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途切れかけている蛍光灯は不意に切れ、世界は暗闇の中に沈む。

様々なことが蘇り、どうやら長く伸びる夜の腕の中に捉えられてしまったことに、「わたし」は気付く。

 すぐに理解が追いつかないような現象を前に、人はどういった反応をするものなのか。

 わたしは、それを見て見ぬふりをしたのである。


 ぶうん……ちかちかと点滅している蛍光灯がか細い音を立てており、ただでさえ切れかけている明かりは、そこに貼りついている蜘蛛の巣やら、細かい虫の死骸やらのせいで、ますます薄暗かった。

 臭いがこもる夜の公衆トイレの中に、誰かが入っている――いや、そんなわけがないではないか、たぶんそれは、何かのはずみで閉まったままの状態になった、壊れた扉なのであろう――ぴちょん、ぴちょん……曇った鏡の洗面に水が垂れる音が聞かれた。トイレの外は、ごうごうと川の音が響いているはずなのに、その微かな水の音は妙に印象的で、耳に残るのだった。


 (水は、出る……と)


 素早くわたしは自己暗示にかかり、できるかぎり目の前だけを見るように心がけた。

 トイレの花子さんだの、トイレの個室で死体があるだの、色々なことが一瞬の間に脳の間を通り抜けていった。

 もっとよく目を凝らせば、トイレの扉の下の空間から人の靴が覗いているとか、そもそも鍵がかかっているのか分かったはずなのだが、もういっさい、わたしは受け付けなかった。冗談ではなかった、ただ用を足したいだけなのであり、おかしなものに関わる気など、これっぽっちもなかったのだった。


 (……だめな時は、なんでも変なことが寄って来る)


 個室に飛び込んで鍵をかける。薄気味悪くべとつく洋式便器に腰かけながら思う。

 本当にそうだ。落ち目の時は、異様なくらいにおかしな出来事が重なり、時々頭がおかしくなるのである。

 ぶうん……蛍光灯は弱弱しく唸り続け、ついに、その命を落としかけた。

 暗黒の闇がいきなり目の前に落ち、わたしは喉までこみあげてきた悲鳴を必死にかみ殺した。

 (変なことが、次から次へと)


 どうしてだよ。

 

 いつまでたっても命を吹き返さない蛍光灯にいらだち、真っ暗闇の臭い空間の中で、わたしは唇をかみしめた。

 まるで見えないのだから分かりようがないけれど、どうせこの個室にペーパーなどあるわけがないし、もしあったとしても、そんなもの使いたいとは思わなかった。ポケットのティッシュを引きずり出しながら目まぐるしく考えた。


 (暗がりだと色々なことが)


 あの、部屋で。

 日の光に照らし出された針金の籠、床に落ちた影がいびつに伸びていた。

 空っぽの、籠。

 ……。 


 生まれて初めてペットを飼った。

 アパートだけど、ハムスターなら大丈夫だと思った。

 からからと輪っかを回したり、ひまわりの種を食べたりする様子を、飽きずに眺めた。

 よく懐いていると思っていた。ハムスターの事を想うと心が温もると同時に、この恐ろしい程の幸せはいつか途切れるだろうと予感していた。


 ハムスターの、黒い目。


 わたしの、家族だった。

 かあさんもとうさんもばあちゃんも、もうずいぶん昔に失って、二度と得ることはないだろうと思っていたけれど、こういう手軽さで再び手に入れることができるのかと思った。

 (いや、普通はそんな重たい気持ちで飼ったりしないものだ……)


 ある日ハムスターはいなくなった。寿命で死んだのではなく、わたしの目を盗んで針金の籠から脱走したのである。 

 部屋のどこかにいるだろうかと探したが、痕跡はなかった。


 (……死んでるだろう。もともと、それほど寿命が長いわけでもあるまい)

 そう考えた。また、元通り、ただ一人の生活に戻っただけだった。


 呆然と日々を過ごしていると、ある休みの日、買い物に行くために外に出ると、一階に住んでいる子供とすれ違ったのである。子供は目をキラキラさせ、小脇に「りす・ハムスターのえさ」の紙箱を抱えていたのだった。


 野球帽をかぶったその子の青いシャツを何となく見送った。

 ママ、ハムスターの餌買ってきたよ、ばたんとしまった玄関の戸から、微かに声が聞こえてくる。

 ……。


 何か、神様の意地悪を見たような気がした。

 階下の部屋はいつも賑やかで、金曜の晩は遅くまで賑やかなテレビの音や、子供の笑い声、時折、おとうさんの怖く叱る声が響いてきた。こんな狭いアパートでよく家族で住めるものだと思ったが、狭かろうが隙間風が吹こうがトイレがよく詰まろうが、とにかく階下の部屋はいつも楽しそうだった。

 違う世界の住人達、すれ違ってもあいさつすら交わさない――彼らの目にはわたしの姿など入っていない。


 (切実に必要としているところには与えず、充足しているところに、更にまた与えようとする)

 それが神様、わかっていた、そういうものだ、だからわたしは永遠に一人なのだし、自分以外の何かと一緒に生きられるわけもないのだった。

 彼氏が欲しいとか友達が欲しいとか言っているわけではなく、たかがハムスターなのに、そのハムスターすらわたしには許されないのだった。


 遅くに帰った時、駐車場からその部屋のベランダが見える。

 温かな明かりがカーテン越しに外に漏れていて、テレビが賑やかな色彩をくるくると放っていた。緑のカーテンはその色彩を万華鏡のように映し出し、プランターに植えられた子供の朝顔やゼラニウムを派手に照らすのだった。


 あのカーテンの向こうには楽しいことが繰り広げられている、今日の晩御飯はなんだろう、と、わたしは何度も思った。羨ましいと思ったのではなく、自分とはまるで別の世界の事を眺めるように――例えるなら、内戦で苦しんでいる国の人々の事を思うように、日常からかけ離れたものであるかのように――思ったのだった。


 ゴールデンハムスターは安価で手に入る。

 なのに、どうしたわけか、わたしはもうこの世にいたくない気持ちになり、カップ麺を買うついでに、ドリ●ルを購入したのだった。空腹だからラーメンは食べるが、心はもう、死にたがっていた。明日も生きてゆくのが心底嫌であり、これ以上、自分のことなど完全に忘れている神様のやり口に、いちいち傷ついているのはたまらなかった。


 ぼうっとし、明かりをつけないまま夜を迎え、やがて日付が変わる頃、なんとなくドリ●ルを服用した。お菓子を口に入れるみたいに、気が付けば一箱きれいに消費していて、どろんとした眠気がきた。


 (ドリ●ルなんかで死ねるわけがなかった)

 グワア、グワア――夜烏が嫌な声で鳴いた。トイレの屋根にでも止まっているのかもしれない。

 ……。


 頭がぼうっとしている。

 暗闇の中にいると、まだ痺れるような感覚が残っていて、今にも気持ち悪くなってしまいそうな体調不良感に苛まれるのだった。

 嫌だ嫌だ、と、わたしは素早く始末をし、手探りで(やはりなにか、にちゃっとした嫌な手触りだった)水を流して立ち上がりながら思った。


 何かが狂っている、この夜はどこまでも長く伸びるような気がする。

 朝になるまでこの変な場所に留まろうと思ったけれど、永久に朝なんか来ないのかもしれない。


 そこまで思った時、ようやく死にかけた蛍光灯が蘇り、パッと世界は明るくなったのだった。

 大急ぎで個室を飛び出し、そのまま何も見ないようにしてトイレを駆けだそうとして――曇った鏡が、まるで意思を持っているかのように奇妙な輝きを放ち、わたしは見てしまった、件のトイレの個室が開いていて、もう中には誰もいない様子を、ぼけた鏡は映しだしていたのだった。


 (ああ、いやだいやだ)


 わたしは息を詰めながら駆けだし、外に出た。

 とたんに水っぽい冷たい空気が顔に当たり、ざわざわと川の水や風に揺れる樹木の音などがわたしを迎えたのである。ぼうっと自動販売機が光っていて、それが異様に頼もしく思えた。

 わたしはダッシュで軽に戻り、運転席に飛び乗ったのである。


 車の中のにおいをかいで、背もたれに体を落ち着けて、ふうっと息を吸い、しばらくこの、全力疾走をした後のような息切れをなんとか治めようとした。

 イヤな汗が額にへばりついていて、うすく目を開けると、フロントガラスから満天の星空が見えた。

 ものすごい数の星がちかちかと瞬いていて、綺麗と言うよりも不気味であり、わたしは自分が得体のしれない巨大な何かにくるまれているように思ったのである。


 ポケットから携帯を引っ張り出すと、午前2時にさしかかろうとしている。

 ぱっと、脳裏に、ぽっかり開いた――誰かが入っていたのだやはり――トイレの個室のことが浮かび、わたしは大慌てで桃ジュースの封を開けて飲み下した。

 どろっと甘い液が喉を滑り落ち、それからわたしは、カロリーメイトにかぶりついたのだった。

 

 なんでもいいから、ここから早く脱出せねばならない。

 頭のおかしな何者かに襲撃されて変死体になるのは嫌だった。もしかしたら何人も仲間がいて、集団で襲われて凌辱されてから殺されるとか、絶対に嫌だと思った。

 同じ死ぬのでも、そんな死に方なんか冗談ではない、嫌だ、そう思った。


 (今は2時だし、もう少ししたら空が明るくなりはじめるから……)


 クラッチを踏みながらエンジンをかける。

 一刻も早くここから立ち退けと本能が警告している。

 


 家族が亡くなった。飛行機が落ちて亡くなった。


 わたしはたまたま風邪をひいていたのと、なにかいう事をきかなかったことを叱責されて拗ねていて、ずっと前から楽しみにしていたその旅行に、一人だけ参加しなかったのだった。

 「いつまでも拗ねてろ」

 と、おとうさんが怒ったままスーツケースを抱えて玄関を出て行き、

 「熱が下がったら夏休みのドリルしちゃいなさいよ」

 と、おかあさんが(そうだ、夏休みのことだった……)呆れたようにわたしを顧みて、

 「お土産買って来るし、電話するからね」

 と、ばあちゃんが案ずるように言って、そうして扉は閉まった。


 (一体、この日本の国民の何パーセントが、こんな境遇に)


 親せきをたらいまわしにされ、就職しても、ぽつねんとしていた。

 (おもえば、あの夏休みから変な時間は続いていたのかもしれない)

 神様の意地悪は、あの時から続いている……。


 「まるこ……」

 もう戻ってこないハムスターの名がぴょんと口から出て、わたしは頭を振った。

 カラカラカラ、カラカラカラ――針金の籠の中で回る輪っかの音。

 おかしい、狂っている、早く夜があけろ、この夜の中ではどこにも行きつくことができないままだ。


 


 ライトをつける。

 ラジオは相変わらず深夜番組が流れていた。

 番組が変わったのだろう、単調なギター曲。

 わたしはふうと息をついた。相変わらず車の外には誰もいない。

 

 思い切りよくバックし、それからハンドルを切る。

 ぽっかり開いた古いトイレの扉の中になにがいたのか、考えたくもなかったけれど、そんなものと関わりたくないならば、ただちにこの場所を去るのが正解だ……。


 そして軽は、道に出た。

 くねくねと続く、単調な山道に。

 やがて上り坂は下り坂になり、一瞬わたしは、こんもりとした樹木の間から町の光をみたような気がした。

 もしかしたら、求める場所は非常に近いのかもしれないと希望が灯った時、とんでもないことに気づいたのである。



 「……」

 

 視界に、白く細い腕が映った。

 ギアを挟んだ助手席に。

 誰が。


 ちっとも車のスピードを緩めないまま、わたしは横目でそれを見た。

 いつの間に乗ったのか。

 わたしに着いてきてしまった。



 あの、開いた扉から。


 幼い女の子の声で、それは言う。

 「はぐれたの」

 からすに襲われて、わたし、もしかしたら死んだかもしれない……。



 「まっすぐ、このまままっすぐで、いいから」

 ……。


2で完結予定でしたが、3まで続きます。

思いがけなく色々詰め込んでしまいました。


この死に方がいいあの死に方がいいと思っている間は、死ねるわけがないのでした。

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