旅路5
大神殿を出たのは閏暦啓蟄の年、冬蘢りしていた虫が顔を出す季節。
バジリアは灼熱の砂漠の国らしい。
だから季節が夏を迎える前にバジリアへと入国できるようにという配慮か。
昼過ぎに大神殿を発った一行はグランジェの大理石通りを仰々しく進んだ。
通りに集まった国中の民衆たちに見送られ、一行がグランジェの街路からエイジアへと続くマルテ街道へと入ったのがその三刻程前。
マルテ街道はエイジアとグランジェを繋ぐ経路の一つで最もよく利用される道だ。
エイジアは行商人たちが行き交う交易都市である。
そのため各国へと繋がる街道への着手には並々ならぬ熱意を注いでおり、王都のトスブルは別名、街道の都市ともいう。
交通の要衝であるその街は巨大な十字路で出来ていて、川の本流と支流に囲まれている中州にある。
エイジアからはグランジェだけでなく、同盟都市ラベックや海洋王国マルポジーなどへと繋がる玄関口でもある。
そしてバジリアの友好国。
マルテ街道を走るキャリッジの中で、金虎の毛皮の絨毯上にだらしなく寝そべる。
さわりごごちいいなこの絨毯。
堪能していると何やらごそごそとしていたアオンがこちらに寄ってきた。
「せっかく整えた髪が乱れます。衣裳も…」
「べつにいいでしょこれくらい」
向かい合うために体を起こした。
「さっきは結局一言もしゃべらなかったね。なんで?」
「あちら様の説明を遮るのもどうかと思いまして」
長ったらしいベールを乱雑に脱ぐ。
アオンのベールも取ってやった。
「それだけじゃないでしょ」
困ったようにこちらを見返している中世的な顔。
出会った時の長ったらしい伸び放題だった髪はさっぱり肩まで切り整えられている。
「かすかに震えてるんだけど」
憮然と言い放ち細い手を軽く握ってやれば、ぽっと頬を染めた。
接触するたびに頬を染めるのをどうにかしろと何度も言っているのだが未だ治らない。
まあ、前は軽い接触でも怯えていたからこれでもずいぶんましになったほうだ。
何もしていないのに怯えられるのは、まるで弱い者いじめをしているようで居心地が悪かった。
「…少し怖くて」
「あの子が?」
「はい。血の匂いがしました。本当に少しですけれど」
「ああ、うん。そっか」
アオンは血が苦手だ。
匂いにも敏感で、すぐに嗅ぎわける。
私も結構な血を浴びでいるから体臭に交じってると思うんだけど、私は大丈夫らしい。
その判断の理由がわからない。
「それは私も気づいたよ。うまく隠してるけれど気配もただものじゃない。ただの小姓ではないと思うな」
「なんと表現していいのかわからないのですが…、鋭い牙を隠し持っている獰猛な獣が知性の皮をかぶっているような印象を受けました」
「いい線いってるんじゃない、それ。でも知性ある獣はこっちが手を出さない限りはおとなしくしてるでしょ。ラシャもそうなんじゃない」
大丈夫と言う代りに笑い飛ばしてやる。
現在、噂の少年はキャリッジの外に移動し今後の予定確認をしている。
さすがに王侯貴族御用達のキャリッジだけあって機密性が高い造りで外の声は聞こえない。
おそらく中の声も聞こえていないだろう。
だから今は気楽だ。
気を張っていたのかアオンは少しほっとしたように肩の力を抜いた。
「…あのミヤ、御髪を梳かしてもいいですか?」
「また? 別にいいけど」
苦笑して背中を向ける。
もじもじとしていたアオンはパァと花が咲いたように嬉しそうにしていそいそと用意し始める。
「貴女の髪を梳っているとおちつくんです」
いつからかアオンは不安になると髪を触りたがった。
その行動が癖になっている。
別に嫌じゃないから拒否はしない。
さすがに初めのころは他人に後ろを取られるというのが慣れなかったけど。
自分以外の他人を疑うのが日常だったから、出会った当初、アオンに対しても内心警戒していた。
でも、いつのまにかこの穏やかな空気に癒されていた。
私の精神は自分で考えていたよりかなりボロボロだったようだ。
私たちが出会ってから結構な日にちが経過した。
たぶん三年ぐらいだ。正確なことはわからない。
でも三年。
私にとっては三年間あいつを追わなかったことになる。
これは前例がない。
いままで幾度となく繰り返されてきた追走劇。
目が覚めれば必ずあいつの形跡を探し動き出していた私は、利用できるものを利用し、必要な手段はどんなことでもしてきた。
それなのに今の私はなにをしているのか?
こんな茶番に付き合う理由はないのにずるずると穏やかな日常に浸ったままだ。
穏やかな空気。何気ない一日。心休まる場所。
すべて私が失ったものだ。
なすすべなく奪い取られたものっ!
あいつが憎くて仕方がないのに、この温かい場所と時間を手放したくないと思う私がいる。
そのジレンマはじくじくと常に頭の片隅で私を苛む。
ちらりと首を傾けてアオンを見た。
何がそんなにうれしいのか、うっとりとして私の髪を触っている。
とにかくまずはアオンが生活できる場所を確保しなければならない。
でなければおちおち旅にも出られない。
本当はグランジェにその場所を作るつもりだった。
実際、その準備はできていた。
人間として最低な部類だった王妃は脳を壊してやったし、アオンの身の回りの世話や護衛のための人材を何人か洗脳しておいたのだから。
アオンはグランジェで何の心配もなく生きていけるはずだった。
確かにグランジェに大した軍がないは不安ではあったのだ。
何年も戦争を経験してこなかった所為のようだが、住んでいる人間たちの危機感は少ないように思えた。
しかし、それを補うのが周辺の同盟国だ。
大陸最古の王族が治めているという謳い文句によってその血が尊ばれていた。
もちろんそれだけではないだろう。
グランジェは土地と気候に恵まれた豊かな国で輸出するものはいくらでもある。
その恩恵を受けている国は多いはず。
だから何かあっても同盟軍が駆けつけてくるという寸法だったのだろう。
それを覆したのがバリジアだ。
バジリアのせいで、私の計画は全て…すべてが台無しになった。
あの時は頭にきて思わずぶちぎれてしまった。
熱がさめて落ち着いた後に少し反省したが、後悔はしていない。
別の計画を立てなければならなくなった。
バジリアの後宮にアオンの居場所を作ろうかとも思ったが、さすがに女の花園に残していくのは不安がある。
この美貌だ。やっかみや嫉妬の対象になるだろう。
やはりここでも脳内に精神干渉して洗脳するか…?
しかし、もし万が一バジリアの王に目をつけられたらどうする?
考えれば考えるほどイライラしてきた。
近くにあった長ったらしいベールをぐしゃぐしゃ丸めて床に投げつける。
八つ当たりだ。
「突然どうしたのです?」
「別に…、それより本当に付いてくる気? 今ならまだグランジェに――…」
「いいえ。わたしは何があっても貴方についていきます」
「だって後宮だよ?」
「わたしには男性の生殖機能がありません。女性の肉体的主張もありませんが、胸の小さな女性といえば周りは疑わないと思います。実際グランジェでも侍女の格好をしていても疑われませんでしたし」
「あれは確かに似合いすぎていて疑う余地がなかった」
「ずっと疑問に思っておりました。わたしは何故このような体で生まれたのか? 女神は問いかけても答えは下さらない。私の生きる意味とは何なのか? 自問自答の日々でした」
するりするりと髪に櫛がとおる。
「絶望しかない灰色の日々を落雷で切り裂くように貴女はわたしの前に現れた。その時になってやっとわかったのです。わたしは貴女に会うために生まれてきたのだと。どうかわたしをお傍においてください。多くは望みません。ただあなたに仕えたい。お邪魔になるようなまねは致しません。いざという時は盾にしてください」
「何度言えばわかる? 邪魔になんて思ってないし、盾にもしない」
じろっと睨めば苦笑された。
「ミヤが強いのは存じています。わたしにはあなたの横に立つ力も背中を守る力もありません。でも疲れたとき、寄り添うことはできます。わたしはミヤのお傍で生きていたい。わたしの最初で最後の我儘を叶えていただけませんか?」
恭しくそっと髪の先に口づけられる。
アオン以外の人間だったならばとっくに八つ裂きにしていたのに口惜しい。
諦めのため息をつけばアオンは嬉しそうに笑った。




