夏のコスモス
畦道をスキップする彼女を見ていると、まるでそれがこの世で最も美しく儚いもののように思えてくる。幸せが胸の奥のほうから段々と溢れ出し、その後を追いかけるようにして切なさが滲んでくる。幸せすぎる時、人は切なくなる。この時間が延々に続けばいいと思う。そう思えば思うほど、涙がこぼれそうになる。彼女が振り返る。入道雲が青い空に溶ける。風に白いワンピースが揺れ、そのいたずらっぽい笑顔には、18回の夏が凝縮されて詰まっている。
✴︎
山道を抜けると、真夏の太陽に照らされた小さな集落が見えてくる。さっきまで母とくっちゃべっていた妹の瞼はいつのまにか閉じていて、車内にはラジオから流れるジャズミュージックだけが延々と響いていた。俺は頬杖をついて窓の外を眺める。
今年もこの時期が来た。
我が家は毎年盆になると、1週間ほど祖父母のいる田舎へ泊まりに行く。父の実家だ。家から3時間ほど車を走らせ向かうのだが、俺は1年間の中で、この1週間が最も好きだ。田舎というのはまず空気が綺麗だし、川のせせらぎや田園風景は、脳のどこか──純粋な感受性と直結しているような部分──を刺激してくれる。自然と穏やかな気持ちになる。そしてなにより、この村には俺の好きな人がいる。初恋の人で、今も恋している人が住んでいるのだ。正直、この村に来る1番の目的は彼女に会うことだ。ウィンドウを少し下ろすと、けたたましい蝉の声が流れ込んでくる。妹の瞼が薄くひらき、無防備なあくびを溢す。夏が来る。車は坂を下りきり、大きな平家の前で停止した。
祖母は、去年よりも少し背が縮んで見えた。
切り分けたスイカを冷蔵庫から運び出す作業もどこか危なっかしくなっていて、同じことを感じていたのだろうか、普段はぐうたらで家事なんてろくにしない妹が「おばあちゃん、私がやるから居間にいていいよ!」なんて慌てた声で言うくらいだ。やっぱり歳をとっている。一年でこうも変わるものなのかと驚いた。
「俺も手伝うぜ、百合」
「にいちゃんはコップと塩取ってきて……あと冷蔵庫の麦茶も!」
「あいよ」
妹の指示に従い一通りの作業を終えると、俺は縁側に出た。すぐ隣にある居間では家族が団欒をしている。スイカを一欠片手に持って、別の手にはうちわを握る。仰いでも熱風しかこないけど。
夏だ。
南の空に見える入道雲の白さが、そう実感させた。夏になったのだ。待ちに待った夏に。俺の脳裏に、1人の女の姿が浮かぶ。歳はひとつ上、今年で18になる。夏海は、今年も白いワンピースでこの家に来るんだろうか。来るのなら、きっと両手で抱えたざるに沢山の夏野菜を積み上げてくるんだろうな。トマト、ナスビ、キュウリ、トウモロコシ、ピーマンなんかも、華奢な体に似合わない量を、せっせと運んでくるのだ。無邪気な笑みを浮かべて。俺がいるってわかったらどんな反応すんのかな。嬉しそうな顔してくれよな。あー怖いな、それ。気まずそうにされたら嫌だな、立ち直れないよ、俺。
やさーい! もってきましたーっ!
体が跳ねた。スイカも一緒に宙を舞い、縁側にぽとりと落ちて弾けた。ごめんばあちゃん。このスイカ蟻にあげることにするわ。玄関から聞こえたそれは、間違いなく夏海の声だった。居間を通る時に大声で「俺がでるわ!」とだけ叫び、妙に怪訝そうな家族の表情なんて気にも止めずに玄関へ滑り込んだ。勢いそのままドアノブに手をかけ、慌ててそれを引っ込める。このドアの向こうに、夏海がいる。心臓が跳ねる。シャツで汗を拭い、息を整えて鏡を3度見た。変じゃないよな、今日の俺。
もう一度鏡を見て、深呼吸を一回。玄関のドアをゆっくりと開けた。
外の眩しさに、一瞬目を細める。
薄く瞼を開くと、そこには、夏野菜のざるを抱えた白いワンピースの夏海がいつものように立っていた。
お、祐介くん。久しぶりだ。
夏海の声が響く。
あ、今年の俺、ダメだ。そう直感した。
去年や以前と比べ、圧倒的に言葉が喉を通らない。夏海はどこも変わっていたないはずなのに、彼女の運んでくる野菜も、服装も、声も顔も仕草も何もかもそのままなのに、俺がダメだ。なんだか浮ついて、心がまとまらない。
「おっす。久しぶり」
なんとか声を絞り出して返事をする。拭ったばかりなのに、もう額は汗まみれだ。
「うち寄っていくよな、スイカあるぜ?」
静かに呼吸を整え、いつも通りの俺に戻る。うん、大丈夫だ。大丈夫なはずだ。うちに入れば緊張なんてすぐに無くなる。いつも通りだ。今年もトランプをしながら一緒にスイカを食うだけだ。そう考えていたが、夏海は首を縦に振らなかった。
いや、今日はいいよ。ほら、風が気持ちいいしさ、このまま、山の方まで散歩しようかなって思ってたんだー。
よいしょ、と野菜のざるを俺に渡し、夏海は空を見上げた。予想外の返事だった。夏海が野菜を持ってくるついでにうちで遊ぶのは毎年恒例のことで、この女は他人の家の果物やアイスを遠慮もなくどかどかと食べるので、今年もその光景が当たり前に見られると思っていた。少し戸惑った。受け取ったざるを玄関に置く。夏海とこのままさよならをするのは惜しいので、当たり障りのない言葉を探す。
にしても暑いよね、最近。
手で影を作りながら太陽を見る夏海が、俺より先に口を開いた。
こんなに暑いとさ、ほら、熱中症とか危ないと思うんだよね、私。
「あぁ、たしかに」
なんの話だと思ったが、特に話題も無いので突っ込むことをせず相槌を打つ。
こんなど田舎の、さらに山の方で倒れでもしたらさ、人来ないから、そのままマジに干からびちゃうかもしんないよね。
「普通にあり得るよな、それ」
んで、私、今からそのリスクを背負って散歩に行くわけだけど、祐介くん、私が死んだら嫌よね?
「普通に泣くわ、それ」
一緒に行こうよ、積もる話があるわけじゃないけど。私が死なないためにさ、ボディーガード必要じゃん?
そう言うと夏海は、俺の方を向いてはにかんだ。
意外だった。夏海から俺を誘ってくるのも意外だったし、それに驚いて取り乱すことのない自分自身も意外だった。さっきは完全にアガったが、俺は成長しているのかもしれないな、と思う。うん、成長している。きっとそうだ。
「しゃーない、ついてってやるよ」
妙に気取った感じになったのは、舞い上がる自分を隠そうとしたのが裏目に出たからだ。
そうして俺たちは一緒に散歩に出かけることになった。きっとそれは本当にたわいもない出来事で、団扇の風にさっとかき消されてしまいそうなほどに軽いもので、なのに俺は、今になっても、この一瞬一瞬を、鮮明に覚えている。
散歩は滞りなく進んだ。夏海が倒れることも、もちろん俺が干からびることも無かった。山道が近づき、人とすれ違うことも減ってきたあたりで夏海が足を止めてしゃがみこんだ。白い頸には、汗の一滴もなかった。
「どうしたよ?」
コスモス。コンクリートの端に咲いてんの。
見れば、たしかに薄紫の花弁が健気に太陽を見上げている。一輪だけだった。
次、私、なんて言うと思う?
夏海はこっちを向いてそう言った。じゃれ合うような感じではなく、いやに真剣な目をしていた。
「んー。ひとりぼっちで可哀想?」
コンクリートの無機質さと砂利や雑草の平凡さの中にたったひとり投げ込まれたコスモスの鮮やかな身体を見て、率直にそんな言葉が口をついた。我ながら凡庸な答えだったと思う。
ちがーう。残念!
夏海は指でバツを作る。
「正解は?」
正解かぁ。ん、無いね、考えてなかった。
たぶん嘘。正解はあったが、俺がたどり着けなかったのだ。
ねぇ。もうちょっとこの花見ててもいい?
決まり悪さを感じていた俺は「うん」と頷くことだけをして、ぼおっと彼女を眺めた。
似ているな、と思った。夏海とこのコスモスは、似ている。どこが似ているか説明できるわけではないが、感覚的に、ふとそう思った。
案外、この感覚が夏海の考える正解なのかもしれないとも思ったが、それを口にすることはなかった。
山間を一羽のとんびが滑空している。蝉時雨の遠のいた無音の世界で、その光景だけが、俺に生を実感させた。
お待たせ! 散歩の続き、行こっか。
畦道をスキップする彼女を見ていると、まるでそれがこの世で最も美しく儚いもののように思えてくる。幸せが胸の奥のほうから段々と溢れ出し、それを追いかけるようにして切なさが滲んでくる。幸せすぎる時、人は切なくなる。この時間が永遠に続けばいいと思う。そう思えば思うほど━━。
「好きだよ、夏海」
そんな言葉が口をついた。言うつもりはなかった。しかし、言わなければならないと思った。
夏海は足を止めなかった。スキップも、やめなかった。私も好きだよ、と言った気がした。心が宙に浮いた。夏海が振り返る。俺のほうを見る。目が合う。体も宙に浮いた気がした。好きだよ、と、言ったのだろうか。彼女の口が動くのに、声が聞こえない。視界が遠のく。夏海は笑う。その顔は見えない。見えるのは光だけ。なんの光だ。いや、知ってる光だ。丸い光。淡い光。……電球?
気がつけば俺は布団の上で寝転んでいた。
頭上では、古いマメ電球がチカチカと瞬いている。
あたりは薄暗い和室で、この部屋を俺は知っている。
祖母の家の寝室だ。
夏海はどこだ。夢、だったのだろうか。それとも散歩の途中に俺がぶっ倒れて、夏海がそれを運んできたのだろうか。だとしたら俺は死ぬべきだ。しかし、布団に入った記憶なんてない。本当に倒れたのか。本当に夏海の前でそんな醜態を晒したのか。くそ。
襖が開き、光が差し込む。母だ。
「お、起きた。あんた寝る時は玄関じゃなくてせめて居間でお願いね」
状況が理解できなかった。
✴︎
母の話によると、俺は玄関で倒れていたそうだ。
もちろん家族は熱中症だと思い焦ったらしいが、息もあれず汗をかくこともなくただただ幸せそうに眠っている俺を見て、日頃の疲れが出たのだという判断を下したらしかった。ありがたい。
結局夢だった。よく考えれば夏にコスモスなんておかしい気がする。夏海と会ったことを母に話したら、母が急に泣き出したので戸惑った。
どうやら彼女は亡くなったようだった。ほんの2ヶ月前に。
母も祖母も夏海が俺に会いにきたのだとかなんとか言っていたが、本当のことはわからない。ただ、後日俺が彼女の家な線香をやりに行った時、玄関先のコンクリートの端に、鮮やかなコスモスが一輪咲いていた。季節外れにも程があるよね、と、彼女が笑った気がした。
この話はすべて実話だ。
俺が小説を書きたいと思うきっかけになった出来事で、俺自身人生を語れるほどの齢ではないが、この出来事のおかげで、きっと世界は想像の何倍もの神秘で満ちているのだろう、と、思うことができている。
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