キミのコト
短編3000文字シリーズ第10弾
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこういうことを言うんだろうか。
彼女の姿越しにガラスに映った僕が目に入った。僕の口はちょうど「え?」と形で固まったまま不格好な笑顔のように映っていた。
「ごめんね?」
彼女は申し訳なさそうに言いつつも、どこかさっぱりした顔をしていて、今日がこのイベントの為に用意された日だったのだと思い知らされる。
「なんで?」
頭で考えるより先に口が勝手に動いていた。どうしてこういう事になったんだろう、と記憶を遡る。
――三十分前
「ここでいい?」
日曜日の昼下がり、お互い仕事の忙しい身の僕らの週に一回のデートは、いつものように昼ごはんからはじまるはずだった。
「ん、いいよ」
彼女は普段と変わらない様子でそう答えた。
料理を注文して待つ間、この一週間にあった事を話す。これもいつも通り。会社の先輩がおかしたあり得ないミスの話を彼女は笑って聞いていた。昼飯が終わればそのまま店を覗いたり、映画を見たり、それなりに時間をつぶして夜を迎える。久しぶりに体を重ねるかどうかはその時になってみないと分からないけど、それ以外は概ねいつもと変わらないデートになるはずだった。
それが、なんで急に「別れようか」になるんだろう?
――一年前
「えっちしようか?」
サークルの飲み会のさなか、盛り上がるみんなに聴こえないように彼女は僕に耳打ちした。まさに寝耳に水だ、前々から彼女の事は好きだったけど、あまりに突然の誘いに喜びよりも驚きの方がはるかに強かったのだ。
「な、なに言ってんだよ」
この時むせたビールが気管に入ってかなり痛かった。
彼女は少し酔っているようだった。いつもは少ししか飲まないお酒を、この日は多めに飲んでいたと思う。
「前からキミの事ちょっと気になってたんだ。だからさ、今日思い切ってえっちしてみようよ」
「一気に飛躍しすぎじゃないか?」
「いいじゃん、行こうよ」
彼女に手を引かれて、「ちょっと」なんて言いながら、すでに僕もその気だった。みんなに見つからないようにこっそり抜け出して、その足で近くのホテルに駆け込んだ。
そしてその日から頻繁に彼女と会うようになった。もちろん、会うだけじゃなかったけど。
――半年前
右頬が痛かった。なぜか? 彼女に思いっきり殴られたからだ。
右頬をさすりながら、『彼氏彼女の境界線』はどこにあるんだろう? と僕は考えた。いま僕達は付き合っているんだろうか、と。
「キミは分かってないよ」
可愛い瞳に怒りの色を宿して、彼女は僕を睨む。原因は僕が他の女の子とキスをしたからだった。酒の席でのゲームの結果だった。
その席には彼女もいた。一緒にゲームをして、その場は楽しそうにしていたのだが、飲み会が退けると彼女の様子は一変した。
「どうして断らなかったの?」
「だって、ゲームだよ?」
急に殴られた痛みで少し苛立ち気味にそう言うと、彼女は「あたしは」と大声を上げた。
「あたしは、キミが他の子とキスするのは嫌なの!」
深夜の大通りに彼女の声が響き渡る。それに答えるように一度だけ街路灯が点滅した。その迫力に押されて僕はほとんど反射的に「ゴメン」と謝っていた。
それから彼女の機嫌を直すまで随分かかった事は、今でも鮮明に覚えている。
――二か月前
「これなんかどうかな?」
彼女はグレーのスーツを手にとって僕に見せた。彼女の就職内定が決まったお祝いに二人でスーツを見に行った時だ。
「良いんじゃない?」
すでに小さな広告代理店に内定が決まっていた僕は、ようやく内定が決まった彼女を素直に祝福した。彼女が初出社時に着るスーツは僕がプレゼントするつもりだった。
「ちゃんと見てよ、こっちはどう?」
なにを見ても「いいんじゃない」しか言わない僕に彼女は不満げだったけど、本心だったのだから仕方ない。なにせスーツ姿の彼女はとても輝いて見えたのだから。
結局その日彼女は迷いに迷った挙句、僕の経済状況を加味して値段の安いスーツを選んだ。僕としてはもう少し張れる見栄は持っているつもりだったけど、彼女がとても嬉しそうにしていたので何も言わない事にした。
――二週間前
「あのさ、」
最近のお決まりになった週末デート、バーで軽く飲んでいる最中、思い立ったように彼女は口を開いた。
「ん?」僕はグラスを傾けながら答える。
「キミと最近キスしたのっていつだっけ?」
もしかしたらこの時に僕は気付くべきだったのかもしれない。でもこの時の僕は素直に記憶を遡り、「先週しなかったっけ?」と答えていた。
「そっか、そうだよね。毎週会ってるんだし」
彼女は納得したようにカクテルの入ったグラスを空けた。
「どうしたの?」
僕は笑いながら訊ねた。なに笑ってるんだよ、と今の僕がいくら叫んだところでこの時の僕には届かない。
「ん? 別に」
彼女はそう言って可愛らしい笑顔を見せた。
――今
「好きな人が出来たんだ」
彼女は食べ終わったパスタの皿に残ったベーコンをフォークで刺しながらそう言った。まさに青天の霹靂だった。
「会社の人。ちょっと年上なんだけどね」
「えっと……」
僕は言葉に詰まる。ざわざわと黒い影が胸の内に広がって行くのがわかった。
「キミの事は今でも嫌いじゃないよ。でも、もう終わり」
「どうして?」表情がうまく作れない。
「キミとのキスより回数が増えたから、かな」
――数時間後
どうやって帰って来たんだろう?
頭の中が真っ白でこの数時間の記憶が曖昧だったけど、僕はいつの間にかアパートの前に帰って来ていた。辺りはもう真っ暗だ。
街路灯が明滅していて僕の頭にあの時の彼女の叫びが閃いた。あの時境界線を先に越えたのは彼女だった。そしてまた彼女は僕よりも先に新しい境界線を越えた。
先にどちらかが好きになって、先にどちらかの気持ちが終わる。ただそれだけの事なのにこの喪失感はなんだ?
物事の終わりはいつも突然やってくる。不変なものなどこの世に存在しない。それは分かっているつもりだった。
ただ、僕達の恋は終わってしまった。そう考えると、どうしようもなく寂しかった。
――一カ月後
あれ以来彼女からの連絡は一切途絶えた。まぁ、当たり前と言えば当たり前だけど、僕の心には未だに悲しみがしこりのように固まっていて癒える気配がない。
どんなにつらい事があっても一日ははじまって、終わる。一日一日を積み重ねて行く度にいつかはこの悲しみも忘れて行くんだろう。日曜日が終われば月曜日が来る。また、忙しい毎日がはじまる。
――たぶん三カ月くらい前
「ねぇ」
彼女は繋いだ手を大きく振りながら眩しい笑顔を僕に向けた。毎日一緒に歩くアパートへの帰り道、僕達は必ず手を繋いでいた。
「例えば、いつかあたし達が別れる事になったとするでしょ?」
「なんだよ、藪から棒に」
「いいから、ね? いつかあたしが『別れよう』って言うの」
僕は冗談半分で聞いていた。それは、この時の僕達に別れなんてものは遠すぎて、想像すらできなかったからだった。
「僕は別れたくないけどなぁ」
繋いだ手に少しだけ力を込める。
「あたしだってそうだよ。でも先の事は分からないでしょ?」
「まぁ、そうかもね」
「だから、今の内に約束しとこう?」
そう言って彼女は繋いでいた手を離し、正面に回って小指をからめた。
「いつか別れる事になっても、ずっと友達でいようね」
「それが約束?」
「そう、そしたらキミはこう言うの」
その時の彼女の顔はそれまでのどれよりも可愛く見えた。
『今までありがとう。いつか笑顔で会おうね』
これでしばらくは短編シリーズをお休みします。
最後に『僕』は約束を守れたのか? それは皆様のご想像の中に……