そしてはじまる
暴力表現があります。
苦手な方はご注意ください。
大理石の柱が立ち並ぶ廊下を重い肢体を引き摺って歩く。
擦り剥けた手首に残る縛られた跡がひりひりする。
両手足に刃物で傷つけられた無数の傷跡からは血が滲んでいた。
腹や頬には殴られた跡がくっきり残っていて背中には鞭の跡だ。
時々立ちくらみがしたが、ゆっくりと歩けばなんとかおさまった。
肉体も精神も疲労していたが、血や汗で汚れた体をそのままにはしておけなかった。
せめて水浴びをして洗い流したかった。
この世に生れ落ちた瞬間から自分の生きる道は一つしかなかった。
人とは異なる肉体を持って産まれてきたので幽閉されて育った。
王宮から離れている森の奥深くにひっそりと建つ塔。
自分の世界はこの幽閉の塔だけ。
空虚な心のまま機械のように、人形のように毎日を淡々と過ごしていた。
侮蔑の視線を向けて化け物と罵る王妃の感情すら自分の心と身体をすり抜けていく。
日に二度外から食事が届けられるだけで身の回りの世話をする者はいない。
だから自分のことは自分でしなければならない。
完全に放置されている。
時折訪れるのは王妃だけで、その王妃は拷問まがいの折檻を繰り返す。
言葉で罵られ、暴力で苦痛を与えられる。
繰り返される灰色の日々は確実に自己卑下の心理状態へ追い詰めていった。
それでも自ら命を絶たないのは、自分を生む為に命を落とした顔も知らぬ母に申し訳ないからだ。
それだけではない。
別段死ぬのは怖くない。
ただ、自害だけはしたくない。
まだ子供のころは国王の手前世話をする者が居た。
乳母だ。
継母である王妃から自分をかばい死んでしまったけれど、彼女から学んだことはごく僅かだったが確かに自分の中に根付いている。
この世には様々な神が人々から信仰されているが、どの神も決して自害を認めはしない。
この国が信仰する聖母神の教えでもそうだ。
聖母神アシラはこの世のあらゆる命の母である。
他の神々と交わり、時には自らの血肉からこの世に万物を生み出す聖母には、生誕という大いなる使命の代償として盲目である事が義務付けられていた。
その代わりにその額には地上の全てを見通せる第三の眼がついている。
第三の眼には人間のような白目はない。
原始混沌の貴色である黒一色のみの眼光で人世を見守り、生み出した生命が死する時に自らの手を差し伸べるという。
それ故に始まりと終わりを司る神でもある。
聖典にもこの世のありとあらゆる生命はその生を終えると聖母の母胎へと帰化し、次の転化に備えると記されている。
だが、自ら命を絶てば母なる母胎へ戻れない。
哀れな心魂だけの亡者と化して魔物の餌になるしかない。
そう教えられて以来、敬虔な聖母神信者である自分は自害を恐れている。
やっと辿り着いた水殿に安堵の息をつく。
片足を引き摺りながら段になった通路を下がり清らかな水に手を浸した。
水面に映る生みの母に瓜二つだといわれる容姿は、柔らかな肌と緩やかな曲線を描く淡い金の髪と中世的な顔。
まるで女のような顔の青年だった。
女にもなれきれず、男にもなれない姓。
それこそが自分が背負った業である。
何故、聖母神はこんな身体をわたしに与えたのだろう…?
殴られて腫れ上がった頬に指を沿わして、水面に映る自分をぼんやりと見つめる。
王妃はこの顔が気にいらないのだと言う。
痛い。
傷つけられた肉体よりも心が痛い。
仕方がないことだと何度も思った。
王妃が自分に暴行を加えるのは自分が異形の物だからだ。
聖母神の御加護で守られているこの国に生まれた魔形の存在なのだと王妃は叫ぶ。
だから仕方がないのだ。
けれどそれならば何故こんなにも苦しく、心が悲鳴を上げるのだろう。
魔形ならばなぜ悲しみを感じる心があるのだろう。
自分を生んだ母を恨めず、王妃に怒りをぶつける事も出来ない。
自ら死を選べず、降り注ぐ暴力の嵐に耐える繰り返すだけの灰色の日々を過ごし、ただひたすら聖母神に許しを乞うことしか出来ない。
自分はなんて無力で愚かな存在なのだろう。
水面に波紋が広がった。
一つ、二つ、と次々に広がっていく小波に首を傾げ、水面を覗き込めば自分の頬を伝う雫がぽつりと落ちた。
自分は泣いていた。
その大きな瞳から大粒の涙を零していた。
小刻みに震える指で頬を拭けば、そこには確かに雫で濡れていた。
王妃に始めて殴られた時でさえ痛みを我慢するしか出来なかったのに、自分にも人のように涙を流す事が出来たのかと嬉しく思った。
たおやかに微笑んで何度目かになる暴力に晒されて疲れきった体を覆っている大きな布を脱いだ。
大理石で作られた囲いに座る。
身体が軋む。
腰に痛みが走り水がかかった足の傷が、ぴりっと引きつった。
体中が痛いがそれでも身を清める為にゆっくり足を浸す。
沁みる痛みをなんとかやり過ごして少しずつ身体にこびり付いた血の穢れを洗う。
地中や岩の間から湧き出る綺麗な澄んだ水は、肉体の傷を徐々に癒してくれる。
この国は水と花の国と謳われる大陸最古の王国だ。
この塔から出たことのないので見たこともないが、乳母が与えてくれた知識では、この国は水源が多く存在し、緑豊かな自然に囲まれているという。
この国では宗教と人々の生活に水が直結していた。
特にレムの山脈から流れいずる山水は、聖母神の涙とも呼ばれ清水として尊ばれている。
聖母神を信仰する神殿ではレム山から直にひかれた清水が使用されている。
勿論、王宮も同じ仕組みになっているぐらいだから、この塔にもこうして身を清めるための簡易的な水殿が作られている。
聖母神の加護を受けた清浄な水が染み透る。
清新な身体になれるような気がして、一心に自分の身を清めた。
だから気がつかなかった。
身を沈めている水殿の中心に気泡が生まれていたことに。
水源部分の水面上が泡立ち始めていたことに…。
それは次第に勢いを増していく。
大きな波紋が自分の方へと寄ってくることに気がついた時には、水殿の中心の水面は高く盛り上がっていた。
栓を切った噴水が爆発したように突如として水飛沫が上がった。
雨のように自分に降り注ぐ清水に呆然とした。
何が起こったのかまったく分からなかった。
たった先程までこの水殿には自分一人しか居なかった筈なのに水が荒れ狂った後、そこに裸体の女が立っていたのだ。
女の肌は象牙色で美しく魅惑的なまでに滑らかだった。
豊満な肢体にしなやかな四肢がすらりと伸び、豊かな胸は惜しげもなく晒されていた。
女性の裸体を見たことがない自分でも美しいと思える魅力があった。
だが、その女の肌には赤黒い楔形文字が蔦のようにざわざわ這っていた。
まるで生き物のように女の全身いたるところを蠢いている。
とくに深く抉られている左胸から脇腹にかけての傷跡に、それらはザワザワと這い寄っていく。
それはまるでその傷を修復している動作のようだった。
いや、実際に傷がゆっくりと治癒されていくではないか。
恐ろしい光景なのに何故か強烈な吸引力で眼が放せなかった。
凝視していれば女の胸…、心臓の真上にあたる場所に描かれている三日月のような見たとこもない方陣模様が心臓と呼応するかのように脈打っていることに気がついた。
女は俯いているので顔は分からない。
長い黒髪は水殿に広がり水の中を漂っている。
その緩慢な動きが生きているようで、そこでやっと背筋がぞくりとした。
強烈な存在感を放つ何か恐ろしいものが目の前にいる。
一見、人間の姿をしている女だ。
だけど、わけもなく湧き上がる恐怖で身を竦めた。
恐ろしい。
王妃には感じることなかった本能的な畏怖。
これは絶対的な支配者。
きっと目の前の女は何の躊躇もなく自分を殺せる。
そう悟る。
逃げなければ!
本能がそう叫ぶ。
なのに体は石になったかのようにピクリとも動かない。
蠱惑的な魅了の力を放つ存在から目が離せない。
神殿上部に設置されている細工師が丹精込めた大理石の女神像さえその足元にも及ばない。
圧倒的な吸引力。
息を詰めて見つめる中で女が顔をあげた。
女の頬や額にも赤黒い文字が這いずっている。
だがそんなことは目に入らなかった。
思わず驚嘆の溜息が自分の口から漏れた。
女のその両目は自分と同じ人の目だ。
理性を宿す瞳。
だがその虹彩は真の闇で塗りつぶされていた。
闇を溶かしたような、深い、何処までも深く引きずり込まれるような漆黒だ。
聖母神アシラの第三の眼と同色の色彩である。
それは神にのみ許された原始の色だった。
黒い目がこちらをとらえた。
視線に蒼褪める。
慌てて脱いだ服で自分の身体を隠す。
「―――…おまえ、名前は?」
静かに問われてぶるぶる小刻みに震えながら顔を上げる。
黒い目には予想していたような反応は微塵も浮かんでいなかった。
不思議そうに少しだけ首を傾げている。
女の瞳は淡々とこちらに注がれているだけで好奇心や嫌悪感といった感情はない。
なんと表したらいいのだろう。
女はただ自分という存在を認知しているだけだ。
胸を衝かれた気がした。
喘ぐように口を開き、声を出そうとする。
しかし、震えてしまい上手くいかず、出たのは掠れた音だ。
一瞬、怒られるだろうかと心配したが女は怒らなかった。
怯えを見透かしたのか一瞬その瞳が細まったが、女は一言も言葉を発することなく、静かに返答を待っている。
「あ…、わ、わたしの名前はアオンといいます。貴女の名前は…?」
「私はミヤ」
死んだ乳母以外知らない自分の名前。
もう今では誰も呼ぶことのない忘れられた名を、女は口の中で転がすように何度か繰り返すと静かに頷いた。