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夜の山道は怖いものです。
この道で良かったはずだと思いながら、古い軽を運転し続けた。
おかしいなと思ったのは夕暮れになってからであり、だけど今更引き返すのは面倒だと思った。
くねくねと細い山道は片側が崖肌になっており、細くて荒っぽい灌木がとげのような枝を道に伸ばしていた。
時折、ちょろちょろと水が零れ落ちている場所もあり、どこか上の方で滝がある気配がした。
目的の町は本当にすぐ側にあるはずなのに、どうしてもたどり着けないでいた。
ナビなどついていないから、昔の記憶をたどるしかないのである。この方向で、こんな雰囲気の風景で、と、後部座席から幼い目で眺めた光景を思い出しながらアクセルをふかしハンドルを切った。
どんどんどんどん奥へ奥へと道は進み、気づけば得体のしれないところに来ていた。
(これは、車で仮眠をして朝を待った方がいいのかもしれない)
そう思いはじめた。
夜は更けており、なによりしんしんと冷たい空気が窓ガラスから伝わるのだった。
こっぽりと暗い夜道は細く、ガードレールの下は、昼間見ればさぞかし絶景だろうと思われるような雄大な川である。ざわざわと流れる音がエンジン音を超えて聞こえてくる。
ぽつんぽつんと街灯が暗く道を照らしており、そこには夏の名残の虫がたかっているのだった。
ところどころ、点滅している街灯があり、この道がいかに使われていないかがうかがい知れる。
どこまで坂が続くものやらわからない。
(薄気味悪いが、しっかりロックをかけて、なにかあったら携帯を使えるように側において)
携帯電話は助手席にある。
ぴか、ぴかと、ランプが点滅していた。
わたしは片手でラジオをつける。とたんに、ざざざと砂嵐のような嫌な音が聞かれた。
チューニングを合わせて、適当なチャンネルを探り当てた。
囁くような声で語るDJが、どこか陰気なジャズを選んで流すだけの、そんな番組である。
この夜道にはぴったりだけど、どうやら雰囲気が盛り上がりすぎて、いっそう気持ちが悪くなってきた。
(疲れた……)
アクセルを踏み、時々坂に耐えきれなくなった軽が速度を落としかけ、その度にギアチェンジをする。
半クラ状態が続いたから足が痛い。
もともとわたしは非常に疲れており、加えてものすごく空腹なのだった。
こんな体調で、どうしてこんな無茶なドライブをしようと思ったものか。今更になって後悔している。
だけど、あの部屋に留まることが溜まらなくて、逃げたくて(でも逃げられないのは分かっている)忘れたくて(忘れることもできようはずがない)衝動的に飛び出したのだった。
わたしは、死のうとした。
市販の睡眠薬は効果が浅くて、たとえ一箱全部飲んだとしたって、死には至らない。
一気に服薬したのが今朝の未明であり、ぐるぐると気持ち悪く目覚めたのが今日の昼過ぎだった。そのままぼうっとしていたけれど、カーテンをかけないままの窓から明るい日差しが差し込み、部屋にあるものすべてが生々しく影を落とし始めているのを見たから、もうたまらなくなった。
死ぬ手段なんて無数にあるのに、どうしてわたしは、そこで「自分は死ぬことすら許されない」と思い詰めたのだろう。
どうせ死なせてもらえないんでしょ、それなら逃げられるところまで逃げるから。
どうせなら、ずっと行きたかったあの町まで、まず行きついてみせる。
……それは、ずっと幼い頃、父と母と祖母に連れられて行った隣県の町だった。
狐の祭りがある町であり、その赤や黄の原色が強烈で、当時は恐ろしく映ったものだ。
だけど大人になるにつれ、あの色彩が鮮やかによみがえるようになったのだった。
原風景と言うのか――祭囃子と、奇妙な面を被った人々と、それを見る観客。
神輿の色も独特であり、何の神をまつったものか分からないけれど、その世界に吸い込まれてしまいそうな、まるでその祭り自体がひとつの凍結した世界であり、そこが異次元で、今もこの日常と背中合わせに存在するような、そんな気がしてならなかったのだった。
もちろん、今思い立っていったからといって、その町は祭りの時期ではない。
だけど、わたしは行きたかった。そこにさえ行けば、父も母も祖母も生きていて、わたしも幼い無邪気な姿に戻ることができて、祭り見物ができるような――できないにしても、それに類似した体験ができるような――気がしていたのだった。
(あの町に。あの、町に)
だけどわたしはあまりにも疲れ、道は果てしがなかった。
ガソリンは半分ほどに減っており、夜じゅうやみくもに走り続けるのは良くないと感じた。
そしてわたしは見つけた。
展望台のように、下の風景を見下ろすことができる場所が左手に見える。
そこは頼りないフェンスで囲まれ、コンクリートには一応白線が引かれていたから、駐車場にもなっているらしかった。
ぼうっとした、虫がたかった明かりの下には公衆電話がある。
そのガラスの空間の中には死んだ蛾やらなにやらが、いっぱり下に落ちていたし、上の方には(見たくもなかったが)蜘蛛の巣ができているに違いない。
わたしはゆっくりと軽を乗り入れ、白線の中にとめた。
ラジオは相変わらず、陰気でゆったりした夜のナンバーを流しており、エンジンを止めると渓流の音が耳についた。
ざあざあ、ざあざあ……。
窓ガラスから見回すと、公衆トイレが陰気に光っていた。あまり使いたくないようなトイレだ。
トイレの前には、どこのメーカーか分からないけれど、一応は営業しているらしい自動販売機が見える。
(喉が渇いた)
自販機の黄色い光の中に、桃ジュースが見えた。
冷たい桃ジュースでも飲めば、頭はもうちょっとましな働きをしてくれるに違いない。
それと。
わたしは助手席のカバンを引き寄せた。ポケットティッシュと小銭と携帯電話を探り当て、ジャケットのポケットに突っ込んだ。
どうせ、紙なんかないだろうと思った。
それでも、強烈な生理的欲求は抑えることができない。
トイレを見てしまったものだから、もはやその欲求は現実味を持ち始めていた。
車をトイレの真ん前にまで移動する。
ちゃり。
車の鍵をしっかりジーパンの尻ポケットに入れて、そっと車を出る。
冷たい夜気が顔面を包み、生々しい水や緑のにおいがつんとした。
ざあざあ、ざあざあ……。
満天の星空である。
恐ろしい程の空なので、わたしはもう見上げるのを止した。
物騒だからあたりを見回しながら、いつでも逃げられるように構えながらトイレに向かった。
まず、桃ジュースと――なぜか、カロリーメイトが売られていた――チーズ味のカロリーメイトを購入してしまった。
どうして用をたしてから買い物をしなかったのかと、ごとんと品物が落ちてきてから後悔する。
仕方がない。そのままジャケットのポケットにぎゅうぎゅうに突っ込み、小走りで公衆トイレにかけこんだ。
ぶうん、と、今にも途切れそうな蛍光灯の音がか細くなっており、トイレのタイルは青白く照らされている。
薄汚れた鏡はぼんやりと光っていて、絶対に覗き込みたくないなと思った。
だいたい、トイレに入った瞬間、なにか蜘蛛の巣的なものがうっすらと顔に貼りついたのだ。
(速攻で済ましてすぐに出よう)
わたしは強くそう思うと、結構広いそのトイレの、一番手前の個室に入ろうとして――見てしまったのだった。
「……」
トイレの個室は三つ。一番奥の幅の狭い扉はぴったりとしまっていて、そこはたぶん、清掃用具入れだろう。
その清掃用具入れの隣、つまり、一番奥の個室の扉が。
閉まっていた。
(誰か、入っている)
時刻は午前1時を過ぎている。
駐車場には、わたしのもの以外車は停まっていない。
この山奥の、こんな場所のトイレに。
誰かが、入っている。
そんなトイレに、まともな者が入っているわけもないのでした。