第3話
七
俺は、毎月この町に出張する度に、純と会っていた。もう、かれこれ、一年くらいは純と会っていることになる。会うたびに純がしっかりしてくることが分かっていた。それに伴い、自分が前の自分に戻ったと実感していた。
純と俺が城で撮ってもらった写真は、会社の引き出しの中に入っている。表立って置いておく訳にもいかないからだ。ある日、スタッフの一人が、たまたま、机の引き出しを開けたときに、脇を通ったことがあった。目ざとくその写真を見つけたスタッフは「あれ、それ誰の写真ですか」と聞いてきた。
「ああ、これは親戚の子だよ」と言ったが、「見せて下さいよ」とうるさいので、見せてやった。
「へー、可愛い子ですね。こんな子が親戚にいたんですか。でも、怪しいな、どうみてもこれは恋人同士って感じですよ。あれ、この城・・・社長がいつも出張で行く町じゃないですか、ますます怪しいな」スタッフが集まって来た。
「そういえば、社長はこの町に出張に行くときは、やけにうれしそうにしてますよね」
「こないだ、社長が買ってきたブランド物のバッグ。あれ、そういえばこの町に出張する前でしたよね」
残念ながら、それは、加奈に買ってきてやったものだ。純は、俺がなにか買ってやろうとする度、遠慮がちに首を振るから、特に物を買ってやったことはない。クリスマスプレゼントは特別だと言って、時計を買ってやったことはある。それも、決して高いものでなく、純の年頃の女の子なら普通にしている時計だ。それも、純がこれがいいと決めて買ってやったものだ。
「この子は、両親がいないから、俺が父親代わりなんだ。ほら、早く机に戻って仕事しろ」と言って、スタッフを追い返した。みんな、にやにやしながら机に座った。
あの城から見た風景画は、残念ながらまだ見ていない。もうできているらしいが、俺が絵を好きだと分かって、なんだか見せずらいらしい。
夏特有の蒸し暑くジメジメした空気を感じながら、いつもの待ち合わせ場所で待っていた。しかし、純はなかなか現れなかった。
おそらく電車にでも乗り遅れたのだろう。そう思って、ベンチに座ろうとしたが、雨のせいでベンチが濡れていたので、立ったままぼんやり駅の方を見ていた。
そういえば、この町で、純と会うときはいつも晴れていたのに、今日は珍しく雨だなと思いながら空を見ていると、一人の女性が急ぎ足で、時計の下にやってきた。よく見ると、それは純だった。
「ここだよ」俺は手を振った。
「すみません、電車に一本乗り遅れちゃって」純はすまなそうに言った。
「いや、そんなことだろうとは思ったよ。どうしたの今日は、なんか、大人びた感じだね」
服装も、髪型もいつもの純とは違っていた。それに、うっすらと化粧をしているようだった。
「ちょっと、おしゃれしてきちゃった。似合います?」
「いや、驚いた。とっても似合うじゃないか。最初は誰だか分からなかったよ」それは正直な感想だった。
「褒めすぎですよ」といいながらも、純もまんざらではないようだ。
俺たちは、博物館に向かった。今日は、地元の画家の展示会をやっていて、純がそれを見たいと言ったからだ。
雨が降っていたので、二人で傘をさしながら歩いた。純は真っ赤な傘をさしていた。その色は今日の純によく合っていた。博物館に向かう途中、すれ違う若い男性は、ほとんど全員ちらっと純の方を見た。それほどまで今日の純は綺麗だった。
博物館は、城の近くにあった。茶色のレンガ造で決して大きくはなかったが、この町にピッタリの外観だ。
純は、絵をまじまじと見ていた。特に風景画のところでは、この遠近感がどうのとか、遠い景色はぼやかしがどうのとか、真剣に見ていた。俺も、そうそうと言いながら、同じように真剣に見ていた。そして、一枚の絵の前で純は立ち止まった。
「あれ、これ、私が描いた絵と、同じ景色だ」
それは、純が城で写真を撮っていた場所と、同じ場所から描いたものだった。
「私、こんなに上手に描けないな」
「それはしょうがないよ、この人は結構有名な人だよ。でも、よく見てごらん、なにか参考になるかも知れないよ」
純はしばらく、その絵を見ていた。俺は絵と純を交互に見ていた。今日の純は、本当に一人の女性と言っていい雰囲気を漂わせていた。
博物館を出て、俺と純は城に行った。純が描いた景色をもう一度確かめるために。
その景色を見て純は頷いた。
「分かったような気がします」
「なにか、発見があった?」
「私、写真撮るのに一生懸命で、この景色を良く見ていなかったかもしれません。そうか、こんな景色だったんだ」
「じゃ、今度は、満足した絵が描けそうだね」
「そんな気がします。たぶん、次に会うときには、ユウさんに絵を見せられそうな気がします」
「楽しみにしているよ」
食事をして、いつもは、そのまま駅に向かうところだったが、ちょっと時間があったので、遠回りをして、ぐるっと駅の周りを歩いた。もう日は落ちて、街灯が夜の街を照らしていた。俺たちは駅の近くの公園を通った。その時、純がいきなり俺に抱きついてきた。
「どうしたの・・・」と聞いたが、純は何も言わなかった。そして、純は泣いていた。最初は俺もなにがなんだか分からなかった。
そうか、純は、なれない化粧をしていて、今日は電車に乗り遅れたんだ。何故化粧をしたのだろう。いったい誰のために。それは、俺に会うからだ。
純が、自分に好意を持っているのは分かっていた。ただ、それは、男と女の感情ではないと思っていた。だが、今、分かった。純は俺にそういった感情を抱いている。唯一自分を理解してくれている俺に。でも、二人の間には、跳び越せない壁があった。それは、純も分かっている。だから泣いているんだ。純は、今、苦しんでいるんだ。そして、それは、純にも俺にも解決できるものではなかった。純の気持ちは分かる。しかし、今の俺には純の肩を抱いていやる以外にしてやれることはなかった。
しばらく、純は俺に抱きついていたが、やがて手を離すと
「ごめんななさい」と言った。
「いや、大丈夫だよ」と言ったきり、純にかけてやる言葉がすぐには出てこなかった。純はずっと下を向いていた。
俺は、もう純と会わない方がいいのかも知れないと思った。それは、俺が望む結果ではなかったし、純もそれを望んではいない。けれど、俺と会うことが、純を苦しめるのなら、このまま、会わない方が純のためなのだろうかと感じた。しかし、それは、純を見捨てることになる。そして、俺はこれからも純と会いたい。自分の気持ちと、純の苦しみのはざまで迷った。
どのくらいの時間が立っただろう。二人は何も話さず、ただ、向かい合って立っていた。
「そろそろ行かないと、電車に乗り遅れるよ」純は、黙って頷いた。
純は、ずっと下を向いて歩いていた。俺に抱きついたことは、純にとって素直な感情だったかもしれないが、後悔しているのだろう。発作的だったのかも知れない。なぜあんなことをしたんだろう、これで嫌われて、もう二度と会えなくなるかも知れない。そんな風に思っているようだった。
そして、そんな純を見ているうちに、心の迷いがとれた。やっぱり、純を見捨てることはできない。何を迷っているんだ。俺は、純の味方だ。俺が純を守ってやるんだ。
そうは言っても、自分が純になにをしてやればいいか、はっきり分かったわけではない。ただ、守ってやりたい、その気持ちだけが、自分の心の中でさらに大きくなっただけだ。
駅まで、二人はなにも話さずに歩いた。今は、純になにも言えなかった。自分の気持ちだけが先走りして、実はこれからの二人について、なんの確証を持っていないことに気がついた。そんな時に話をしても、純を元気付けることはできないだろう。
これから、どうしていけばいいのだろう。俺は純を元気付けて、純の夢をかなえさせてあげたい、そう思っていた。でも、これからはどうすれば・・・。
電車が到着する前に、プラットホームに着いた。そして、純になにか話かけなければと思っていた。そうでなければこのまま、二度と会えない気がしていた。でも言葉が出てこなかった。
こんなときは素直に自分の気持ちを伝えた方がいい、そう思って純に言った。
「純、俺は純にまた会いたい。本当だ」
純はその言葉を待っていたようだった。顔を上げて俺を見つめて言った。
「私も・・・ユウさんに会いたい」
しばらくそのままでいたかったが、すぐプラットホームに電車が入ってきた。
「今度は、純の絵が見たいな」俺は言った。
「たぶん、今度は見せれると思います」
純は、バッグの中からなにか取り出した。
「これ、いつもお世話になっているから、私からのプレゼントです」
それは、可愛いリボンのついた小さな箱だった。
「ありがとう。なにかな」
「開けてみて下さい」純は催促した。開けてみると、それは黒い皮製の名刺入れだった。
「これ、手作りじゃないか。純が作ったの?」
「実は、おばあちゃんに教えてもらいながら作ったんです。ほとんど、おばあちゃんが作ったようなものです」
「でも、嬉しいよ。とっても使い勝手がよさそうだ。大切にするよ」
よく見ると、名刺入れには、花の形がかたどられていた。
「これは?」
「それは、すずらんです」
「すずらんか・・・純は本当に花が好きなんだな。ところで、なんですずらんなの?」
「それは秘密です」純は笑顔で言った。その笑顔を見てちょっと安心した。
電車のドアが開いた。電車に乗って座席に座り、純は窓を開けてこっちを見た、その時俺は言った。
「俺が、純を守ってやるよ」それを聞いて純はゆっくりと頷いた。
今日も、純の電車が見えなくなるまで、純を見送った。純も、ずっと手を振っていた。しかし、電車から手を振る純は、いつもより元気がないような感じがした。
そう言えば、今日の純は、初めて会った時のように、なにか助けを求めているような目をしていた。それは、俺に抱いている感情が原因なのだろうか。純の心の中の苦しみに触れた俺は、いつもより思い足取りでホテルへ帰った。
八
電話を切ると、純は、自分の部屋まで走って、ドサッとベットに倒れるようにうつぶせになった。その目からは、涙が溢れて止まらなかった。
ひどいことを言われたことよりも、自分の愛する人が、自分のことで幸せから転げ落ちたことを、純は許すことができなかった。その原因である自分を、許すことができなかったのだ。
「自分は、なんてひどい人間なんだろう」
こんな風に生まれてきた自分を呪うとともに、他人を不幸にしてしまった自分を責めることしか、今の純にはできなかった。しかも、その不幸にしてしまった人は、自分の短い人生の中で、初めて、自分に明かりを灯し、自分に愛情を持って接してくれた、家族以外の唯一の人だ。それだけじゃない。その人は純にとって、とても大切な人だ。いつも、側にいて欲しいと思っていた。
こんな自分だから、いつその人に嫌われるか怖かった。だから、その人から嫌われないように、決して、その人の邪魔をしないように、声が聞きたくても電話もせず、欲しい物があってもわがままを言わず、ただ、月に一度会うことだけが、純にとって幸せだった。辛い時でもその人の前ではできるだけ明るく、いい娘といわれるように振舞った。そして、その人のために、初めて化粧までして、キレイな自分を見てもらいたいとも思った。
無理と分かっていても、淡い夢を抱いたこともある。しかし、無理と分かっているから、その人への愛情が、苦しいと思い始めたことも間違いではない。
「自分は普通の幸せを求めちゃいけない人間なんだ。こうやって、会ってくれるだけで、私には幸せなんだ」
何度、そうやって自分に言い聞かせてきただろう。しかし、そう思えば思うほど、自分のことがうらめしく思えてくるとともに、相手に対する愛情が強くなっていった。そして、愛情が強くなれば、また、その苦しみも増していき、こんな風に生まれてきた自分が、ますます嫌になっていくのを感じていた。
純は、その人に電話を掛けたかった。声を聞きたかった。やさしい言葉をかけてもらいたかった。でも、あの話が伝わっているかと思うと、怖くて電話を掛けることができなかった。
机の上には、描きかけの風景画があった。その脇には自分とユウさんが、笑顔で写っている写真がある。
「もう二度と、あんな楽しい日々が自分に来ることはないだろう」
もう、私が幸せを感じることはない。ユウさんのような人が、二度と目の前に現われることもない。もし、現われても、同じことの繰り返しに違いない。そう思うと、純は、また、辛くなって涙が溢れてきた。
「全て自分が悪いんだ。私がこんな風に生まれなければ。全部、私が悪いんだ」
今の純には、自分の明るい未来を描くことは出来なかった。こんなことが、一生繰り返されることしか、頭に思い浮かばなかった。「どうせ、こんなことが繰り返されるなら、いっそのこと死んでしまった方がいい」そんなことまで頭に浮かんだ。
しばらく、純はそのまま泣いていたが、やがて、むくっと起き上がると、描きかけの絵がある、机の前の椅子に座った。そして、筆を取ると、絵を描き始めた。
一心不乱に絵を描いた。絵に自分の魂を乗り移らせるように、自分の思いの全てをぶつけるように絵を描いた。
絵が完成したのは、次の日の夕方だった。こないだ、展示会で見た絵と比べれば、この絵は幼稚な絵かも知れない。だが、純は、この絵を他人に見せる気なんてさらさらない。ただ、自分の愛する人との楽しい日々を思い浮かべて描いたのだ。
純は、カレンダーを見た。明後日、ユウさんと会うことになっている。本当なら、この絵を見てもらいたかった。でも、あの話がユウさんに伝わっていれば、ユウさんは、会ってくれるはずもない。それに、もう自分はユウさんに会う資格もない。純は、二度とユウさんに会わないと心に決めた。
でも、最後に、こんな自分に明かりを灯してくれたユウさんに「ありがとう」と言いたかった。そう思ったとき、電話が鳴った。おばあちゃんが電話に出たようだ。おばあちゃんは純の部屋をノックした。
純は受話器の前に立った。しかし、なかなか受話器を取れなかった。
「お前のせいで、俺がこんな目に遭ったんだ」そう言われるんじゃないかと思ったからだ。
でも、どんなひどいことを言われても、最後に「ありがとう」と言おう。そう心に決めて、純は受話器をとった。
「もしもし」
相変わらず、仕事は順調に増えていた。それに伴って、自分の自由な時間は、どんどんなくなっていった。しかし、スタッフも良くやってくれていたので、なんとか、仕事は回っていた。でも、これ以上はちょっときついなと感じていたのは確かだ。
カレンダーに目をやった。今度、純に会えるのは明後日だな。それまでにこの仕事を片付けなくちゃ。そうして、書類に目を通した時、電話が鳴った。スタッフの実家からのようた。
「え!父さんが・・・ああ、分かった、すぐ帰るよ」そのスタッフの顔は青ざめていた。「社長、すみません。実家の父が倒れたみたいで、すぐ帰って来いって・・・」
「それは大変だ、後の仕事は俺たちに任せて、すぐ帰ってやれ」
「すみません」そのスタッフは、急いで実家に帰って行った。
スタッフ全員を集めて打ち合わせをした。
「じゃ、俺は、これとこれを片付ける。あとのみんなは、俺の指示に従ってくれ」
これは、今週は休めそうもない。そうなると、純にも会えないだろう。緊急事態だから仕方ない。
夕方を待って、一人で応接室に入ると、純の自宅に電話を掛けた。おばあちゃんが電話に出た。
「いつもどうも。ちょっと待ってください」
しかし、なかなか純は電話に出なかった。
「おかしいな。今、足音が聞こえたと思ったのに・・・」
爪で応接室の机をトントンと叩いていると、ようやく純が電話に出た。
「もしもし」
「あ、純。ちょっと話があってね。実は今週の土曜日なんだけど、そっちに行けそうにないんだよ。スタッフの父親が倒れてさ。ごめんね」
「そうですか。あの・・・なにか、変わったことは、ありませんでしたか」
「変わったこと?いや、特にないけど。どうしたの急に」
「いえ、別に・・・」
「ところで、例の絵は完成したの」
「完成しました。ユウさんのことを思って一生懸命描きました。本当に一生懸命に・・・描きました」
純は、いつもと様子が違っていた。
「純、今日はなんだかいつもと違うようだけど、なにかあったの」
「・・・別に・・・何もありません」
純は、ユウさんが例の話しを聞いているものと思っていた。そして、「ありがとう」と言って別れるつもりだった。でも、いつも通りのやさしい声を聞いて、それを言えなかった。
「どうしたの。その声はなにかあったようだけど」
そう言うと、純はしばらく黙っていた。そして、受話器からは純のすすり泣く声が聞こえてきた。
「なにがあったのか話してごらん」やさしく純に問いかけた。
「私、こんな風に生まれてきた自分が本当に嫌になったんです。自分には絶対幸せがこないって・・・それに、私のせいで、みんな不幸になってしまうんじゃないかって。私なんか、生まれてこなければ良かったって・・・そう思うようになって・・・」
純は、涙声で話した。
「どうしてそんな風に考えたの」
「それは・・・それは・・・私にも好きな人ができて・・・でも、一生その人と結ばれることは・・・出来ないって・・・しかも、私のせいで、その人が不幸になったら・・・そう思ったら、私は、死んだほうがいいんじゃないかって。その方が・・・おばあちゃんに・・・苦労かけずに済むし・・・それに、ユウさんにも・・・ユウさんにも、迷惑掛けずに・・・ごめんなさい」
純はそう言って、また泣いた。
「純。変なことは考えずに、自分の夢を思い出して、前向きに考えてごらん」
純は何も答えず、受話器からは純の泣き声しか聞こえてこなかった。しばしの沈黙の後、純は言った、
「ユウさんに会いたい」
それは、心の中から叫ぶような声だった。
「俺も純に会いたいよ。必ず会いに行くよ」
純は、しばらく黙っていた。そして、何かを決心したように、何かを振り切るように言った。
「ユウさん、ありがとう」
「必ず会いに行く。約束する。それまで、変な考えを起こすんじゃないよ。俺は、純のことをいつも心配しているんだ。だから、辛いときはいつでも電話を掛けてくれ」
また、純はなにも話さなかった。しばらくして、スーッと息を吸い込む音が聞こえた。
「うん、分かった。なんか、ユウさんと話していると、元気が出てきたみたい。もう、大丈夫」純はいつもの声に戻っていた。
「じゃ、また、連絡するから」そう言って電話を切った。
純は、自分の部屋に駆け足で向かった。ベットに倒れこむと、また泣いた。
「もう一度、ユウさんに会いたかった」純は呟いた。
大丈夫と電話では言ったが、それは、ユウさんに余計な心配を掛けたくないという、純のやさしさだった。
純は、このままユウさんの所に行きたかった。もう一度会って、この絵を渡して、「ありがとう」と言いたかった。しかし、それはできない。やっぱり、もう二度と会ってはいけない。
それに、あの話がユウさんの耳に入れば、ユウさんは間違いなく、私なんかに会ってくれるはずもないし、私のことを憎むに違いない。それも近いうちに必ずその時が来る。と、純は思った。
純は分かっていた。自分が本当に恐れていることは、そのことだと。
「お前のせいで、俺がこんな目に遭ったんだ」純にとって、それをユウさんの口から聞くのは耐えられないことだった。
ユウさんがいたから、学校にも行けるようになった。英語も一生懸命勉強をした。絵も描いた。辛い時も、ユウさんがいたから乗り越えられた。
希望のなかった自分の人生。そこに、明かりを灯してくれた人間がいなくなることは、その明かりが消えることと、同じことだと純は思った。
その時が、一秒毎に、近くに迫ってくるような恐怖を純は感じていた。死刑囚が、看守の足音に怯える気持ちとは、このようなものなのだろうか。
その、恐怖と絶望に耐えきれなくなった純は、二人が写っている、お城で撮ってもらった写真と、完成した絵をぎゅっと抱きしめると、家を出た。
「ユウさん、ごめんなさい・・・」
純は、何度も何度もそう言っていた。
俺は、受話器を置くと、組んだ両手をぎゅっと握り締めて、自分の額に何度も何度も叩き付けた。悔しかった。自分は純を一番理解していると思っていたのに、実は、一番純を苦しめていたのかも知れない。そう思うと、悔しくて悔しくてたまらなかった。ただ、言えることは、俺がいなければ純はダメになる。それは間違いない。
「いつ、純に会いに行けるだろうか」応接室のカレンダーを見たとき、スタッフが応接室のドアを開けた。
「社長、電話です」
電話は実家に帰ったスタッフからだった。父親が亡くなったそうだ。「ついこないだまで、元気だったのに・・・」スタッフはそう言うと声を詰まらせた。
俺は、スタッフの父親の通夜に参列した。父親はまだ若く、六〇才になったばかりだった。どうやら心筋梗塞だったようだ。退職して、孫もできて、これからのんびりと余生を過ごすところだったのだろう。
スタッフは、喪主として遺族代表で挨拶をした。苦労ばかりかけて、親孝行もしないうちに旅立ってしまったこと、本当は「親父、ありがとう」っていつも思っていたのに、それを言葉にできなかったこと。そして、それを言わないうちに亡くなってしまったことを、涙ながらに話した。
それを聞いて、もらい泣きしてしまった。人は、あまり身近にいると、身近にいることが当たり前だと、感謝していても、言葉に表すことを忘れてしまうのかも知れない。そして、その人がいなくなって、初めて、言えなかったこと、言っておきたかったことを思い出すのだ。
そういえば、俺も純に「ありがとう」とは言っていない。純に出会ったお陰で、俺は立ち直ったのに。今度会ったら必ず言おう「純、ありがとう」と。
「社長、お先に帰ります」
「ああ、おつかれさん」
会社に残っていた最後のスタッフも帰った。壁掛け時計を見た。
「八時か。最近、時間の進むのが早いな」
スタッフが一人忌引きで休んでいることもあり、仕事がなかなか片付かないので、一人、会社で仕事をしていた。なんとか、今日のスケジュールと、明日の段取りを終わらせると、コーヒーを飲みながら、いつものように外を見た。
「早く仕事にケリをつけて、純に会いに行かなければ」
とその時、俺の携帯がなった。加奈からだ。いつもの携帯じゃなく自宅の電話からだった。
「はい」と言って携帯に出た。電話の声は加奈ではなかった。加奈の父親だった。
「君には、危うく騙されるところだったよ。金輪際、うちの娘に会うのは辞めてくれ。訳は、自分の胸に手を当てて、よく考えてみるんだな。うちの娘を騙して、ただで済むと思ったら大間違いだぞ。お前の全てをぶち壊すのは簡単なことなんだ」
そう言って、一方的に電話を切った。全く訳が分からない。
「なんだ、あの親父!なに考えているんだ」
俺は、加奈の携帯に電話を入れた。
「あ、俺だよ。今、お父さんから電話があって」
「ごめんなさい。私・・・気持ちの整理がつかなくて・・・」と言って、加奈も一方的に電話を切った。
ますます訳が分からなくなった。なんだ、あの親子は、何を言ってるんだ。頭に来て、飲みかけのコーヒーカップを床に叩き付けた。
「勝手にしろ」
訳が分からないのと、あの父親の勝ち誇った顔が浮かんで理性を失っていた。
「勝手にしろ。馬鹿は相手にしてられないよ。ったく」
「ユウさん、久しぶりに来たと思ったら、随分ご機嫌斜めね」自称俺と同い年の、店のオネーサンはやさしく声を掛けた。
「そうだよ、俺はご機嫌斜めだよ。まったく、あの馬鹿親父。最初から気に入らなかったんだよ。自分は大手企業の役員かもしれないが、人を見下しやがって。テメーは何様なんだっつうの」
「どうしたの」
「それに、あの娘も娘だ、親父の言いなりになりやがって、ったく、世の中狂ってる」
「ああ分かった、振られたんでしょう。女に」
「いや、俺が振ってやったんだ。今、俺が振ってやった。あんな連中に振られたなんて、一生の恥だってんだ」
俺はその日しこたま飲んだ。帰ってきた記憶もなければ、ネクタイをどこに置いてきたかも覚えていない。起きたとき、ズボンは脱いでいたが、ワイシャツは着たままだった。痛い頭と、ムカムカする胃袋を抱えて俺は会社に行った。
こんなときは、仕事に精を出して、不快なことは忘れるしかない。しかし、そういうときに限って、スタッフの連中はミスをする。俺は、あたりかまわずどなりちらした。
スタッフも心得たもので、そういった時は、取引先に出かけて行くことを覚えたようだ。
いつの間にか、会社には俺一人が残った。ちょっと冷静になって、いろいろ考えた。
そういえば、あの馬鹿親父は、自分の胸に手を当てて考えろって言ってたな。俺が、悪いことをしたと言えば・・・でも、あの女とは手を切って大分立つし、他に思い当たるふしはない。まさか純のことか?いや、あの馬鹿親父は純のことが分かる訳はない。それに、純との関係はそれこそ純粋なものだし。思いあたるふしがない。
まあ、なにか勘違いしているんだろう。いいや、ほとぼりが冷めたら、また、加奈に連絡を取ってみるか。とりあえず、仕事だ仕事。頭を切り替えると、書類に目を通した。
外に避難していたスタッフがポツポツ帰ってきた。そして、俺が落ち着いているのを見て、ホッして各自の机に腰を下ろした。ちょっと悪かったかなと思ったので、それ以降は優しく接した。
忌引きで休んでいたスタッフも会社に復帰し、仕事は大分落ち着いてきた。俺にもようやく、仕事の方ではちょっとした安らぎが与えられた感じがした。
そうなると、気になるのは加奈のことだった。加奈は今、休憩時間だな。ちょっと電話してみるか。俺は加奈に電話をかけたが電話には出なかった。仕方がないので電話をくれるようメールを入れた。
しかし夕方になっても、加奈からの返事は来なかった。もう一度電話を入れた。しかし電話にも出なかった。もしかして着信拒否か。俺は、またあの馬鹿親父の顔を思い出してキレそうになった。しかし、今日はなんとか踏みとどまった。
「そんなことより、純に連絡をしよう。この調子だと、今週はあの町に行けそうだ」
携帯を取ると純の家に電話した。しばらく待ったが誰も出なかった。ちょっと不安になったが、まあ、出かけている時もあるだろうと思って机に向かった。
よし、今日は仕事をしよう、スタッフは全員帰っていたが、またパソコンに向かった。とにかく仕事を片付けて、早く純に会いたかった。目標を持ったときの俺は、自分で言うのもなんだが、動機はどうあれ仕事は早い。どちらかというと典型的なO型だ。
しかし、次の日も、その次の日も、純の家に電話を掛けても誰も電話に出なかった。それが五日間続いた。いくら、自分が楽観的な人間だと言っても、さすがに心配になってきた。
今日は日曜日なのに、何度純の家に電話しても、誰も出なかった。純も、おばあちゃんも電話に出ないというのは、どう考えてもおかしい。
「なにかあったのか」
この前、純と電話で話したとき、様子が変だったのは間違いない。まさか・・・いやそんなことはないだろう。もし、引越しをして、電話番号が変わったのなら、「現在この電話番号は、使われておりません」のメッセージが流れるはずだ。と言うことは、純もおばあちゃんも、そこにいるということだ。
おばあちゃんが入院でもしたのか。それなら、付き添いで電話に出れないことも説明がつく。でも、そんな緊急事態なら、いくら純が、普段俺に電話をしなくても、その時くらいは連絡するはずだ。
家に行きたくても、純の住所は聞いていない。これじゃ、連絡のしようがない。携帯を握りしめて、「純、頼む、俺の携帯に連絡してくれ」そう念じた。
だが、一日待っても、俺の携帯には何の連絡もなかった。その日はずっと、純のことばかり考えていた。もしかしたら、純は・・・いやきっと、なにか緊急事態が起こったんだ。でも、何故連絡をよこさないんだ。そんなことばかり頭に浮かび、その夜は一睡もできなかった。
九
俺は、会社に行っても、純のことが頭から離れなかった。そして、あてもなく、うろうろしていたとき、ホワイトボードに書かれたスケジュール表が目に入った。
「これだ!」
今日は、例の探偵事務所に定期点検に行く日だ。それは、別のスタッフが行く予定だった。
「今日は、俺がここに行くから、君はこれをやってくれ」そう言うと、直ぐ上着をつかんで、探偵事務所に向かった。目的は定期点検じゃない。純のことを調べてもらいたかったのだ。
探偵事務所に着いたが、どうやら、所長の吉田はいないらしい。代わりに年配の女性事務員が「どうぞ」と言って、事務所に入れてくれた。まもなく所長は帰ってくるとのことだった。
今は定期点検なんてどうでも良かったが、仕方なく各パソコンを見て歩いた。
事務員から「そういえば、そこのパソコン、なんだか最近動きが遅いんですよ。ちょっと見てもらえますか」とお願いされたので、そのパソコンをチェックしていたとき、吉田が帰ってきた。俺の顔を見ると「なんでお前が来ているんだ」。そんな目で見た。
女性事務員が、「そこのパソコン最近調子悪いんで、見てもらってたんです」と言うと、吉田は「今日は、社長自ら大変だな」と言って、自分のデスクに座ったが、ちらちらとこっちを見ていた。俺は、早く片付けて、本題に移りたかったので、吉田の目は無視してパソコンをチェックしていた。
そのうち吉田は、ああでもない、こうでもないと言いながら、脇に来て雑談を始めた。ちょっと黙っててくれと思ったとき、来客があった。吉田は、事務員に相手をするように言ったが、どうやら、吉田ご指名の客らしい。ちょっと困ったような顔をしながら「そこのパソコンは大丈夫だから、適当に切り上げてもらっていいよ」と言って応接室に入っていった。
俺は吉田が応接室に入って行くのを見て、また、パソコンと向かい合った。なんだ、なんてことはない、このパソコンにデータが多すぎるだけじゃないか。容量オーバーだよこれは。そう思って、席を立とうとしたとき、そのパソコンに、自分の名前のフォルダがあるのを見つけた。
「あれ?なんで俺の名前があるんだ」
そういえば、あの吉田の態度、なんか気になる。それを見るのは本当は契約違反だが、気になった俺はそのフォルダを開いた。
そこには、見慣れた景色の写真が写っていた、そして、二人の男女が、公園で抱き合っている写真も貼り付けてあった。事務員が「どうですか、直りましたか」とこちらに来たので、それをあわてて閉じた。
「容量オーバーですよ。データが増えすぎたんですね。ハードディスクを増設するか、別のパソコンにデータを移せば、すぐ直りますよ」
事務員は「助かりました」と言って、コーヒーを持ってきてくれた。そして、気を使ってくれたのかいろいろと話しを始めた。そのうち、姑の話や夫の愚痴に話が移った。適当に相づちを打っていたが、頭の中は、今見た写真のことで一杯だった。
あれは、純が、あの公園で俺に抱きついていた時の写真だ。なんで、こんな写真がここにあるんだ・・・
「分かった」。全てが繋がった。吉田は、俺の調査を依頼されたのだ。それで、尾行してあの写真を撮った。もちろん、面識のある吉田が俺を尾行するはずはない。この探偵事務所の誰かが俺の後をついて来たんだ。依頼者は、あの馬鹿親父だ。
怒りがこみ上げてきた。俺が純に抱いている感情は、あの馬鹿親父が思っているような、不純なのもじゃない。なにも分からないくせに、なにが、自分の胸に手を当てて考えてみろだ、自分こそ自分の娘を信じられないダメ親父のくせに。勝ち誇ったような顔をしているのだろうが、実は、娘を不幸にしていることに気付いていない、正真正銘の馬鹿親父じゃないか。
俺の顔が急に怖くなったからか、事務員は「あの、私、なにか失礼なこと、言いましたでしょうか」と俺の顔を覗き込んだ。
ハッとわれに帰った。
「いや、よく分かりますよ。姑さんと同居じゃ大変でしょう」
「そうでしょう。やっぱりそう思いますよねえ」そして、また適当に相づちを打っていた。
しかし、あの写真を見れば、誰が見ても俺が他に女がいると思われても仕方ないだろう。やっぱり、加奈には純のことをきっちり言っておくべきだったか。だがそれはもう遅い。今言っても言い訳にしか聞いてもらえない。それより、今は純のことが心配だ。
そんな俺の気持を分かっていない事務員は、話が止まらなかった。吉田が応接室から出て、客を見送るまで話続けていた。
「終わったのか」吉田が言った。
「ええ、事務員さんに、やり方を話しておきましたよ」
「ちょっと、話があるんですが、いいですか」応接室を見て言った。吉田は、フーっとため息をつき、しょうがないといった顔をし
て応接室に案内した。
話を始めたのは吉田の方からだった。
「君は、見てしまったのか」
「ああ、見ましたよ。あれは間違いなく俺です。依頼者も大体想像がつきます」
「そうか・・・分かっているとは思うが・・・」
「誰にも言いませんよ。もちろん、その依頼者にもね。それに、話しというのは、そのことじゃないんです」
「えっ?」
「俺は、吉田さんに、ある人間の調査を依頼したいんです。頼れるのは吉田さんしかいないんです」
吉田は、なんだそうだったのかといった顔をした。
「で、いったい誰を調べて欲しいんだ」
「あの写真に写っていた人物です。はっきり言うと、俺は、毎月一回その人物と会っていました。でも、家の電話番号以外、なにも分かっていないんです。今、知りたいのは、その子がどこに住んでいるのか。どうしたら、連絡がつくのか。それだけを知りたいんです」
「なんだって。調査担当の話だと、長い付き合いのようだと言っていたが・・いや、それは余計なことだな。ちょっと、待っててくれ」
吉田は、そう言うと応接室を出て行った。帰ってくると、一枚のメモを机の上に置いた。
「君の知っている電話番号はこれか?」
「えっ、どうして分かっているのですか」俺は驚いた。
「調べてあるからさ」
その電話番号は、携帯に登録されている番号と同じだった。
「そうです。この番号です。今は、いくら掛けても出ませんけど。他に分かっていることはないのですか」
「他に分かっているのは名前だけだ。依頼は、名前と電話番号、それと人間関係だったはずだ。人間関係は、君も知っているから説明する必要もないだろう。おそらく、担当は住所も調べたと思うが、今、新婚旅行で海外に行っててね。しばらく、帰ってこないんだ。担当なら分かるかもしれないんだが・・・急いでいるなら、また、調べてみようか」
「お願いします。しかし、名前も調べたのですか」
「もちろんだよ・・・あれ、なんて言ったかな。えーと、何だったかな。今見てきたのに・・・」
「名前なんてどうでもいいんです。俺は、その子にもう一度会いたいだけなんです」
「そうか、分かった」
「出来るだけ早く、お願いします」俺は、吉田を見て頭を下げた。
「ところで、つかぬことを聞くが、君は、その・・・なんと言うか、そういう趣味があるのか?」吉田は目を合わさずに言った。吉田がなにを言っているのかすぐに分かった。
「そこまで分かっているのですか。でもその子とは純粋な関係です。それ以外のなにものでもありません」吉田の目を見て俺は答えた。
吉田は訳が分からないといった顔をした。しかし、その顔は明らかに俺と純の関係をゆがんだものと捉えているようだ。それはある程度予想していたが悔しかった。誰も、俺と純のことを理解してはくれないのか。
「僕は、その子と、君の関係はよく分からないし、これ以上詮索はしないよ。結果は早い方がいいんだろう。すぐ調べるよ」
そう言うと、吉田はタバコに火をつけた。
「君も吸うか」俺にタバコの箱を差し出した。タバコをやめてもう三年になるが、差し出されたタバコを一本取って火をつけた。とにかく心を落ち着かせたかった。
久し振りのタバコは苦かった。少し、むせる感じがしたとき、ふと頭に浮かんだことがあった。もう一回、タバコを、肺の奥深く吸い込んで、フーっと吹き出すと、吉田に話しかけた。
「吉田さん。最後にその子と話しをした時、(その依頼者から電話があった)と言ってたんですけど、よっぽど、ひどいことを言われたみたいで、その子はかなり落ち込んでましたよ」
「なんだ、電話したのを知っていたのか。まあ、君とその子の関係なら、知っていてもおかしくはないけど。担当が、依頼者は、その子にあらいざらい話しをするようだと言ってたからな。尋常な雰囲気じゃなかったと聞いているよ」
「そうでしょうね・・・」
「頼むから、この件で変な揉め事を起こさないでくれよ」
「大丈夫ですよ。吉田さんは大事な取引先ですから。余計なことはしませんよ」
「分かってくれればいいよ。とにかく、僕も急いで調べてみるから」
「お願いします」
そう言って、俺は事務所を出た。
事務所を出ると、我慢していた怒りを抑えることが出来なかった。
「なんてことを!」
事務所の入っているビルの前の電柱に、思い切り右手を叩きつけて叫んだ。
本当は、馬鹿親父が、純に連絡をしたのは分かっていなかった。
「うちの娘を騙して、ただで済むと思ったら大間違いだぞ。お前の全てをぶち壊すのは簡単なことなんだ」
その言葉を思い出して、吉田にかまをかけた。馬鹿親父が、俺と加奈の関係を壊したければ、純が、俺に抱きついている写真を加奈に見せるだけでよかったはずだ。なぜ、純のことを調べたのか考えたとき、もしかしたら、と思ったが、やっぱりそうだった。
純は、馬鹿親父に俺と加奈の関係を話されて、最後に「いや、よかった。君のお陰で、あいつとウチの娘の縁がきれるよ」と、嫌味たっぷりに言われでもしたのだろう。
しかも、純が男だと分かっていたら、あの馬鹿親父のことだ、純に、とんでもないことを言ったに違いない。おそらく、俺が最後に純と電話で話したのは、馬鹿親父と話した後だったのだ。だから、あの時、純の様子が変だったのだ。
「俺はそんなことで、純をどうのこうの言うことはしないのに。なんで、全部話してくれなかったんだ」唇を噛んで天を仰いだ。
俺に会う喜びが、愛情と、自分の現実とのはざまで苦しみに変わり、ただでさえ、押せば倒れそうな不安定な状態の時に、馬鹿親父にひどいことを言われて、そして、俺と加奈の関係がダメになったと聞かされれば、純の性格からして、自分を責めて、変な考えを起こさないとも限らない。
俺は祈った。
「純。俺が会いに行くまで、バカなまねはするなよ」
今は、とにかく純のことが心配で、馬鹿親父への怒りはどこかへ行ってしまった。
それから、探偵事務所からの連絡を首を長くして待った。純は、本当に自分を責めて・・・いや、そう考えるのはよそう。純がそんなことをするはずがない。
俺に愛情を感じていても、どうしようもない現実が純を苦しめていた。それで、俺に会うのを避けているということしか考えられない。いや、そう考えたい。しかし、何故、おばあちゃんも電話に出ないのだろう。
「分からない!」
机を開けて、二人の写真を眺めた。その笑顔を見て、ますます、純のことが心配になった。
ふと、机の中の名刺入れが目に入った。そしてネットで調べた。
「純愛」それは、すずらんの花言葉だった。
それは俺に対する、純の正直な気持ちだろう。名刺入れを手に取って、両手で包み込んだ。自分のために一生懸命名刺入れを作っている純の姿が浮かんだ。
「純。一体どうしたんだ」何もできない自分を嘆いた。
俺は、純のことが頭から離れなかった。それを振り切るように、仕事に没頭しようとした。だが、どうしても純のことが気になって仕方がなかった。
それでも会社にいると、まだ、スタッフがいて気が紛れた。しかし、夜一人になるのは怖かった。純のことが頭の中に浮かんで、いても立ってもいられなくなると思ったからだ。
加奈にも連絡がつかなかった。急に一人ぼっちになったような気がしたせいか、仕事が終わると、外で酒を飲んだ。そんなのごまかしでしかないことは分かっていたが、一人でいるよりはましだ。そして、しこたま飲んで、余計なことは考えられないくらい飲んでベッドに入った。
それは、シトシトと冷たい雨の降る夕方だった。探偵事務所から電話があった。例の調査が終わったとの連絡だ。だいぶ待ったような気がしたが、吉田に純のことを依頼して、三日目のことだった。事務員はまもなく帰るところだったようだが、無理を言って今日取りに行かせてもらうことにした。
探偵事務所に着くと、事務員があくびをしながら待っていてくれた。吉田はいないようだ。
「すみませんでした、勝手なお願いをして」
事務員は「気にしないで下さい。早く帰って姑の顔を見るよりはいいですから」と言って、調査資料を渡してくれた。それは、やけに大きな包み紙に包装されたものだった。
本当は、今すぐにでも、中を開けて見たかったが、それは我慢して、会社に戻って見ることにした。礼を言って、急いで会社へと向かった。
電車は、ラッシュ時間が過ぎていたこともあって、立っている人はほとんどいなかった。片道二十分程の乗車時間なのに、そのときはとても長く感じられた。喉が渇いて、手はじっとりと汗をかいていた。
よかった。純の住所が分かった。これでもう一度純に会うことができる。とにかく、純に会いたい。純の本当の気持ちが知りたい。あの笑顔を見たい。あの優しさに触れたい。純に伝えたいこともたくさんある。いや、もしかして、最悪の結果がここには記入されているかも知れない。そんな思いが交錯して、大学受験の結果を待つ高校生のように、落ち着かない気持ちで椅子に座っていた。
時計を何回も見た。なんで今はこんなに時間が立つのが遅いんだ。電車が駅に止まる度、ドアに向かって「早く閉まれ」と念じた。発車する度に「もっと早く走れ」と思った。
駅に着くと人ごみをかき分けて、急いで会社に向かった。
スタッフは一人だけ残っていた。
「あ、社長、吉田さんって人から電話がありました。この番号に連絡くれって」携帯番号が書いてあるメモを受け取った。
「じゃ僕、帰ります」そういってスタッフは帰った。
吉田の携帯に電話を掛けて、受話器を左肩とあごで押さえながら、調査資料の大きな包み紙を開けた。中からは、もう一つ小さな封筒が出てきた。それと一枚の絵も出てきた。
「この景色は、あの城から見たものだ。これは、純が描いたものなのか」
その絵は、一目で、純が心を込めて描いたことが分かるものだった。あの時の楽しい時間が蘇ってくるような気がした。
その絵を見ながら、小さな封筒の封を切ろうとした時に、吉田が電話に出た。
「ああ、僕だ、資料取りにきたんだってな。さっき事務員から聞いたよ。ところで資料は見たか。そうか・・・まだだったか。それには、全部調べて書いてあるよ、名前も、住所も、年齢も」
「そうですか、いろいろと、ありがとうございました」
「ああ、君の依頼だったからな。僕が直々に調査したんだ。実は、その子のおばあちゃんに偶然会って話ができたんだ。どうやら、僕の勘違いだったようだな。君と、その、少女、いや、少年の関係は、君のいう通り純粋なものだったようだ」
それを聞いて嬉しかった。分かってくれたか。
「おばあちゃんは入院していたんだ。その・・・ショックが大きかったんだろうね。それから、おばあちゃんが、依頼人はこの人ですかって聞いてきたんだ。城で撮った二人の写真を見せてもらったよ。あれは間違いなく君だった。でも、それは答えられませんって言ったんだ。そしたら、もし、この人だったら、伝えてくれって言われてね。孫は、あなたと出会えて本当に幸せだったと思います。ありがとうございましたってね。それから、最後にあなたの名前を呼んでましたって。そう伝言をお願いされたんだ。」
「・・・最後にって・・・」
「今、僕が、言えるのはそれだけだ。」
「ちょっと待ってください。純は、いや、その子は・・・」
「詳しくは・・・調査資料を見てくれ。あっ、それから、絵が入っていただろう。それは、そのおばあちゃんから依頼されたものだ。その写真に写っている人に渡してくれってね」と言って吉田は電話を切った。
「なんで・・・」
言葉が出なかった。純は最後まで俺に助けを求めていたんだ。あの、最後の電話の時、無理してでも純に会いに行っていれば、こんなことにはならなかったかも知れないのに。
なにが正義の味方だ、なにが俺が守ってやるだ。やっぱり純は俺との関係を苦しんで・・・そしたら俺は殺人者だ。フラフラと立ち上がると、調査資料を封を開けずにシュレッダーにかけた。そして、涙が溢れてきた。
そこには、純が何故そうなったのか、純の本当の名前も、年齢も、性別も全部書いてあっただろう。だが今の俺には、いや、いままでの俺にもそれはどうでもいい事だった。ただ純がいてくれればそれでよかったのだ。
涙は止まらなかった。人間は泣いて涙を流すことで、苦しみや悲しみから、解放されるものだと思っていた。それは違っていた。泣けば泣くほど、悲しみが増幅する場合もあることを知った。もう見れない純の笑顔、もう触れることのできない純真な心、もう戻れない楽しい日々、純が俺に言った一言一言、俺が純に言った一言一言、純に言えなかった「ありがとう」、そして、最後に俺の名前を呼んだときの純の気持ち。それが、グルグルと回って、まるで、ポンプのように、悲しみを送り続けているようだった。
どのくらい、そこに動けないままいたか分からなかった。俺は、またフラフラと歩いて机に座った。そして、机の中の写真を見た。その隣には、純にもらったすずらんがかたどられた名刺入れがあった。写真の中の二人は、何も知らないかのように、楽しそうに俺を見ていた。その背景は、純が描いた絵と同じ景色だった。
その時、俺は気付いた。そうか、俺は純を愛していたんだ。純が男だということが頭の片隅にあって、まるで、土砂降りがあたっている窓ガラスのように、俺の目もゆがんでいたんだ。俺はそれに気付かなかった。そうだ、俺は純を愛していたんだ。俺が純に言いたいことは「ありがとう」じゃない、本当に言いたかったことはそのことだったんだ。それは、初めて、俺が純との間にあった壁を飛び越えた瞬間だった。しかし、それを伝えることはもはやできない。純に「さよなら」も言っていない。今は、ただただ、楽しそうな二人を見て泣くことしか出来なかった。
この悲しみは、いったいいつまで心に厚い雲のように覆いかぶさって、雨を降らせるんだろう。一生俺の心に晴天は訪れないかもしれない。
十
二度とこの町には来ないつもりだった。この町の元上司との打ち合わせもスタッフに任せていた。純につけられた頭のたんこぶはすぐ治った。だが、純を失った傷はそうそう治るものじゃない。この町に来れば、純を思い出して、あの時の悲しみ、苦しみが襲ってくることが怖かったのだ。純が描いた絵も、俺の書斎の奥にしまってある。それを見るのは、同じように辛いことだったからだ。しかし、今日この町に来たのには理由がある。それを終えるまで、帰るつもりはない。
しばらく、この町に来ていなかったが、町並みは全然変わっていない。通り過ぎる人たちも何事もないように歩いている。この町の全てが、何事もなかったように動いている。人が一人いなくなったくらいでは人間の営みは変わらない。この町の風景は純に合っている頃のままだ。
しかし、人間は機械じゃない。レンズのように、目の前の景色をものとして捉えられない場合だってある。それは、感情を通して見ているからだ。まさに今の俺はそうだ。この町の風景一つ一つが、純との思い出を通して自分の頭には写っていた。それは、懐かしくもあり、悲しくもあり、複雑で言いようのないものだ。
「いい町ね」隣に立っていた加奈が言った。
実は、この町に来たいと言ったのは加奈だ。いや「行かなくちゃダメ」と言われたほうが当たっている。
加奈とは、あれ以来連絡が取れなかった。そこで俺は、会社の前で加奈を待ち伏せし、まるで拉致するかのように捕まえて、全てを話した。加奈になんと言われようと、なんと思われようと構わなかった。俺に愛想をつかしても構わなかった。ただ、本当のことを知ってもらいたかった。加奈は何も言わずにその日は帰った。
しばらくして、加奈から連絡があった。
「今日空いてる?」
いつもの店で加奈と会った。加奈は、俺が純に対して抱いた愛情は許せなかったようだが、純のことは理解してくれたようだった。そして、「何故、もっとちゃんと話をしてくれなかったの」と言ってくれた。
今、俺と加奈は一緒に暮らしている。入籍も済ました。加奈は家出同然で俺のところへ転がりこんできた。馬鹿親父が俺との結婚を頑なに拒んだからだ。そんな訳で披露宴は挙げていない。もっとも、加奈も、ウェディングドレスが着たかっただろうし、俺も、ウェディングドレスを着て、幸せな顔をしている加奈を見たかったので、友人たちに囲まれながら、教会で結婚式は挙げた。
最初、馬鹿親父は、あれこれと汚い言葉を俺に投げかけたり、マンションまで押しかけてきたが、俺は一切無視した。加奈も同じように父親を無視した。最近はなにもないところをみると、ようやく諦めたのだろう。
今日は、加奈と、雑誌で紹介されていたレストランのランチを食べる予定だった。店のテーブルに座ったときだった。加奈が突然言った。
「もう、あの町には行かないの?私行ってみたいな」
突然そう言われて驚いたこともあるし、加奈が、なんでそういうことを言うのかも分からなかったこともあり、俺はテーブルの上に組んだ手の上にあごを乗せたまま、しばらく下を向いていた。
あの町に行けば、純を思い出して辛い気持ちになることが目に見えていたので、なかなか「よし、行こう」とも言えなかった。
そんな気持ちを察してか加奈が言った。
「さよならも言わないなんて、その子、可哀相じゃない」
そう言われると、加奈の言う通りだと思った。そうだ、確かに純にさよならも言っていない。あんなに自分に愛情を持って接してくれて、純粋な心で自分を立ち直らせてくれたのに、最後の別れの言葉も言っていないなんて。自分は、純を失ったことから逃げているだけじゃないのか。このままじゃ、また、自分は前のようなダメ人間になってしまう。それを純が喜ぶはずがない。
それに純は、俺を待っているに違いない。そう思うと、いても立ってもいられなくなった。顔を上げると、店中に響く声で言った。
「加奈。これから、あの町へ行くぞ」
俺と加奈は店を飛び出した。ようやく予約の取れたレストランだったが、今は、自分を待っている純のことを思うと、そんな小さなことはどうでもよかった。
急ぎ足で駅に向かい、新幹線の切符を買うと、発車間際の車両に加奈と飛び乗った。座席に座って、車内販売からコーヒーを買って飲んでいると、加奈が俺の顔を見ているのに気がついた。
「ん、どうしたの」
「ちょっと妬けるけど、私、あなたのそんなところが好きになったのね。たぶん」そう言って加奈もコーヒーを飲んだ。
駅を出て、フーっと息を吐くと、駅前の大きな時計のところを目指した。純が待っているのはそこしかない。こんなに遅くなって純に申し訳ないと思いながら、早足で歩いた。
徐々に時計が見えてくると、緊張で息を深く吸い込めなくなり、何回も深呼吸をして大きな時計の下に向かった。
いつもの待ち合わせ場所に着いとき、心の中に、そこに立っている純の姿が映った。
純は、やっぱり俺を待っていた。目では見えなかったが、純は間違いなくそこに立っている。純が下を向いて自分を待っているのが分かった。おそらく、ずっとここで待っていたのだろう。純は、一人ポツンと寂しそうにしていた。
「純、ここでずっと待っていたのか」
そう話しかけると、純はこっちを振り向いた。俺だと分かると、初めてここで会った時のような顔で俺を見た。
「ごめんね。こんなに遅くなってしまって」純に謝った。
純は、やさしい笑みをたたえたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「本当にこれでさよならだね」
純は小さく頷いた。しばらく二人は、そのままで何も話さずお互いを見つめていた。
俺は、純の気配をいつまでも感じていたかった。しかし、その気配は徐々に薄れていった。純は最後になにか言った。
「本当にありがとう。さよなら」そう言っているようだ。
「さよなら、純」そう言うと、純の気配は完全に消えてなくなった。
心の中の心臓を、ぎゅっと握られたような苦しみに襲われた俺は、空を見上げて目を閉じた。せつなさが自分の体から抜けていくまで、ずっと動かなかった。頭は何も考えなかった。体は、何も感じなかった。人の話し声も、歩く音もまったく聞こえなかった。ただ、じっと土砂降りに耐えるように、その痛みや不快さを耐えるように動かなかった。
どのくらいそのままでいたか分からない。徐々に、人々の話声や歩く音がはっきりと聞こえてきた。体も風を感じてきた。
ゆっくりと目を開けた。空は、まるで、台風が通り過ぎた時のような青空がどこまでも続いていた。