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蒲ちゃん

作者: 中野雅博

――古いクラスメートに捧ぐ。

「よう、久しぶり!」

 馬鹿の谷村が気安く話しかけてきた。

「中学卒業以来か?」

「そうそう、てかお前変わったな~」

 曇天の日曜日。今日は成人式であり、区のプラザの外にこうして俺の同級生たちが集っている。見渡せば見慣れた顔がチラホラと目に付くのだ。

「随分痩せたしな。てかお前、禿げたな」

「うるせーな! 薄いだけだよ!」

 既に頭頂部は地肌が見えているのに、よく言うわ。まるで、中学時代の担任の頭みたいだった。それだけ、俺たちが年を取ったということかもしれないが。

「お久しぶり~」

「お、鳩村ちゃ~ん!」

 嬌声で谷村が答える。はっきりキモイ。

 声を掛けてきたのはクラスの大人しめの女子だった鳩村だった。今は振袖に身を包み、とても華やいでいる。中学までの彼女しか知らない身としては意外な感じがするかもしれないが、俺は彼女と家が近かったからその変貌にも納得していた。深夜彼氏(同級生)とよくコンビニに行っていたし、割と性に奔放であるなと思ってはいたのだ。

「綺麗になったね~! 今度遊ぼうよ~」

 馬鹿の谷村は脳みそ童貞全開の下心で鳩村に接する。見ているこっちが恥ずかしい。

「それじゃあ今度うちの店に来てよ~」

 ん? 店? 鳩村は俺と谷村に名刺を渡す。

 そこには電話番号と共に、源氏名が記載されている。これは……。

「え、お前キャバ嬢なの!?」

「ん? もうちょっとだけ、Hかな?」

 俺は流石に口をあんぐりと開けた。しかし、馬鹿の谷村はしっかり食いついた。

「マジ!? 行く行く!」

 何をイク気だ、貴様は。

「今日行っていい?」

「今日はパパと来てるから~また今度ね?」

 パパ、と来た。僅か二十歳でこの熟達っぷりに俺は感心するよりも辟易していた。何をどう間違ったらこんな風に育つのだろうか? 

 思い返せば俺の近くにいた同級生は割と男で身を持ち崩していた奴が多かった気がする。

 一番人気だった元級友の女子が不良娘になり夜の街に消えたことを思い出す。

 まだ色々あるのだが、鳩村の変わりようもそのうちの一つに数えることにした。

それから俺は同級生を見つけては、それなりに会話を楽しんだ。

「お前、変わったな」

 みんなの第一声は大体それだった。別に嬉しくはない。どうせ、見た目だけの話だ。

 そんな時間を過ごしているうちに、ふと、あいつが居ないな、と思い出した。

 見慣れた顔、見慣れた人物。でも、その中心にいたはずのあいつが、ここに居ない。

 その時俺は知らなかった。どうしてあいつがいなかったのか。その理由を知るにはもう少し俺には時間が必要だった。

 俺は彼と再会することになる。そしてもう一人、俺の人生に微妙に影響を与えた男のことも思い出すことになった。そいつとは、この成人式が終わった後も、旧友と再会した後も、二度と会うことは無かったのだが。


     ◆


「またお前らか!」

 先生の怒鳴り声が廊下に響く。目の前の教師はいつものようにその高い目線で俺らを見下している。イノTめ。偉そうに。

 井上+teacherで通称イノT。英語教師なので俺らが付けたあだ名だ。

常に英語を日常会話に取り入れろ。国際化が云々、などご高説を糞尿のようにいつも垂れ流しているこいつにピッタリの名だと思う。

「はい、もうしません」

 勿論嘘だ。当然またやる。

今回は運が悪かった。校内で俺らがやった悪戯を誰かがチクったのだ。どうせチクり魔の下田あたりだろう。あの陰キャめ。

「申し訳ありませんでした」

 これは魔法の言葉だ。この言葉を吐いて頭を下げればどんな大人もそれ以上追及は出来ない。だって相手は、俺らを怒ってその言葉を引き出したいだけの子供なのだから。

「……二度とやるなよ。分かれば宜しい」

 ほらな。

 そう言ってこいつは俺らの肩を順番に叩き、反吐が出るくらい優しそうな笑顔を浮かべる。

 こいつはまだ若い、高身長でイケメンの熱血教師を気取ってるだけの屑のくせに。

俺らは知っている。こいつは高身長で隠れているが、若ハゲだと。

 薄い頭頂部を高身長と甘いマスクで誤魔化している、頭同様薄っぺらい人間だと。

「あーうざ」

 解放された俺たち3人は一緒に校舎を出る。

「で、次は何するよ?」

 矢井田が俺にそう訊ねる。

「流石に連続はマジーだろ? ちょっとだけ様子見るべ」

 矢井田は典型的なチンピラタイプだ。中身が無くてつるまないと何も出来ない。

「桜井がそういうならしゃーねーな~。あームカつくぜ。ぶっ殺してやりて~」

 ほら、あっさり引き下がった。

「それより今日はサッカーでもしようぜ」

 蒲ちゃんがそう口に出した。

「そうすっか。憂さ晴らしに」

 蒲ちゃんはさっきまでのことなど忘れたようにコロコロと笑っている。

 蒲ちゃんも馬鹿だ。だが、蒲ちゃんは矢井田と違って憎めない。そこにいるだけで何となく、安心感がある。

蒲、という名前の響きそのままに動物のカバのような、愛嬌のある見た目をしている。

 力士が近くにいるとなぜか頼もしいと思えるような、そんな風貌なのだ。かといって鈍いわけではない。蒲ちゃんに逆恨みした谷村という屑が彫刻刀で蒲ちゃんを切りつけようとした事件があったのだが、蒲ちゃんは羽でも生えていたかのようにひょいと避けて無傷。逆に谷村は押さえつけられそのまま先生が来るまで圧し掛かられ、押し潰された蚊の様に、虫の息でそこに這い蹲っていた。

動けるデブ。蒲ちゃんは中々侮れない。まあ、馬鹿だけど。

「じゃあいつものカバ公園でな」

 俺たちはそう言って別れる。カバ公園は正式名称じゃないのだが、公園に置いてあるカバの置物が余りにも覚えやすく目につくので付いたあだ名だ。公園には広いコートがあり、サッカーやバスケの球技に適している。俺らの溜まり場であった。


「おりゃ!」

 蒲ちゃんは俺の全力で放ったシュートを難なく受け止める。

「くっそ~」

「はは、桜井、まだまだやな~」

「うるせ~、にしても矢井田の奴遅えな」

 一向に来る気配がない。もう俺ら二人だけで一時間以上ボールを蹴っている。

「やべ、つーかもう塾の時間じゃねーか」

 公園の時計を見ると午後五時を指そうとしている。

「桜井は大変やな~」

「蒲ちゃんはどうすんだよ、受験」

 呑気にしている場合ではないだろう。蒲ちゃんの成績ではいい高校へは行けそうもない。しかし焦っている節は見当たらない。

「別に行けるところでええよ」

「そりゃあ……」

 その通りかもしれないが、それでは結局落ちこぼれのままだろう?

「それに、桜井は俺と友達やろ? どこ行ってもここくりゃ遊べるやん」

 さも当然の様にそう言い切ってしまった。

 学校が別れるということはほぼ関係が断ち切られるわけで、そんなに簡単に遊べる間柄のままの訳はないのだが。それに、友達と言ったが、この関係もいつまで続くか怪しいものだ。所詮、中学校のガキの遊びなのだ。

「ん、そだな」

 そのあっけらかんとした物言いにこっちも将来のちょっとした悩みなんてイノTの小言同様脳みそから消え去った。まあ、友人なんて幾らでも作れるしな。

「そんじゃな! 矢井田が来たら文句言っといて!」

 俺は蒲ちゃんと別れて行かなくてもいい塾へと向かった。もう十分俺は頭が良いのだが、親が煩いのだ。世の「塾へ通わせないと頭が良くならない教」の教祖の両親は子供が塾へ行っていることで心の平穏を得ている。成績が良くなれば尚更それが自分が金を出して塾へ通わせているからだと自己満足を得られる。

 ハッキリ言ってしまえば、金の無駄である。

 頭のいい奴は何しても大抵頭がいいし、頭が悪い奴はどれだけ教えられても覚えない。

 世の中生まれ持った才能が違っていて、俺は頭が良くてそこそこ運動が出来て身長も高い、エリートクラスの人間に産まれた。ただそれだけのことだ。

 別に俺は頭が悪い奴を馬鹿にしていない。単に才能に差があることを認めりゃいいのに、と思っているだけだ。平等なんて馬鹿が天才の足を引っ張るために持ち出した詭弁だ。声高にそんなお題目を唱える奴は馬鹿を足に敷いて結局テメーがお山の大将を気取りたいだけの救い難い大馬鹿だ。

そういや、矢井田が自分の自尊心を保つためにくだらない遊びを提案して来たことを思い出した。

「クラスの人間の才能のグラフを作る」

 要は俺らのクラスの人間を円グラフにして数値化したものを作り、将来の伸びしろとかを含め作った通信簿のような物をつけると言い出したのだ。喉元まで「馬鹿なのか?」という言葉が出かけたが、面白そうかもと思い直し泳がせてみることにした。

 出来上がった物は苦笑を禁じえない仕上がりであり、俺らはやっぱり飛びぬけて数値が高いし、矢井田は不自然なまでに伸びしろがでかい。そんなわきゃねーのに。

「他の奴にも見せよーぜ!」

 出来上がったグラフを自信満々に、まるでこの世の至宝であるかのように嬉々としてクラスの奴らに見せに行った矢井田の後を俺は笑いを噛み殺しながらついていく。しかも、見せに行くやつらはクラスの「おみそ」ばかりだ。自分より下だと思って低く能力を見積もったやつらに誇るように見せつけに行く。

そして次に、高く能力を付けたクラスの人気者に媚びるようにへーこらしながらそのグラフを見せて持ち上げていく。

 俺はもう笑いを堪えるのに必死だった。

 一番傑作だったのは勉強しか能がない八神の時だ。こいつは俺と同じ塾にいるんだが、がり勉のくせに俺より成績が若干低い。そして運動はからっきし駄目のちび。そのくせに自尊心は人一倍強く、自分が将来大人物になると信じて疑ってない阿呆だ。

 八神はグラフを見るなり強烈に顔を顰めた。その伸びしろの少なさに、だ。勉強は今の状況で打ち止め、スポーツは駄目、人徳もない。矢井田が妄想全開で追加した「幸運」の項目すらぶっちぎりで低い。八神は「ふうん」と気にしてない風を装ったが、明らかに不機嫌になっていた。

 矢井田は八神のことが嫌いだったのだろう。中途半端に成績がよく優等生だが、身体が弱い。そういう人間はいじめやすい。そして八神は両親が金持ちで、矢井田は貧乏だった。餓鬼みたいな嫉妬。矢井田は八神のいじめの主犯だった。

八神はいじめの共犯として俺を認識しているのではないかと思っていた。塾にいる時の八神の世間を恨んでいるような、俺に向けた卑屈な目線を思い出す。

俺自身は八神のことなんてどうでもよかった。中学校なんて代物はちょっとでも隙のある奴は付け込まれる。特技や特徴を伸ばすのではなく、平均を求められる。歪な強者はそうして淘汰されるのだ。

「ほれ、蒲ちゃんの」

 矢井田は廊下を歩いている蒲ちゃんにもグラフを見せた。

「ふ~ん?」

 元から細い目を更に細めた蒲ちゃんはいつも通りの笑顔を崩さない。まるで、何も気にしていないように。

「ほら、体力スゲーでしょ?」

「あ~うん。そうやね」

 どうでも良さそうに答えている。矢井田の意図はまったく汲み取らず、完全に受け流してしまっている。

「それより今日は、野球しよ~や!」

 蒲ちゃんは、蒲ちゃんだった。矢井田は、次の日にはそのグラフを全部棄てていた。


「おまえらああああああああああああああ!」

 イノTの怒号が職員室に響く。今回ばかりは形通りの謝罪は駄目だろうなと、諦めていた。流石に、やり過ぎたのだ。

 原因は当然の矢井田だ。こいつ、あろうことかイノTの車にギザ10で傷を付けまくったのだ。俺と蒲ちゃんはとばっちりだった。偶然近くを通りかかり止めようとしたのだが、それを運悪く近くにいたチクり魔下田に見られるという愚策を演じてしまった。

 言い訳が許されるような雰囲気ではない。目撃者もいる。しかも当の矢井田は黙秘を貫き、俺らの擁護すらしない。何だこの屑。

「なんか言うことはねえのかああああああ!」

 もうイノTのTがT―REXのTになりかけている。激高し顔も真っ赤だ。きっと頭頂部の禿まで赤くしているに違いない。

さりとて迂闊なことは言えない。と、言うかやってないことを認めて良いものか……。もうすぐ受験だ。内申もある。こんなことで足を引っ張られるのは嫌だ。

「先生、桜井は関係ないよ」

 逡巡していたら、蒲ちゃんがまるでその辺に散歩に出たくらいの気軽さで口を開いた。

「ああ~~~!?」

「ごめんなさい。こいつは通りがかっただけで、俺と矢井田に巻き込まれただけだから」

 あろうことか、蒲ちゃんは頭を下げる。しかもやってもいない罪を被って。

「いや、蒲ちゃん!」

「桜井、俺ら庇わんでええの」

 どん、と蒲ちゃんに平手で胸を突かれ、俺は言葉に窮した。

「矢井田もほら、謝れ」

 蒲ちゃんは矢井田の頭を押さえつけ、一緒に頭を下げる。

「桜井は何もせんよ、先生。俺らが悪ふざけしただけやし」

「……親を呼ぶからな」

「ええよ、ごめんなさい」

 蒲ちゃんのコロコロした笑顔に毒気を抜かれたのか、以降イノTは事務的にその後の処理を始めた。俺は一人家に帰され、悶々とその日を過ごした。


「蒲ちゃん!」

「おう、桜井」

 翌日、蒲ちゃんは何時ものように学校へとやって来た。何も、本当に何も変わらずに。

 俺は廊下の隅で独り佇んでいた蒲ちゃんに声を掛けた。

「どうしてあんなこと言ったんだよ」

「だって、事実やろ? 桜井はなんもせんと」

「だから、それは蒲ちゃんも一緒だろ!?」

 俺の憤懣はそこだ。何で矢井田のしでかした不始末をわざわざ被ってやったんだ?

「桜井は受験あるやろ?」

「そりゃそうだけど……」

 それは蒲ちゃんだって、一緒のはずだ。

「それなりのところ狙っとるんやろ? それに、それはイノTも分かってるわ」

「は?」

 意味が分からない。蒲ちゃんは何を……。

「あいつ、自慢しとったで廊下で。今年は成績がいい生徒が多いって。ぎょーさんええ高校に送り出せば自分の評価も上がるってな」

 ちっぽけな自尊心プライドやけど、と蒲ちゃんは何事もないように言う。

「あれでも大人や。俺ら怒っても何もないことぐらい分かっとるわ。でもムカつくから謝らせたいだけで。でも桜井は処分したくないねん。自分の評価に関わるから。だからこれで、手打ちにしよってこと」

「何だ、そりゃ……」

 ざっけんな。

「それが蒲ちゃんが俺を庇う理由なのかよ! 蒲ちゃんが損してるだけじゃねーか!」

 まるで態度を崩さない。ずっと、落ち着いたままの蒲ちゃんを見ていて自分の中で黒い、昏い、暗い何かがドンドン膨れ上がって来る。思わず俺は、蒲ちゃんの胸倉を掴んでいた。

 天才の為に馬鹿が土台になるなんて当たり前のことだ。だが、俺は蒲ちゃんの犠牲が、全く嬉しくなかった。

 そんなことを考えていると、俺の手を、しかし振りほどくでもなく、蒲ちゃんは優しく握り返して来た。

「ん~、そうでもないで?」

「――」

「お得やろ? 友達が困らんで済むやん」

 馬鹿だ。

「友達おったら、俺の人生ずっとプラスや」

 笑っている。

「おーっす! 桜井~昨日は大変だったんだよ~。あの後さ~」

 その時、俺らの後ろから呑気な声で矢井田が声を掛けてきた。

「イノTの奴ほんまうぜ~よな~。でも少しスッとしたぜ。いつも自慢していた車だったから……」

 俺は、矢井田をぶん殴った。

「がっ!?」

 矢井田は廊下に一回転して倒れた。

「蒲ちゃんに、感謝しろよ」

 一緒に罪を償ってくれた、友達なんだから。

 俺はそのまま独りで、教室に戻った。


冬。もう受験シーズンは終わりを迎えていた。蒲ちゃんも矢井田も三流の底辺高。俺は学区で二番目にいい高校へと進学が決まった。道はあっさり、分かれた。

 もう一つ上の高校に東高というのがあったのだが、俺はそこへは行かなかった。単純なことをいうと、遠かったのだ。東高は電車通学必須。しかし俺の通う赤城高校は徒歩十分と掛からない。それに……。

「よう、桜井」

 蒲ちゃんは屈託ない笑顔で今日も学校へやって来る。

「よう、蒲ちゃん」

 蒲ちゃんは今日も蒲ちゃんだ。別れても変わらない。

「そういや昨日のアレ、おもろかったな」

「ああ、傑作だったな、イノTのあの顔」

 俺らは昨日の高校の合格発表の日を思い出して笑う。俺の受けた高校の合否ラインスレスレの生徒が一人いた。そう、八神だ。

 あいつの自己採点だと受かるかどうか怪しい、本当にギリギリの点数だったのだ。発表会場にいたあいつのこの世の終わりのような暗い顔と、精通を覚えた猿のような上気した顔のコントラストが忘れられない。八神は俺と同じ高校に何とか滑り込んだのだ。

 そこで俺は一計を案じた。

イノTは八神を心配する風を装って、その実自分の実績しか気にしてない男だ。すんなり報告するなんて面白くない。

「なあ、八神」

「お、桜井!」

 俺に対する警戒よりも嬉しさが勝ったのか、八神は明るい笑顔で返して来た。ケケケ。

「おめでとう。よかったじゃん」

「あ、ありがとう」

 俺の言葉が予想外だったのか、八神はどもった。もじもじしてて気持ち悪い。

「なあ、これから学校戻って報告だろ?」

「え、う、うん」

 そう、学校で待機している担任に報告へ戻らなければならない。心配でより禿げ上がっているだろうイノTのところへ。

「お前さ、後からこいよ。少し遅れて」

「え?」

「だからさ、俺ら合格組が先に学校へ帰るから、ちょっとだけ遅れて入って来いよ。な?」

 出来れば、俯いて。

「いいよ」

「よし、じゃあ後でな」

 俺の言いたいことが八神にも伝わったらしい。八神もイノTのことが嫌いだったからか、あっさりと俺のプランに同意した。

 それも当然だ。あれだけ「お前本当に大丈夫か?」を日々連呼され続けたのだ。少しぐらい仕返ししても許されるってものだ。

「おう、よく頑張ったな!」

 イノTは俺らの報告を職員室の椅子にふんぞり返りながら聞いて満面の笑みでそう返した。そこに、一人暗い顔をした八神が職員室に入って来る。イノTの顔が思い切り曇る。

 俺らは笑いを堪えるのが大変だ。神妙な雰囲気の中、ゆっくりと八神が歩いてくる。あいつ、思ったより演技派じゃねーか。

「……どうだったんだ?」

「……実は」

「いいか、人生ってのは困難の連続だ。一回挫けただけで……」

 イノTが怖い顔で説教を始めた刹那――。

 ――受かりました。

その言葉を聞いた時のイノTの顔の変わりようと言ったらなかった。ゴミを見るような目つきから世界を救った勇者を迎え入れるような顔に変わり、最後は、これは俺の手柄だと言わんばかりのドヤ顔を決める。

 俺らはもう我慢しきれなくて噴き出した。イノTの屑っぷりは職員室にいた全員によく知らしめられた。蒲ちゃんもその時職員室にいて、仲のいい体育教師と談笑して俺らの様子を見ていた。

 こうして、俺らのイノT弄りは幕を閉じた。もう、こいつとは一生関わることもない。ああ、せいせいした。


――卒業式。

 面倒くさい、人生において一ミリも感慨が残らない、大人が満足する為だけの式が終わった後、俺らは連れ立ってカバ公園のカバの置物の上に座っていた。矢井田はもう帰った。今いるのは俺と蒲ちゃんだけだ。

 俺は考えていた。蒲ちゃんを誘ってここまで来たはいいが、何を話そうか。全くノープランだった。……ええい、出たとこ勝負だ。

「なあ蒲ちゃん」

「ん、何?」

「いや、俺ら、友達だよな」

「な~にを今更」

「ああ、今更だよな」

「蒲ちゃん、高校いったら部活は?」

「ん~野球かサッカーやりたいなあ」

「俺は断然サッカーかな。もてそうだし」

「はは、桜井はそのままでももてるやろ~」

「ま~な、あ~早く童貞卒業して~な~。クラスの女子は芋臭いから相手にしたくねえし」

「あ~AVいいの手に入ったけどそっちで我慢する?」

「あ、見る見る。また鑑賞会しよ~ぜ」

 完全に、馬鹿な中学生の会話だった。俺、こんなキャラだったっけ?

 素直に感想を口に出し続けていると、自分がドンドン矮小な人物なんじゃないかと思い込みそうになる。でも、今はこれが楽しい。

「なあ、蒲ちゃん」

「ん?」

「蒲ちゃんはさ、将来何になりたいんだ?」

「ん~。考えたことないな~」

 本当に、何も考えていないような能天気な声だった。

「言うて、なんか考えてないと困らない?」

「だってさ~。友達いれば人生幸せやもん。俺、こっち来て友達増えて嬉しかったんよ。あっちはそんなに親しい奴おらんかったし」

 蒲ちゃんは転校生だ。一人っ子で兄弟もいない。親父さんを一度見かけたが、割と年を食っていた気がする。

「蒲ちゃんに友達少ないとか信じられんけど」

「いやあ、昔は加減分らんかったから」

「あー……」

 成程、乱暴者だったってわけか。本人が意識してないからあれだが。

「こっち来た当初に谷村にそれで恨まれたやん? ちょっとした騒動になって……。でも桜井はそれが誤解だって、俺を庇ってくれて、俺思ったんだ。こいつええ奴やなあって」

 ――だから、友達になりたい思たねん。

 蒲ちゃんはそう言うと空を見上げた。

「ありがとな、桜井」

 違う。

「一生、友達でいてくれると嬉しいわ」

「あれは……」

 蒲ちゃんはいつもの笑顔に、多少の水分を顔に浮かべて俺の手を握る。

 あれは、俺が谷村を嫌いだっただけだ。蒲ちゃんみたいな力が強い奴に恩を売って、傍に置いておけば便利だと思っただけだ。あの頃の俺は、蒲ちゃんを利用していただけだ。

「……ご」

「な! 友達でいてくれるやろ!?」

 手が痛い。俺はその時、蒲ちゃんの顔から笑顔が消えていることに気が付いた。

「蒲……ちゃん?」

「……俺、一人やねん」

 蒲ちゃんが、泣いている。

「俺、ずっとずっと、一人やねん」

 そんなわけはない。蒲ちゃんは何処へ行っても笑っていて、嫌いな奴なんて……。

「俺、貰われっ子や」

「――」

「俺の両親、ほんまのやないねん」

「か……」

 蒲ちゃんが、養子?

「だから、嬉しかったねん。俺を認めてくれて、俺を友達や言うてくれて。俺な、いつもこんな顔して笑ろうてるけど、他にどんな顔してたらええかわからんだけやねん。みんな笑ろうてれば、こんなちっぽけな俺でも付きおうてくれる。だから、だから……」

「蒲ちゃん!」

 俺は、馬鹿だ。

 俺は蒲ちゃんの手を振り払う。そして……。

「俺は天才だ! 将来スゲー大物になる! 蒲ちゃんは、そんな俺と友達だ! だから、蒲ちゃんだってスゲーんだよ! でかくなるんだよ! 身体だけじゃなくて、人間的にも、地位も、何でも!」

 そして、俺から蒲ちゃんの手を握り返した。

「親友だろ! 俺たちは、ずっと」

 蒲ちゃんは、凄い。

「一緒だ、ずっと」

 蒲ちゃんは、天才だ。

「だから、でかくなろうぜ。俺について来いって!」

 俺よりも、ずっと。

 蒲ちゃんの顔は、もういつもの笑顔に戻っていた。俺と蒲ちゃんは、もう一度強く握手をして、カバ公園で別れた。


 高校へ入った俺は、サッカー部に入部した。

 高校自体は進学校だったため、あまり部活自体は強くない。遊び程度、ファッション部活ってところだ。正直女にキャーキャーされる為に入っている奴らの方が多いだろう。

 俺はここでもクラスの人気者だった。悪友と呼べる人間もいくつか出来たし、常にリーダーシップを発揮している。

 ここまで来ると高校の頃に弄って遊んでいた八神のことなどどうでもよくなった。

案の定八神は落ちこぼれた。元々成績がギリギリで入学していたのだから、周りのレベルが上がれば埋もれるのだ。そして、完全にがり勉という特技は劣等感にすり変わり、あいつは勉強すらまともにしなくなってその辺でオタ趣味の友人とあほな話をしている。完全に孤立したクラスの爪弾き者だ。関わるだけ人生の損だ。

「桜井ー、今日はどうすんだ?」

「わり~、今日はパス」

 悪友の誘いを断り俺は一人さっさと下校する。目的地は、カバ公園だ。

「よ、蒲ちゃん!」

「よ、桜井!」

 変わらぬ姿の蒲ちゃんがそこにいた。いや、少し大きくなっただろうか。元が大きすぎたせいか、最近は俺の成長が追いついてきたのか、体格差はなくなってきている。まあ、横幅に関しては圧倒的に蒲ちゃんなのだが。

「忙しいのに、来てくれてありがとな」

「何言ってんだよ蒲ちゃん。俺こそ、な」

 週一の再会を俺と蒲ちゃんは楽しんでいた。

 俺は高校生になったから、とか、時間が合わなくなったから、とか言い訳して友人と没交渉になるような人間じゃない。ちゃんと付き合う人間相手にはしっかり時間を取る。

 それは義務とか義理とかじゃなくて、単純に、楽しいからだ。

「……でさ~、クラスに入ったら天童の奴が女子とキスしてて焦ったぜ」

「うわ~、ようやるなあ、学校なのに」

 学校で起きたこと、クラスの恋愛事情、お互いの近況を語り合い、時間が過ぎていく。

「ええんか、勉強せんで?」

「大丈夫、この後塾だし」

 勉強は変わらずやっている。身体も鍛えている。後は……。

「彼女は出来たか?」

「……んな暇ねーよ」

 そう、時間がない。割とどころか、高校生は忙しかった。もっと遊べると思っていたのだが、やることをやっていると存外時間がない。彼女を作っている奴らはどうやっているのか聞きたいぐらいだった。

「なあ、桜井」

 蒲ちゃんがまるでピンクのでかい象みたいな顔になって俺のほうを見つめてきた。

「俺、好きな子出来たねん」

 思わず休憩がてら飲んでいたカルピスを吹き出した。

「蒲ちゃんが!?」

「なんやそれ、失礼やぞ!」

「あ、ごめんごめん。てか、それ彼女?」

「……ちゃう、まだ付きおうてない」

 ホッと胸を撫でおろしたが、直後に失礼だと思いなおした。別に先を行かれるのが悔しいとか、そういう小さいことを考えてしまったわけではない。決して。

「へえ~、どんな子だよ?」

「……ふつーの子」

「ふ~ん?」

「ふつ~に、可愛い子」

 そう言って蒲ちゃんはスマホの画面を俺に見せてきた。

「うお!? 超美人じゃねーか!? てかタレントかモデルの子か?」

「……ううん、同じクラスの、そのよく……話すっていうか」

 まさに掃き溜めに鶴というか、蒲ちゃんのようなレベルの低い(失礼だが事実)高校にいるべきではない人材だった。

「で、今度デートに誘われたんや」

 今度はカルピスは吹き出さなかったが、代わりに思い切りシュートを外して仰け反った。

「まじで!?」

「……うん、俺、どないしょう?」

「いや、行けよ?」

「行って、ええんかなあ……」

「てか、何を遠慮してんだ? 行って一発決めるだけだろ? 大チャンスじゃん」

「なあ、桜井。付いてきてくれへん?」

「へ?」

 懇願するような顔で蒲ちゃんが俺を見つめてくる。

「馬鹿言うな。デートってのは二人きりでやるもんだろうが」

「あ、いや、向こうも友達連れてくるから、こっちも連れてきてって頼まれたねん」

「……ダブルデートってことか?」

「ん~、いやなんか遊園地のチケットを4枚もろたけど、みたいな話らしいで」

「あ~、そういうこと? う~ん……」

 向こうも恥ずかしがり屋なのだろうか? それともただの友人として誘ってきたのか? 真意が掴めないが、蒲ちゃんを誘うということは少なくとも嫌われてはいない。そんな奴を遊びに誘ったりはしないだろうし。ここは、一肌脱ぐべきか?

「いつだよ?」

「今週末」

「早っ!」

 早すぎるが、特に予定は要れていない。部活の試合もない。

「……いいよ。てか、彼女の友達も美人なんだろうな?」

「ん~……どうやろ、見たことないわ。学外の人間ぽいし」

 美人の友人はそれより不細工と相場は決まっている。写真で横に並んだ時に、自分がより映える人間を傍に置くのが常だ。あまり、期待してはいけないだろう。

「んじゃ、次の日曜日な!」

 俺と蒲ちゃんは予定を決めて別れる。一応俺は帰りに薄いゴムを購入した。念のために、二つ。俺は気が利く友人なのだ。


 日曜日、俺たちは東京ネズミの国にやって来た。快晴だ。そして、暑すぎる。まだ六月なのに真夏のように日差しが照り付けてくる。帽子がなければ致命傷だったに違いない。

デートの基本は相手を待たせないことである。早めに合流した蒲ちゃんと俺は十分前には待ち合わせの駅に到着していた。

「こんにちは~」

「ど、どどどどどうも」

 やって来た彼女たちの姿を見ていきなり蒲ちゃんはどもった。そらそうだ。俺ですら、息を呑んだのだから。

 まるで映画のワンシーンのような、白いワンピース姿におしゃれなつば広の帽子を被り登場した彼女の姿は、それはもう美しかった。

「加納詩織です。よろしくお願いします」

「はあ……どうも」

 気の抜けた返事をしてしまったのはしょうがないと思ってもらいたい。俺だって男子である。美人には弱い。

「こんちゃー!」

「!?」

 彼女の後ろからよくいえばぽっちゃり、悪く言えばボ〇トロールが現れた。

「えーっと……」

「加納美緒です。よろしくぅ~!」

「……あの、妹なんです」

「まじ?」

 思わず失礼なことを言った。いきなりボス〇ロールに睨まれる。やばい、全滅してこのままでは教会行きだ。復活の呪文を唱えて貰う予算は財布にはない。

「そ、それじゃいこっか?」

 ナイスタイミングで蒲ちゃんがそう促した。

「お、おう、行こ! な!」

 俺は鏡で練習を重ねた爽やかイケメンスマイルに切り替えその場を誤魔化す。

 俺はこの怪物の相手か……と思うと気が滅入るのだが、蒲ちゃんの為ならしょうがない。

 蒲ちゃんは先程から耳を真っ赤にして呂律が回ってない。完全に茹でカバだ。

「じゃああれ乗ろうぜ!」

 自然と俺がリードする形になる。蒲ちゃんは緊張しすぎて置物だし、詩織さんは終始笑って黙っているし、ボスト……美緒と言えば、同じ穴から産まれたとは思えないほど落ち着きがなかった。つーかぶっちゃけ煩過ぎた。

「なんだあの屑……」

 俺は苛立ち紛れに自販機のボタンを叩く。理由は美緒だ。

 自分の好きな物の話ばかり(やれジャニだの、少女アニメだの、昨日みたドラマだの)しやがって場を盛り下げやがる。ああいう女には八神こそがお似合いだ。いますぐゴミ箱に捨てて俺らだけで行動したい。

「あの、ごめんなさい」

「へ!?」

 俺のすぐ後ろに詩織さんが来ていた。

「妹のこと、嫌でしょう?」

「え、いや、別にそんなことは……」

 どうしよう? 上手く誤魔化さないと蒲ちゃんの友人として失点になってしまう。

「隠さなくていいです。見てれば分かります。ず~っと、妹と目も合わせないし、それに」

 彼女に指さされた握り拳を俺は急いで開く。すると彼女は俺に微笑んだ。

「ごめんなさい。空気の読めない妹で……」

「いや、うん……。そうだね。ちょっとはしゃぎ過ぎだわな」

 見抜かれているならしょうがない。俺は率直な感想を述べる。

「ええ、ほんと、はしゃぎ過ぎて困ります。いくら、一目惚れだといっても……」

「は?」

 俺に!? いやそれは勘弁して……。

「蒲ちゃんのことが、好きなんだそうです」

「それも駄目だ!」

 思わず出してしまった俺の大声に彼女は目が点になって俺を見た。

「……いや、つーか、どういうこと?」

「私の学校の話を妹にしていたら、蒲ちゃんの話になって……。それで写真を見せたら、その……デートがしたいって」

 何という、残酷な真実だ。俺は頭を思わず抱える。

「妹曰く、とある漫画のキャラにそっくりだそうで……。一回会わせてってずっと言われて、それで……どうしても断り切れず……」

 困り果てた、という顔を彼女はしていた。天気と真逆のどんより雲が俺と彼女の傍にだけ降りてきていた。

「えーと、ぶっちゃけ聞くけど。蒲ちゃんのこと、どう思ってんの?」

「え? いや、楽しい友人の一人、ですけど」

 チーン。蒲ちゃん、脂肪、じゃない死亡確認。

「……それで、私と妹と蒲ちゃんだけだとバランスが悪いので、もう一人呼べって妹が言い出しまして、それで、桜井さんに……」

 申し訳なさが彼女の全身から溢れ出ている。この際だ、俺の方からもしたい質問をしてしまうことにする。無礼を働かれたのだから、こちらの多少の無礼も許されるはずだ。

「あ~気を悪くしたらごめんな。そもそもなんで君、あんな学校にいるの? 頭悪いの? そうは見えないんだけど?」

「……あの、受験の日に、その……体調を崩してしまって」

 話を聞くと、彼女は受験の日に大風邪を引き、希望の都立を受けれなかったらしい。その高校は俺の通っている赤城高校だった。

「それで、治った後の滑り止めの私立の日程がそこしかなくて……仕方なく進学したんですけど」

「それは、ご愁傷様です……」

 思わず彼女のトラウマを抉ってしまった。

「……でも、蒲ちゃんがいてくれてよかったです」

 そう言うと彼女は笑みを浮かべた。

「落ち込んでいたんですけど、蒲ちゃんが親身に話を聞いてくれて癒されました。おかげで、ここでも大丈夫だって思えましたから」

 ナイス蒲ちゃん。そう、俺の友人は他人を和ませることに関しては天下一品だ。

「あの、ライン交換して下さいますか?」

「へ?」

「いえ、私の進学したかった高校に通っている友人がいると聞いて、私も貴方とお話してみたかったんです。それで、今後の大学選びとか、そういうご相談出来たらなって」

 ……断るべきか、一瞬躊躇した。正直、この流れはまずい、と直感的に、というか下半身的に判断した。下手をすると俺と蒲ちゃんの友情が崩壊する。そんな気しかしないのだ。

「あ、うん、OK」

 すまん蒲ちゃん。彼女の微笑みに負けて俺はラインを交換した。昔から、女性には男は勝てないのだ。だってそこに、穴があるから。

「おーい!?」

 俺ら二人が戻ると、待っていたはずの観覧車の前に既に蒲ちゃんの姿がない。そして、ボストロー〇の姿もない。

 俺は急いでラインで蒲ちゃんにどこにいるのか訊ねる。既読は付かず、俺はどうしようかと天を仰いだ。すると……。

「あ?」

 上の、観覧車の席に座る見覚えのあるシルエット。どうみても、蒲ちゃんと美緒だ。

「あれ……二人だよなあ」

「そうですね……仲良くしてるといいな」

 いや、蒲ちゃん的には罰ゲームだろう。しかし救い出す手立てはない。俺は事の成り行きをここで見守るしか出来ない。

「私たちも乗りましょうか?」

「え、いや~でも……」

「待っているだけじゃあれですし。それにこれ、一周20分も掛かりますよ?」

 今からだと蒲ちゃんも戻って来るのに15分ぐらい掛かる。時間を潰すなら確かに俺たちも乗るのが最適かもしれないが……。

「さ、行きましょう!」

「え!?」

 俺は彼女に腕を取られ引きずられるように観覧車へ向かう。案外この子、積極的!?

 そしてこの観覧車が色んな命運を分けた。その日、俺と蒲ちゃんはもう会うことは無かったのだ。

――後日。どうやらあの後蒲ちゃんはずっとボストロ〇ルに付き合わされてネズミの国を回り続けていたらしい、ということを詩織さんのメールで知らされた。

俺も蒲ちゃんに詳細を訊ねたのだが「楽しかったよ」の一言ではぐらかされたのだ。

 俺と詩織さんのことは、当然蒲ちゃんには内緒だった。俺の方から詩織さんとどうこう、とかはない。これは神と友人に誓って本当だ。だけど、彼女からの問いかけに関しては大目に見て欲しい。俺は彼女とメル友になった。本当に、それだけだ。今は、まだ。

 その後、目立った変化は俺たちの間には起きなかった。

「災難だったな」「そうでもないよ」「何かされなかった?」「んにゃ、なんも?」……まるで暖簾に腕押しだった。会話としては成立しているのだが、肝心のことは何も教えてくれない。そのうち俺は、訊ねること自体を諦めた。蒲ちゃんが言いたくないなら聞かないのがマナーかもしれない。

 気がかりなのは、蒲ちゃんの口からもう詩織さんの話が聞けなくなったことだ。もう諦めたのか、それとも……。

『今度、花火に行きません?』

 そう詩織さんからメールを受け取ったのは夏休みの終わりかけの時だった。

『蒲ちゃんも?』と聞き返した俺だったが、彼女からの反応は『いえ、二人きりで……。ご迷惑ですか?』というものだった。

 当然俺は躊躇した。蒲ちゃんとのことがあったからだ。これは一般的に見たらデートの誘いに他ならない。

 ――まさか、本当に俺のことを?

 彼女にするなら詩織さんはまさにうってつけだった。美男美女の、お似合いカップル。この俺の脱童貞に相応しいだけの容姿を兼ね備えている。いつもの俺なら、喜んで飛びつくだろう。しかし……。

『悪い。その日は予定が』

 その文章を送ろうとして、俺の指は止まる。千載一遇のチャンスだ。逃す手はない。だけど、俺の指は盛りのついた犬のアレの様に固まったまま動かない。

 その時だった。蒲ちゃんから電話が掛かって来たのは。

「うわっ……。な、何だ蒲ちゃん?」

「うっす。桜井……今、平気?」

「あ、ああ……」

 蒲ちゃんの声を聴いて俺の心臓は早鐘を打つ。まるで、何かを咎められたような気分になった。

「なあ、花火いかへん?」

「――」

 まるで、悪いことを見抜かれたような、そんなタイミングでの提案に、俺は座っていた椅子から転げ落ちそうになる。

「どした、桜井?」

「い、いや――」

「都合、悪いんか?」

「そ、そうだな……」

「なんや、先約か?」

「う、うんまあ……。あ! でも蒲ちゃんと一緒に行くわ。誘ってきた向こうは断るから……」

「あかん。それはそっちに行き」

 渡りに船。これを彼女の誘いを断る口実にしようとした矢先に、蒲ちゃんが先に引いてしまった。

「え、いやでもまだ正式に返事してないから……」

「ちゃう、こういうのは早い遅いや。他人の約束に優先順位つけてたらあかん。それこそ誘ってくれた奴に失礼や。そっち行き」

「で、でもな、蒲ちゃん――」

「ええねん。またな」

 プツッと通話が切れる。

 俺は、目の前に提示された二つの道を前にして、立ち尽くすことになった。

 どっちにしろ、蒲ちゃんの気持ちを裏切ることになるのだから。


 夏が終わった。

 夏休みの最後、俺は結局花火に行った。

 彼女は、綺麗だった。

 何があったとか、何もなかったとか、そんなことはどうでもいい。もっと大事なことが俺の心に圧し掛かっていたからだ。

俺は蒲ちゃんと話せずにいた。あれ以来、ずっと。

俺のメールボックスには詩織からのメールばかりが溜まっていく。でも、蒲ちゃんからのメールはあれ以来、ゼロのままだ。

「なあ、詩織」

「なあに? 猛くん」

 俺らは名前で呼び合う。学校帰りに俺たちは待ち合わせてマックに入ってだべっている。

「なあ、妹さんのほう、どうなんだ?」

「え、美緒のこと?」

「そう、ほら……蒲ちゃんとの……」

 あれから二人がどうなったのか、俺は何も情報を持っていない。今まで聞く機会はあったのだが、ついぞ聞けず仕舞いだった話題にようやく俺は踏み込んだ。

「ん~、何もないと思うよ? もう美緒、別のものに嵌ってるみたいだし」

「あ、そうなの?」

 心の中で安堵する。それは、蒲ちゃんが穢されてないからか、それとも俺の罪悪感が少し薄らいだからなのか……。

「最近、蒲ちゃんどうなの?」

「え? いつも通りだけど……」

 何でそんなことを聞くの? という風に彼女は俺の顔を覗き込む。

「今は、彼女のことだけ考えてよ、もう」

「ご、ごめんな」

 俺はそう言って顔を膨らませた彼女の頬をツン、と突っつく。そうすると彼女の笑顔が風船のように弾けた。それ以上、俺は蒲ちゃんのことが聞けなかった。

「ね、この後どうする?」

「わりぃ、その、今日は帰るわ」

「え~?」

 ぶーたれる彼女に俺は愛想笑いをして席を外す。

 駄目だ、このままじゃ。俺は意を決して、蒲ちゃんへメールした。呼び出しに関する蒲ちゃんからの返事は、物凄く簡単だった。

『ええよ』これだけだ。


 夜のカバ公園。俺は一人、カバの置物に座っている。

 いつも隣にはいたはずのもう一匹のカバが、今はいない。

 会わなくなって二ヶ月。声を聴かなくなってひと月半。たったこれだけなのに、随分と会っていない気がする。

 蒲ちゃんはまだ来ない。正直、この後の事には不安しかなかった。

 蒲ちゃんに本当のことを言う。それは確定だ。いい加減こんな後ろめたい気持ちを抱えているのも限界だった。

 キキッ、と自転車が止まる音がする。俺はそっちを向くと――。

「あ?」

「あ、おう」

 そこには俺の待ちわびている友人の姿は無かった。

「何してんだ、八神」

「それは俺の科白じゃないの? お前こそ何してんだよ?」

 八神が間抜け面を俺の前に晒していた。

「何でもねーよ。蒲ちゃん待ってんだ」

「あ、そう。あ、俺は単に遊んだ帰りだから」

 興味なさそうに八神は自転車を走らせようとする。んだよ、わざわざ自転車止めて俺を確認したくせにスルーか?

 むかついた俺は、八神に意地悪な質問をしてやることにした。

「お前、彼女出来たのか?」

「はぁ?」

「出来たのか? 夏休みも終わったしよ。遊んでたら普通出来るだろ?」

「……いないよ」

 期待通りの答えだ。

「ほーん? じゃあ、俺の彼女見る?」

「……へぇ」

 八神は胸を反らして虚勢を張る。本当か、訝しんでいる様子も見て取れる。

「ほら、見せてやるって。これこれ」

 俺は詩織の写真をスマホの画面に映し出す。ほら驚けよ、童貞。

 期待通り、八神は瞳を大きく見開く。

「……これ、桜井の彼女?」

「おう。どうよ、美人だろ?」

「……ああ、うん」

 八神は何か、奥歯にものが挟まったような言い方をする。それが俺の癇に障った。

「おめ~も勉強ばかりじゃなくて、少し遊んだら? がり勉くん」

 八神がもう勉強をあまりしていないことはよく分かっている。落ちこぼれた上に彼女もいない。本当にただの落伍者だ。ほら、羨め。

「……ちょっと、驚いた」

「……そーだろ? 美人だしよ」

 何だ、素直な感想も言えるじゃねえか。

「ああ、お前が加納さんと付き合ってるとは、思わなかった」

 その一言に、今度は俺が瞳を開く番だった。

「……詩織のこと、知ってんのか?」

「知ってる……っていうか、同級生だったし」

「あ?」

 何だって?

「桜井は俺と小学校違うから知らないだろうけど、この子は俺の元同級生だよ」

 その一言はワンダーランドに飛び立っていた俺の心を一瞬で現実へ引き戻した。

「……そっか、知り合いか。じゃあ、羨ましかったりするか?」

 八神の様子を窺う。どうも、羨ましい、という雰囲気じゃない。何か、言い辛そうにしているのが奴の表情から読み取れる。何だ? 何を隠してやがる?

「言えよ。何か言いたそうじゃねえか」

 俺のドスの聞いた声に気圧されたかのように八神の口が開く。

「いや……噂だよ?」

「いいから」

「別に、君の彼女を貶めたいとかじゃないからね?」

 散々前置きをして、ようやく八神は語りだした。

「彼女は私立の中学へ行ったんだけど……」

語り終えた八神の面を、俺はぶん殴りそうになった。しかし、奴のその余りにも申し訳なさそうな小動物みたいにオドオドした態度を見て、俺はその気が失せてしまった。

「行けよ」

「あ、うん……」

 俺の言葉に八神はさっさと自転車に乗ってその場を去っていく。

 俺は、蒲ちゃんが来るのを待たずに、蒲ちゃんの家まで駆け出していた。


「何や、もういこ思てたのに」

 蒲ちゃんのマンションの部屋のベルを鳴らそうとした直後に、蒲ちゃんと俺は鉢合わせた。一生会えないかもと思っていた蒲ちゃんとの再会は、意外にもあっさりだった。

「ごめん!」

「何や、藪から棒に」

「いいから、まず謝らせてくれ」

 俺は蒲ちゃんの前に土下座する。

「やめえ。何や、そんなこと友達の間に必要ないやろ」

 蒲ちゃんは俺をすぐに両手で持ち上げて、立たせる。

「ここじゃ何やから、外でな」

 俺は、蒲ちゃんの後ろをついていく。いつもと、まるで逆の光景だった。

「ここでええやろ」

 ここはカバ公園ではなく、蒲ちゃんの家の目の前にある中高一貫校の校庭だった。

 門扉はあるが、あっさり乗り越えられる。警備員もいないし、夜中にここで蒲ちゃんとサッカーに興じたことも一度や二度ではない。要するに、邪魔は入らないってことだ。

「で、何やの?」

 蒲ちゃんはいつもと――最後に会った時と変わらぬ態度で俺の前に立っている。

 悩んでいてもしょうがない。もう、破れかぶれだった。

「俺、詩織と付き合ってる」

 その一言に、蒲ちゃんは、細い目をちょっとだけ丸くした。

「ごめん。蒲ちゃんが詩織……いや加納さんのこと好きだって聞いてたのに……」

 蒲ちゃんは腹を掻いて何も言わない。どうしようか、と迷っている様な感じだった。

「殴ってくれても構わない。俺、蒲ちゃんに……」

「……ああ、ええねんもう」

 蒲ちゃんはため息をついて、首を横に振る。

「それが連絡来ない理由なん、知っとったし」

「え?」

「分かるて。まあ、友人やからな」

 蒲ちゃんは言い辛そうにしている。その姿が、先程の八神の姿とダブる。つまり……そういうこと、なのだろう。

「知ってるんだよな。蒲ちゃんも」

「え!? ……あ、ううん……」

 蒲ちゃんの反応は露骨だった。何処を向けば良いか分からないかのように、視線が虚空を彷徨い続けている。

「さっき、八神の糞ヤローに聞いたよ、詩織のこと」

 その一言に、蒲ちゃんの旅立っていた視線がようやく俺に帰って来た。

「そやね、言えへんかったからなあ……」

 蒲ちゃんは、ぽつぽつと、このひと月半の出来事を語りだした。

 二学期になると、詩織はもう不登校になっていた。ほぼ学校にはおらずに、日中は外で遊びまくっている、と学内の友人の目撃談で知ったという。そして……その傍には俺じゃない、男と一緒にいた、とも。

「狭い学区内の話やから、桜井が詩織ちゃんと一緒にいるって話も聞いとった。それはそれで、別に友達が幸せになるならええねん。でも……どうもそんな雰囲気やないから」

 だから、蒲ちゃんは詩織の妹、と言っていた彼女と連絡を取って、色々探り始めたらしい。そして、分かったことは……。

「妹でも何でもなかったねん。ただの遊び友達で、金で雇われたって。学歴高い彼氏もキープしときたいって、頼まれた言うてた」

 つまり……あのデートは最初から詩織に仕組まれていた、ということだ。

「八神が、正しかった、ってことか……」

 八神は言っていた。中学に入って暫くして、加納詩織は夜の街で遊ぶようになった、と。

 パパ、と呼べるくらいの年上の男性と一緒にいて、夜な夜なホテル街にいた、という噂が立っていた、と。同じ中学に進学した元クラスメートの女子の情報網から流れてきたというその噂を八神はキャッチしていた。どうやら当時、八神も詩織のことが好きだったようで、その話をずっと覚えていたのだそうだ。

「ごめんな、桜井。俺、言い出せなくて、どうするか悩んでたねん。それに、噂は噂や思て、自分の目で確かめるまでは……って」

 だから、蒲ちゃんからの連絡も無くなっていたのだ。蒲ちゃんは蒲ちゃんで、苦しんでいたのだ。

 俺は、徐に電話を掛け始めた。

「桜井?」

「あ、もしもし、詩織?」

 会話はスピーカーホンにしてあった。

「なあに? 猛くん」

 艶めかしい声。俺の、好きだった声。

「ふざけんな、この糞ビッチ」

「え!? な、何言ってるの、猛くん?」

「全部知ってるぞ。お前が俺以外の男と寝てんの」

「ちょ、酷い! 私は猛くんだけ……」

 俺は、スマホを蒲ちゃんの方へ向ける。

「……ごめんな、詩織ちゃん。全部、美緒さんから聞いた」

「!!!!!!」

 声にならない声がスマホからでも聞こえた。

 小さく「あの糞女」という呟きを俺は聞き逃さなかった。

「つーわけだ、死ね。このド腐されマン〇!」

 俺はそう言うと一方的に通話を切った。切った直後に俺は自分の面を、自分の拳で思い切り打ち付けた。

「桜井!?」

 俺は、何度も、何度も、自分の顔を打つ。自分で、自分が許せなかったから。

「やめい!」

 蒲ちゃんが俺の両手を強く握る。

「うわああああああああああああああ!」

 暗闇に俺の声が吸い込まれる。ちっぽけな俺を、嗤うように。

 どれだけ、時間が経ったろうか?気が付けば、蒲ちゃんは俺を抱き留めている。

「……離れろよ。蒲ちゃん」

「嫌や」

「俺、ホモじゃねーし」

「分かっとる」

「つーか、キモイ」

「かもしれん」

「なら、離せよ」

「もう、殴らんと約束し?」

「……嫌だ」

「何で、自分を傷つけるねん」

「許せねえもん。俺、蒲ちゃんを、傷つけた」

 嘘だ。それ以外の理由があることに、冷静になってきた自分はもう気が付いていた。

「傷ついてへん。だから、止めや」

 傷ついているのは、俺の、自尊心だ。

 あほな女の、中身のないゴミの様な女で筆おろしをしてしまった自分に。

 あほな女の策略のせいで振り回されて、友人をないがしろにしてしまった自分に。

 これすらも、俺のポーズだ。崩壊しそうになる自分の、かっこいいはずの自分を保つための、ただのポーズだ。

 俺は、狡い。そんな自分が、途轍もなく、途方もなく、くだらない存在に思えてくる。

「なら、泣けや」

「……あ?」

「泣いたらええ。意地張るのもきついやろ?」

「……馬鹿言ってんじゃ……」

 滲む。

「俺は、天才、桜井猛様……」

 歪む。

「失敗なんて、誰でもするがな」

 壊れる。

「あああああああああああアアアアアアア!」

 俺はこの日、蒲ちゃんの前でだけ、天才を辞めた。


「なあ、蒲ちゃん」

「何や、桜井?」

 夜空を眺めながら、俺たちは二人きりの空間に寝そべる。

「将来、何になりたい?」

「何や、またそれか」

 他に言葉が出てこなかったのだ。今は、あの糞女のことや、あほなクラスメートの会話を二人の間に噛ませたくなかった。

「調理師……かな」

「へ?」

 蒲ちゃんは、さらっと自分と将来の夢を俺に伝えた。

「いつ、決めたん?」

「最近やな。どうせ俺の学力じゃ大学はあかんし。好きなこと言うたら食べることや。それで最近は料理に凝っててな。どうせなら、自分でやろ思て」

 おかしいか? そう付け加えた蒲ちゃんに、俺は激しく首を横に振る。

「ぜってー美味いわ。今度俺も食わせてくれ。蒲ちゃんの、料理」

「はは、まだ卵焼きくらいしか出来へんぞ」

 蒲ちゃんはフライパンを振るような動作をする。

「桜井は?」

「……俺は」

どこかの六大学に入って、いい会社に入る。それぐらいしか、考えていなかった。俺には、夢と言えるようなものはない。ただ、才能だけがあって、これがあれば、何処へ行っても上手く行くだろうという、漠然とした自信しかなかった。

「大学行って、のんびり決めるさ。だって、先は長いんだし」

「そうやな。これから先はまだまだ長いな」

「ああ、俺たちの友情もな」

 気が付けば俺と蒲ちゃんは固く手を握り合っていた。

「ホモじゃねーからな。後、童貞でもねーし」

「はは、知っとる。知っとる」

 笑う。ただ、笑う。

 俺たちの未来を祝うように。

 俺たちの友情を祝うように。

 そんなものが永遠でないと、神様がたとえ、嗤っていたとしても。


 俺は大学に進学した。当然の様に現役、ちゃんと六大学だ。

 同じ進学先の友人はおらず、俺は完全に一人だ。だが、別に寂しくは無かった。

 浪人組も多い。八神も含めクラスの悪友どもも揃って浪人だ。

 あいつらは卒業式の日に代表の言葉でしでかした悪ふざけのせいで、教育委員会にまでいく不祥事を起こしていたのだ。

 卒業生代表の言葉の出だしで『朕は』などと宣い、天皇の真似をしたのだ。

 周りもそれを面白がり、囃し立てる。当然式は大混乱だ。

 俺らは爆笑だったが、偉い人はお冠だ。後で冷静に考えれば如何に馬鹿なことをしたのかよく分かる。責任は副校長が取ったらしいが、本当に災難だったと思う。俺らの世代は、奇跡的な馬鹿が揃った『逆奇跡の世代』だった。そりゃあ浪人も多いわけだ。

 新しい彼女も出来た。今度は前回の失敗を踏まえてしっかりリサーチした。正直言って俺に相応しい、いい子だ。

 蒲ちゃんは卒業後に板前の修業に出た。毎日どやされながら、元気に働いてるらしい。

 偶に俺と蒲ちゃんはサッカーをする。しかし、その頻度は明らかに減っていた。そりゃあ当然だ。向こうは社会人。俺は大学生だ。生活のリズムも違うし、自由な時間も違う。何もかもが違うから、会えないほうが普通なのだ。

 でも、別に寂しくはない。向こうは向こうでしっかりやっていることを知っているし、俺は俺で自分の時間を謳歌する。それで、偶に会う。飲む。遊ぶ。語り合う。それで充分、楽しかった。

「なあ、桜井」

「何だ、蒲ちゃん?」

 居酒屋で二人飲んでいる時に、珍しく蒲ちゃんから質問して来た。

「今日は、俺が奢るわ」

「は? いや、そりゃ有難いけど……何で?」

「いや、俺今日給料日やねん。ようやく見習い期間終わったし、まともな金もろたから」

「いやいや、試用期間でも給料貰うの普通でしょ? ブラックじゃね?」

「しゃーないやん。俺沢山皿割ったし、使い物にならん素人に金払うほうがきつない?」

「いやいや、その考え方こそが駄目っしょ? ちゃんと労働基準法ってもんが……」

 まったく、この鷹揚さで社会を上手く渡って行けるのか心配になる。

「んで、これも」

「あ? 何これ?」

 蒲ちゃんは俺に白い包みを渡す。

「開けてみ」

 促されるまま包みを解くと、中から俺の好きなサッカークラブの帽子が出てきた。

「やるわ。俺からのプレゼントや」

「……サンキュ」

 断るのも、理由を聞くのも野暮だった。蒲ちゃんは、初めての給与で俺にこれを上げたかったのだ。その気持ちを推し量ることすら、何か失礼な気がした。俺は、素直にそれを受け取り、被る。

「……それは?」

 もう一つ、大きな包みが蒲ちゃんのトートバッグからはみ出ていることに気が付いた。

「あ、これはかーちゃんと、とーちゃんの」

 蒲ちゃんの両親の分か。

「へぇ。喜んでくれるといいな」

「せやな」

 そう言って蒲ちゃんははにかむ。その光景は、とても幸せそうだった。


 店を出て、俺と蒲ちゃんは蒲ちゃんの実家のマンションまで歩いていた。

 金曜日の深夜、明日、蒲ちゃんは店が定休日で休みだ。俺と飲んだ足で、そのまま実家の両親にプレゼントを渡しに行き、泊まるつもりらしい。

 もう人通りも少ない。喧騒から離れ、長い、蒲ちゃんの実家に至る直線道路を歩いていた時だった。

「おとーちゃん?」

 道にワンカップを片手に寝そべっている男に蒲ちゃんは声を掛ける。それは幾度か見たことがある、蒲ちゃんの父親だった。

「んだぁ? てめぇ……」

「てめぇ、やない。息子やで、とーちゃん」

 そう言うと蒲ちゃんは父親を担ぎ上げる。

「離せや! こら! 泥棒! 人さらい!」

「暴れたらあかんで、ほら危ないし」

 蒲ちゃんは暴れる父親を担いだまま歩き出す。しかし、その時――。

 ガシャン!

「あ!」

 暴れる父親の飲んでいた酒のガラス瓶が、蒲ちゃんの頭に打ち付けられる。

「蒲ちゃん! 大丈夫か!?」

 その場に蒲ちゃんは蹲る。頭からは、血が――。

「何しやがるこの――」

 思わず激高し、拳を振り上げた俺だったが、蒲ちゃんに手で制止させられた。

「ええ、かすり傷や」

「んなっ、そういう問題じゃねぇって……」

「行くで、とーちゃん」

 何事も無かったかのように、蒲ちゃんはその場でへたり込んでいる父親の手を引き、起こす。しかし、父親はその手を振り払う。

「てめぇーなんか、俺の本当のガキじゃねえ! 何息子面してんだ!」

「ふざけんな!」

「桜井!」

 俺は我慢ならずにそいつの胸倉を掴む。

「んだてめぇ……。ああ……この糞ガキの友達だとかいう糞じゃねえか。仲良く糞でもして来たのか、糞同士」

「この……」

 しかし、俺の振り上げた拳はまたしても空を切る。

「ふざけんなや! 俺の友達やぞ!」

 蒲ちゃんが、自分の父親をベアハッグの様に締め上げていた。

「てめぇ、何しやがる! ……あ、ぐあ……」

「や、やめろ! 蒲ちゃん!」

 今度は俺が止める番だった。明らかに意識を失いつつある父親に、俺は危機感を覚えた。

 蒲ちゃんの手から力が抜け、父親が地面に崩れ落ちる。

「あ……」

 俺は崩れ落ちたそいつの呼吸を見る。……大丈夫、息はしている。

「気絶しただけ……っぽいな。運ぼう」

 しかし、蒲ちゃんはカーネルサンダース人形の様に両手を広げたまま動かない。まるで、蝋に塗り固められてしまったかのように。

「蒲ちゃん!」

「あ……う、うん」

 俺の強い口調に漸く反応した蒲ちゃんと共に、実家のマンションに父親を運び入れた。

「これで、よし」

 俺らは布団を敷いた上に父親を寝かせた。

「すいません、夜分に」

「……いえ、ごめんなさいね」

 蒲ちゃんのお母さんは、申し訳なさそうに俺に謝る。大分年老いたな、と素直に思った。

 出会った頃は年の差カップルで、夫は高齢だが、妻はまだそこそこの若さ、みたいな家庭だった。しかし今は気苦労が彼女を老いさせたのか、あまりその差を感じない。

「どうしたんですか、この……蒲ちゃんの親父さんは」

「……仕事、首になってね」

「かーちゃん」

 咎めるような声が蒲ちゃんから発せられる。

「ああ、ごめん。聞かないほうがいいか?」

「……いや。もうええわ」

 蒲ちゃんは頭を振って手で先を促した。

「元々うちは、子供が出来ないから、子供を貰うことにしたんよ。あの人も、反対せんかった。『俺が働いて養うから、全部心配すんな』って言ってくれて、こんな私でも受け入れてくれて……。でも、最近は……」

 足を、悪くしてね。

 そう言って蒲ちゃんの父親の足を指さす。

 酒で足元が覚束ないのかと思っていたが、どうやらそれ以外にも原因があったらしい。

「働けないストレスと、亮に、息子に養って貰うかもっていう状況が、すっごく嫌だったみたい。当たり散らすようになって……」

 深いため息を彼女はつく。

「何を言われたか知らんけど、きっと本心じゃないから、気にしたらあかんよ、亮?」

「分かっとるよ。かーちゃん」

 蒲ちゃんは自分で頭に包帯を巻き終え、こちらに向き直っていた。

「大丈夫。何があっても、俺が二人とも守って見せるわ」

 それと、はいこれ。

 そう言って蒲ちゃんは包みを母親に渡した。彼女は少し戸惑った後、恭しく、それを受け取った。


 俺は一人、夜の暗闇の中を歩く。

 考えていた。蒲ちゃんのことを。

 蒲ちゃんの家庭のことを。蒲ちゃんの、これからのことを。でも、俺に出来ることはあまりないことに気が付くのにそれほど時間を要しなかった。

 蒲ちゃんが、何とかしなければいけない問題。部外者の俺が、軽々しく口を挟んではいけない問題。仮に、友人だからとして踏み込んではいけない問題。蒲ちゃんは最初、俺に聞かせるのを躊躇った。つまり、そういうことなのだ。一緒にいると思っていた。ずっと、親友だと思っていた。それでも、踏み込めない領域があるんだと、何となく察した。

 だから、不安に思うことを、俺は止めた。心配することを、俺は止めた。蒲ちゃんなら、きっと何とかする。もし、どうしようもなくなったら、きっと蒲ちゃんから助けを乞われるから。

だから今は、蒲ちゃんを信用しよう。あいつは、俺の最も信頼する、最も大好きな、友人なのだから。

でも、現実はそれを遥かに凌駕するんだということを俺はまだ知らなかった。それは俺があの父親の言うように、ガキだったからだ。


 俺は結局、その後忙しくなった(試用期間が終わり、本修行が大変らしい)蒲ちゃんとあまり会えない日々を過ごした。俺の方も課題が大量に出され、それを潰すことで忙しくなった。

 気が付けば半年以上、俺は蒲ちゃんに会っていない。連絡は取っている。主にメールばかりだが、繋がっていることを確認するかのように、俺はメールを送り続けた。そんな、ある日――。

「ここか」

 蒲ちゃんの働く料理店に、俺はこの日やって来た。木枯らしの吹く季節。温かい物が美味しい季節に。夕暮れ時、まだ客が多くない時間帯に、俺は店の門を叩く。

「驚くかな……」

 店には今まで一度も来訪したことはない。恥ずかしいからあんま来んといて、とは言われていたが、はっきりと禁止はされていない。

 顔を合わせても話しかけることは出来ないだろうが、顔を見るだけで安心出来るものだ。

「お、うめえ」

 俺は供された天ぷらを口に放り込む。カリカリとよく揚がっており、味も上々だ。

ここが自分の家の近くなら通ったかもしれないな、と思うが如何せん駅5つ分は遠い。

「……いねえな」

 店内を見渡しても蒲ちゃんの姿が見えない。

厨房に引っ込んでいるのかとカウンター奥の厨房を覗いてみるが知らない顔ばかりだ。

「まだ、追い回しって奴だっけか?」

 見習いの蒲ちゃんは裏で何か作業させられているのかもしれない。会えるかもしれない、と思ってやって来た俺の期待感で満たされた心は急速に萎んでいく。

「しゃーねえな……」

 ここで店の人間に声を掛けて様子を聞いても迷惑だろう。蒲ちゃんが下手に修行先の人間にそんなことで目を付けられても敵わない。

 俺は最後のお茶を啜りながら、ぼーっとそんなことを考えていた。

 その時、他の客の会話が俺の耳に聞こえてきた。

「なあ、あの子いねえのか?」

「あの子、ってどいつのことですかい?」

 何やら会社の重役っぽい年の爺がカウンター越しの初老の男に話し掛けている。

「ほら、あの人懐っこそうなあの坊主だよ。でかい、肥った」

 蒲ちゃんだ。俺は会話の内容からすぐにそう推察した。

「あいつ、接客はなってねえし、よくどやされてたけど、なんかこう、見てると憎めなくてなあ。孫見てるみて~で」

「……」

 親方らしき人物は、無言でその爺の会話を聞きながら作業を続けている。

「失敗ばっかで使い物にならねえって俺も思ったんだが、でも、つい許しちまうんだよな。あいつの笑顔見てっと」

 よく分かってるじゃねえか、爺。俺の友人の良さが。老害だなんだって叩かれる世代だが、俺はこの爺に好感を持つ。

「この間のあれ、あいつがお通し作ったんだろ? いい味だったぜ。大事に育ててやれよ。いい料理人になるからよ」

 親方は黙ったまま答えない。おい、何とか言えや。てめーの口から蒲ちゃんをどう思っているか、聞きてえんだよ。

 俺は気が付けば拳を握っていた。しかし、次の言葉は、俺の予想外の代物だった。

「……辞めましたよ。あいつは」

「あ?」

 聞き間違いではないかと俺は思わず身を乗り出した。同じように「え~?」と言って爺も身を捩る。

「どういうことだよ」

「お客さん?」

 気が付けば俺はカウンター奥の親方に食って掛かっていた。

 んなわけはない。蒲ちゃんが、あいつが、勝手にそんな放り出すような真似をするわけがない。こいつは嘘つきだ。きっと、何か蒲ちゃんに因縁をつけて辞めさせたに違いない。

「俺の友達に、何しやがった」

「……蒲の、友達かい」

「そうだ。あいつの親友だ。だから分かる。あいつが仕事投げ出すわけねーって。てめー蒲ちゃんに何しやがった!?」

 俺の剣幕に店内がどよめく。

「お、お客さん……」

 着物姿の仲居が俺を宥める様に近づいてくるが、知ったことではない。

「なあ、説明しろや」

「……外へ、どうぞ」

 厨房から出てきた親方は俺を促すように先に玄関から出ていく。俺はその後をすぐに追い、店の横の路地に入る。奴は俺に向き直る。

「……何も、聞かされてないんで?」

 その物言いに何か無性に腹が立った。

「悪りぃか!? 蒲ちゃんだって友達に言い辛いことぐらいあるだろ! 一体何をしたらあいつを辞めさせるなんて話になるんだよ! あいつは……あいつは親想いで、周りに迷惑掛けるのが嫌いで、本当に、本当に良い奴なんだよ! それをてめー、何しやがった!?」

 返答によってはぶん殴ってやる。本気でそう思っていた。

「辞めるって言ったのは、あいつからです」

「嘘つけ! そんなこと……」

 もう俺は飛びかかる寸前だった。しかし、それは親方の次の言葉で未然に防がれた。

「あいつは、病気だそうです」

「……あ?」

 何だ。今、こいつ、何て言った?

「あいつは今月初めに店で倒れました。そのまま入院して、検査した結果、今週末に連絡があって『店を辞めます』と言ってきました」

 何だ、それ。

 俺の頭の中に『病気』という言葉だけがぐるぐると回り続ける。意味が分からない。理解もしたくない。

「私だって、惜しいと思っています。あんな真摯な小僧、そうはいない。『いつ戻ってもいいから、ゆっくり治せ』と言ったのですが、あいつは『迷惑掛けるの嫌だから、スッパリ辞めます』と固辞した。病名も教えて貰いました。治すまで、長くかかるから、と」

 聞いていない。そんな話は、嘘だ。いや、嘘だって、言ってくれ。俺はそう言ってくれても絶対あんたを殴らないから。

「貴方が大事な友人だからこそ、まだ言えないんだと思います。そういう奴だ。責めないでやって下さい」

 そう言うと親方は深々と俺に頭を下げた。俺は、返事もせずに、走り出した。金を払うことも、忘れて。

電話を鳴らすが出ない。蒲ちゃんの実家へ俺は直行した。

「すいません!」

 ベルを何度も押すが、誰も出てこない。ドアを何度も、何度も叩くが反応はない。

 何度目か、叩く拳に鈍い痛みが蓄積されてきたその時、ゆっくりと扉が開いた。

「……うるせえな、誰だ」

 蒲ちゃんの親父が眠そうな目を擦りながら出てきた。僅かに香る酒の匂いが鼻をつく。

「……蒲ちゃんは、いや、亮くんは何処ですか?」

「……いねえよ」

 そう言って扉を閉めようとする父親を押し留める。

「知ってます! だから、何処に入院してるんですか?」

「……暫くしたら、帰って来るだろ。心配するな」

「……本当に?」

 父親は目線を俺に合わせない。明らかに視線を泳がせ、何かを隠している風に見える。

「病名は、何ですか?」

「……知らねえ」

「嘘つかないで頂けますか?」

 あくまでも俺は低姿勢を貫く。ここで強硬なことを言っても何も進まない。兎に角、蒲ちゃんに会うことが最優先だ。

「教えて下さい。俺は、蒲ちゃんに会いたいんです!」

「はっ……テメーみたいな礼儀も知らねえガキに教えることなんてねえよ! なら、金でも持ってこい! 酒を持ってこい! テメー見たいにプライドが高そうな、他人を見下しているガキにそんな真似が……」

 気が付けば、俺は土下座していた。地面に頭を擦り付け、乞う。

「金が欲しければ上げます。酒でも何でも持って来ます。だから、教えて下さい。あいつが何処に居るか」

「……」

 ゴツン、と鈍い音と共に地面と俺の頭がぶつかる。

「お願いします!」

 もう一度、地面に頭を叩きつける。

「お願いします!!」

 何度でも、叩きつける。

「やめろ!」

 顔を上げると、漸く俺と蒲ちゃんの父親と目線が合う。

「……本当に、亮の友達は馬鹿だな。あいつに似て」

 俺を睨み付けながら、そう悪態をつく。

「……俺には、何も出来ねえ」

 その言葉は、まるで自分を呪うかのように、放たれた。

「……無理だと思うが、おめえに、何か出来るっていうなら、行け。……恵愛総合病院だ」

「ありがとう、ございました」

 俺は身体を起こし、深々と礼をする。

『無理だ』という父親の言葉だけがずっと頭の中をリフレインし続ける。その不安と闘うように、俺の足は激しく動き続けた。


「蒲ちゃん!」

 蒲 亮 と書かれたネームプレートの個室に俺は飛び込む。

 蒲ちゃんは、そこにいた。

「……何や、バレたんか」

 何時もと変わらぬ笑顔で俺を受け入れた。

「大丈夫、なのか?」

「俺よりそっちのが痛そうやぞ? 頭、怪我しとるやん」

 ベッドの上の蒲ちゃんは、点滴を受けながらお道化たように笑う。

「平気だよ。それより蒲ちゃん、何で……」

「治ったら連絡しよ思てたからなあ。あんま心配掛けてもしゃーないやろ?」

「友達だろ!? 教えてくれたって良いだろうが! 俺、この間蒲ちゃんの職場に行ったら吃驚して……」

「あー、それはすまんことしたわ。堪忍や」

 いつも通り、ケラケラと蒲ちゃんは笑う。

「で、何の病気だよ? 治るのか?」

 肝心の本題を蒲ちゃんに突きつける。

「んー……」

 蒲ちゃんは笑顔のまま、考える様に黙る。

「何や忘れたわ。長ったらし過ぎて」

「はぁ?」

 散々引き延ばした挙句、そんな言葉でお茶を濁された。

「大丈夫、死にゃあせんよ」

「っ……ざけんな!」

 俺は思わず声を荒げた。

「死にそうだから、危ねぇから入院したんだろ! 違うのかよ!」

「包茎だって入院はするやろ。桜井はでっかく考え過ぎや」

 普通に考えてこんなでかい病院の個室に包茎で入院する奴はいない。明らかに嘘なのだが、蒲ちゃんの口は堅い。

「……また来るぞ。いいな?」

「見舞いかぁ~。でも、会えるかなあ」

「……死ななきゃ、会えるだろ?」

「そうは言うても、駄目な日もあるねん。暫く面会出来んと思うから、こんでええ」

 蒲ちゃんの笑顔は、明らかに困り顔の成分が2:8ぐらいの割合で混ざっていた。

「なあ、桜井」

 そう言うと蒲ちゃんは俺に手を伸ばし、握手して来た。

「死なへんから」

 力強く、握られる。

「これが、死ぬ奴の手に見えるか?」

 骨が軋むくらいに、強く。

「……痛てぇって」

 その言葉に漸く力が緩む。

「またな、桜井。会えるようになったら連絡するわ」

「……分かった」

 蒲ちゃんに背を向けた俺は病室を後にする。

 蒲ちゃんの笑顔が、ずっと俺に向けられていると信じて。


 それからひと月以上経った後だろうか、俺の携帯に蒲ちゃんからの連絡が入ったのは。

「一時退院やで。遊ぼうや」

 俺は蒲ちゃんに会える嬉しさで彼女との待ち合わせをすっぽかしカバ公園へと向かった。

「いよっ」

「おっす、桜井」

 久々に会った蒲ちゃんは如何にも病院から出てきましたみたいな帽子で頭をすっぽり覆っていた。その姿から何となく、俺も蒲ちゃんの病気の正体は察したのだが、敢えてその話題は避けた。

「あんま、痩せてねえな」

「はは、ま~な。元がでかすぎたねん」

 軽口を叩きながら俺と蒲ちゃんはサッカーボールを蹴る。

「なあ」

「何や?」

「また、戻るのか?」

「ん~、様子見?」

「完治してね~の?」

「ん~、よ~分からんわ。とりあえず、ちょっと待ちってことらしいで」

「そっか……」

「なあ」

「……何や?」

「これ、覚えてるか?」

 俺の被っている帽子は、蒲ちゃんにプレゼントされた物だ。

「忘れるわけないやろ? 俺が初めての給与で買ったもんやし」

「これ、やるよ」

 そう言って俺は蒲ちゃんに包みを渡す。

「お!」

 蒲ちゃんは思わず破顔する。中から出て来たのは、蒲ちゃんのご贔屓の球団の野球帽だ。

「なん、くれるのかこれ?」

「ああ、退院祝いな」

 んでな、と前置きして俺は次の包みを鞄から取り出す。

「これはユニフォーム。この選手好きだろ?」

「おお!」

 蒲ちゃんは喜んでそれに手を伸ばすが……。

「これは、まだやらねえ」

「えええええええ~?」

 殺生やで~と絶望的な表情を蒲ちゃんは浮かべる。

「ちゃんと、完治した時に渡す。だから、ぜってえ治せよ」

「……桜井は、いけずやなあ」

 蒲ちゃんはそう言うと俺から受け取った帽子を、今被っている帽子に重ねて被る。

「似合うか?」

「……変なの」

「嘘でもおだてろや」

 俺と蒲ちゃんは笑う。いつも通りに笑う。

 もうすぐそれが、永遠に失われることも知らずに。


 蒲ちゃんが亡くなったのは、それから、半年ほど経った後だった。


     ◆


 晴天。本当に惜しい人が亡くなった葬式には涙雨が降るという話もあるが、それは嘘だ。

 俺は爺さんの死んだ時と同じ喪服を着て葬式場へと向かう。

 連絡は突然だった。クラスの連絡網で俺の元に旧友の死が告げられた。

 蒲 亮。

 それが蒲ちゃん、と呼ばれたクラスメートの名前だった。まだ二十歳。大人になったばかりの年齢で、彼はこの世を去った。

 成人式があった時に、蒲ちゃんは何処を探しても見つからなかった。クラスメートはほぼ全員、彼の欠席理由を知らず、彼の死によってでしかその理由を察せなかったあたりに、もう俺らの繋がりが希薄なのだということを痛感させられる。

「おう、八神久しぶり」

 道すがら、谷村に声を掛けられる。

「驚いたな、流石に」

「ああ、死んじゃうとはなあ」

 流石に今日の話題の主役は蒲ちゃんだ。

 成人式での鳩村との一件のその後など聞く気が起きない。

「急性骨髄性白血病、だってさ」

 谷村の口から蒲ちゃんの病名が告げられる。

「知ってる。下田から聞いたし」

 連絡網でその情報は廻って来た。別に死因に興味は無かったのだが、俺に電話を掛けて来た下田が嬉々として教えてくれた。こいつ、チクり魔体質変わってねえな、と思った。

「蒲ちゃんて養子だろ? ドナーも見つかり辛かったみたいで、色々どうにもならなかったみたいだぜ」

 蒲ちゃんが養子、という話を俺はこの時初めて知った。というか、俺と蒲ちゃんはそこまで親しくない。死んで可哀想だという気持ちはあるが、悲嘆に暮れるほどでもないのだ。

 葬式会場に入ると、入り口で蒲ちゃんのご両親は俺たちに深々と頭を下げた。

 親父さんを見ると、人目も憚らず泣いている。それを妻が宥めるという、まさに逆転現象のような状況を目の当たりにする。

「お父さん、蒲ちゃんのこと好きだったんだろうなあ」

「なあ、あんなに泣いて」

 焼香を済ませ、俺と谷村はクラスメートが集う居酒屋に入っていく。ここで個人を偲んでの二次会が企画されていた。

「献杯!」

 俺たちは杯を交わす。成人式パート2の様相で、俺たちは集っていた。出席率は8割以上いるだろうか、かなりの人数が蒲ちゃんの為に足を運んだようだ。

 話は蒲ちゃんのことに始まり、お互いの近況を語り合う場に次第にシフトしていく。

 死んだ蒲ちゃんの分まで頑張らないとな、と文を結ぶ。それがまるで、何かの儀式のように続けられる。そんな中、隣の男子が女子をホテルに誘い、消える。

 何してんだ、この馬鹿、と思う。故人を見送る口実に送り狼になってどうするというのだろう?

その時、ふとある男のことを思い出した。

 桜井猛のことを。

「なあ、桜井知らねえ?」

「ああ、そういや来てないな」

 桜井の姿は見た覚えがない。葬儀にも、二次会会場にもいなかった、気がする。

「あいつ、蒲ちゃんと親友だったからな」

「え、そうなの?」

 隣に座っていた矢井田がそう教えてくれた。

 それも、初耳だ。あの自尊心の塊のような男に、お世辞にも親友と呼べる存在がいるなんて信じられなかった。しかもその頭はあいつより数段落ちる、あの蒲ちゃんとなんて。

「ああ、未だにサッカーとか一緒にしてたらしいぜ? 俺も何度か見かけたから」

「それなのに……来てないのか」

 いや、それだからこそ、来れないのか?

 蒲ちゃんの死を、受け入れられないのだろうか? あの、桜井が。

 いや……来なくて、正解かもしれない。俺は、さっきホテルに消えたクラスメートの姿を見てそう思う。

 桜井と蒲ちゃんの関係が何処までのものか分からない。でも、あの自尊心の塊が、自分の親友を蔑ろにするような行動を見たら、どうなるか想像に難くない。きっと、大喧嘩だ。

 あいつは一人、きっと何処かで蒲ちゃんを見送っている。そんな、気がした。


     ◆


 蒲ちゃんは馬鹿だ。蒲ちゃんは嘘つきだ。蒲ちゃんは……。

 一人、ビールを飲みながら雲一つない空を見上げる。

 カバ公園。俺と蒲ちゃんの待ち合わせの場所。そこにもう、蒲ちゃんは永遠に来ない。

 将来の夢を語ったこの場所に、あいつはいない。この世の何処にもいない。二度と、会えない。

『何しとるんや、桜井?』

 幻聴が俺の耳に届く。

「酒、飲んでる」

『何でや?』

「お前が、死んだからだ」

『そうかぁ、すまんなあ』

「謝るくらいなら、生き返れよ」

『無理やろぉ~。俺もそうしたいけど』

 幻覚の蒲ちゃんは幻覚でも蒲ちゃんだ。

『でも、飲み過ぎやで。ほどほどにしとき』

「うるせえ! 飲まないでやってられっか!」

 もう何本の酒を空けたか分からない。でも蒲ちゃんに会えるなら幾ら飲んでも構わない。

『みんなと一緒に見送ってくれへんの?』

「お断りだ! お前は……蒲ちゃんは、死ぬわけないんだから!」

 目の前の蒲ちゃんは、困ったような笑顔で俺を見つめている。

『死ぬいう約束はしてへんもんな。すまん、堪忍や』

 そう言って蒲ちゃんは頭を下げる。

「やめろよ……」

『すまん』

「やめろってんだよ!」

 蒲ちゃんに向かって放り投げた空き瓶がそのまま地面に転がり、ビールの中身は弧を描いて地面に広がる。

「やめて……くれよ」

 こんな、現実は、もう。目が覚めたら、蒲ちゃんと遊ぶ約束をしている。夜になったら、蒲ちゃんと杯を交わしている。偶に、ボールを蹴る。偶に、ボールを投げる。そんな、当たり前だった日々。

 俺は、馬鹿だ。天才なんかじゃない。何も出来ない。友人の為に何もしてあげらない。

 勇気がなくて、蒲ちゃんの死に顔が見れなくて、死んだという報告を受けてから、一度も顔を合わせていない。現実を受け入れられない、臆病者だ。

 蒲ちゃんは俺を褒めてくれる。蒲ちゃんは俺を認めてくれる。だけど、俺は自分を知っている。先に進めば進むほど、俺程度の人間は幾らでもいるってことを。

 俺はただ、粋がっていただけだってことも。

 自分に自信がないから、段々蒲ちゃんと会う機会が減っていたってことも。

 それでも、それでも俺は蒲ちゃんにもっと会うべきだった。こんなに早く亡くなるなんて知らなかったから。こんなに早く、自分が……。

 逆だろう?

 俺が、こんな俺よりも、何倍も蒲ちゃんのほうが好かれていただろう?

 いい奴ほど早く逝くという。つまり、俺は蒲ちゃんの何倍も生きてしまうってことだ。

 ふざけた話だった。

 今からでもいいから、俺の命と交換して蒲ちゃんを生き返らせやがれ。

 本当に、心の底からそう思う。

 蒲ちゃんの親父の言葉を思い出す。

 今思い返せば、あれは無念の塊だったのだ。

 養子だから、何も出来ない。

 白血病に苦しむ息子に、ドナーとして貢献することも出来ない。

 本当は、息子が好きだったとしても。

 そんなことに今更気付く。自分のことしか考えていないから、後になって思い違いを悔いる結果になる。

 俺は、本当に馬鹿だ。

蒲ちゃん。

 なあ、蒲ちゃん。聞こえてるか?

 返事はない。もう、幻聴は聞こえない。

「蒲ちゃん!」

 声は、返ってこない。

「蒲ちゃん!!!!!!」

 そう、もう、返ってこないんだ。

 俺の、青春は。俺の、友人は。俺の――。

 気付いてしまったから。俺は、馬鹿だって俺は、阿呆だって。

俺は、大人になったって。

俺は、蒲ちゃんの名を、叫び続けた。

    


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― 新着の感想 ―
[良い点] 桜井は最後でようやく大人の階段を登り始めたのかなと感じました。蒲に対しては昔から心を許していますが、矢井田、イノT、八神、蒲の父と、蒲以外の人物には見下すような印象ばかりを残しています。最…
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