならないでしょう。彼等(狂学者)が事もなげに行っているのは正しい見識と、知識を持っているからです。万が一にも手に余る呪いを使用することもなければ暴発の心配もないでしょう」


 今となっては狂学者などと呼ばれ蔑まれてはいるが、かつては13賢人と呼ばれる程の実力を持った彼等だからこそ呪いというものを扱えるのであって、それを彼等以外の人間、仮にどれだけの知識と実力を併せ持っていても安全に運用できる者など世界的に見れど、片手で数えられる程度の数しか存在しない。


「その例外と今後貴方は幾度も出会い、時に対峙することになるのでしょう。どうかその時までお忘れなきように。───呪いとは人を蝕み、やがては死に至らしめる猛毒である、ということを」


 柊にそう忠告したシオンの瞳が柊の頭上を捉え、そこに生じたひび割れを目視する。記憶の空間にほころびが生じたのだ。


「...どうやらお話はここまでのようです。───ヴェローレン様」


 シオンがその名を紡ぎ、それに答えるように空間に白が広がっていく。記憶の中に仮設された異空間、それが役目を終えてヴェローレンの下へと帰っていく。


 そうして柊が目を開けた先、戻った純白の世界でもう一度出会ったのは老人姿の彼ではなく、シオンの記憶でも断片的に見られた彼と全く同じ容姿の少年の姿をしたヴェローレンが立っていた。


 為政者達に王として祀り上げられ、最後まで利用されて死んだ悲劇の王。故に柊は問うた。


「―――お前は、どうして。どうして、冷静でいられる」


 その人生は決して幸せなものでは無かった筈だ。物心がつく前から汚い大人たちに権力の象徴として担がれ、文字通り骨の髄まで利用されつくした彼がどうして人を憎むのではなく、呪うのではなく、安寧の地を創り出したのか。


「ここはお前の精神世界なのだろう。あの業火で焼かれた城塞都市の人々の魂は死後も焼かれ続けていた。悪魔の遺した大災害の二。───死後も火に焚べられ続け、悪魔をこの世界に留めるためのエネルギーとなるしかなかった魂に、お前は一時の安らぎを与えた」


 その中にはきっと彼を利用した汚い大人たちも含まれていたことだろう。何も知らぬ子供にどうしてそのようなことが───。


「───そうか。お前は、何も知らなかったのか?自分がどうして死んだかも、何に利用されていたのかも」


 そして。


 ───人を憎む、そのことすらも分からずに死んだと、そう言うのか。


「...そんなに悲しい顔をしないでください。ただ、僕にとってあの日々は決して辛いだけのものではなかったということです。その終わりがどれだけ悲惨であろうと、辛くとも。───そこに至るまでの道程は、その子にとって幸せでした」


 故に彼は願ったのだ。目の前で腹を貫かれ、苦しげにしていた母にも等しい女性がどうか苦しまぬようにと、どうか泣かないでいて欲しいと。───幸せになって欲しいと心の底から願い、その願いは多くの民の苦しみからの解放を願う思いによって膨張し、魂の安息所を創り出したのだ。


 寂しさは分かる。母というものが居ない自分はずっと一人ぼっちのままなんだと思っていたから。

 でもその寂しさはあの人が埋めてくれた。


 痛みは分かる。5歳の頃、お腹を下して嘔吐が止まらなかった事があったから。

 でも、そんな僕に寄り添ってくれる人が居た。


 辛さも分かる。知らないおじいさんの前で啜り泣くあの人の顔を見ているだけで胸がずきずきしたから。

 だから、せめて自分と居る時だけは笑っていて欲しいと願っていた。


 ───愛を、知っていた。慈しみを、共感を、楽しみを。あの人から多くのものを貰って、あの日を迎えた。


 人の醜さを、人の悪辣さを、憎しみを知らなかった少年は死の間際、誰も呪うことは無かったのだ。


「僕は、幸せでした。リーリャが僕をそういうように育ててくれたことを感謝こそすれど、憎むことなど出来ません」


 次第に世界が歪み、目の前の子供の顔がぼやけていく。それは柊の魂が現実に引き戻されつつあることを示唆しており、ここに後一分も留まる事は出来ないだろう。


 柊の特異な能力がそれを可能としていただけで、ここは本来城塞都市で死んだ人間にのみ開かれる門をくぐり抜けなければいけない。


 資格なき人間を自由に留まらせておく事が出来るほど彼は万能ではない。それを、あの記憶を見た柊なら分かるだろう。


「全ては記憶とともに貴方と、外にいる方に伝えられていると思いますが、最後に何か聞きたいことはありますか?」


「いや」


 問いなど無かった。柊がここで見たものを伝えれば学者は自身が得た情報と共に正しい見解と作戦を組み立てるだろう。


 故に、問いは無く。


「いつか」


「...?」


「───いつか、お前達をここから解放してやる。お前が思うほど美しくは無いかもしれない、お前が思うほど世界は広くないかもしれない。それでも───」


「...はい」


 柊の魂が現実に引き戻される影響か、ノイズがかかったようにぼやけていく。その最中、少年はその姿に在りし日の彼女の姿を幻視する。


「───お前に(貴方に)外の世界を(外の世界を)見せてやる(見せてあげたい)


 その言葉を最後に柊の魂が現実へ引き戻される。一人真っ白な空間に残されたヴェローレンの顔は驚いているようにも、笑っているようにも見えた。


 ───あぁ、てっきり助けられてないとばかり。


 気づかぬうちにヴェローレン・ツクンフトが創り出したこの世界の始まりは彼女に救われてほしいと願ったからだった。


 しかし、そこに少年の求めた姿は無く、もしかしたら救い出してあげられなかったのかと思ったが。


「───ヴェローレン様!?今一瞬ですが、リーリャの気配が...」


「シオン」


 記憶の案内を終え、空間の片付けまで無事終えたシオンが懐かしい気配を感じ、ヴェローレンの下へ帰ってくる。


 そこで立っているヴェローレンの顔を見てシオンはおおよその事態を把握した。


「お会い出来たのですか?」


「恐らく、残滓のようなものです。もしかしたら母の生まれ変わりか、もしくは魂を持った人間と柊さんは会っていたのでしょう」


「...そんなことが?あの時この地で死んだ魂は例外なくここに連れてこられる筈です。少なくとも、私の本体はこの場所を認知し、この世界の理をそう断定した。悪魔に囚われ、地獄に落ちるはずだった魂を救い出した救済の地。だから、私はここに如何なる干渉もしなかったと」


 ここはヴェローレンが無意識に創り上げ、民の願いが寄り集まって出来た世界の理から外れた特異な空間。

 ここに来れば失った友人や父に会えるかもと(シオン)も思ってはいたがそれを実行に移すことは無かった。


 ただでさえ例外だらけのこの空間に魂を知覚する能力を持って強制的に侵入した場合、どんな不都合が生じるか分からなかったからだ。


 故に彼は何もせず、この地を去った。

 未練と後悔と、過去の記憶。進むために不必要なものを切り離し、置いていった。


「...いつか、(シオン)が救われる日が来るのでしょうか」


「今更ですよ。()に救いは来ない。来ていいはずが無いのです、ヴェローレン様」


 そう言って少し淋しげに彼は微笑む。

王を救えず、民を救えず、その跡継ぎたる子供一人救えなかった人間が救われていい筈がないのだ。


「私の最後は凄惨で、救いがなく、それまで犯してきた罪を以て裁かれなければいけない。私はかつて人を殺し、今もどこかでその手を血で染め上げている事でしょう。悪魔殺しという大義名分を掲げ、復讐のためだけに生きている」


世界がどれほど移ろおうと、どれだけの月日が流れようと、人が人である内は同族殺しなど許されてはならない。それは誰もがもつ善悪の基準、決して傾いてはいけない天秤そのもの。如何なる理由、如何なる正義があろうと人を殺してはならない、


———故にこそ、そんな人間には。


「救いなど、あってはならないのです」

──  ───。 ──────ぁ


極寒の中、ぜぇぜぇという荒い呼吸と共に白い息を吐きだすと同時に出た言葉。実に十数年ぶりに覚醒した意識は未だボンヤリ靄がかっていたが、目覚めによって、体に巡る血液が徐々に凍った手足を溶解させていく。


完全では無いが手足の氷が解け、その場から起き上がることは出来る程度の状態になり、未だおぼつかぬ足取りで安全確認の為に立ち上がり、――――それを見る。



───北の果て、白き龍によって閉ざされた異界。


幾つもの氷柱、それはかつての人工物の成れの果て。

人の誇った栄華、歴史はいとも容易く空想の洞に落とされた。かつては北極圏を支配していた大帝国の面影も、全ては氷の中だ。


全てが白銀に包まれた神々しく、あまりに忌々しい光景に男は小さなため息をつく。


人類が滅びに抗い、そして敗れた地。

その傷跡は幾度世界が滅びと再生を繰り返そうと形を変えることは無かった。理由は明白だ。


———この地は既に終わっている。完結した物語がそれ以上語られることが無いように、ここは既に滅びと言う終わりを告げられたのだ。そこに先は無く。奇跡が起こることも無い。


───と、そこで遠くから狼の鳴くような声がしてその青年は朧気な視界を手で拭い、崖の上から眼下、果てしなく続く白い大地を一望する。


「白銀の狼。罪を喰らう神の御使いめ。体の半分をくれてやったというのにまだ食い足りなかったか」


しかし、それほどまでに罪に塗れた自分の身体は彼等にとって魅力的らしい。


ともあれ、一刻も早くここから離れなければならない。また体を半分以上食われようものなら、次の再生までにどれほどの時間を費やすか分かったものではない。


「ここに悪魔は居なかった。それが知れただけでも儲けものでした」


極北の地などそう何度も訪れられる場所ではない。立ち入るのは勿論、こうして歩くことすらままならない暴風と大雪では、いつまた冷凍保存されるか分かったものではない。


そうなればまた十数年という月日を氷の下で過ごすことになる。時間は無限にあるとはいえ、何もせず無為に過ごして良い訳がない。

 

「では、行きますか」


そう言って歩き出した青年の靴跡も、数十秒後には雪で埋もれ、見えなくなり、轟々と吹き荒れる暴風の音と、狼の遠吠えだけがその地に木霊する。


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