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綺麗な。チュルチュル

掲載日:2026/07/08

排水溝がヌルヌルしていたので、歯ブラシを持ってきた。

昨日の味噌汁みたいな匂いがした。


「……うん?」


排水口ネットに絡まったものを、眼鏡をかけてしっかり見る。



綺麗なチュルチュルが揺れていた。



水面に映る蛍光灯の白い筋が、揺れるたびに細くちぎれては、またつながる。

チュルチュルは、その光を吸うみたいに、ふわりとふくらんで、しゅるんと細くなる。


最初は髪の毛の固まりだと思った。でも、よく知っているあの、見た瞬間に顔をしかめる、どす黒い塊とは何かが違っていた。


色が、きれいすぎる。

薄い青と、透明な白が層になって、ラムネみたいなグラデーションを作っている。

それが、水流に合わせてゆっくりと回転しながら、「チュルチュル」としか言いようのない音を立てて震える。


耳を澄ますと、その音は水の音とは別のリズムで鳴っていた。

キッチンの時計の秒針とも違う、冷蔵庫の唸り声とも違う、小さな生き物の呼吸みたいなリズム。


「……なに、これ」


チュルチュルが、ぴたり、と揺れを止めた。


水だけが流れている。

チュルチュルは、水に逆らうように、排水口の中心から少し浮き上がり、こちらの方へ、ほんの数ミリ、にじり寄った。


見られている。


そう思った瞬間、喉が冷たくなった。背中に、エアコンとは違う種類の冷たい風が通り抜ける。


近づいているのは、チュルチュルだけじゃなかった。

それが連れてくるようにして、シンクの中の静けさまでが、こちらに押し寄せてくる。


蛇口の先から落ちるはずの水滴が、なかなか落ちない。

丸く膨らんだ水が、表面張力の限界でぷるぷると震え、その震えに合わせて、チュルチュルも微かに脈打つ。


まるで、合図だ。


水滴が、ぽとん、と落ちる。

その一滴を合図にしたみたいに、チュルチュルの色が変わった。

ラムネ色の中に、うっすらとピンクが混ざる。


「……」


思わず息を止めて見つめていると、チュルチュルの表面に、何かが浮かび上がった。


白い濁り。

水の表面に、薄い膜がぬるりと広がる。

唾液みたいに、糸を引きそうな白だった。


排水溝の生乾きの匂いが強くなった気がする。


シンクに映った自分の顎のラインさえ、逃がしてはもらえない気がした。


うっかり、部屋への戻り方を忘れたようだ。電気を消して、何も見なかったことにして、寝てしまえば良かった。


けれど、目が離せない。


目を逸らした瞬間、別の何かと目が合ってしまう確信だけが、やけに鮮明だった。


「……誰か、いるの」


自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。

それでも、声に出した言葉は、シンクに反射して、排水口の奥へ、まっすぐ落ちていく。


チュルチュルが、ゆっくりとほどけ始めた。


絡まり合っていた透明な糸が、一本一本、水の中に溶けていく。

それは髪の毛に似ていたけれど、髪の毛よりもずっと細く、光をよく通して、まるで光そのものがほぐれているように見えた。


ばらばらになった糸の先が、水の表面ぎりぎりまで伸びてくる。


その一本が、音もなく、私の右手の甲に触れた。


冷たくなかった。

温かくもなかった。


「同じ温度」だと、瞬時に理解した。

まるで、自分の体のどこかが、そのままシンクの中に伸びているみたいな、不自然な自然さ。


触れたところから、皮膚の内側を、静かなざわめきが這い上がる。


映像が、流れ込んでくる。


私が、忘れようとして忘れたもの。

名前をつける前に流してしまった感情。

喉に引っかかったまま、水に沈めた記憶。


――全部、

チュルチュルは見ていた。

排水口の奥で、揺れながら、絡まりながら、沈んでいく「なかったこと」にされたものを、ひとつ残らず覚えていた。


頭の内側に、水を落としたみたいな声が響いた。

男でも女でもない、年齢も分からない、でも妙に聞き覚えのある声。


次の瞬間、シンクの中の水が、逆流した。


排水口の奥へ落ちていくはずの水が、音もなく盛り上がって、器のようにふくらむ。

その中心で、チュルチュルが花みたいに開き、色とりどりの光の破片を、こちら側へと押し上げた。


それは「思い出」に形があったとしたら、きっとこんなふうだろうという、透明な欠片たちだった。


笑った顔。

水で滲んだ落書き。

誰にも見せたくなかった横顔。

全部、排水口の奥に沈んでいた。


私が、忘れようとして忘れたもの。

流したつもりで、ずっと喉に引っかかっていたもの。


それらが、綺麗なチュルチュルになって、揺れていた。


水の花が、静かにしぼんでいく。

チュルチュルもまた、元の形にまとまり、名残惜しそうに揺れたあと、するりと排水口の闇へと沈んだ。


シンクには、何も残っていなかった。


ただ、右手の甲に、うっすらと水の跡みたいな模様がついている。


今も、どこかで。

排水口のもっと奥、家じゅうの管をめぐる水のどこかで、綺麗なチュルチュルが揺れていて、今日流したすべてを、忘れないでいる。


私は蛇口をひねり、もう一度、水を流した。


流れる音だけが、キッチンに残る。


耳を澄ますと、かすかに聞こえた。



チュル、チュル。




それは、ありがとう、と聞こうと思えば、そう聞こえた。

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