ヒトラーの魔術
(上)
プロローグ
1938年(昭和13年)
ナチス・ドイツの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日。この1年前に、日独防共協定が成立している。彼らはドイツの汽船「グナイゼナウ号」に乗船して、約1か月の船旅の後、この年の8月16日に横浜港に到着。
この時、ドイツの若者達を一目見ようと、港は数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3か月間、日本各地を訪問。熱烈な歓迎を受けている。
ヒトラー・ユーゲント達と一緒にグナイゼナウ号を降り立った7名のチベット人がいた。彼らを待っていたのは、1人の日本人だった。ヒトラー・ユーゲント達の陰に隠れるようにしてひっそりと降り立った彼らは日本人と共にいずこへともなく消え去った。
1945年(昭和20年)4月30日
ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは総統地下壕の1室で、妻のエヴァ・ブラウンと共に自殺。この約1か月前に、ドイツ国民にあてたヒトラー最後のメッセージ(最後のラジオ放送)が放送された。
ーー国民諸君、同志諸君、最後まで戦い続ける諸君に敬意を表する。すでに戦況は・・・、私はベルリンと 運命 を共に・・・、しかしナチスは不滅である。・・・、たとえ米ソがいったん勝つ様に見えようと も・・・
そうなのだ。それは砂の上の勝利だ。彼らは世界の真の支配者ではないからだ。彼らの背後で操る者 ・・・ユダヤ・・・イスラエル・・・世界的なユダヤ国際資本・・・。
米ソは・・・、おそらく1990年代までに、対立と妥協をくりかえしつつ、世界を運営しようとする。 しかし、所詮・・・、ヨーロッパと日本、東アジア、イスラエル諸国、インド・・・いずれ世界は米ソの 手に負えなくなる。その時ユダヤはみずから・・・乗り出す。
哀れなアラブ4か国・・・最終戦争。東西が激突するだろう。ユダヤはそれに勝って全世界・・・なぜな らそれが彼らの旧約聖書との約束だからだ。黙っておけば必ずそうなる。しかし、私がそうはさせない。
そのための手を私は死ぬ前に打っておく。それが最後の秘儀である。それによって人類は我々を受け継ぐ ことになる。
しかも見よ。そのあと、わがナチスの栄光、ラストバタリオン・・・。それが真のハーケンクロイツの日 だ。鉤十字の日だ。その時ラストバタリオンが現れる。ユダヤを倒す。世界を支配する。永遠に・・・
そしてナチスは甦る。真のヒトラーの時代が来る。必ずだ。
甦ったナチスの軍団とその強力な同盟がその時来る。宇宙からの復讐のカタストロフィと共に来るぞ。
それからが真の究極だ。真の終わりで真の始まり、真の淘汰、天国の地獄、21世紀のその年に、人類の
驚くべき究極の姿・・・ではそれを明かそう。諸君それは人類・・・--
この最後のラジオ放送時、西から40万人を超える米軍がライン河を渡っていた。東から百万人のソ連軍がベルリンに迫っていた。爆撃だけでなく、ソ連の戦車砲の砲弾が頻々とベルリン郊外に落ち始めていた。
40分の放送予定であったが、ここで空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。ヒトラー最後の放送は、ここで途絶える。
今残っている放送のヒトラーの肉声は、側近たちが別に録音しておいたディスクの断片を、欧米の研究者によってつなぎ合わされたものである。
1945年4月末
ナチス・ドイツの首都ベルリンは、瓦礫と死体の散乱する廃墟と化した。
連合軍の兵士は東ベルリン地区の壊れたビルの中をパトロールしていた。隠れているドイツ兵を摘発するためだ。
彼らは崩れかけた部屋を1つ1つ見て回った。1階のある部屋に踏み込んだ。そこでSS(ナチス親衛隊)のマークを付けた7人の兵士の死体を発見した。6人の死体が円を描くように横たわっており、中央に1人の死体があった。
彼らはそのまま通り過ぎようとした。その時、兵士の1人が、死体の様子はおかしい事に気づいた。仲間を呼び止めた。
彼らは改めて7人の男の死体を眺めた。円の中央にあおむけに倒れている男の両手は祈るようにしてしっかり組まれていた。その手に、緑色の手袋がはめられていた。
彼らを驚かせたのは、男の顔が東洋人、それもチベット人だった。円を組むように横たわる死体のすべてがチベット人、しかも皆同じように緑色の手袋をはめていたのだ。
チベット人達は殺されたのではなく、何らかの儀式的な自殺を図ったらしいと判った。
7人の死体はいずれもドイツ軍の制服を着ているが、認識票もなければ、身分証明書も所持していなかった。遺体は整然と地面に横たわり、儀式用の短剣で自分の腹を刺し貫いていたのだ。
この事件を皮切りとして、ベルリンの至る所で、数百体ものチベット人の死体が続々と発見される。
ヒトラーが自殺した日以降も、ベルリンは最後まで頑強に抵抗する部隊があった。特にベルリンの通信管理センターでの戦闘は激しかった。この管理センターからは千人のチベット兵の遺体が発見された。彼らはヒトラーの近衛兵でも側近でもないのに、最後の一兵まで命を賭して戦っていたのだ。
奇跡の誕生
平成20年(2008年)4月1日。
神埼昭太郎は満30歳の誕生日を迎える。と言っても祝ってくれる人はいない。神崎は小さなケーキを買ってきて、自分1人で祝っている。寂しいという思いはない。小学校の頃は、4月馬鹿と揶揄され、いじめられた。今はそれも懐かしい思い出となる。
--お前が生まれたのは奇跡なんだよーー何度も両親から聴かされている。自分は特別な使命を持ってこの世に生まれたと信じてきた。
その両親も、もういない。
昭和53年(1978年)彼が生まれたとき、父は60歳。母は45歳だった。2人とも晩婚で子宝に恵まれることは諦めていた。それがある事件をキッカケとして、昭太郎が生まれた。
昭和50年、神崎家に1人の男が転がり込んできた。
夜間、飼い犬の柴犬が庭でけたたましく吠える。何事かと、両親が金属バットを手にして庭に飛び出す。見ると外灯の光に照らされて初老の男が倒れていた。頭から血を流して息も絶え絶えであった。
後年、その時の情景を父は詳しく話してくれた。
神崎の家は知多半島の半田市の東大矢知町にあった。半田市内の最北に位置する。高台で、西の崖下約1キロ先に新日鉄の宮津団地が広がっている。その先は阿久比町の市街地である。
神崎家の周囲は田や畑、果樹園の温室で占められていた。東大矢知町の南5百メートル先に上池町の住宅街がある。昭和40年代に、神崎家はそこに約千坪の宅地を持っていたが、不動産屋に売却している。自宅周辺には約千2百坪の土地があった。トマト、イチジク、ミカンなどを栽培していた。昔は農協に卸していたが、近くのスーパーで委託販売するようになった。
昭和50年代、夜間、果樹を盗む不審者が続出。そのため温室の果樹園の周りに街路灯を設置。柴犬を3匹飼う。玄関先と果樹園の3か所に犬小屋を置く。
血だらけで庭先に倒れていた男は意識はしっかりしていた。両親の姿を見ると、助けを求めて一時気を失う。驚いた両親は男を自宅内に運び入れて介抱する。しばらくして、男は息を吹き返す。傷の手当てのため、病院に連れて行こうと話すが、男は父の手を取り、ここに匿ってほしいと懇願する。
病院に行けない理由でもあるのだろうと察した両親は自宅内で治療する。幸い、おびただしい出血の割には、傷が浅く、1週間ぐらいで回復に向かう。
男は礼儀正しく、無口でおとなしい性格だった。傷が癒えた後、深々と頭を下げる。そのうえでここにおいてもらえないかと頼み込む。
神崎の父は根が優しい人だった。男に何があったのか、興味はあったが、あえて追及しなかった。
・・・どうみても人を騙すようには見えない・・・
「気が済むまでここにいなさい」父の言葉に男は謝意を表す。
その日から男は果樹園の手伝いに精を出す。朝4時に起床。果樹園で利用するハサミなどの道具の手入れをする。
朝食は6時。7時から草むしりや果樹の手入れが始まる。果物の刈り取りは父の指示に従って行う。刈り取った果物は軽4に積んでその日のうちにスーパーに運び込む。
夕食は午後6時。7時からは自室にこもる。神崎の両親はテレビを観て過ごす。男は部屋に閉じこもったまま、持参してきた本を読んでいる。午後10時に就寝。
半年、1年とたつ。
男は自分の過去や、ここに来るまでの事は一切語らない。だが、黙々と精を出して働く姿に、両親の信頼が篤くなる。頃合いを見て、男は父に果物の品質改良を進める。その方法を男は実によく知っている。おかげで神崎農園の収入が上がる。
さらに驚くべきことが起こる。
今年の暮れにはどの果物の価格が上昇するか、男は占い師のようにピタリと当てる。父は男の指示に従って、季節に合った果物を栽培するようになる。毎日の夕食後の雑談で、男は多方面に渉る並々ならぬ知識を持っていることを知る。神崎家にはなくてはならぬ存在となる。
神崎昭太郎が生まれる約1年ぐらい前、男は色々とお世話になった。恩返しというほどの事ではないが、何か1つお礼をしたいと言い出す。
ーーお礼ーーと言っても、もう十分に神崎家のために尽くしてくれている。
夕食後の和やかな雰囲気の中だ。その時父は晩酌をしていた。ほろ酔い気分もあったろう。父としては冗談のつもりだった。
「子供がいてくれたらなあ」子供がほしいと、母と顔を見合わせる。子供がいなくて、このまま年老いていくのが寂しい。もらい児でもいいから子供がいたら・・・、人生の張りも違ってくるのだ。
「子供さんをお授けしましょう」男は真面目な顔で言う。
両親は顔を見合わせる。・・・まさか・・・2人とも子供が授かる歳ではないと思っている。
「ただし、1つ、条件があります」
男は普段の和やかな表情とは、うって変わって、厳しい顔で言う。
「お二人の寿命が短くなります」2人とも、生まれてくる子供の20歳の誕生日を見ることはないという。
2人は男の真意を測りかねて、黙っている。やがて父が意を決したように言う。
子供さえ授かれば、自分たちの命など問題ではない。母をみて了解を求める。母もうなずく。
その夜から3日間、男は奇妙な丸薬作りに精を出す。仁丹ほどの大きさの丸薬を両親に差し出す。食後に飲むように勧める。
「これは?」いぶかる両親に、
「回春薬です」男は至極真面目に答える。夜の営みがないと、いくら何でも子供は生まれない。
そして、男は自室に閉じこもって、毎日のように呪文を唱える。両親は騙されたと思って、男の指示に従う。昭和53年(1978年)4月1日に昭太郎が生まれる。
平成元年(1989年)
男は神崎家を出る。父に小包を託して、事告げる。
ーーこの児が30歳になったら、中を開けるようにーー
両親は事あるごとに、”お前は奇蹟の児だ”と話した。
牛島裕一
平成20年4月2日
神崎昭太郎は父の遺言通り、男から託された小包を開いた。
男の名は牛島裕一、神崎の家に転がり込んできたときは63歳。平成元年に神崎家を出て行ったときは77歳。この年神崎は10歳。彼は牛島を”おじいちゃん”と呼んでいた。
牛島は歳の割には骨格がしっかりとしていた。面長で柔和な表情をしていた。髪は白髪で3分刈りだった。眉毛も白く一文字に結んだ唇。厳しい風雪に耐え抜いた顔立ちは近寄りがたい威厳を漂わせていた。目元の柔和さがその厳しさを感じさせなかった。
彼は昭和天皇崩御の後、忽然と姿を消す。彼が神崎の家に転がり込んできた時は、1つのリュックサックだけ。その中には衣類や3冊の本がはいっていた。神崎家を去ったとき、本だけ持って出て行った。
牛島の遺品の小包は、昭太郎が16歳のとき、父から手渡された。と言っても書類棚の鍵だけである。
牛島は神崎の家に多くのものを残していった。彼は1日も休まず働きつづけた。どんな日でも朝4時に起きる。果樹園の仕事を最優先にして、日中の暇なときは神崎の父と相談して、家の中に棚を作ったり、部屋の改装をしたりする。
神崎の家は築150年で、元々酪農家だった。建物は80坪あるが、住居は4部屋のみ。あとは8帖の台所と、仮小屋のような便所と風呂場。残りは土間の作業小屋だった。
牛島が神崎家に来た当初は、南側に150坪の庭、2枚引きの玄関引き戸、玄関内側の10帖の三和土と、その西側が田の字型の和室と北側にはベニヤで囲っただけの五右衛門風呂と便所があった。三和土の東側は10帖の作業小屋となる。
牛島は部屋の改装や台所を新しくしたり、使用されていない作業小屋を住まいに作り替える。
今・・・、神崎昭太郎は我が家を振り返ってみる。建物は古いがきれいに内装ができている。素人離れした仕事だ。
昭太郎が今いるのは、西奥の牛島が寝起きしていた部屋だ。壁や天井は花柄模様のクロス張り。壁には作り付けの洋箪笥がある。牛島の小包はその箪笥の引き出しに入れてある。
父は昭太郎が19歳の時に死んでいる。母は昭太郎15歳の時に亡くなっている。二人の死に共通するのは寿命が尽きたように、眠るがごとく永遠の眠りについた事だ。
鍵を預かったとき、父は言った。
ーー何度、小包を開けようかと思った事か。何が入っているのか、好奇心に打ち勝ったのは、引き出しを開けようと思った時、心の中にどっしりとしたものが入り込んでくる。金縛りにあったように体が動かなくなるのだ。--
父の言葉はそのまま、神崎昭太郎にも当てはまる。30歳の誕生日まで、小包を開けてみたいと何度も思った。鍵を鍵穴に入れる。急に心が重くなる。体が石になったみたいで自由が利かなくなる。
・・・おじいちゃん・・・牛島の厳しい顔が浮かぶ。鍵を鍵穴から抜くと心が軽くなる。束縛から解放された気分になる。
今ーー鍵穴に鍵を差し込んでも、心には何の変化も起こらない。引き出しを開ける。
・・・何かとんでもないお宝でも・・・心がときめく。
小包は麻縄で十文字に封印されて、白い紙で包まれている。何の変哲もない。A4の大きさ、厚さは10センチほど。麻縄を解いて開封する。出てきたのは、一冊の大学ノートと、1万円札の束が10。
1千万円の札束はお宝に違いない。だが腑に落ちないのは、この大金を牛島がどうやって手に入れたのか。
彼が神崎家に転がり込んできたときは無一文と聞いている。神崎家で働くようになっても月々の手当ては10万円。彼は自腹を切って、内改装の材料を購入している。彼が神崎家にいたのは14年間。単純計算しても1年で120万円14年で1680万円になる。しかし牛島が神崎家のために使った金は1か月6~7万円になる。彼はこの金をどこから調達したのか。
思い当たることは、株の売買だ。父は阿久比町にある証券会社から株を買っていた。値が上がれば売るが、いつも儲かるものではない。
父が昭太郎に、不思議そうに語ったことがある。
父が株を買う時、牛島はーーこの株を買うといいですよ。半年後には3割の利益が出ますーーこう言ってある特定の株を勧める。実際にその通りになった。
もしかして、牛島も株の売買に手を付けていたのではないか。
・・・おじいちゃんは不思議な人だった・・・
彼は神妙な面持ちで大学ノートを開く。中身は昭太郎に宛てた手紙だった。驚くべき事実が書かれていた。
牛島の手紙
手紙の冒頭に書かれてあることは・・・。
牛島裕一は本名を牛込留吉といった。生まれは岩手県釜石市のある農家の6男として生まれた。貧しい生活のため、両親は生まれて間もない彼を、近くのお寺に預けた。
牛島裕一は彼が世話になった住職が付けたものだ。住職には子供が無かったので、後継ぎとしてもらわれた。
牛島は利発で、物覚えもよかった。長ずるにしたがって、牛島には特殊な能力が現れだした。
若い男女が寺に参詣に来る。近い将来の結婚について、祝ってもらうためだ。
・・・和尚、あの二人、半年後には別れるよ・・・まだ7つぐらいの牛島が大人顔負けの声で言い放つ。
商売繁盛のご祈祷に来る参拝者に、近いうちに破産して夜逃げすると話す。
牛島の言い放つ言葉はことごとく当たる。近所の評判になる。思慮深い和尚は、彼の能力をもっと研鑽すべきだと感じていた。立派な寺の跡継ぎにするためにも、こんな田舎の寺で朽ち果てさせてはならぬと決心する。
牛島が13歳の時、チベットへ修行に行かせた。
和尚は若いころからチベット僧と交流があった。たまたま日本に留学に来ていたチベット学僧が帰国することになった。これを奇遇とした和尚が頼み込んで一緒に連れて行ってもらうことになった。
牛島が帰国したのは24歳の時。
昭和13年(1938年)
牛島が26歳の時に、牛島が教えを謂うたチベット僧から連絡が入る。
ーー8月16日に、ナチス・ドイツの汽船グナイゼナウ号に乗って、横浜港に降りる。日本のある場所に行きたいので案内を乞うという内容だーー
当日、横浜港にはヒトラー・ユーゲントを歓迎する群衆であふれていた。船から主賓が下船して、群衆の影がまばらになった後に、7人のチベット人が降りてきた。彼らは一様に、黒の洋装に、山高帽という、目立たない服装だった。
彼らの1人が、牛島にチベット密教を教えた師である。
「ウシジマ、我々は君の故郷の五葉山に行きたい」流暢な日本語で語りかける。
当時、自動車は金持ちの乗り物だった。庶民には高根の花だった。交通機関は鉄道である。
牛島たちが岩手県釜石市のお寺に到着したのは2日後の事だった。このころは牛島の育ての親の和尚も健在だった。7人のチベット人を温かく迎える。
3日ばかり骨休みした後、チベット人達は和尚と牛島に向かって「五葉山に登りたい」と言い出す。
和尚と牛島は顔を見合わせる。
五葉山は住田町、釜石市、大船渡市にまたがる1341メートルの山である。この山は登山道のあちらこちらに小さな祠が建っている。信仰の山だ。観光目的での入山は許されない。
奇しくも、この年(昭和13年)の冬に酒井勝軍が登山している。酒井の目的は超古代日本の幻の金属”ヒヒイロカネ”を探し出すことだった。彼は五葉山をーー日本のピラミッドーーと呼んだ。
チベット人たちは、五葉山が信仰の山であることを充分に承知していると話す。
「我らの目的は、この山で、チベット密教の秘儀を行う事にある」と話す。チベット密教の特徴は超能力開発のための修行を主目的としている。
翌日から、チベット人たちは牛島を案内として、五葉山に登ったり、周辺を探索したりする。
五葉山は巨石が群生する山である。日本古代の巨石文明の中心地でもある。これらの巨石群は磐座と呼ばれる。一説には五葉山とは、太古、神が巨石に封印した時の5本の指を表すと言い伝えられている。
9月10月と、彼らは丹念に五葉山と周辺の山々を探索して回る。五葉山に入るときは必ず五葉山神社に詣でている。10月下旬、7人はチベット密教僧の正装の装束に着替える。牛島を従えて、五葉山神社まで登る。牛島にここで待つ様に言いつける。時刻は朝9時。
7人の僧侶は装束に似つかわしくない緑色の手袋をはめる。粛々と五葉山の山頂を目指して登っていく。
牛島が待つこと3時間、正午過ぎに下山してくる。五葉山の山頂で何が行われたのか、何も語ろうとはしない。
11月12日、7人のチベット人達は、旅館でささやかの惜別の会を催している。その席上、牛島の師であるチベット人から一通の手紙と封印された手箱を渡される。
手紙には、お礼の言葉と共に、日本の元首(天皇)がお隠れになられた時に手紙を開けるようにとの文面と、将来牛島の意思を継ぐ者が現れるという予言めいた言葉が書かれてあった。
そして戦後、牛島が知ったことは、ナチス・ドイツの首都ベルリンが陥落したとき、7人のチベット兵の死体があった事実だった。
あの日、横浜からグナイゼナウ号が出航する直前、牛島の恩師が、彼の手を握り、囁いた言葉がよみがえる。
ーーハーケンクロイツの秘法を探せーー
神崎はここまで読んで、茫然自失する。引き出しの横にある、母の遺品の三面鏡を見る。三分刈りの自分の頭が写っている。彼は中肉中背。運動神経が鈍い。幼いころから苦労知らずで育っている。手島のおじいちゃんにはかわいがられている。頭の良さも普通。小学校、中学校と成績は中程度。これといった取り柄はない。温厚な性格だけが唯一の取柄かもしれない。
丸顔で眉は太く、目は切れ長。顔に比べて長い鼻に、小さな唇。印象の薄い表情だ。
毎日が平穏に過ぎていく。1日の仕事が終えると、テレビを観ながら、一杯飲んだり、友人を誘って居酒屋に駆け込んだりする。体は頑強にできている。これも取柄かもしれない。
牛島の予言
牛島の手紙には神崎が予期しなかったことが書かれてあった。おどろおどろしい内容だ。小説の世界なら面白そうで済む。手紙の中身は神崎も関係しているのだ。
牛島の手紙は続く。
昭和13年、牛島27歳だった。将来は寺を継ぐつもりだった。チベットまで行って厳しい精神修行したのも、寺の繁栄に結び付くと考えたからだ。お寺を支える信者の数も知れている。お布施や祈祷、葬式のお勤めだけでは寺はやっていけない。
寺の補修も自分たちでやる。境内地の一部で野菜を栽培する。自給自足を目指すしかない。
手島が菜園作りや大工仕事に達者なのは、こうした経緯があるからだ。
7人のチベット人を横浜港で見送ってから、お寺で和尚を補佐しながら、ハーケンクロイツの秘法とは何かを考え続けていた。
後年日本はナチス・ドイツと同盟を結ぶ。当然ヒトラーに関することであろう。当時ヒトラーは世界的な有名人であった。彼に関する資料も多かった。
残念なことに、牛島の住む街には図書館がなかった。本屋はあったが規模が小さく、ヒトラーに関する本は東京の出版社まで問い合わせねばならなかった。貧乏寺には沢山の本を買う余裕がなかった。爪に火を灯すような思いで金をためて本を買う。多くの本を購入することは難しかった。
やがて日本は第二次世界大戦に突入する。戦況は悪化。いくら片田舎でも、じっくりと本を読んでいる暇はない。
終戦となる。多くの若者が戦争に取られて町は寂れる。和尚も亡くなる。寺の経営が牛島の肩にのしかかる。
7人のチベット人がベルリンで死んだと判ったのは昭和30年代に入ってからだ。彼らが五葉山を歩いたチベット人だという証拠はない。だが牛島は確信していた。
世の中が落ち着きを取り戻す。町の人口の増えていく。寺の信徒も次第に増加していく。寺の経営も安定していく。牛島は収入の大半を書籍の購入に注ぎこむ。
ーー7人のチベット僧が何故日本にやってきたのか。五葉山に登って、ここで何をしたのか。ベルリン陥落の時、どうして自殺したのか、それとハーケンクロイツと、どいう関係があるのかーー彼なりに調べつくしたのだ。
昭和43年、牛島56歳の年。
大きな事件が持ち上がる。彼が苦労して集めた資料や書籍すべてが盗まれたのだ。
お寺は本堂の側に庫裡屋がある。そこは台所兼食堂だ。葬式の時、多くの参拝者が食事を摂る。庫裡屋の奥に牛島の居室が2部屋ある。一部屋が寝室兼応接室。もう一部屋が書斎。ここに本棚を作って、集めた本や資料を保管していた。お寺は開け放しで、鍵をかけたこともない。
牛島が一泊で隣町に出かけたすきにごっそりと盗まれた。泥棒はヒトラーに関する本や資料、メモ書きしたノートを盗んでいった。お金や仏像には一切手を付けていない。
牛島のショックは大きかった。他人様の将来は予見できても自分の将来は予知できなかった。
ーー和尚さんは大丈夫かーー牛島の予知能力に疑いをもつ信徒が増える。
牛島にとってのショックは、彼がやっていることを知っている者がいるということだ。ヒトラーに関する調査は誰にも話していない。この頃ヒトラーに対する評価はすこぶる悪いし、変な目で見られるからだ。
ーーハーケンクロイツの秘法は自分の手で解明するーー
牛島は横浜港で恩師と別れて以来、心に決めていたのだ。これは恩師から与えられた使命と考えていた。
牛島の決意が揺らぐ。3日間の水垢離を行う。4日目の深夜、本堂に籠って瞑想に入る。眉間に意識を集中する。闇の中に一点の光が見える。それがだんだん大きくなっていく。晴れた空のように眉間一杯に広がる。
恩師の姿を想起する。恩師の顔が細部まで生き生きと映し出される。次に恩師の声を思い出す。
牛島がチベットで習得したチベット密教、死者との対話の秘法である。
ーー恩師、ハーケンクロイツの秘法を探せと言われました。
ーーよくぞ、探しおおせた。
ーーすべての本や資料が盗まれました。
ーーそれでよい。お前の頭の中にある。盗んだ者を詮索するな。
ーーこれからどうしたら・・・
ーーハーケンクロイツの秘法はお前が行ずるのではない
恩師との対話はまだ続く。
1時間後、牛島は本堂の暗闇の中で目を覚ます。牛島はこれからの自分の使命を会得する。
60歳になった年、牛島は信徒に寺を預ける。そのまま出奔する。各地を転々とする。工事現場で働いたり、建築現場で大工の真似事をしたり、肉体労働で日々の糧を得る。
”ハーケンクロイツの秘法を行ずる者”を探すために各地を渉り歩く。
63歳になる。愛知県にやってくる。名古屋から知多半島に入る。東浦から半田の上池町にやってくる。ここから阿久比町に行こうとした。夜9時を過ぎている。大矢知町で一軒家の軒下を借りようと考えていた。
その時だ。牛島は何者かに鈍器で後頭部を殴られた。殴った者を突き飛ばす。必死になって駆け出す。前方に明かりが見える。犬がけたたましく吠える。玄関先まで駆け込む。
牛島はここで神崎の両親に救われた。
ーーこの時、私が探し求めていたのは、この家の住人と悟りました。3年間、放浪生活を送り、いろいろな人と会いました。しかし、襲われたのはこれが初めてです。襲った者は私をこの家に入らせまいとしたのですーー
神崎家に世話になる。夫婦が子供を求めていることを知る。牛島は自分が求めている者はこれから生まれてくる子供と悟る。チベット密教の秘儀を使って、夫婦に子供を授ける。ハーケンクロイツの秘儀を行ずる。その運命を担わせるためだ。
以下牛島の予言が続く。
ーー昭太郎君、おじいちゃんの言う事をしっかりと聞いてほしい。君は30歳の誕生日を迎えたら、この小包を開く。間もなくして、君の農園と自宅を借りる者が現れる。君は長年住み慣れた家を後にする。1年後、君の伴侶が現れる。ハーケンクロイツの秘法探しの旅が始まる。
ハーケンクロイツの秘法は君の手でゼロから探してほしい。苦労が続くだろう。私が見守っている。
2013年、ハーケンクロイツの秘儀に遭遇するだろう。その時、君は・・・。
また私と会えるだろうーー
神崎は3面鏡の中の自分を見つめる。
・・・おい、大変な事になった・・・自分に語り掛ける。今は食うに困らない身分だ。農繁期に近所の主婦が応援に駆けつけてくれる。このままのんびりと一生がおくれれば御の字だと思っていた。
・・・おじいちゃんの予言は当たる・・・両親からも聞いている。
鏡の中の神崎は不安に怯えている。
ハーケンクロイツなんて、ヒトラーの事さえ何も知らない。何で俺が・・・。愚痴ばかりが出てくる。それでも神崎はよろよろと立ち上がる。
出発
牛島の予言通り、その年の7月、阿久比町の知り合いの不動産屋が神崎農園を訪れる。
「大手の外食チェーン店が、ここを全部借りたいと言っている」
話を聞くと、神崎の家を食堂に改造する。農園の一部を整地して駐車場にする。果実菜園で出来る果物や野菜を料理として提供する。新しい型の外食産業を試みたいと言う。
・・・これも運命か・・・賃貸条件は悪くない。神崎は不動産屋に一任する。
借り手は来年早々にも営業を始めたいという。神崎は9月一杯で立ち退きを承諾する。
9月中旬に、東浦のJR東浦駅の西の高台で、中古住宅を購入する。北に東浦高校が見える。土地が70坪、建物は築20年で40坪の物件だ。改装に多少の費用が掛かったが、紹介してくれた不動産屋はお買い得物件だという。
神崎がここを選んだのは、急な崖地の上にあり周囲は樹木でおおわれている。外部からは目立たないこと。家の中からは、周囲の景色がよく見えることだ。牛島は資料が盗まれたり、襲われて怪我を負っている。神崎も襲われるかもしれないと考えたのだ。
パソコンを購入。インターネットも始める。パソコンの操作を本で読んで、見よう見まねで会得していく。必要な資料や本はパソコンで検索できる。
半田の大矢知町に住んでいたころと比べると、家の中は随分と便利になった。風呂はユニットバス。台所はシステムキッチン。大型の冷蔵庫、クローゼットもたくさんある。2階の6帖2間は壁を取り払う。書斎として使用する。パソコンも設置する。
東浦駅まで徒歩10分。坂道なので車で移動する。駅前には大型スーパーがある。喫茶店もあれば居酒屋もある。駅前広場は東浦でも有数の繁華街となっている。買い物も便利で地の利もよい。
・・・これから何が起こるか・・・何が起ころうとも腹をくくるしかないのだ。
東浦に引っ越して落ち着いたのは11月だ。友人や知人に引っ越しの案内状も送付済み。友人たちが新居を見に来る。神崎昭太郎はそれがうれしかった。
平成21年正月過ぎ。
神崎はインターネットを検索してヒトラーやハーケンクロイツに関する資料を求める。ヒトラーに関する情報はおびただしい量になる。だがハーケンクロイツ(鉤十字)に関する資料はそれほど多くない。ハーケンクロイツの秘法となると、情報は皆無。
神崎は失望感を隠さない。簡単にわかると思っていたのだ。一つ予測し得ることは、これはヒトラー個人に関する秘儀ではないかと考えたことだ。
・・・じっくりと腰を降ろして始めよ・・・
ひと牛島のおじいちゃんに言われているような錯覚にとらわれる。
神崎はおびただしい量の資料を整理する。
杉本宏一
平成21年上旬
1人の男の訪問を受ける。神崎の新居は建物は古いが家の中を全面的の改装している。外壁のサイディングも塗料を塗りなおしている。北側は4メートルの道路に接している。坂道で神崎の家のあたりが頂上になる。北側玄関で、上がり框から階段がある。階段の下にトイレや物置がある。玄関右手に洗面室や浴室がある。玄関を上がって1メートル先にドアがある。ドアのおくがダイニングキッチンと、8帖の洋間である。友人と一杯やるときはこの部屋を使う。
朝10時、紳士然とした初老の男が玄関のチャイムを鳴らす。テレビモニターが台所や2階の書斎にある。
「どちら様でしょうか」ダイニングキッチンでコーヒーを飲んでいた神崎は誰何する。物売りではないようだ。
「杉本と申します。山本さんからのご紹介で・・・」友人の名前を出す。
神崎は玄関のドアを開けて男を招き入れる。金縁の眼鏡をかけて、白い口髭をはやしている。上下そろいの鼠色の洋服を着ている。礼儀正しく、一礼すると名刺を差し出す。
”杉本インターネット広告代理業、代表杉本宏一、住所は刈谷市”とある。温厚な顔立ちで神崎を見ている。
真冬で玄関先での立ち話は寒いので、ダイニングキッチンに招き入れる。コーヒーを勧める。
「どのようなご用件でしょうか」神崎の一声。
杉本は手にした手提げかばんの中から、1枚のパンフレットを取り出す。テーブルに広げる。みると、あなたのパソコンでアルバイトしませんがと書いてある、以下杉本の話。
現在、携帯電話やパソコンは1人が1台所有するほどに普及している。私の会社は、日本全国の大手スーパーから、専門店に至るまで幅広い業種で販売促進のお手伝いをしている。
販売促進というと、インターネットでの広告や、身近な処では新聞の折り込み、テレビでのコマーシャルなどがある。
新しい広告媒介として、個人のインターネットが注目されている。お友達同志のメールのやり取り、会社の商取引など、幅広く利用される世の中となっている。
ーーあなたのメールに私の会社の名前と業種を載せさせてほしいーー
つまり神崎が友人の誰彼にメールを送ると杉本インターネットと業種の詳細も一緒に送られる。神崎からのメールなので受信する相手も安心してメールを開くことができる。
ーー私の会社を通じて、商品が売れたらリベートが支払われるーー
「都合が悪くなればいつでも解約できます」杉本は笑顔を絶やさない。
「山本に尋ねてもいいか」神崎の問い。杉本はどうぞとばかりにうなずく。
山本に電話を入れる。杉本インターネット・・・という会社の代表者が来た。山本の紹介だというので話を聞いた。
山本からは信用できる会社なので、ぜひ入ってくれという。
お金は一切かからない。登録すれば、パソコン上の設定は杉本のほうでやってくれる。神崎は山本の言葉を信じて、登録することにした。ただ、彼は今まで一度も友人や知人にメールを送った事がない。キーボードで文字を打ち込むのが苦手であることと、電話のほうが手軽なのだ。
それから終日後、杉本インターネットから契約内容、商品の販売の紹介、困りごと相談などの無料相談コーナーが送られてくる。山本からもメールが送られてくる。そこには杉本インターネットの広告が入っている。
ヒトラーの生い立ち
2月中旬
寒い季節なので外に出る気もしない。東浦駅前のスーパーは一週間に一回の配達の巡回サービスを行っている。電話で野菜、果物、肉類などを注文する。一週間分を大型冷蔵庫に入れておく。
久しぶりに2階の書斎に籠る。ヒトラーに関する資料の中から、彼の生い立ちについて調べる。
1889年4月20日、ヒトラーはオーストリアとドイツとの国境にある都市ブラウナウで生まれる。父アロイス・ヒトラーと母クララ。
ヒトラーには5人の兄弟がいた。妹パウラを省いた4人は幼児や乳児の時に夭折している。”早死に”の血の系譜に生まれたことに対する恐怖心に囚われていた。生涯ヒトラーの深層に取り付き、苦しめた。
通説によると、彼の父は下級官吏としてみじめで不遇な生活を送っていた。怒りっぽく、飲んだくれで、妻や子供を殴る暴君だった。妻のクララは夫の暴力と貧乏のためにヒステリーとなり、”白髪頭のおしゃべり女”となっていたーーと言われる。この説は大戦後ヒトラーに対する厳しい見方の中で唱えられている。
事実は、父は税関の上級事務官で、当時の小学校長よりも高い俸給を得ていた。退職後も勤務時代の本給をそのまま恩給としてもらっていた。飲んだくれではなく、蓄財にたけていて、家計は豊かだった。リンツ市近郊の町に広大な庭園のついた高級住宅に住んでいた。
ヒトラーの家が貧しく暗い生活を送っていたとする通説が覆される。ヒトラー家は地方名士として上流階級に属していたのだ。父はオーストリア・ハンガリー帝国のドイツ民族系官吏で、ドイツ民族主義者だった。自由主義の持ち主で幼いヒトラーに極右思想をつぎ込んだ形跡もない。
母クララは47歳で死ぬまで白髪もなく、ヒステリーでもなかった。穏やかで愛情に満ちていた。
ヒトラー自身は、”村始まって以来の神童”と言われた。頭がよく、利発で、村の子供たちのリーダー的存在だった。
16歳のヒトラーはドナウ河畔の町リンツの国立実科学校に進むが落第を繰り返し、受験に2度も失敗している。このため彼の伝記作家は”これ以後のヒトラー”を落ちこぼれと書く。
ヒトラーは裕福な家庭で育てられ、幼いころから両親にかわいがられた。6歳で読み書きを学び、村の学校ではオール5の優等生で、ベネディㇰト派修道院の少年合唱隊のメンバーでもあった。
ヒトラーはリンツの町で、美術館やオペラに通う。親しい友人と深夜の町や野原をさまよい歩く。勝手気ままな生活を送っていた。
当時、ヒトラーと行動を共にしていた唯一の親友アウグスト・クビツェㇰの証言によると、その深夜の彷徨のさなか、ヒトラーは度々、突然の陶酔状態に落ちたという。
1月の寒気の中、丘の上で、ヒトラーは急に”不吉と言ってもよいほどの表情”を浮かべる。熱にうなされたような目で、耳ざわりなしわがれた声で話し始める。ヒトラーはまるで見も知らぬ人間のようになる。
ーーいつの日か、彼に委ねられる特殊な運命ーーについて火山が噴火するような勢いで演説を始める。このような幻視体験は、家にいるときにも起こっている。
ここでヒトラーの持つ特異な才能について語られる。ヒトラーが生まれたブラウナウは、古くから数多くの霊能力者を生み出す霊媒地方として知られていたのだ。
1930年代、心霊実験で、物体の空中浮揚を演じた、シュナイダー兄弟がこの土地の出身だった。しかも、ヒトラーはこの兄弟の兄、ウイリーと同じ乳母の手で育てられている。
1907年1月、
ヒトラー17歳の時、母クララはアルト・ブロッホ博士の診察にかかった。この博士はユダヤ人の名医でリンツの人々から貧者の医師として尊敬されていた。
母クララを診察したブロッホ博士の診断は絶望的だった。クララは末期症状の乳がんであった。博士の宣告を聞いたヒトラーは泣きに泣いた。
クララはリンツの修道女会病院で手術を受ける。ヒトラーは必死に看病を続けたが、絶望的な状況だった。クララは同年12月21日未明に息を引き取る。
ブロッホ博士はクララの亡骸の傍らで泣き崩れるヒトラーの姿に釘付けとなる。
「私は40年近く医者をやってきたが、あの時のヒトラーほど悲しみに打ちひしがれた姿を見たことがない」ブロッホ博士の回想である。
このブロッホ博士に対してヒトラーは涙をふきながら頭を下げた。
「先生に対する感謝の念を私は一生忘れないでしょう」
のちにブロッホ博士はアメリカ合衆国に亡命する。アメリカの雑誌”コリアーズ”にヒトラーについて書いた。
「1938年、オーストリア合併の際、ヒトラーはリンツのナチ党員達を前にして、私を高貴なユダヤ人と呼んだ。ヒトラーは私の出国の手続きが整うまで、リンツでは唯一のユダヤ人として私をゲシュタポの保護下に置いた。
私の知る限りでは、全ドイツあるいは全オーストラリア中のいかなるユダヤ人にも与えられなかったような特典が私には与えられた」
神崎はメモ書きの手を休める。彼は20世紀の記録と題するドキュメンタリー映画のDVDも購入していた。主にヒトラーが政治家になり、ドイツの支配者となる。ヒトラーの死までを記録として収めた映画だ。
ヒトラーの演説の声と共にナレーターの声が時代背景を語る。ナレーターの声から感じられることは、ヒトラーを世紀の大悪人として語っていることだ。
だが、これらのドキュメンタリー映画は、ヒトラーが政権を握った後に、国内外にナチス・ドイツの宣伝用に作られてることだ。ナレーターの声とはちぐはぐな印象を受ける。
第2次大戦後、ヒトラーの評判は悪い。伝記作家もそれに便乗した形でヒトラーを悪く書く。
ーーこれではヒトラーの真の姿を見いだせないーー
神崎はインターネットで検索できる、ヒトラーの膨大な情報量の中から、ヒトラーに比較的好意的な情報にも目をつける。
出会い
平成21年3月中旬
杉本インターネット広告代理業からメールが送られてくる。
ーー3月と4月までお友達紹介のキャンペーンをやっている。お一人紹介いただければ1千ポイントの報酬を差し上げるます、というものだ。
杉本インターネットと提携している会社で商品を購入すると、1ポイント1円の割合で値引いてくれる。
・・・1人紹介すると千円くれるのか・・・軽い気持ちで数人の友人に電話を入れる。事情を説明する。
「教えてもいいよ」という返事だ。彼らのメール番号をメールしようと思ったが、思い直す。会社まで出かけて行って手渡そうと思った。
ここ2~3週間ばかり家から出ていない。息抜きのドライブもいい。杉本インターネットはどんな会社なのか見てみたい。
・・・6帖一間のあばら家だったら、契約は解除しよう・・・と考えた。
住所は刈谷市東境町となっている。国道1号線の北側、トヨタ車体と愛知教育大学のほぼ中間に位置する。予約なしの飛び込み訪問だ。車でゆっくり行っても30分もかからない。刈谷市は東浦町の東隣の市だ。南北に細長い。トヨタ系列の会社が多い。
東境町は市街地から離れている。田園風景が広がっている。住宅街も多い。スーパーや繁華街も軒を連ねている。住宅街と繁華街の中ほどに貸しビルが何軒かある。5階か6階建てが多い。杉本インターネットは貸しビルの3階にあった。駐車場に車を置く。ビルの一階は喫茶店や洋装店、ラーメン屋が店を開いている。2階から上が貸事務所のようだ。
3階の約半分を杉本インターネットが場所を占めている。ドアが2か所ある。神崎はドアを開けて店内に入る。カウンターがあり、その奥は10名ほどの男女がパソコンとにらめっこしている。カウンター越しにキーボードを打っていた女性が「いらっしゃいませ」神崎の顔を見て声をかける。キーボードを打つのをやめて、神崎と対面する。
神崎は用件を述べる。
「それはどうも、わざわざありがとうございます」女性はこちらへどうぞと、カウンターの奥の一室に案内する。神崎はソファーに腰を降ろす。
「しばらくお待ちください」女性が応接室から出ていく。入れ代わりに、白い口髭をはやした杉本社長が入ってくる。金縁の眼鏡が天井の蛍光灯に反射する。
「これはわざわざ、恐れいいります」礼儀正しく、腰が低い。
「メールで送っていただければよろしかったものを・・・」杉本社長の口調は柔らかい。
「いえ、お宅がどんな会社か興味がありましたので」神崎は三分刈の頭に手をやる。
応接室のドアが開く。先ほどの女性がコーヒーを運んでくる。女性は社長に何事か耳打ちする。社長は軽くうなずく。女性が出ていくと、神崎は自分のような客は何人ほどいるのかと質問する。
ーー豊田、刈谷、大府、それに知多半島全域で、約10万人。それと、自分たちのような業種は全国でも2百社。世界規模で5千社になる。組合組織を作って、相互に連帯しあっている。今後数年で百万人の加盟を見込んでいる。--
杉本社長の口は滑らかだ。「ところで神崎さん」
今度は杉本社長が質問する。
「パソコン歴は何年ですか」
神崎はまだ3年ばかりと答える。パソコンを購入した動機はインターネットを検索するためだ。
「では相当パソコンの操作はお詳しい・・・」と杉本社長。
神崎は手を振る。インターネットで買い物をしたり、辞書代わりの使ったり、ワープロを打ったりするのが関の山だ。
セキュリティの管理など全く分からない。だから何らかのトラブルがあったときはお手上げで、目下半田でパソコン教室を開いている人に相談している。
「どうでしょう、我が社に登録されませんか」杉本社長は以下のように話す。
登録料は1か月1千円。パソコンの操作、ウイルスに感染した時の処理法、その他パソコンの買い替えなど、パソコンに関することに相談に乗るというものだ。
神崎はその場で登録をする。パソコン教室の先生に来てもらうと1回5千円取られる。大体、2~3か月に1回はパソコンのトラブルに見舞われる。1か月1千円なら安いと思った。
1時間ばかり杉本社長と話し込む。昼近くになる。杉本インターネットを出る。刈谷市の繁華街に入って、ラーメン屋で昼食を摂る。自宅に帰ったのが昼の2時。
調べ物の準備をする。幼いころのヒトラーは裕福であった。通説にあるような、貧乏暮らしではなかったとみている。歴史とは勝者の記録と聞いたことがある。もしヒトラーが戦争に勝っていたら評価は違ったものになっていたはずだ。
・・・これからが本番だ・・・資料は厖大な量にのぼる。ヒトラーへの酷評がほとんどだ。それはやむを得ない事実としても、ハーケンクロイツの秘法にたどり着くには、それでは困難とみる。資料の整理は慎重を要する。
それから3日後、朝10時に電話が鳴る。
「杉本インターネットの浅川と言います」はきはきとした女の声だ。杉本インターネットに登録したお礼と、挨拶に伺いたいが、都合はどうかと言うものだ。
神崎はめったに外出しない。いつでもいいと答える。電話口の向こうから明日の午前中に訪問するという返事が出る。
翌朝10時玄関先に現れたのは若い女性だ。差し出した名刺には、杉本インターネット、パソコン相談部、浅川ゆみとある。紺の制服がよく似合う色白の肌をしている。髪は肩まである。丸顔だ。目が大きく目鼻立ちが整っている。ショルダーバッグを肩にかけている。
応接室に招き入れる。明るくはきはきした性格のようだ。キッチンからコーヒーを持ってくる。
「お1人でお住まいですか」浅川ゆみは室内を見回す。
神崎はそうだと頷く。
「随分殺風景ですね」無遠慮にいう。神崎は苦笑する。壁のクロスは白黒の市松模様。絵画などを飾ればと、友人に忠告されたがそういったことにはまったく興味がない。
「よろしければパソコンを見せてもらえますか」浅川ゆみは射るような眼で神崎を見つめる。
神崎は2階の書斎に案内する。画面が表示されるまで4~5分かかる。こんなものだろうと、神崎は気にしていない。アイコンが表示されると、浅川ゆみはキーボードを操作する。打ち方がうまい。
「パソコン古いですね」
「3年前に中古で買いました」インターネットで買い物をしたり、資料を検索する程度だ。使えればそれでよしとしとしている。
「買い替える気持ちはありませんか」浅川はずばり切り込んでくる。商品の売り込みだが嫌味はない。はきはきした物言いに好感が持てる。10万円も出せば良いパソコンが買える。是非買いなさいとと言わんばかりの口調だ。
神崎は浅川ゆみを凝視する。心の中に”ほのかな恋心”のような情が湧く
「パソコンの設定なんか、あなたがやってくれますか」彼女はにこりと笑う。笑顔が可愛い。
「それと・・・」神崎は追い打ちをかけるように言う。自分はパソコンの操作をあまり知らない。別料金を出すから一週間に一回、2時間ぐらい、パソコンを教えてほしい。
浅川ゆみは大きく頷く。
・・・牛島のおじいちゃんの予言・・・神崎は彼女が近いうちに自分の嫁さんになるかも・・・。心中期待していた。
ヒトラーの青春
浅川ゆみと出会った事で、神崎の人生はバラの花が咲いた。彼女の趣味は何だろうか、そんなことを思い浮かべる。人生に1つの目的ができた。
・・・これが人生の張りというやつか・・・急に生きることが楽しくなった。
ヒトラーの青春、これから調べる内容だ。ヒトラーの青春時代もバラ色だったろうか。そんなことを思いながら机に向かう。
公式の伝記によるとーー1908年、ヒトラーは18歳の年にウイーンに出る。造形美術大学に入学試験を受ける。2回の受験に失敗。用意していた資金も底をつく。浮浪者として路上をうろつくようになる。それは孤独と荒廃と虚無への道だった。--今でもこのように記している伝記も存在する。だが色々な文献に丹念に当たってみると、ヒトラーは裕福な青年であることが判明する。
父の遺産からの年金だけでも月に83クローネ(新任の教師の月給が66クローネだった)受け取っていた。その上亡くなったばかりの母の遺産の5000クローネを受け取っていた。
そんな大金を懐に、5年半ヒトラーはウイーンの街に身を潜める。
そこで彼は絵を描いて売る仕事を始める。絵は主に風景画だったが、注文に応じて商業ポスターも書いていた。ヒトラーは1908年から1914年の間だけで、約2000枚もの絵を描いている。
伝記によると彼の絵は拙劣だったと言われている。しかし現在まで残っているヒトラーの絵はプロはだしの技術力を持っている。
彼の画風は古典的な写実調だった。当時の美術界は抽象画の隆盛期に差し掛かっていた。ウイーンもその傾向にあった。彼がウイーン造形美術大学の入学試験に不合格した理由は、絵の技術力が拙劣だったのではない。当時の流行から外れていたのが要因だった。
権力を得てからのヒトラーはひたすら古典主義芸術を擁護した。他の画風を認めなかった。ドイツの芸術は新古典主義一色となる。抽象画は頽廃美術として排斥された。
”浮浪者伝説”に彩られたこの時代を、ヒトラー自身、多くを語っていない。この時期、彼は単に絵を描いて売るだけの生活を送っていたのか、それとも絵以外に何か特別なことをしていたのか・・・。
この時期は芸術家から政治家へと大きく方向転換していく重要な時期だった。この時期の人生経験が、後のヒトラーの生き方に大きな影響を与えた。
イギリスの歴史家トレバー・レブンズクロフトはこの5年半の間、ヒトラーは呪師としての修行を積んでいたと述べている。
ーーこの期間、ヒトラーはウイーンの街で神秘領域の書物を専門に扱う古書店の主人、エルンスト・プレッシュと知り合う。プレッシュは神秘主義者で、メキシコで古代アステカ人やマヤ人の祭儀魔術の研究に勤しんでいた。
彼はヒトラーの素質を見抜いていた。彼に精神統御、内面的鍛錬の修行をさせた。目的への集中力、思考を事物のように操る想像力、激しく揺れる感情の抑制、根源的欲望の制御の修行を教える。その後秘蔵していたマヤの麻薬ペヨーテを使って、ヒトラーを神秘の領域に導いた。
ヒトラーの研究者は、この時期のヒトラーの公立図書館での読書傾向をリストアップしている。
古代ローマ、東方の宗教、ヨガ、神秘主義、催眠術、占星術・・・、聖書などは隅々まで読みこなしている。そこに、リグ・ベーダ、ウパニシャッドなど古代アーリア人の聖典、ゾロアスター教の経典ゼンド、アヴェスタやエジプトの死者の書が加わる。
正統派の歴史家トレバー・ローバーによると、ヒトラーが読んでいた書物としては、歴史と宗教に関する本以外に、地理学、工学、芸術史と建築学、軍事科学の天才カール・フォン・クラウゼイッツの著書を挙げている。
哲学の本ではショウペンハウアーがある。ヒトラーの秘書は、ヒトラーはショウペンハウアーの著書の、どの本の何ページに何が書いてあるか熟知していたと証言している。
アウグスト・クビツェㇰの証言
若き日のヒトラーには1人だけ心を許しあった親友がいた。彼の名をアウグスト・クビツェㇰという。
1905年リンツのオペラ劇場で知り合い、ウイーンで別れる3年間を親密に交際した。
彼の証言によると”アドルフ(ヒトラー)”は鼻筋が通っていてすっきりとした顔立ちだった。際立った目に特徴があった。こわばったような、貫くような眼光は見る者を圧倒した。力強く、表現力のある目つきで話す。この時ヒトラーの眼差しは変化に富み、ぞっとするほどだった。低くよく響く彼の声は目光に比較すれば大したことはなかった。
実際ヒトラーは目で話していた。口を閉じていても、彼が何を言いたいのか、クビツェㇰにはわかった。
クビツェㇰの母はヒトラーの第一印象をーーお前の友達はなんて目をしているのでしょう。母の印象は賞賛よりも驚嘆が籠っていた。
少年時代のヒトラーの非凡性について、クビツェㇰは”目”と述べている。ヒトラーの弁舌の才も際立っていて洗練されていた。ヒトラー自身そのことは判っていて、好んで口舌をふるっていた。
クビツェㇰの証言が続く。
「アドルフはいつも本に囲まれていた。本のないアドルフを思い出すことなどできない」
ヒトラーの読書法は独特なものだった。
彼にとって重要なのは、目次や概要節だった。それから読み始めるのだが、最初のページからは読まない。いきなり核心部分を読む。この方法で得た知識は、彼の頭の中で整理され、しかるべき記憶部分に格納される。その知識は今読んだばかりのようで正確に記憶されている。彼の頭脳には無限の記憶倉庫があった。宮廷図書館から借りだした本は全部頭の中に入っていた。
大量の知識を得ることで、ヒトラーの記憶力はますます冴わたる。いつも宿題で苦しんでいた私(クビツェㇰ)から見れば奇蹟であった。
ーー彼の脳内には、宮廷図書館がまるごと入っているようだーー
ヒトラーは厖大な量の本を読んだ。習得した知識は優れた記憶力のおかげで、完全に自分のものにしていた。彼の知識はこの時代の20代の若者の水準を超えていた。
クビツェㇰはさらに言う。
ヒトラーは山と積んだ本から何か特定の事柄、たとえば活動の基礎や指針を探し求めようとはしなかった。無意識の内かもしれないが、彼は自分の中で活動の基礎や指針としてすでに”存在するもの”を本によって再確認しようとしていた。
ヒトラーにとって読書とは自己啓発というより、自己確認の意味合いが強かった。
ヒトラーはクビツェㇰと議論の後、1冊の本を取り出して勝ち誇ったように言う。
「見ろ、この本の著者も僕と同じ考えだ」
ヒトラーは朝が苦手な夜型の人間だった。
ヒトラーの夜話は習慣になっていた。クビツェㇰもベッドに入っても眠らなかった。ヒトラーは興奮して部屋の中を歩き回る。クビツェㇰが貧しい音楽学生ではなく、ドイツ民族の存亡を握っている権力者のように、情熱的に話す。
クビツェㇰにとって忘れられない思い出があった。
ーーある夜、アドルフは恍惚となって演説をした。ドイツ民族が受けている苦しみ、目前に迫る不幸、恐怖と危険に満ちた未来について、ヒトラーは涙を流して話した。
彼の話はこの時代に対する告発から希望に満ちた夢へと移る。全ドイツ人の帝国の建設について話す。
この帝国の力で、”移住民族(ヒトラーはドナウ帝国の他の民族)をこう呼んでいた”に思い知らせてやる・・・--
演説に夢中になるヒトラーは恍惚の中にいた。
これについてクビツェㇰは以下のように語る。
ーーヒトラーは自己演出について特別な感覚を持っていた。弁舌の才と併せると、彼は偉大な俳優の才能があった。彼自身そのことはよく心得ていた。
”このすばらしい能力を活かしてウイーンで、どうして活躍しないのか”クビツェㇰは不思議に思っていた。
後年、クビツェㇰは理解することになる。定職に就く事はヒトラーにとって論外だった。ーーパンのための仕事ーーに就く事はの欲求は全くなかったのだ。
・・・感じの良い外面と、適切な話しぶり、正しい態度を保ちながら、極貧生活を営むという矛盾・・・
ウイーンでヒトラーに出会った人々は、この矛盾が理解できなかったのだ。高慢な奴か、自惚れ屋とみなしていた。
ヒトラーはそのどちらでもなかった。普通の市民的な基準には当てはまらなかっただけだった。
ヒトラーは”空腹な芸術家だったのだ。
ウイーン時代のヒトラーはいつも必要な食費に事欠いていた。たとえ食費が手に入ったとしても、劇場のチケットのための惜しげもなく食事を犠牲にした。
他人が”生活の楽しみ”と呼ぶものを、ヒトラーは全く知らなかった。酒もたばこもやらない。ウイーンではパンと牛乳で暮らしていた。
1908年夏
ヒトラーはクビツェㇰの前から忽然と姿を消した。親友クビツェㇰには内緒で、駅を挟んで反対側の、うらぶれた地域へ移動していた。もっとも家賃が安い”独身男子寮”で暮らし始めた。
ーーヒトラーは大都会の闇に姿をくらます。この後についてヒトラー自身もほとんど明かさなかった。信頼できる証人もいない年月となる。彼の人生で最も辛いこの時期は、クビツェㇰのような話し合える友人は1人もいなかった事だ。
後年クビツェㇰは忽然と消えたヒトラーの行動を理解した。
彼は自分の満たされぬ欲求を恥じていた。友達も欲しくはなかったのだ。彼は1人で自分の道を歩み始めたのだ。運命が課した重荷を背負うつもりでいた。それは孤独、荒涼、虚無に通じる道だった。大都会の真ん中では人ほど孤独なものはないと、クビツェㇰ自身、ヒトラーと別れてから感じるようになった。
結婚
神崎昭太郎は浅川ゆみを知って、生きていることが楽しくなった。1週間に1日はパソコンを教えるために神崎の家を訪れる。教えるのは2時間ぐらい。神崎の疑問にも答えてくれる。
ゆみは、遠慮がないというか、ズケズケとものをいう。
「ここはこうするんです。先週説明しましたね」大きな瞳で神崎を見る。非難しているのでも軽蔑しているのでもない。ただ事実をあるがままに話しているだけだ。神崎が理解できるまで何度でもやり直す。
神崎はパソコンの操作を体得しきれない。一言で言えば苦手だ。だからインターネットで買い物をするくらいしか使用しない。メールのやり取りは面倒なのだ。キーボードでメールの文章を打つ。言葉で言うと1分もかからないのに、キーボードだと20分はかかる。面倒な事この上もない。
その彼がパソコンに身を入れるのは、ゆみと会いたいがためだ。”パソコン教室”が終わると、応接室でコーヒータイムとなる。神崎は自分の事をしゃべったり、彼女の事を聞いたりする。
浅川ゆみは幼いころに両親と死別している。彼女が4歳の時、両親は観光目的のドライブをして、大型トラックと衝突して亡くなっている。以後弟夫婦に引き取られて成長する。高校卒業までは面倒を見てくれたが、その後は自分で生きろと、社会の荒波に放り出された。
名古屋の貿易会社に就職。夜はパソコン教室に通いながら、パソコンの技術を身に着ける。24歳の時、縁あって、杉本インターネットに就職。今は刈谷市の中心街、豊田自動織機の本社の近くに住んでいる。アパートの一室を借りての1人暮らしだ。今年25歳。
神崎は浅川ゆみの趣味を尋ねる。仕事上パソコンを扱うので、パソコンが趣味という。その他に神秘的なものが好きなので、それに類する本や映画を観たりする。
ゆみからすると、神崎は顧客である。本来なら、社交辞令的な言葉使いであるべきだ。最初、神崎の家を訪問したときは丁寧な言葉で話した。2回目以降は友達同士のようなしゃべり方となる。顧客というより、パソコンを教える先生といった感じだ。
ゆみの話し方は親身なので嫌味は感じられない。彼女を身近な存在として親しみが持てた。どんな事でも打ち明けられる。いわば気の合った者同士の付き合いができた。
神崎はゆみに対する自分の心境を正直に打ち明ける。ゆみは瞳を大きく見開いて神崎を見つめる。大粒の涙がポロポロと落ちる。神崎はびっくりする。
・・・何か悪い事でも言ったのかしら・・・不安になる。
「ありがとう、そんな風に言われたのは初めてなの」
浅川ゆみの唇から白い歯がこぼれる。笑顔になる。
彼女は両親が亡くなって以来、叔父夫婦からは、情の籠った育てられ方はされなかった。他人行儀ではないが、叔父の子供達とは、明らかに違っていた。欲しいものがあっても、欲求を口に出せなかった。子供だから欲しいものがあれば口に出る。叔父夫婦は自分の子供達には欲しいものはすぐに買い与える。ゆみには、彼らのお下がりしか与えられなかった。それが不満で、欲しいと要求すると、厳しい声で叱られる。
高校時代には個室を与えられたが、学費や生活用品など最低限の物しか与えられなかった。学校でも友達もできず、疎外感に苛まれて生きていた。孤独が身に纏わりつく。自分対他人の関係も、社会のルールも漠然としか判断できなかった。人に物を頼むとき、相手の立場など考えたこともない。やってもらって当然としか考えない。
人によっては横柄な女としか思ってもらえない。付き合いも上手くいかない。高校卒業後、就職したが、同僚との関係も上手くいかない。仕事を終えた後、同僚と飲み食いもしない。自然仲間外れとなる。孤独には慣れているので気にもしない。
パソコンを習い始めて、彼女はこれが一番性に合っていると思った。
社交辞令も下手だし、相手を気遣う事も下手。すぐに本音が出る。上司から命令されて仕事をするにしても、出来ないものは出来ないと言ってしまう。杉本インターネットに再就職するまで、働いていた会社は居心地が悪かった。
終業時刻近くになって、上司がこの仕事をやってくれと命令する。仕事量からみて、2時間はかかる。終業時刻までには間に合わない。「明日やります」という。
「急ぎの仕事なんだよ」上司のきつい言葉。要は残業して片付けろと言う意味だ。ゆみにはそれが呑み込めなかった。
「できないものは出来ません」当惑気味に答える。
みかねて同僚の女子社員が、「やった方がいいわよ」と諭す。
「でも、仕事は朝9時から夕方5時までという約束です」ゆみは上司の思惑も、同僚の諭も意に介さない。というより意に介するだけの能力を持っていないのだ。
杉本インターネットに再就職して、彼女は救われた。1日の仕事量は決まっている。与えられた仕事さえすれば、後はとやかく言われない。
ただ、顧客にパソコンを教えたりするとき、敬語がうまく使えない。本音で話したりする。人によっては高慢ちきな女、失礼な社員と悪口をたたかれる。会社に苦情が入ったりするが、ゆみのパソコンの能力は群を抜いている。杉本社長は彼女の能力を評価している。社長自らが客に頭を下げて回る。
浅川ゆみは、生まれて初めて自分の生き方を好意的に見てくれる人に出会う。神崎は”好きだ”とゆみに告白する。彼女は大きく頷く。素直に神崎昭太郎を受け入れる。
平成21年6月
神崎は浅川ゆみと結婚する。ゆみは今まで通り杉本インターネットで働く。借家を引き払って、神崎の家に引っ越してくる。
結婚式はささやかのものだった。杉本インターネットの社長や社員、神崎の友人や知人などが2人を祝った。結婚前に、神崎はヒトラーの事を調べていると正直に話している。牛島裕一の事も話した。
ーーヒトラーーと聞いて、ゆみは眼を丸くする。神崎の表情は印象が薄い。ヒトラーとは結び付かないのだ。
「ヒトラーって、ユダヤ人を大虐殺した悪人よね」断定するゆみの声に、神崎は苦笑するが、否定はしない。
「ヒトラーが魔術師だったという説があってね・・・」
神崎は断定的な言い方はしない。強く押すと人は反発する。場合によっては嫌な顔をする。人と争いたくないので、言葉を濁すような言い方になる。
「へぇ、面白そうね」ゆみの眼が輝く。
結婚後、ヒトラーの資料調査にゆみが加わる。
青年ヒトラーとユダヤ人
結婚しても、2人の生活には変化はなかった。1週間に5日間ゆみは杉本インターネットに出勤する。車で30分。夕方5時半に帰宅する。食事のおかずは東浦駅前のスーパーが届けてくれる。カタログもあるので食べたいものを予約注文できる。
夕食後、ヒトラーの話になる。
”ハーケンクロイツの秘法”を探すために、ヒトラーの幼年期からの話題を集めている。
ーーヒトラーは魔術師だったーーと聞いてゆみは眼を輝かせているが、ヒトラーには避けて通れない問題があった。
”ユダヤ問題”だ。
ヒトラーはどうしてユダヤ人を迫害したのか、これを扱った文献が数多く存在する。神崎とゆみは出来るだけ自分たちの手で解明したいと思った。まず、青年期のヒトラーとユダヤ人を探ってみる。
ウイーン時代のヒトラーーー
青年時代のヒトラーに接したユダヤ人は意外にも多くいた。
”経済的基盤”の弱かった画家ヒトラーには、ユダヤ人の画商はなくてはならない存在だった。
ヤコブ・アルテンベルグ
彼はガリチア出身のユダヤ人だ。1910年当時35歳。下町のウイードナー本通りで画商兼額縁商の店を開いていた。ヒトラーは画商ハーニッシュと別れた後、この画商に自分の絵を買い取ってもらっていた。
サミュエル・モルゲンシュテイン
ブダペスト出身のユダヤ人。ガラス工芸職人兼額縁商。1911年当時36歳。ヒトラーが最も信頼をおいた絵の買い取り人だった。
ヨーゼフ・ノイマン
ウイーンの南方にあるワイン畑で有名なフェスラウ出身のユダヤ人。本職は銅加工業者。雑貨の行商も兼業しており、1910年1月から7月までヒトラーと同じアパートに住んでいた。ヒトラーの絵の売却の手助けをしてくれた。
ジークフリート・レフナー
モラヴィア地方の出身のユダヤ人。ヒトラーの住むアパートに入居。ヒトラーより17歳年上でヒトラーの絵の売却を手伝ってくれた。
ヒトラーは収入の必要があれば絵を描き、それをユダヤ人の画商に売って生活の糧としていた。後のヒトラーの激しいユダヤ人憎悪からは想像できないのである。
ウイーン時代のヒトラーにはユダヤ人は欠かすことの出来ない存在だった。後年の極端なユダヤ人排斥は究明しなければならない問題の1つである。
ウイーン時代の独身男子寮でのヒトラーは、仕事が怠慢ではあったが、禁欲的で、酒、タバコ、ギャンブルを一切やらなかった。女もいなかった。
1913年、ハプスブルク家が支配するオーストリアに、ヒトラーは嫌気がさして、ウイーンを去った。ゲルマン精神の故郷のドイツの南の中心地、ミュンヘンに、オーストリア国籍のまま引っ越した。(ヒトラーがドイツ国籍を取得するのは1932年である)
ウイーン時代のヒトラーは絵で稼いだお金で、ポップという洋服仕立て屋に間借りすることになる。この家主のポップ夫妻はヒトラーの変わった生活ぶりに驚いている。
ーーヒトラーは毎日昼頃に起きる。1人で部屋に籠ると”恐ろしいほど真面目な顔”で分厚くて難しそうな本をむさぼり読んだり絵を描いたりする。
外に出てレジャーを楽しんだり、カフェでケーキをぱくついて手あたり次第いろいろな新聞を読みふける。”仕事”が終わって夕方に帰ってくると、ヒトラーの夕食はいつもパンとソーセージだけだった。若者たちと酒を飲んだり、女の子とうつつを抜かすことはなかった。--
ポップ夫妻はヒトラーの禁欲ぶりに感銘を受けている。
禁欲、倹約が過ぎるからと言って、ヒトラーは貧しい訳ではなかった。彼と同年時代の銀行員に平均月収が70マルクぐらいに対して、ヒトラーは月に100マルクの収入があった。独身の身には充分すぎる程の収入だった。ヒトラーは下宿に籠り、1人苦行僧のように黙々と思索にふけっていた。
下宿の大家ポップ夫妻は、ヒトラーが部屋に籠って、大量の戦史や戦記、戦争論を読み漁っている事を知っている。この”時代に背を向けた男”の行動は、ポップ夫妻を不思議がらせた。
ポップ夫人はヒトラーの心中を計りかねて質問する。
「あなたは一体、なんでそんな生活を送るのですか?」
「ポップの奥さん、人間の一生で何が役に立ち、何が役に立たないかなんて事は、誰にも判りませんよ」
ヒトラーは答える。
ミュンヘン時代のヒトラーを知るヨーゼフ・グライナーもポップ夫人と同じような質問をする。
「一体君は将来どんな仕事をするつもりなのか」
ヒトラーは答える。
「そのうち戦争が起こる。そうなったら、職に就こうがつくまいが、違いはない・・・」
ヒトラーは時代の流れの中に、突き動かされるような、形容しがたい何かを感じ取っていた。その時に自分の力が発揮できるように、準備に余念がなかった。
この頃、ユダヤ人問題は、ヒトラーの心の中に芽をふいてはいなかった。
ゆみは神崎がメモ用紙に記した文章をワープロに置き換えていく。「ねえ、ツイッターを開かない」ゆみの声ははずんでいる。大きな瞳がくりくりしている。
神崎はおじいちゃん(牛島裕一)の事を思い出す。ヒトラーの事は誰にも話さないようにと釘を刺す。インターネットでも、会社でも話さないよう諭す。
それでなくても、ヒトラーの事を調べていると話すと、誤解を受けやすい。変な眼で見られる可能性もある。ゆみは夫の言葉を素直に受け取る。
第1次世界大戦
平成21年秋
神崎昭太郎とゆみは遅ればせながら、秋の連休を利用して新婚旅行に出かける。2泊3日のドライブだ。行先は伊勢神宮と熊野大社、その他である。朝6時に出発。途中コーヒータイムをとる。
伊勢には9時に到着する。外宮内宮を参拝。お陰横丁で休憩。伊勢路を南下する。紀伊長島、尾鷲を通って熊野に向かう。熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野本宮大社を回る。次の行先は高野山である。そこで1泊する。
翌日高野山から奈良の吉野大峰に向かう。昼食を摂った後、飛鳥路の大神神社に詣でる。午後4時、次の目的地京都に向かう。奈良県を北上する。宇治平等院近くで1泊。
京都は平安神宮や伏見稲荷大社などを拝観。少し足を延ばして鞍馬寺や貴船神社にお参りする。
午後2時頃、名神高速に乗って東浦まで帰る。
新婚旅行とはいうものの、主に神社仏閣参りである。これはゆみのたっての希望であった。彼女が信心深いというより、神社の森々とした雰囲気が好きだというのが理由である。神崎の案で2、3か月に1回は1泊の旅行をしようということになった。旅行先は、インターネットで調べる。
ヒトラーの事を調べるのが、神崎の日課となっている。
第1次世界大戦が勃発する。ヒトラーの人生も激変する。それまでは、本を読んでいたり、絵を描いていたりして孤独に等しい人生だった。この戦争を境に、ヒトラーは多くの人々と接することになる。
この戦争に対してヒトラーの面白い逸話がある。
1914年1月、ヒトラーはオーストリア軍の徴兵を忌避した罪で当局に逮捕され、オーストリア総領事館まで連行されるが、検査を受けたところ栄養失調で不合格となり兵役を免除された。
半年後の1914年6月28日に”サラエボ事件”が起きる。7月にドイツ帝国が宣戦布告をする。
ヒトラーは喜び勇んでドイツ軍に志願する。
サラエボでオーストリア皇太子が暗殺される。
「オーストリアがセルビアに宣戦布告か!。同盟国のドイツも参戦した。やったーっ」ヒトラーは叫ぶ。
「ヒトラーさんは、戦争や兵隊嫌いじゃなかったの」ポップ夫人が叫ぶ・
「いえいえ、オーストリアの軍隊に入りたくなかっただけですよーっ」ヒトラーの喜びの声。
「それではまたどうして?」いぶかしそうなポップ夫人。
ヒトラーは叫ぶ。
「ぼくは、オーストリアのハプスブルク王朝のために、死ぬのは嫌なんです」
「ポップさん、ドイツのためならば、ヒトラーの命を捧げます。ドイツばんざい」
--第1次世界大戦下のドイツは、神聖ローマ帝国の次の統一ドイツ国家という意味で第2帝国と呼ばれた。1871年から1918年まで続いた。第1次世界大戦でドイツ帝国は打ち負かされ、皇帝ヴィルヘルム2世は追放されて、権力は強奪される。革命後、ドイツにワイマール共和国が誕生する。
1908年夏、
ウイーンでヒトラーと別れたクビツェㇰは音楽家(指揮者)の道を歩む。1914年にバイオリニストと結婚、3人の子をもうけた。
1914年に始まった第1次世界大戦でドイツ軍に志願兵として、ヒトラーは入隊する。
この戦争で、ヒトラーは4年間に40回以上の戦闘に参加、伍長としては異例の”1級鉄十字章”を受賞するなど、6回もの表賞を受けた。
”第1次世界大戦当時の1級鉄十字章は、その数も少なく、士官以外の一般の兵士にはめったに授与される事のない価値のある勲章だった。その点第2次世界大戦での1級鉄十字章は約30万個乱発されている”
第1次世界大戦でドイツ帝国が激変したように、ヒトラーの人生も激変していく。時代という荒波の中を、彼はドイツの頂点にまで上り詰めていく。
この大戦後、ヒトラーは軍の命令で、南ドイツの半秘密結社的団体”トウーレ協会”の政治サークルに潜入する。軍のスパイ役として派遣されたのだが、そこでたちまち頭角を現して、党首に選ばれる。
ーー政治家ヒトラー時代の始まりであるーー
ヒトラーは第1次世界大戦で授けられた一級鉄十字章を大変名誉のある勲章と考えていた。彼が終生誇りを持って着用した勲章はこの一級鉄十字章だけだった。
国家元帥ゲーリングは豪華な服装を身にまとい、その胸間を数多くの勲章で飾り立てていた。それに比べ、ヒトラーは服装および着用する勲章は控えめで、質素だった。
ヒトラーの唯一の友人クビツェクは、戦後米軍に身柄を拘束された。クビツェㇰは米軍の16か月間の抑留に耐えて、1947年4月に釈放される。その後、クビツェㇰは若き日のヒトラーとの交際について回想録をまとめる。この本は1953年に出版された。
この回想録「我が青春の友、アドルフ・ヒトラー」は、現在ヒトラー研究のための貴重なドキュメントとして高く評価されている。この回想録によって、ヒトラーの知られざる青春の日々が手に取るように理解できるのである。
この回想録が発表されたとき、旧来のヒトラー像を覆すとして、全世界のメディアは騒然となった。
ーーもしもクビツェㇰが若きヒトラーと出会っていなかったなら、独裁者ヒトラーの青春の軌跡は永遠に歴史の片隅に葬り去られてしまったに違いないのだーー
クビツェㇰは、この回想録の出版の3年後(1956年)に、68歳で亡くなる。
神崎はゆみに、青春時代のヒトラーについて感想を求める。
「多分、クビツェㇰでも、ヒトラーの心の内を理解できなかったと思うの」ゆみの大きな瞳は神崎を直視している。
ヒトラーは青春時代、恐ろしいほどの孤独の中にいたのではないか。だから絵画や読書にのめりこんだ。
普通、人は孤独が嫌だから、友好の場を求める。ヒトラーの心は酒や女、浮ついた社交の場では慰めを得られなかった。全身全霊を賭けて大きなものにぶつかってこそ、満足感が得られる。ヒトラーの周囲にはそれがなかった。
第1次世界大戦勃発、ヒトラーは全身全霊を賭けて、時代の荒波に立ち向かったのだ。
ゆみがパソコンに向かって時間を忘れるのも、神崎があまり外出せず家に閉じこもるのは孤独だからだ。2人とも人恋しく思った事はない。人と接していると煩わしく思う事さえある。
新婚旅行に、伊勢や熊野、奈良大和路の神社、仏閣を選んだのも、2人とも森閑とした場所が好きだからだ。
秘密結社
平成21年12月上旬。
ゆみは杉本インターネットに退職願いを出す。夫の”仕事”と杉本インターネットの仕事の両立が難しくなっていた。当初、夫の仕事は趣味程度の物だった。
ヒトラーの青春時代は特異なものだったが、深入りする程の事ではなかった。
だが第1次世界大戦前夜から、ヒトラーの人生が一変する。この頃からヒトラーは時代の脚光を浴びることになる。彼に関する膨大なドキュメンタリー映画が作られる。ヒトラーの記録も多くなる。にもかかわらず、真のヒトラーの姿はつかめにくくなっていく。
ーー闇の中のヒトラーーーは公表されている記録だけでは把握できないと痛感する。あらゆる面から記録を掘り下げる必要がある。神崎もゆみも痛切に感じるようになっていた。時間をかけて調べ尽くす必要がある。そのためにも、ゆみは杉本インターネットに出勤する時間が勿体ないと感じるようになた。
夫と相談の上、思い切って退職願を出すことになった。
--ヒトラーは魔術師だったーーと言われてもピンとこない。ヒトラーは政治家で独裁者だというのが通説だ。
2人は夜、インターネットのユーチュウブでヒトラーの演説の場面を見る。ヒトラーの声は字幕で判る。
「すごいわ。ひきつけられそう」ゆみの声はうわずっている。ヒトラーの演説は人を魅了する何かを持っている。生まれつきの才能なのか。あるいは・・・。
神崎も同感だ。心の奥底にヒトラーの声が響く。激しい欲望のような感情が突き上げてくる。
・・・この気持ちは・・・ストレスに苛まれて酒をあおる。酔いの力でストレスの激情を発散する。自分を制御出来ない情感、怒り、憎しみ、悲しみ・・・。
そんな感情がヒトラーの演説で心の底から湧き上がってくる。それは力強い意志を伴っている。
・・・何という魔力だ・・・
生まれつきだけではあるまい。ヒトラーは誰かに魔法を習ったはずだ。世に出ているヒトラーに関する書物では、魔法の文字はまず見当たらない。
ゆみはインターネットから、魔術師としてのヒトラーの項を探す。そして、ヒトラーが所属したトウーレ協会の前進が秘密結社である事を知る。
--ナチ党のルーツーー
ナチス党を遡っていくと、19世紀に芽生えた2つの宗教的サークルに行き着く。ランツが創設した、”新テンプル騎士団”、リストが創設した”リスト協会”である。
この2つの流れは帝国ハンマー同盟の姉妹地下組織、ゲルマン教団を媒介にして合流。第1次世界大戦後のミュンヘンでナチス党の思想的母体となったトウーレ協会を生み出す。トウーレ協会が生み出した右翼政党=国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)ナチ党である。(ナチス、ナチという呼称は連合国側特にアメリカから見たNSDAPへの軽称である。丁度日本の事をジャップと呼んだようなものである。しかしナチス、ナチ党という呼び方が一般的になっているので、今後はこの呼び方で表現する。)
ナチ党のルーツをみると、ナチスドイツはカルト帝国と呼んでもおかしくはない。
1889年、アドルフ・ヨーゼフ・ランツによって新テンプル騎士団が設立された。ランツはより優れた純血腫なアーリア人種を生み出す人種闘争に関心があった。
ランツは超人妄想を含む人種主義色の強い”オスタラ”という雑誌を発行する。その中では、ユダヤ人や黒人の殲滅が唱えられていた。劣等人種の去勢、避妊手術、奴隷化、強制労働、国外追放、そして、アーリア人種による世界革命を推進させようとしていた。
1909年、若きヒトラーはウイーンに出てこの雑誌”オスタラ”に出会い、その年のうちにバックナンバーを求めてランツを尋ねている。
新テンプル騎士団は熱烈な信奉者をオーストリアやドイツ国内で獲得していく。1914年2月(第1次世界大戦の始まる数か月前)には、ドイツ帝国のホーレンベルクに第2の聖堂が設置される事になる。
グイド・フォン・リストは19世紀末のオーストリアにいた。彼は1908年に”リスト協会”を設立する。この中で「アルマネン秘法伝授国」という結社を設けて人気を博していた。これはランツの新テンプル騎士団と同じく、階級制度を備えた一種の宗教的結社である。アルマネンとは伝説上の古代ゲルマン系の超人種の事である。
リストは歴史と生物学に造詣が深かった。多くの研究書を著した。それらの多くは代表作「アーリア族ドイツ人の法則」に見られるように、過激な反ユダヤ主義の色彩を帯びたものだった。
彼の著作「ルーン文字の秘密」は1920年代にドイツで隆盛となるルーン、オカルティズムの始祖である。この系譜はナチス親衛隊(SS)の象徴として、用いられたルーン文字であるが、これに魅了されたハインリッヒ・ヒムラーにつながっていく。
第1次世界大戦後、彼の著作活動は停滞する。その一方で、予言者、幻視者としての側面が鮮明になってくる。
19世紀末に超人的指導者が現れて世界を救済してくれるという思想に取り憑かれていた。リストは秘教的手法で計算して、それが出現する年を、1932年とした。奇しくも、彼が夢想したゲルマン民族の全体主義的ユートピアはヒトラーによって現実となった。
ただしヒトラーをフェーラーに戴く国家社会主義労働党は1933年の1年違いでの実現だった。
リストは1919年5月にベルリンで70歳の生涯を終える。
ランツの「新テンプル騎士団」とリストの「リスト協会」は相互に協力関係にあった。ランツはリスト協会の会員であった。リストも新テンプル騎士団の名誉団員であった。リスト協会と新テンプル騎士団の信奉者とは互いに重なり合っていた。
ゆみはここまで調べ上げる。夫に見せる。「秘密結社って、宗教的というよりも政治的ね」というのがゆみの感想だ。欧米では宗教というより思想といったほうが判りやすい。
ナチズムはヒトラーによって突然出現したのではない。その下地が醸成されていた。ヒトラーによって火がつけられた。第1次世界大戦後のドイツは混迷を極めていた。国民は希望をなくしていた。超人的な指導者を渇望していたのだ。
黒い影
2人が調べ上げているのは、20世紀初頭の黒い巨人である。ヒトラーを単なる”悪人”としては評価できないのだ。ヒトラーに関する資料は膨大な量にのぼる。にも拘らず闇の部分のヒトラーを解明できたとはいいがたい。多くの謎が残されている。
ーーハーケンクロイツの秘法ーーヒトラーはナチスドイツ崩壊後、何を求めたのか、誰にも判らない。
2人にとって、ヒトラーを調べ上げるという作業は心楽しいものではない。息の詰まるような緊張感が支配していく。それでも黙々と作業をこなしていく。2人の心は、生来の孤独感が漂っている。
調べ上げる程、ヒトラーは深く大きな闇の部分を持っているのを感じる。彼は陰湿なと言ってもよいほどの深い孤独感に包まれている。2人とも孤独だからこそ、ヒトラーと面と向き合う事が出来ると信じていた。
2人は朝7時に起きる。8時に朝食を摂る。9時にヒトラーの資料の調査に入る。
闇雲に調べ上げるよりも、順序だてて解明すべきだと、2人の意見は一致している。まずはヒトラーがドイツ国の政権を握る前までに焦点を当てている。それも特に、”魔術的な・・・”部分を強調していく。
2人の会話は少ない。ヒトラーの深い闇に圧倒されたかのようだ。ゆみは黙々とパソコンに向かう。神崎は購入した本の中から、これはと思う部分をメモしていく。
2人の作業は午前中に終わる。午後、昼食後仮眠する。午後2時から3時まで午前中の作業の続きを行う。3時から5時まで外出。近所をブラつく事もあれば車で遠出することもある。喫茶店でお茶を飲んだりするが、会話は少ない。
平成22年1月中旬。2人は正午に家を出る。車で知多半島中央道、東浦インターに入る。知多半島の南端、師崎まで直行する。海岸沿いにある”源氏香”というホテルに宿泊する。ここは予約制だ。各宿泊部屋には源氏物語に登場する人物名が書いてある。ゆっくりと温泉につかって、おいしい料理を食べてストレス解消をはかろうというものだ・
今日ばかりは和やかな雰囲気になる。しかし1つの重苦しい事件が話題になる。
知多半島中央道に乗って、半田インターを超えた頃、ハンドルを握る神崎が不審な事に気付く。後ろに黒っぽい車がピタリと後をついてくる。
「おい、あの車、おかしいよ」神崎はバックミラーを見ながら、ゆみに呟く。
「えっ!なに?」ゆみは助手席から後ろを振り向く。
「あの車、東浦インターを入った時からついてきている」
神崎は車のスピードを落とす。大抵の車は神崎の車を追い越していく。黒い車はスピードを落として後をついてくる。
武豊インターを過ぎた頃、道路幅が広くなり、車寄せの路肩がある。神崎は路肩に車を寄せて停車する。黒い車は神崎の車を追い越していく。それを見届けて発進する。
・・・気のせいかな・・・
事件と呼ぶには大げさかもしれない。
「おじいちゃんも、ヒトラーの資料を盗まれたって言うからね」神崎は牛島裕一の手紙の事を話す。ゆみはくりくりした目で、神崎の話を聞いている。
それでも、料理がはこばれ、ビールで乾杯の段になると、元通りの和やかな雰囲気の戻る。久しぶりに夫婦の会話に花が咲く。
翌日昼過ぎに東浦の自宅に戻る。2人を見て近所のおばさんが駆け寄ってくる。面倒見の良い人だ。
「あんたたち、大丈夫?」大仰な身振りで、以下のように話す。
ーー昨日の昼過ぎ、サングラスをかけた2人組の男が、神崎の家の周りを歩き回っていた。物盗りにしては服装がパリッとしている。おばさん、不審に思って、「どちら様ですか。この家の人、留守ですよ」声をかける。2人組はそそくさとその場から立ち去って行ったーー
「気を付けたほうがいいですよ」おばさんの親切に神崎は礼を言う。
家に入って、盗まれた物はないか見て回る。盗聴器でも仕掛けられていないか、電気工事店に調べてもらう。家の周りに監視カメラを設置する。街路灯を増やす。
秘密結社とヒトラー
過激な反ユダヤ主義者、テオドール・フリッチは、1902年に雑誌”ハンマー”を創刊する。この雑誌の読者たちは1905年に反ユダヤ主義結社”ハンマー会”を組織した。1912年にはフリッチの指導でハンマー会を統合する”帝国ハンマー同盟”が結成される。
帝国ハンマー同盟の実質的な責任者はカール・アウグスト・ヘルヴィッツである。彼は1908年以来のリスト協会のメンバーであり、帝国ハンマー同盟にリストの思想を導入している。
帝国ハンマー同盟は公開組織だったが、フリーメーソンのような秘密結社が必要とする意見が出てきた。
ヘルマン・ポールがフリッツの許可を得て秘密結社、ゲルマン教団(ゲルマン騎士団ともいう)を、1912年に創立した。
リスト協会の多くのメンバーがゲルマン教団に加わる。入会希望者はランツが発行する雑誌”オスタラ”を読むようすすめる。そのうえで入会者は新テンプル騎士団と同じく純粋なアーリア人種でなくてはならないとされた。その上で頭髪、眼、皮膚の色を書類に記載するよう求められた。両親、祖父母、配偶者についても詳細に報告しなければならなかった。
同年に実施された選挙で社会民主党が地歩を固めていた。この党はランツやリストらの主張と真っ向から対立していた。
ランツとリストは社会民主党と戦う人材を育成するためにゲルマン教団をサポートしていた。
ゲルマン教団は帝国ハンマー同盟の地下組織として順調に発展していくが、第1次世界大戦の勃発によって危機の陥る。団員の多くが戦闘員に取られる。このためゲルマン教団の活動が停滞する。財政的な問題も発生する。
その上に、ヘルマン・ポールの指導力に対して評価が分かれると、教団の混乱は激しくなる。ついにポールは指導者の地位を追われる。彼は自分の支持者を集めて分派を結成する。ここにゲルマン教団は2派に分裂する。
ゲルマン教団分裂後、ヘルマン・ポール率いる分派、バヴァリャ支部は神秘主義者で占星学者のルドルフ・グラウァーの指導の下、急速に勢力を伸ばしていく。
この”新生ゲルマン教団”は左翼陣営からの敵視を避けるために、「トウーレ協会」の看板を掲げていた。
トウーレとはギリシャ、ローマ時代に知られていた伝説上の極北の島ウルティマ・トウーレを意味する。
トウーレ協会は活動資金をミュンヘンの上流階級から得ていた。南ドイツ最強のオカルト結社に発展していき、敗戦後の混乱の中で強い影響力を持っていた。
会員には判事や警察の上層部、弁護士、貴族、大実業家、大学教授などの有力者が名を連ねていた。ミュンヘンの警視総監ポーナー、その補佐で、後にヒトラーの内務大臣となったウイルヘルム・フリッㇰも会員だった。
トウーレ協会は本来はドイツ古代アルファベットの神秘的、抽象的な解読と理解を目的とする神秘学研究集団であった。夢想的なオカルト結社だったが次第に政治色が濃くなっていき、政治の場で力を発揮し始める。
トウーレ協会はテロ活動、政治的暗殺、人種差別などを行っていたが、その秘密性のために、警察権力と結びついていた。そのためにその活動が暴かれることはなかった。
トウーレ協会の政治思想を広めるため、1919年に、会員のカール・ハラーとアントン・ドレクスラーによってドイツ社会主義協働団が結成される。後にドイツ社会主義党と名を改めるが、1922年に解散する。会員の多くはナチ党に流れていく事になる。
この時期、アドルフ。ヒトラーは第1次世界大戦の後も陸軍にとどまって政治部情報局の仕事に従事していた。
ヒトラーは設立されたばかりのドイツ労働党の調査を命ぜられる。これがきっかけで、ヒトラーはドイツ労働党に入会する。そこでトウーレ協会を中心とする黒い人脈の洗礼を受けることになる。
中でもヒトラーに多大な影響を与えたのがディートリヒ・エッカルトだった。彼はトウーレ協会内で一目置かれた存在だった。彼はミュンヘンの社交界で詩人として有名だった。神秘思想に精通したオカルティストでもあった。トウーレ協会、ドイツ労働党内のイデオロギーのリーダーでもあった。
彼はヒトラーの親しい友人として、1923年に死ぬまで、常にヒトラーの身近にいた。
ディートリヒ・エッカルトはヒトラーに文書の書き方や演説法を教えている。社交場のマナーの実地教育もした。会話の文法上の誤りを訂正して、上流社会のレストランやカフェにも連れていく。
有力な市民にヒトラーを紹介する。
「この男はやがてドイツを開放する人物です」
ヒトラーは”我が闘争”で以下のように記している。
「私は、その著作、思想、そして最終的には行動によって、生涯を私たちの同胞のために捧げたあの人物を、最も優れた人々の1人に挙げたい。それはディトリヒ・エッカルトである」
1920年、ヒトラーはドイツ労働党のプロパガンダ担当主任になる。トウーレ協会ルーネン紙、アルデンシュナハト紙といった機関紙や、地元紙ミュンヘン・ベオバハター紙を買収して、大規模なプロパガンダを展開する。
このミュンヘン・ベオバハター紙は後に改名して、ナチ党機関紙フェルキッシュ・ベオバハターとなる。
1920年2月
ドイツ労働党は、国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)と改称する。ナチス党の誕生である。
ナチ党はヒトラーの天才的な演説の力と、トウーレ協会の指示の下、社会主義的な反対勢力からナチ党を守った官憲の協力で勢力を伸ばしていく。ヒトラーの入党14年後には合法的に政権を獲得する事になる。
トウーレ協会に関与していた南ドイツの旧支配層は、一貫して自分たちがヒトラーを利用していると思っていたので、陰に陽に支援を惜しまなかった。
ディートリヒ・エッカルトは、1923年12月、死の床で延べている。
「ヒトラーに従いたまえ。奴は踊るよ。だがその曲を描いたのは、このわしだ。わしは(彼らとの交感)の意味を奴に教えてやったのだ。泣いてはならない。わしはいかなるドイツ人よりも歴史の進行に大きな影響を与えたことになるのだから…」
ヒトラーはナチ党を広範な範囲に影響を及ぼす大衆的政治団体に育成することを目指していた。しかし党の背後にトウーレ協会の影が潜むことが権力拡大の妨げになるのを知っていた。ヒトラーはナチ党のバックにトウーレ協会が存在しているのを、公にされたくなかった。
1919年までトウーレ協会を指導していたルドルフ・グラウアー(ゼボッテンドルフ男爵と称していた)は、1932年に「ヒトラー登場以前、国家社会主義運動の初期」という回想を出版する。彼はトウーレ協会がナチス・ドイツの誕生に大きな影響を与えたことを強調したのだ。
このルドルフ・グラウアーの言動は、国家社会主義体制、一党独裁制を確立していたナチスの逆鱗に触れることになる。
1934年3月
バヴァリア政治警察は、「ゼボッテンドルフ男爵の回想記は全体として事実と反しており、ドイツ国家の新生をトウーレ協会に帰しているものである」という書簡を送りつけて、この書物を発禁処分とし、ゼボッテンドルフ男爵を拘留した。
1934年8月2日
ヒトラーはドイツ国総統に就任。一国の権力を握って最初にしたことは、オカルティストの一掃だった。
ベルリンの警察があらゆる占いを禁止する。ドイツ全土の書店にオカルト関係の書物の販売を禁じて、徹底的に没収した。トウーレ協会は解散を命じられ、フリーメーソンも摘発を受ける。
ヒトラーと同じ年に生まれ、彼のお抱え占い師として演説を指南していたエリック・ヤン・ハヌッセンは、ベルリンで”神秘の館”を営業していた。いつも超満員で人気を博していた。
ナチスの秘密計画を的確に予言する彼の能力は危険視されていた。1933年に4月に暗殺され、神秘の館は強制的に閉鎖された。
エリック・ヤン・ハヌッセンは千里眼を持つ魔術師として有名だった。彼が営業していた神秘の館の観客のほとんどがナチ党員だった。
1935年
魔術師アレイスター・クローリーの弟子ヨハネス・ゲルマーがゲシュタボ(ナチス秘密警察)の手によって強制収容所に送られる。
1936年に、ルーン・オカルティストの1人フリードリッヒ・マルビィが反ナチ的であるとしてヴェルツハイムの強制収容所に送られた。
1937年以降、弾圧は徹底される。ナチスに好意的なオカルト組織も禁止される。神智学協会ドイツ支部の閉鎖、今世紀ドイツの代表的魔術教団”東方聖堂騎士団”の解散、さらに宣伝省職員だった占星術師カール・エルンスト・クラフトはじめ多くの占星術師が逮捕される。
その後、ポーランドの不出世の超能力者ステファン・オソビツキーがゲシュタボに逮捕され銃殺される。
1941年には、オカルティズムはナチス帝国の公共の場においては完全に息の根を止められる。
ーー神智学、人智学、スピリチュアリズムといった各種オカルト運動、疑似宗教団体は一切の活動を禁止される。オカルティズムに関する文章の発表、出版は全面的に許可されなかった。
体制としてのナチスはオカルティズムを否定したが、アルフレート・ローゼンベルグ、ハインリッヒ・ヒムラーなど一部のナチス指導者達にオカルティズムへの傾斜が見られた。
ヒトラーがオカルト・パージを実行した理由としては、まず第1に、秘密結社を容認するような全体主義体制は有り得ない事。
第2に、ヨーロッパの国家指導者として、ナチズムが尊敬に値するものである事を示したかった。それ故に自分の威信を傷つけるような噂、ヒトラーが魔術に夢中になっているという噂を野放しにしたくなかった。
第3に、魔術師が勝手に活動する危険性を、魔術師の立場からヒトラーはよく承知していた。
第4に、魔術はナチス・エリートだけのもの、ヒトラーの欲望の実現のためにすべてを捧げている結社、SS(ナチス親衛隊)だけが行う事ができるとした。
以上のように、ヒトラーのオカルト・パージは、魔術行為の撲滅というよりは、魔術行為の特権をナチス・エリートだけで独占確保するためのものだった。権力拡大のため、かっての同志エルンスト・レームとその突撃隊(SA)を粛清した発想が、そのままオカルト諸団体に向かったのだった。
ヒトラーは政権獲得以前に、ヘルマン・ラウシュニングに、フリーメーソンについて語っている。
「しゃれこうべ(フリーメーソンの儀式、死と再生に使用される)や儀式は子供騙しの恐怖だが、その象徴の秘法伝授は頭脳ではなく、想像力を1串に突き刺すものであり、その危険な要素をナチスは継承した」
トウーレ協会からナチ党が誕生したように、そこから”SS”が生まれた。
SSの大尉でアイヒマンの同僚であったディター・ヴィスリセ二ィは以下のように語っている。
ーーSS長官だったハインリッヒ・ヒムラーが冷酷で冷笑的な政治家などではなく狂信的な神秘家であった。ヒムラーが占星術師たちの忠告を受け入れて、あらゆるオカルト学に傾斜していく内に、SSは次第に新たな種類の宗教結社へ変貌したのだーー
ヒトラーとルドルフ・シュタイナー
神崎はゆみと語り合う。青年期のヒトラーと、第一次世界大戦後の政治家を目指していたとは、大きな格差があるのに気付く。
・・・まるで別人ね・・・ゆみの批評である。
読書したり、絵画に打ち込む青年期のヒトラーは、無気力そのものだった。人目を避けるようにして、貧困生活に身を置いている。そこにはヒトラーの自己主張は有り得なかった。
第一次世界大戦にドイツ兵として従軍、その後のナチ党の結成、政治家として権力の頂点に上り詰める。激しい自己主張と、人目をひく自己顕示。
この落差は、ヒトラーがドイツ労働党に入党した事に始まる。ディートリヒ・エッカルトによってヒトラーは魔術的要素を叩き込まれたとみてよい。
ヒトラーが最も恐れた人物、ルドルフ・シュタイナーを抜きにして語る事は出来ない。
ルドルフ・シュタイナーは、1861年、オーストリア、ハンガリー帝国のㇰラリェツクに生まれた。日本ではシュタイナーは教育者として著名である。彼が提唱した”シュタイナー教育”は実践者も多数存在すし、高い評価を得ている。
シュタイナーは40歳まではリベラルな文芸評論家として活躍していた。20世紀にはいると神秘学者としての人生を歩み始める。1913年に人智学協会を創設、人智学と呼ばれる独特の思想運動を展開する。
シュタイナーの政治的立場が明確になり、人智学運動は拡大していく。当然の事ながら敵対者が現れる。攻撃は主として教会勢力や民主主義者達だ。シュタイナーに張られたレッテルは”ゲルマン主義者””共産主義者”など。
1920年から1921年を通じて、人智学運動に対する批判や攻撃が激化していく。講演会やイベントが妨害されるようになる。
シュタイナーは自分の機関紙”社会3分節化”に反論記事を載せ、誹謗中傷の撤回を要求した。
シュタイナーはスイスのバーゼル近郊の寒村に”ゲーテアヌス”を建設して、科学、芸術、宗教を統合する自由大学を創建しようとしていた。
1922年12月31日に、ゲーテアヌスは放火によって炎上した。この時、講堂でシュタイナーが8百人の聴衆を前にして公演を行っていたのだ。
後日、ゲーテアヌスの火災後から放火犯と思われる一体の焼死体が発見される。この男はドイツ系スイス人で、熱狂的なナチスの支持者であることが判明した。
彼はナチ党の母体となったトウーレ協会の思想的リーダー、ディートリヒ・エッカルトの遺言を忠実に実行した。
「ゲーテアヌスを焼き払い、シュタイナー博士とそのサークルの精通者を炎の中で殺せ・・・」
幸いなことにシュタイナーは一命をとりとめる。
この放火事件の前の、1922年春、シュタイナーはミュンヘン駅構内で、ナチスの暗殺者に銃撃されるという、暗殺未遂事件が起こっている。
ーー1920年の初期のナチスにとって、抹殺すべき最大の敵は、ユダヤ人でもボルシェビキ(革命的共産主義者)でもなかった。シュタイナーこそが最大の敵だったのだーー
初期のナチスはシュタイナーの広範な影響力が、ユダヤ人のアジ演説よりも危険な混乱とみなしていた。
シュタイナーの提唱するイデオロギーは、世界フリーメーソンの卵であり、国家を破壊する共産主義的なものとみなしていた。
あるドイツ人退役将校がシュタイナーの人智学協会に所属していた。この為将校の資格を剥奪された。
この人物が間接的にヒトラーに理由を問いただした。ヒトラーは以下のように答えた。
「人智学協会の会員はフリーメーソンの所属者と同等に扱う。彼らはフリーメーソンの所属者よりも危険である。交通整理員が人智学協会の会員だったとしても、それは大したことではないが、党内部、国防軍に、かって人智学協会に所属していた者を入れることは好ましくない」
ヒトラーは、ナチス結成時の党大会で、シュタイナーについて警告を発している。
「我々はシュタイナーとその追従者を許してはならない。なぜなら彼は、シューリーフェン作戦、ひいては第一次世界大戦におけるドイツ敗北の直接の戦犯だからである」
そして、ヒトラーは、シュタイナーを激しく非難する。
「彼はドイツ軍最高司令官であるヘルムート・フォン・モルトケ将軍の親友だった。1914年、ドイツがベルギー、フランスに進攻しようとしている重大な時期に、シュタイナーは黒魔術を用いて、モルトケ将軍の精神状態を混乱させて、ドイツ軍を大敗に導いたのである!」
ディトリヒ・エッカルトはシュタイナーを恐れていた。
「シュタイナーの霊的洞察力の前にあっては、何事も隠しおおせるものではない。彼とその入門者たちは、我が”トウーレ協会”の性質に異を唱え、我らの会合や入門儀式の全てを霊的地点から監視している」
トウーレ協会の結社の目的は、地上で最も進化した人類ゲルマン人の覇権を獲得するために、失われた古代の叡智を手に入れて、真の熟達した”魔術師”になる、というものだった。”これはまさしくヒトラーの行動の原点となっていた。”
青年期のヒトラーの内奥にはこの思想が芽を吹いていたのだ。エッカルトの指導の元、ヒトラーのこの思想は大きな樹木のように成長していく。
霊的な世界を知り尽くし、ヒトラーに称賛されたエッカルトでさえ、シュタイナーの存在は畏怖すべきものだった。
これはエッカルトやヒトラーが目指す霊的世界の実現のためには、シュタイナーは倒さねばならない程の、霊的巨人である事を認識していたからだ。
シュタイナーは、ヒトラーが無名だった1920年代から、ヒトラーの存在に着目していた。彼の活動の背後にあるトウーレ協会の存在、ヒトラーの闇の部分の活動まで、すべてを見抜いて、度々警告を発していた。
例えば1923年11月、ヒトラーは3千人の武装した男たちを率いてミュンヘン市内を行進する。世にいうミュンヘン一揆である。
その結果は惨憺たるものだった。ヒトラーは逮捕され、ナチ党は解散を命ぜられる。エッカルトは警官隊の発射した毒ガスにやられて再起不能に陥ってしまった。
この事件を知ったシュタイナーは弟子たちに語る。
「ナチスやトウーレ協会、アメリカのKKKなど、世界には民族主義を意図的に煽っている人間がいる。彼らを駆り立てているのは愛国心などではない。純粋な破壊衝動であって、その目的は人々を”完全な混沌”の中に追いやる事に他ならない」
そして、ナチ党のシンボルマーク”ハーケンクロイツ”(カギ十字)に関して以下のように語る。
「今、この印を中部ヨーロッパに持ち込もうとしている人間がいる。彼らは自分たちのしている事を、完全に心得ている。この印には効果がある。」
シュタイナーはすべてを見通した上でヒトラー・ナチス・ドイツに対して厳しい警告を発し続けていた。
シュタイナーは、現代史の中に2種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていたのだった。
1917年の段階で、以下のように講演している。
「<光の霊たち>は今、人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、そして自由への衝動を発展させようとしている。それに対して<闇の霊たち>は人種的、民族的な関連、血に根ざした古い衝動を現代に甦らせようとしている。人種、民族、血統の理想をはびこらせるほど、人類を退廃へ導くものはない。
ゲーテアヌス放火事件から約1年後の1924年1月、ドルナッハで夜会が催される。その席でシュタイナーは突然、発作的な衰弱に襲われる。この衰弱の原因について、サンドイッチの中に毒物が混入されていたという説がある。シュタイナーはこの夜を境に衰弱の一途をたどっていく
体調の衰えとは逆に、シュタイナーは、1924年から1925年にかけて、数多くの講演を行っている。
1925年3月、シュタイナーは他界する。この8年後ヒトラーは政権を握る。ナチス政権下でシュタイナー学校は閉鎖される。
シュタイナーは晩年に「偽りへの衝動」について警告を発している。
「これからは、ありとあらゆる常套句、スローガン、嘘や空虚なフレーズが社会にはびこることになるだろう。人々は初めはその見え透いた嘘を笑うかも知れない。やがて感覚が麻痺して、その中に取り込まれてしまうだろう。実際すでに多くの人々が、優れた人々でさえ、その空虚なフレーズを知らず知らずのうちに受け入れてしまっている」
後のナチス政権が巧みな宣伝を用いて大衆を扇動した。シュタイナーの警告は正鵠を得ていたのだ。
ハーケンクロイツ
神崎は毎日ゆみと過ごす。2人は息が合っている。会話はヒトラーに関する事ばかリだ。魔術はおどろおどろしい、それでいて、人をひきつけてやまない神秘的な要素を持っている。
ナチ党に入党してからのヒトラーは尋常ではない働きをしている。多くの政敵を倒し、魔術的秘密結社を弾圧していく。
・・・ヒトラーこそが、世紀の大魔術師ではなかったか・・・
2人の一致した意見だ。
魔法を取り締まるーーナチ党の専売特許ではない。キリスト教でさえも、ローマで国教となってから、魔法結社、キリスト教以外の宗教を禁じている。中世ヨーロッパでは魔女狩りが横行していたのだ。
2人が注目したのは、ルドルフ・シュタイナーがハーケンクロイツの効果を認めていたという事実だ。
2人はハーケンクロイツについて調べ上げる。ハーケンクロイツは逆鉤十字と呼ばれる。
1920年にハーケンクロイツはナチスの党章、党旗として採用される。1935年にナチスの国旗となる。
まんじ(卍)はスワスティカ、鉤十字として、古来よりヒンドウー教や仏教、西洋などで幸運の印として使用されている。
一般的には、ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマンがトロイの遺跡の中で逆鉤十字を発見した事で、古代のインド、ヨーロッパ語族に共通した宗教的シンボルとみなされている。これに基づいてナチスがアーリア人の象徴として採用したものと言われている。
ヒトラーは我が闘争の中で、支持者からの提案で党旗の最終デザインを選ぶよう指示したとしている。その結果、ハーケンクロイツは歯科医フリードリヒ・クローンによって提案され、アーリア人優越論のシンボルとなったとも言われる。また一説にはオカルティストの間では、ルーン文字のSを重ねて作られたとする。
ナチ党は赤地の上の白円に中に黒のハーケンクロイツが入ったデザインを使用した。黒、白、赤は帝政時代の国旗に使用されていた色だ。
ヒトラーは赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツはアーリア人種の勝利のために戦う使命をあらわしているとした。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用している。
ナチス党が党章にハーケンクロイツを採用した事で、逆鉤十字は幸運のシンボルからナチスの象徴とみなされるようになる。
1932年3月12日ーーハーケンクロイツ旗を国旗に準ずるものと定める。1935年にドイツ国国旗に制定される。
以上はインターネットのフリー百科事典ウィキペディアからの抜粋である。
神崎とゆみは顔を見合わせる。これだけではシュタイナーの意図は不明である。
「もっと捜してみる」ゆみは眼を輝かせてパソコンに向かう。
平成23年2月上旬。
「あなた見て!」ゆみは興奮した口調で神崎を呼ぶ。
「灯台元暗しって、この事ね」ゆみは語る。
ハーケンクロイツを宗教的紋章として捜していた。出てくるのはウィキペディアの説明と似たり寄ったりだ。諦めかけて、ナチ党について調べてみた。ハーケンクロイツはヒトラーと深い関係があると見たのだ。
トウーレ協会の紋章にハーケンクロイツがあった。
ナチスのハーケンクロイツは45度傾いている。全く同じにトウーレ協会のハーケンクロイツも45度傾いている。ただ、トウーレ協会の紋章にはハーケンクロイツの中央に直刀がある。
ヒトラーがトウーレ協会から多大な影響を受けていれば、そのシンボルを利用してもおかしくはない。ゆみの説明に、神崎は相好を崩す。
そして、ゆみはトウーレ協会が東洋の秘教グループから大きな影響を受けていた事を突き止める。トウーレ協会の紋章は、東洋の秘教グループから採用されていたのだ。
一説によると、ハーケンクロイツはある特殊な奥義体得者達の、古代最古のシンボルだったと言われている。インド最古の宗教の1つ、ジャイナ教の紋章だったのだ。
ジャイナ教のハーケンクロイツは時計まわりだが、ナチスのシンボルは逆まわりである。
時計まわりのハーケンクロイツは大いなる創造のシンボルと言われている。逆まわりは破壊のシンボルなのだ。
噂によると、ナチスは3年がかりでシンボルを捜していた。より深い伝統の中からシンボルを取り出すなら、そのシンボルは古代の伝統とつながる事になる。
ヒトラーはアーリア民族の最古のシンボルを発見するために、チベットに探検隊を派遣する。このシンボルによって多くの秘密を見出す事を、ヒトラーは知っていたのだった。
卍が選ばれたが、最終的には逆さになる。卍を発見したヘッセンホフは、シンボルは逆さで使用すべきだとヒトラーに進言したといわれる。
ヘッセホフは多くの秘教グループと接触していた。彼は2つのシンボルを捜し求めていたと言われる。1つにはシンボルが非常に古い事、2つ目に、新しく作り替えることができる事。このためにハーケンクロイツが選ばれて、逆さにされた。
だがヘッセンホフはトウーレ協会の紋章が卍を逆さにした紋章である事を知らなかった。トウーレ協会は秘密結社だ。トウーレ協会の会員が、協会の内部を白昼にさらけ出す事は禁じられていた。
たとえ、ヘッセンホフが知っていたとしても、逆さまわりのハーケンクロイツを、ヒトラーに勧めていたであろう。
ヒトラーはハーケンクロイツの秘密を知っていた。だからヘッセンホフの進言を取り入れたのだ。
ヒトラーの魔術は、全て秘められた道場で授けられた。ヒトラーは魔術を、神智学会や他の秘密結社が勢力拡大に使用したように、政治的権力拡大のために使用した。
ヒトラーがナチ党に入党する。そして僅か14年間でドイツ国の独裁者になる。奇跡としか言いようがない。
・・・チベット・・・
神崎は何度もつぶやく。影のように動く秘教グループ、その一派がチベットにあった。ハーケンクロイツとチベット、そして日本とは深い繋がりがあった・・・。
卍は日本でもなじみ深いシンボルだ。卍はもともとサンスクリット語で”スワスティカ”という。幸運の意味を持つ。仏教では”一万の美徳を秘める幸福の護符”として神聖視している。
神崎はゆみに語る。
政治家としてのヒトラーの記録は厖大な量にのぼる。ヒトラーのドキュメンタリー映画も見飽きる程ある。
だが魔術師としてのヒトラーの記録は皆無に近い。その理由はただ一つ、ヒトラーが自らの魔術性を否定した事、ナチズムが政権を握った時、ドイツに根を張っていた魔術的秘密結社を根絶した事があげられる。
ヒトラーは魔術を独占したのだ。
東洋の秘教グループによって、魔術師ヒトラーはドイツ国の独裁者にまで上り詰めていく。
・・・ヒトラーは、秘教グループの操り人形ではなかったか、ハーケンクロイツの秘法を授けたのも、彼らではなかったのか・・・
神崎は魔法という闇の世界を知れば知るほど、戦慄を覚える。底なし沼に落ち込んだような不気味ささえ感じるのだ。
ヒトラーとルシファ
平成22年3月上旬、ゆみがインターネットから興味深い記事を見つけ出す。
1996年のアームストロング氏の講演内容だ。アームストロングは元CIA高官で、軍事問題や裏の世界(秘密結社や古代文明など)に精通している。
アームストロングは以下のように語っている。
ヒトラーは、大魔王のルシファが憑依した人物だという。この事実はアメリカや旧ソ連、イギリス、フランス、イタリア、日本などの、その国のトップが全員知っていた。それで、ある程度、ヒトラーの行動を黙認していたという。
--ヒトラー(ルシファ)の行動の根本的な目的とは「人間に一度、戦争という行為の愚かさを、とことん教えておく必要が、この時期にある。だから、私は、戦争、差別、虐殺などを行う」
アームストロングによると、ヒトラーはベルリンの地下官邸で自決したことになっているが、死んだのは替え玉で、ヒトラーはUボートで逃げ出し、オーストラリア海域で3か月潜伏する。その後、南米のアルゼンチンに入国、1991年までそこで生活して、最後に老衰で死亡。
アームストロングは、アルゼンチンでヒトラーと会ったという。
ドイツが降伏した時点で、ヒトラーの肉体からルシファが抜けた。ヒトラーは元の人間に戻ったため、連合国側はアルゼンチンで生活しているヒトラーには、もう干渉しなかったというのだ。
この話はヒトラーの背後で働きかけていた東洋の秘教グループと共通している。
ヒトラーはルシファの乗り物だったのだろうか。
ヒトラーの伝記作家、ジョン・トーランドはヒトラーとルシファの関係について、以下のように述べている。
「結局のところ、ヨーロッパからユダヤ人を一掃する夢に取り憑かれたヒトラーは、ハーケンクロイツの騎士、心の歪んだ大天使、プロメテウスとルシファの混血児の域を出なかった」
これと似た事が、グルジェフによって語られている。
「黒魔術はいかなる意味でも悪の魔術ではない。誰一人として、悪の利益の為に何かをやった者はいない。誰もが自分なりに理解している善の為に何かをするのだ。
だから、黒魔術が必然的に利己主義になるとか、黒魔術では人は自分の利益しか追い求めないなどと主張するのは正しくない。黒魔術が完全に利他的であるという事もありうるのだ。つまり人間の善を追及したり、真の悪、空想上の悪から人類を救済する事を願っている事もありうる」
グルジェフは次のようにも言う。
「黒魔術師は、善にせよ、悪にせよ、一度は秘教グループに席を置いている。彼は何かを習い、聞き、そして知っているのだ。彼はスクールから追い出されたか、それとももう十分に知ったと決め込んで出て行ったか、いわゆる半分教育を受けた人間なのだ。
なお、ルドルフ・シュタイナーは、ルシファよりも、アーリマンの影響が大きいのではと、以下のように述べる。
ルシファは人間の中のあらゆる熱狂的な力や、あらゆる誤った神秘的な力を呼び起こす能力を備えている。人を現実から乖離した夢想の世界に迷い込ませる。
アーリマンは、人間を無味乾燥で、散文的で、俗物的な存在にする。人間を頑なににして唯物論という迷信に導く。
15世紀以降、アーリマンの力が強力に働きかけていて、近い将来アーリマンの影響はピークに達するという。アーリマンは人間の姿で現れ、ほとんどの人類がアーリマンの手に落ちる危険に直面するとしている。
人間の心の中には、ルシファとアーリマンという2つの極が存在している。各人はその2つの力の間で均衡を保つために苦労することになる。要は2つの力の間でバランスを保つことが人間の霊的成長への秘訣と言っている。
「これみて!」ゆみの興奮した声。神崎は何事かと、パソコンの画面に見入る。
--ヒトラーは、ルシファに憑依されていたからこそ、預言を行う事ができたーー
”ヒトラーの預言”
「ヒトラーって、預言者だったの?」ゆみは素っ頓狂な声を出す。
「さあ・・・、おじいちゃんからも聞いたことがないなあ・・・」
神崎は迷路に迷いこむような苛立ちを覚える。
・・・ヒトラー問題は単純ではないのだ・・・
神崎はゆみと顔を合わせる。いったん、ここで打ち切って、今まで調べた事をまとめる。
平成22年3月。2人はヒトラーの事から離れて、2泊3日の旅行を楽しもうと考える。交通はすべて車を使う。
行き先は奈良大和路と決める。3月、春とは言えまだ肌寒い。朝7時に東浦の自宅を出発。知多半島中央自動車道東浦インターに入る。大府市から湾岸道路に進入する。桑名インターから名4国道に乗り換える。ここからは一般国道だ。四日市市から国道一号線に入り、亀山市内から名阪国道に移る。伊賀を超えて天理インターで降りる。この間、約1時間の休憩を取って、天理市に着いたのは10時半。
石上神宮を参拝。次は大三輪神社に向かう。神社内の駐車場に車を駐車して、自転車を借りる。この近辺は古墳や神社仏閣が多い。サイクリングロードで史跡巡りをするグループも多い。長谷寺や石舞台古墳、飛鳥寺を回る。昼は三輪ソーメンを食べる。4時ごろ、大三輪神社に帰る。自転車を返して、猿沢池、興福寺近くのホテルで一拍。
普段は家の中に閉じこもりきりの2人だ。自転車とは言え3時間ばかり遠出している。ホテルに入り、温泉に浸かる。食事を摂ると前後不覚に床に就く。
翌朝9時にホテルを出る。興福寺や法隆寺、春日大社などを見て回る。東大寺を出るころに昼になる。午後は柳生の里に向かう。ここは見るべき所が多いので、柳生茶屋に車を置いて徒歩で散策する。
旧柳生藩家老屋敷や芳徳寺、興味深かったのは、天乃石立神社の一刀石。修行中の石舟斎が天狗と勝負し、真っ二つに切られた一刀石という。その他に柳生しょうぶ園を散策する。4時ごろに吉野山の金華山寺近くの旅館に入る。
吉野山は桜で有名だ。桜の季節に少し間があるが、2人は翌日の午前中に吉野山を歩こうと考えた。昼食を摂った後に東浦まで帰るつもりだ。
吉野山で特に興味を引いたのは如意輪寺だ。ここは南北朝の戦いで討ち死にした楠木正行の辞世の句が堂の扉に残されている。この寺は後醍醐天皇の心のより所であったと聞く。境内の裏手にある御陵はには、京の都への凱旋を夢見ながらも、ついに叶わなかった後醍醐天皇が眠る。
「そう言えば・・・」神崎はゆみに語り掛ける。後醍醐天皇の御陵の前である。
「後醍醐天皇には予言めいた話がでてくるが・・・」
ーー楠木正成との出会いも、後醍醐天皇の夢に出たとか・・・、予言があったとか・・・--
神崎の話は頼りないが、ゆみは笑って頷く。
・・・夫はヒトラーの事で頭の中が一杯なのだ・・・
「ねえ、家に帰ったら、ヒトラーの預言を捜してみない?」ゆみの眼はいつもくりくりと輝いている。神崎はそんなゆみが好きだった。
ゆみの内心は複雑だった。神秘的なものが好きだとは言え、予言には随分と騙されている。占いの本を買って、自分の将来を占ったりする。1つとして当たったためしがない。
1999年に大魔王が天から降ってくるというノストラダムスの予言はガラリと外れる。一番得したのはその手の本を書いた人と出版社ぐらいだ。
近いところでは2012年に世界が滅びるという話がある。2012年と言えばあと2年しかない。地球規模の大異変が起こるなら、もうそろそろ、その兆候が出てもおかしくない。いまだ何の験も出ていない。
・・・それにヒトラーの預言など聞いた事がない。随分といかがわしい話だ・・・
ゆみは夫の失望した顔を見たくない。たとえガセネタでも夫の喜ぶ顔をみたい。
・・・やれるだけやってみよう・・・ゆみの決意は固い。
後醍醐天皇御陵を後にした時、神崎の携帯電話が鳴る。神崎はスイッチオンにする。
「神崎さん、私!清水よ!」けたたましい声が飛び込む。
隣のおばさんだ。知多半島の南端師崎の”源氏香”に泊まった時、2人組の男が神崎の家の周りをうろついていた。それを教えてくれたおばさんだ。
彼女には2泊3日の旅行に出かけると言ってある。
「あんたとこの家に泥棒が入ったのよ。警察の人のも来てもらったの。早く帰ってきて!」興奮した声だ。
神崎とゆみは青ざめる。詳しい事は帰ってからという事で電話を切る。
この事で、2人がとんでもない事件に巻き込まれる事になる。この時、2人は露さえ知らなかった。
旅行を切り上げて、車を東浦に走らせていた。
--続くーー
お願いーーこの小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織 と一切関係ありません。なお、ここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創 作であり、現実の地名の情景ではありません。