precious curious addiction
私は倒れた。
高校の授業で小テストが行われていた最中、私は不意の発作に襲われていた。
そのまま椅子から転げ、私は床へと横向きで崩れ落ちた。
大丈夫かと大声を上げて問う周囲の友人の声を他所にして、私は今日も心地よさに身を震わせていた。
心中で誰にも悟られないように呟く。
ああ、これこそ私が生きているということなんだ。
発作で倒れる、ということ。
それは普段当然のように感受している身体の自由が効かなくなり、思うように動けなくなった結果だった。
自分自身の意思が上手く働かなくなることで生きていることを実感するというのも、きっとほとんどの人にとっては奇妙なことなんだろう。
私も、何となく自覚していることだった。
けれど私自身の身体は、私自身の意思で動かすにはやや持て余し気味のように感じられていた。
そのことからか、自由に動くということが常であり当たり前のことだという認識は、私の場合あらぬ方向へと悪化していた。
ただ健康に毎日を過ごしているだけでは、生きているという実感が少しずつ薄れていっていたんじゃないだろうか。
小学校高学年の頃には、もうそんな仮定を抱えていた記憶がある。
いつからか現れ始めた私の発作は、私が時に欠くことのある生の実感を強めてくれる頼みの綱だった。
――今月ももう5度目……
周囲の人たちに肩を借りて向かった保健室で、私より一回り半ほど年上の養護教諭はそうぼやいた。
来室カードをさらさらと書いて手渡すと、それを見ながら小さく唸ったようだ。
カードに書いてある内容を反芻するその姿は、壁にかかっている時計の針が動く音すら煩わしいんじゃないかというほど集中していた。
彼女は唯一、私が倒れる要因を知っている。
今日もここまで私に連れ立ってきてくれた仲のいい友人にすら、そのことだけは決して打ち明けていなかった。
理由は簡単だ。
私の個人的な快感のために、必要以上の心配をあまり多くの人にかけたくないから。
それに発作といっても、症状としては軽い過呼吸に過ぎない。
山場を越えれば、すぐに元通りの健康体だ。
そんなこんなで特に不安がることもなく、私は明るく振る舞いながら養護教諭の対応を待っていた。
――今受けていた授業は何だったの?
彼女はカードを机に置いて、こっちに質問をしてきた。
今は倫理をやってました、と返す。
今日の先生、妙にお疲れモードで何だか見てておかしかったですよ。
冗談のように一言付け足したが、はいはいと彼女は途中で話を遮った。
――あなたが倒れるときの教科、倫理と生物が多いわね。
――それと、授業外で倒れるときはいつも集会のとき……
彼女は再びぼやくように告げた。
自分でもあまり考えたことがなかった発作の共通点に、私はやや驚いていた。
何か意味でもあるんですかね?
椅子の上で脚を伸ばしながら尋ねる。
――なんでそんなに他人事なの、自分が一番分かるでしょうに……
養護教諭は呆れた様子で応答し、溜息をついた。
当の私が笑顔を崩さずにいると、彼女は何かに気づいたように姿勢を正して言う。
――あなた、ひょっとすると一度病院で見てもらったほうがいいかもね。
先生も冗談言うんですね、と返そうとし、声が飛んできたほうに私も向き直る。
視線の先にいる養護教諭は、これまで見たこともないほど鋭い目になっていた。
私の口元が無意識にぴくりと震え、引きつった気がした。
週末。
養護教諭がくれた地図を頼りに、ある場所へと私はやってきていた。
そこには一般的な戸建ての家とさほど変わらないくらいの大きさで、窓も少なく一面真っ白な外壁の建物があった。
彼女曰く高校時代の友人が医師として勤務している病院だという、その建物に入ってみた。
エントランスを通り過ぎると、正面にはカウンター、右手の方向には横を向いた形で多人数掛けの椅子が並んでいる。
私は早々に受付を済ませ、誰も座っていない椅子の端のところに腰掛けた。
どうやら、養護教諭が事前に話を通していたらしい。
間もなく私は若い女性の看護師に呼ばれ、奥に通された。
案内された診察には、確かに養護教諭と同年代の女性がいた。
話は聞いているわ、どうぞ座って、と無表情で口にする彼女。
失礼しますと応えて私は彼女の目の前の椅子に座る。
彼女は更に奥の部屋に入り、何かを手に取ってこちらのほうへと戻ってくる。
その手元を凝視してみる。握られていたのは注射器だ。
自分の意思とは無関係に身震いしてしまう私に、彼女は告げる。
――大丈夫よ、ただの麻酔の一種だから。
切り返す間もなく、彼女は私の腕を取って手早くアルコールで消毒し、注射器を近付ける。
先に詳しい話を聞きたいと願い出ても意に介さず、彼女は淡々と麻酔の準備を進めていく。
手を振り解こうにも彼女の力は存外強く、抵抗することも叶わない。
程なくして注射針は私の腕に刺さり、中に入っていた薬剤は私の身体へと投与される。
それと同時に、少しずつではあるが、意識は遠退いていき――
瞬間、視界が暗転したかと思うと、再び私の頭は室内の光を感じ取った。
言葉少なに麻酔を打った彼女は、にこやかな顔で再び私の目の前に座っていた。
麻酔、効いてないのかな……?
疑問符を浮かべずにいられなかった私をまじまじと見て、彼女はくすりと笑った。
私は先生に尋ねた。
ここはいったい、どういう病院なんですか?
先生は応えて言った。
――何の変哲もない、普通の病院よ。
私は質問を続けた。
ここはどんな診療科なんですか?
――精神麻酔科。
初めて耳にする診療科だ、と呟きたくなる衝動を抑えて、更に続けた。
どういった人が来るんですか?
――患者の方の症状は、だいたい精神科や心療内科寄りね。
うちの高校の保健の先生がこういう風に図らったということは、私はここに来る必要があるくらいには悪い精神状態なんでしょうか?
――さあ? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれど私の見解を言うなら、あなたはここに来てよかったと思うわ。
それは……どうして……?
――倒れるような発作を何度も続けておきながら、それを全く気にしないって言うんだもの。
それが問題だった、ということですか……
――ええ。ちなみにあなた、手首を切ったこととかはあるかしら。
手首を……? そんなことするのは、私以上にここに来るべき人なのでは……
――なるほどね。
彼女は何かを察した様子で、うんうんと頷いた。
私はもう少し先生に話を聞いてみようとした。が、お腹に力を込めても声が出なかった。
もうそろそろ終わりかしら、と先生はこちらを見て呟いた。
意識は再び段々と遠退いてしまっていた。
――それにしても、自覚がないっていうのは本当に――
先生が最後に口にした言葉を聞き取り切れないまま、目の前が再び真っ暗になった。
土日の休みは開けて、また登校日がやってくる。
私は記憶が朧げなまま、薬を処方されることもなく病院から帰ったのち、休日の残りを至って普段通りに過ごしていた。
そして今日も、至って普段通りに高校に着き、至って普段通りにホームルームが終わり、授業が始まった。
一時間目は生物、それも小テストのオマケつき。
またやってくるのかなと考えていた発作は、全くその予兆を感じさせなかった。
心なしか、設問に対する解答が浮かんでくるのが普段よりも遅くなっている気がした。
私は頭を捻りながら、気を紛らわせようと横目で窓の外を見た。
その先にあった雲一つない快晴のはずの青空は、どことなくくすんで見えたのだった。