綺麗な。チュルチュル
排水溝がヌルヌルしていたので、歯ブラシを持ってきた。
昨日の味噌汁みたいな匂いがした。
「……うん?」
排水口ネットに絡まったものを、眼鏡をかけてしっかり見る。
綺麗なチュルチュルが揺れていた。
水面に映る蛍光灯の白い筋が、揺れるたびに細くちぎれては、またつながる。
チュルチュルは、その光を吸うみたいに、ふわりとふくらんで、しゅるんと細くなる。
最初は髪の毛の固まりだと思った。でも、よく知っているあの、見た瞬間に顔をしかめる、どす黒い塊とは何かが違っていた。
色が、きれいすぎる。
薄い青と、透明な白が層になって、ラムネみたいなグラデーションを作っている。
それが、水流に合わせてゆっくりと回転しながら、「チュルチュル」としか言いようのない音を立てて震える。
耳を澄ますと、その音は水の音とは別のリズムで鳴っていた。
キッチンの時計の秒針とも違う、冷蔵庫の唸り声とも違う、小さな生き物の呼吸みたいなリズム。
「……なに、これ」
チュルチュルが、ぴたり、と揺れを止めた。
水だけが流れている。
チュルチュルは、水に逆らうように、排水口の中心から少し浮き上がり、こちらの方へ、ほんの数ミリ、にじり寄った。
見られている。
そう思った瞬間、喉が冷たくなった。背中に、エアコンとは違う種類の冷たい風が通り抜ける。
近づいているのは、チュルチュルだけじゃなかった。
それが連れてくるようにして、シンクの中の静けさまでが、こちらに押し寄せてくる。
蛇口の先から落ちるはずの水滴が、なかなか落ちない。
丸く膨らんだ水が、表面張力の限界でぷるぷると震え、その震えに合わせて、チュルチュルも微かに脈打つ。
まるで、合図だ。
水滴が、ぽとん、と落ちる。
その一滴を合図にしたみたいに、チュルチュルの色が変わった。
ラムネ色の中に、うっすらとピンクが混ざる。
「……」
思わず息を止めて見つめていると、チュルチュルの表面に、何かが浮かび上がった。
白い濁り。
水の表面に、薄い膜がぬるりと広がる。
唾液みたいに、糸を引きそうな白だった。
排水溝の生乾きの匂いが強くなった気がする。
シンクに映った自分の顎のラインさえ、逃がしてはもらえない気がした。
うっかり、部屋への戻り方を忘れたようだ。電気を消して、何も見なかったことにして、寝てしまえば良かった。
けれど、目が離せない。
目を逸らした瞬間、別の何かと目が合ってしまう確信だけが、やけに鮮明だった。
「……誰か、いるの」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
それでも、声に出した言葉は、シンクに反射して、排水口の奥へ、まっすぐ落ちていく。
チュルチュルが、ゆっくりとほどけ始めた。
絡まり合っていた透明な糸が、一本一本、水の中に溶けていく。
それは髪の毛に似ていたけれど、髪の毛よりもずっと細く、光をよく通して、まるで光そのものがほぐれているように見えた。
ばらばらになった糸の先が、水の表面ぎりぎりまで伸びてくる。
その一本が、音もなく、私の右手の甲に触れた。
冷たくなかった。
温かくもなかった。
「同じ温度」だと、瞬時に理解した。
まるで、自分の体のどこかが、そのままシンクの中に伸びているみたいな、不自然な自然さ。
触れたところから、皮膚の内側を、静かなざわめきが這い上がる。
映像が、流れ込んでくる。
私が、忘れようとして忘れたもの。
名前をつける前に流してしまった感情。
喉に引っかかったまま、水に沈めた記憶。
――全部、
チュルチュルは見ていた。
排水口の奥で、揺れながら、絡まりながら、沈んでいく「なかったこと」にされたものを、ひとつ残らず覚えていた。
頭の内側に、水を落としたみたいな声が響いた。
男でも女でもない、年齢も分からない、でも妙に聞き覚えのある声。
次の瞬間、シンクの中の水が、逆流した。
排水口の奥へ落ちていくはずの水が、音もなく盛り上がって、器のようにふくらむ。
その中心で、チュルチュルが花みたいに開き、色とりどりの光の破片を、こちら側へと押し上げた。
それは「思い出」に形があったとしたら、きっとこんなふうだろうという、透明な欠片たちだった。
笑った顔。
水で滲んだ落書き。
誰にも見せたくなかった横顔。
全部、排水口の奥に沈んでいた。
私が、忘れようとして忘れたもの。
流したつもりで、ずっと喉に引っかかっていたもの。
それらが、綺麗なチュルチュルになって、揺れていた。
水の花が、静かにしぼんでいく。
チュルチュルもまた、元の形にまとまり、名残惜しそうに揺れたあと、するりと排水口の闇へと沈んだ。
シンクには、何も残っていなかった。
ただ、右手の甲に、うっすらと水の跡みたいな模様がついている。
今も、どこかで。
排水口のもっと奥、家じゅうの管をめぐる水のどこかで、綺麗なチュルチュルが揺れていて、今日流したすべてを、忘れないでいる。
私は蛇口をひねり、もう一度、水を流した。
流れる音だけが、キッチンに残る。
耳を澄ますと、かすかに聞こえた。
チュル、チュル。
それは、ありがとう、と聞こうと思えば、そう聞こえた。




