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夜刃昌磨は怒らせてはいけない

出勤前、朝食の準備が整った時に彼はこう告げた。

『今日から三日、外泊する』と。


「そうなんですね、ご旅行ですか?」


珍しいなと思いながら、白米を口に運ぶ。

この家のお手伝いさんはいつも国産の新米を選んで買ってきてくれる。

噛むごとに優しい甘さが口の中で広がった。お米の美味しさに万歳をしてしまいそうだ。


「んなワケねぇだろ。仕事だ。お前も来るんだよ」

「僕もですか?」

「食って着替えたらすぐに出る。準備しておけよ」

「初耳なんですが……」


何も準備していない。


「ハァ? 昨日言ったぞ」

「そ、そうだったんですね、すみません。すぐに自分の用意をします」


朝食を犠牲にし、外泊準備のために立ち上がる。


「ったく、しっかりしろよ」

「すみません……っ」


言ったか言ってない論争をこの人とするのは自殺行為というものだ。

すぐさま部屋へ行き、夜刃昌磨から貸してもらった洋服や鞄を選びに行った。



***



アイアン芸能プロダクションの前に、大型バスがやってきていた。どうやら今回の撮影は夜刃昌磨だけでなく、アイアンに所属しているアクション俳優とスタントマンも数人参加する日らしい。


「今日の撮影は他のやつらのボディケアもしろ。筋肉痛の動きが鈍くならないよう、サポートしてくれればいい」

「わかりました」


大型バスに乗って約一時間。


「思ったより遠い道のりですね」


遠方の撮影に帯同するのは今回が初めてじゃない。でも、普段から同じ場所で仕事をするのが当たり前になっている人間からすると、こういった山手の方面をバスで走るだけでもドライブ気分を味わえて楽しかった。仕事中に紅葉を見ることができるなんて、なんて幸せなんだろう。


「あともう一時間くらいで着く。そろそろ若い奴らから始めろ。十分ずつでいい。着いたらすぐに撮影が始まる。俺はあとでいい」

「あっ、ハイ」

「コケんなよ……って、おい!」


バスがひときわ大きく上下に揺れる。

真後ろに倒れそうになったのだが、夜刃昌磨が腕を引っ張って転倒を防いでくれた。


「ッチ、注意したそばからなにやってんだよ」


夜刃昌磨の胸に飛び込むような形で、抱きついてしまっていた。

すう、と彼の体から清涼感のある体臭が鼻孔をくすぐる。

一瞬、くらりと眩暈がした。僕は、彼の匂いを嗅ぐと、ボーッとしてしまうクセがついていた。


運転手が「すみません、大きな石に一瞬乗りあがっちゃって。バスは大丈夫なんで、安心してください」と言った。


「おい睦月、なにしてんだ、どけ」

「あ、す、すみませんっ」


慌てて立ち上がった。


「あ、睦月トレーナー! ボディケア始めるんですか? 俺! 俺からしてほしいな~!」


声がした方を見ると、ピンと手を伸ばして元気いっぱいに手を振っている青年がいた。

うっ、アクション俳優の鳥羽さんか……。


後ろ側の席へ向かった。

顔に出せば、今後二度とボディケアでリラックスしてもらえなくなる。

決して口元をへの字にしないように努力した。


「はい、それではそちらへ行きますね」


荷物を多く積み込むために大型バスを利用しているものの、乗車人数はさほど多くはない。

それぞれ片方の席が空いているので、そこへ座る。鳥羽には窓の方を向いてもらい、頭から開始した。


「後頭部からほぐしていきますね」

「は~い」


後頭部の付け根を親指で軽く押圧して円を描いた。


「あ~、いい~。なんでこんなに気持ちいいんだろう? 睦月トレーナーの手って」

「ここを刺激すると、自律神経が緩んで、全身から力が一気に抜ける感じがしますよね」


「なんだか愛情も感じるんだよなー。もしかして、俺のこと好きだったりする?」

「……。それでは肩と肩甲骨内側もほぐしていきますね」


リズムよく僧帽筋をつまんで離す動きを繰り返す。


「ええ? もう? もうちょっと頭の方してほしいな」


「夜刃監督から、一人あたり十分でするようにとの指示だったので」

「ちぇー」


子どもっぽい。

これでも僕より三歳年上のはず……。

これまで大切に育てられたんだろうな。


背中と腰をほぐしている間も睦月先生の手がスベスベだの、肌が白いだのと何かを言っていたが、僕はマッサージに集中しているフリをして何も答えなかった。


股関節あたりに手を添え、小さく回す。

下半身の重さを一気に抜くマッサージをしていた時に、とうとう彼のお喋りは言ってはいけないラインを突破した。


「あはは! そんなとこ触るなんて、睦月トレーナーエッチだなぁ」


絶句するしかない。腿の上側をケアしていただけなのに。この人はいつもそうだが、ここまであからさまな言葉を使うことはなかった。トレーナーは自分より格下の存在で、尊厳を傷つけても、またはからかっても許されるものだと思っているんだろう。非常にやりにくいが、こういった相手の対処は慣れている。気にせずに次の仕上げの作業に移ろうとしたその時。


前方の席から腕がにゅっと出た。何が起こったのかさえわからないほど早い動作だった。その腕は鳥羽の胸倉をつかんで、ガラス窓にうちつけた。もちろん彼の右耳も一緒に。


ガン!!

「ッぐあ……!」

「や、夜刃監督!?」


声を上げたのは僕だけだった。オロオロと左右前後に助けを求めたが、周りのスタントマン、および俳優は目を閉じているか携帯を見ているかのどちらかだった。聞こえていないはずがないのに。


「テメェ、良いところの二世坊ちゃんかどうか知らねぇけどな、あんま調子こいてっとぶっ殺すぞ」

「ひっ、ひぃぃぃ!」


鳥羽は縮みあがり、股間が少し濡れていた。どうやら怖くて漏らしたようだ。

同じ経験があるので、なおさら同情した。

この人の怒り顔、本当に怖いんだよ……。


しがいないボディケア要員が何かをできるわけもなく。

左右を見て助けを求めるくらいしかできない。でもやっぱり全員無関心だ。

普段はもっと優しい雰囲気なのに、なんでだろう?


魔王のごとく彼は鳥羽の髪の毛を掴んだまま立ち上がり、バスの前方へと歩かせ、運転手に声をかけた。


「ドアを開けてくれ、こいつを下ろす」

「っそ、そんなぁ! 夜刃監督、考え直して! っす、すみませんでした、睦月トレーナーに意地悪なこと言って……!」


「その胸糞悪い根性、走って叩き直してこい。あの建物が今回のゴールだ。見えんだろ」


鳥羽が半泣きで許しを乞うているのを無視し、夜刃昌磨は彼の荷物ごとつかんで鳥羽をバスから放り捨てた。


「止まらず走れば今日中に到着できるだろ。お前の出番は明日からだ。別に帰ってくれてもいいぜ? 代わりはいくらでもいるからな」


「夜刃監督! 心から謝ります! こんな山の中で……く、熊とか出たら!」

「せいぜい気を付けることだな。運転手さん、出てくれ」


プシューと、ドアが音を立てて閉まった。

鳥羽が荷物をつかみ、「待って、待ってください!」とバスを追いかける。


「睦月、ぼーっとしてねぇで仕事しろ」

「あっ、はい、すみません」


夜刃昌磨は怒らせてはいけない。

最初からわかってはいたけど、より深く胸に刻み込んだ。



***



ep.10「凶暴な熊と、バニーの秘密 」へ続く






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