旅路10
「―――――さま…――殿下…?」
ぱちりと眼を開ければ、ラシャが覗き込んでいた。
私を見下ろす琥珀色の、光加減では白金にも見える瞳を心配げに揺らしている。
「魘されていましたけれど、どこかお加減でも悪いのですか?」
「いや――――大丈夫、どこも悪くなんてない」
起き上がり顔に張り付いた前髪を掻きあげた。すると手のひらが僅かに湿る。汗をかいているのだ。
なるほど魘されていたというのもあながち嘘ではなさそうだ。
疲れたように座りなおせばすかさずラシャが座布団やクッションを用意してきた。
本当にバジリアの側仕えはよく教育されている。
目敏すぎて気が抜けやしない。
でもここまで人を近づけて気がつかないのも珍しい。アオン以来始めてだ。
人の気配には敏感だ。長い間危険と隣り合わせ、そういう生き方をしてきたから当然だ。
例え熟睡していても直ぐに眼を覚ませるように身体が慣れている。
なのにラシャには気がつかなかった。
ラシャに私を害なす気配がなかったのか、それともラシャの気配の消し方が上手いのか迷うところだ。
キャリッジの中をちょこまかと動き回るラシャを、視線で追いながら気がついた。
キャリッジの動きが止まっている。
出窓の方を見れば外は薄っすらと赤い。
かなりの時間座ったまま眠っていたようだ。道理で体中が何だか軋むわけだ。
耳を澄ませば外で兵たちが動き回る足音や話し声が聞こえてきた。
「申し訳ありません。今夜はここで野営することなってしまって」
「なにかあったの?」
「それが予定の工程より進みすぎてしまい近くに宿駅がないのです」
「そう」
「戻るのも効率が悪く、今日はこのまま野営となるのでご確認をと思ったのですが、兵たちはもう用意を始めてしまって…。申し訳ありません」
「何で謝るの? 私は別にかまわない」
「……やはり殿下は変わった方ですね」
野宿など慣れている。しかも屋根があり寝台がある、十分豪勢だ。問題など何処にもなかったのだがラシャは可笑しそうに笑った。
日が落ちかかっている。あと一時間もすれば、完全に辺りは暗闇へと溶け込むだろう。
一行は水辺に陣取っていた。
兵士たちは自分たちのラッカルの世話と食事の支度に忙しく動き回る。
それぞれの役割を分かっているかのようにてきぱきと用意をする。
キャリッジに繋がれている白馬を放して世話をするのはザイールとサリマムだ。
王女の乗るキャリッジを引く馬だから下手に下位のものには任せられないので手分けして受け持った。
火を起こした後に哨兵を交代して立たせ順次食事である。
さすがにバジリアの一流の戦士たちだ。手馴れている。それを見ることは出来なかったが気配で察する事は出来た。
以前は自分でやっていたことだ。戦場で。今はただ座って待っているだけだ。
現在の私の身分は聖王女だ。しかもバジリアの王に嫁ぐ女なのである。
軽々しく人前に出ることは出来ない身分だった。
面倒だったが仕方がない。
扉からアオンが白磁器できた甕を持って入ってきた。
湯気が出ている。
見れば中にはお湯が入っていた。
私が見ている前でアオンは持参した木の皮を編みこんで作られている薬籠から二本の小瓶を取り出した。小瓶の蓋を開けて白磁器の甕の中に数滴ずつ垂らす。ふわりといい香りが漂ってきた。
ラシャが首をかしげた。
「それは?」
「精油ですよ」
アオンが白磁器の甕を差し出してくる。
「夕餉の前に手や顔を洗いたいのではないかと思いまして」
「態々焚いてくれたんだね。ありがとう」
アオンは柔らかくほほ笑んだ。
「精油はお湯の方が効果がありますから。分量によっても色々な効果が現れるんですよ。ある種の薬のようなものですから安心してください」
前半は私に後半はラシャに向けて話す。
私は頷いて手を浸す。温かく丁度良い湯加減だった。
清涼感のある染み透るような香りが気分を穏やかにしてくれた。
その横でラシャが興味深げに薬籠を覗きこんでいる。
「垂らしたのはローズマリー?」
アオンが目を丸くした。
「分かるんですか?」
「匂いでなんとなく」
「そうですか。垂らしたのはローズマリーとユーカリの精油です。意識をはっきりさせたい場合や気分が沈んでいる時、心を落ち着かせる効果があるので」
アオンも魘されている私を見たのだろう。
心配させて悪いなと思いつつ顔を洗う。
ラシャから渡された柔らかい質感の綿織物で出来た布で顔と手を拭いながら尋ねる。
「ラシャは薬師の知識があるの?」
「え? …いえ、この程度でしたら小姓としての知識のうちですよ。アオン殿は薬師も兼ねてらっしゃるのですか?」
アオンは薬箱を片付けながら答えた。
「グランジェは花と水の国ですので」
「……?」
「花や水には聖母神の恩恵が宿っているとグランジェでは認識されていますので、神殿では多様な植物の研究が日々なされております」
神殿の内部派閥を住みやすいように好き勝手弄ってやったときにそういう部署があることを知った。
それにアオンが興味を示したので、その部署を気まぐれに与えてみたらどうやら性にあっていたようでメキメキと知識を吸収していった。
「精油もその一つです。バジリアではあまり流通していませんか?」
神殿の儀式では湧き出でる水そのものを使うことが仕来りだったが、貴族の間では風呂に精油を含ませたり美容などに好まれて使用されている。
「バジリアはグランジェほど水も花も豊富というわけではないので、高級品です。しかし後宮の女たちは好みそうですね。こういうの」
好奇心からか楽しそうに話すラシャに問いかけてみる。
「興味があるの?」
「バジリアでは植物の知識はたいていの者が持っています。厳しい環境の中で生きるには薬の知識も必要ですからね。でも毒薬、解毒薬、さらに高度な知識の場合はある一定の身分の者にしか与えられません。種族独自に受け継がれる調合法というのもありますから、他国に負けない程度には薬学が発達していると自負していますが…。それ故に嗜好品としてはあまり使われることは少ないのです。こういう使用方法もあるのだと感慨深くなりました」
「へぇ」
そんな会話をしつつラシャは夕餉の準備があるのでと外へと出て行った。
手伝おうと申し出たら「殿下にそんなことはさせられませんこれは私の仕事ですから」とやんわり拒否された。
ミヤは手持ち無沙汰だったが結局待つだけだった。待つだけというのがこれほど手持無沙汰になるとは…。やれやれと肩をすくめた。
夕餉に出されたのは人参やトマトとパセリのペースト。ピタと呼ばれる直径二十センチくらいの平たく円形のパン。チーズにレンズ豆のスープが出された。全部美味しく頂いた。
食後にラシャがデザートにとヨーグルトを持ってきた。
「このような旅路の食事は質素でしょう? せめてこれぐらいはと思いまして」
「気にしなくていいのに……、十分美味しかった」
慣れてるから。腹が膨れれば何でもいいし。では拙いだろうなと言葉を飲み込んで言い直した。
器に入っているヨーグルトの上には小さな薔薇が浮かべてあり、見栄えはとても華やかだ。
どうぞ、と差し出されラシャとヨーグルトを見比べる。
横ではアオンも同じものを差し出され受け取っていた。
ここで断るのは気を利かせたラシャに悪いんだろうなと思い私も受け取る。
スプーンで一口掬い上げて口に含めば甘みが広がったが、ぴたりと一瞬だけ動きを止めた。
目の前でラシャは可愛らしく笑っている。
もう一度スプーンで一口掬い上げたが、今度はラシャの口許に向けた。
ラシャはきょとんとする。
「あの?」
「いや、食べたいのかと思って」
それで自分が食事風景を見つめていた事に気づいたのだろう。ラシャは恥ずかしそうに頬を染めた。
「いえ、僕は結構です。すみません」
か細いく呟いてキャリッジから飛び出して行くのを見届けてから、スプーンをもったアオンの腕を手に取った。
アオンが不思議そうにこちらを見つめたので、私は長々と溜息をついた。
ラシャが帰ってきた頃には二つの小さな器は綺麗に空になっていた。




