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テニスボールは正しく使いましょう


いつもならヨガの研修があるのだが、その日は教育担当の体調不良ということで、ヨガ研修はお休みとなった。

夕刻、恐れと戦い、勇気を出す道を選んだ僕は社長室のドアを叩いていた。


手がふるえて、叩いた音があまりにも弱々しい。音が鳴ったかどうかさえ怪しかった。

もう一度叩いた方がいいかと迷った、その時、「どうぞ」と返事があった。


今日も社長室にはボディガードの屯地とんちがいた。

お相撲さんのように体が大きい。


この人はいつも僕を変な目で見てくるから、気持ちが悪い。


「あの、今日は社長にお話があってきました。こ、これを渡したくて……」


退職届と書かれた封筒を一瞥し、千夏は椅子に座った。


「借金を踏み倒す気か?」

「ち、違います。今より好条件で働けるところが見つかったんです。月収は百万円です。転職した方が、早く借金を返済できると判断しました。壺のお金は、一年で返すようにと社長はおっしゃいました。けど、僕は払えず、あなたは金利と言って、より多く僕から……失礼しました。今は金利と、少しの元金を払っている状況です。一気に返せる道を見つけたので、どうか、退職させていただけないでしょうか」


「カラダでも売る気になったのか」

「転職先は、勝俣さんが経営する芸能プロダクションです。そこの専属ボディケア担当にならないかとお誘いを受けました」


「勝手なことを。ダメだ、その退職届は受け取らない」

「えっ」


机に置いた退職届は、千夏がつけたライターの火で一瞬にして燃えカスになった。


「また退職したいとか抜かす気なら、お前の母親に、代わりに壺を払えって脅しに行く」

「そんな!」


唐突に、千夏の携帯音が鳴る。

シッシ、と犬を追い払う仕草で社長室から追い出された。


社長室の前で、カーペットを見つめる。

夜刃昌磨への返事は今日まで。


「返事……返さなきゃ……」


連絡先を選ぶ指が石になったみたいに、動かない。何度か深呼吸をして、やっとのことで連絡先をタップした。涙と鼻水が出てきて、ズビっとすする。

涙が廊下に落ちた。


プルルルル……。


『はい』


電話越しでもなんだか怒ってるように聞こえて、少し笑ってしまいそうになった。もしかしたら、電話でこの人と話すのは最後になるかもしれない。


「睦月です、少々お時間をいただいてよろしいでしょうか?」

『早く要件を言え』


「すみません、やっぱりだめでした。退職届を受け取ってもらえなくて」

『ハァ? お前はこっちに来たいんだろ?』

「えっと、その、色々ありまして……ぁ」


切られた。

ツーツーという音以外聞こえない。


きっと、怒って電話を切ったんだろう。

あんな好条件を出したのに、断られたんだから当然だ。プライドも相まって、相当むかつかせてしまったに違いない。


「はぁ……」


両手で顔を覆い、もうあの人と顔を合わせられないなと思うと、胸に空洞ができた気がした。

一目惚れでもしていたのだろうか。少し怖かったけど、やっぱりカッコイイものはカッコイイ。


あの鍛え上げられた筋肉にはもう触れさせてもらえないのかと思うと、心から残念に思った。

それに百万円は相当な額だ。


あんな条件、この先二度とない。なんて、もったいないんだろう。

しばらく仕事に身が入らないかもしれない。


バン!と社長室から千夏が勢いよく出てきた。ちょうど扉の当たるところに立っていたせいで、思い切り肩をドアにぶつけてしまった。


「~~!!」


ジンジンと痛む肩に手を添えていたら、突然胸ぐらをつかまれた。


「俺から逃げられると思うなよ」


急にどうしたんだ? さっきの退職届、そこまで怒ることだった?


「早く返済した方がお互いのためにも良いかと思っただけで……」

「ハァ~。わかってないな、お前。屯地、そいつを四階に連れてこい」


四階だって? まさか!


「一条社長! 明日も僕、ヨガ研修があって……!」


だめだ、千夏と四階に行くのだけは……!


「今から一言もしゃべるな。でないとここでお前の足を刺すからな」


なんでナイフなんか持ち歩いてるんだ!?

ダッと逃げ出した僕を、千夏のボディガードにおさえつけられる。力ではかなわなかった。

ズルズルとひきずられる。エレベーターがまるで地獄の門のように見えた。


このビルの施設は全て千夏が運営しているもので、四階にはボクシングジムがある。今日は定休日で、誰も人がいなかった。


「リングにあがれ」


ガタガタとふるえている僕に、屯地がむりやりボクシンググローブをつけてきた。へっぴり腰で立ち上がれない体をボディガードがリングにおしあげる。


「スパーリング、久しぶりだな。ちゃんと反撃しろよ。膝立ちの状態でなにやってるんだ? 立てよ」


反撃なんかしたら、半殺しにするじゃないか……。

こういった事は初めてじゃなかった。どういった事がこれから起こるのかは予想できている。恐怖で脚に力が入らない。立ち上がるのがやっとだった。


乾いたゴングが鳴る。

合図と同時に、拳が飛んできた。

避ける暇もなかった。


「ッガ……!」


頬に衝撃が走り、視界が一瞬白く弾ける。次の瞬間、腹に重い一撃。息が喉の奥から押し出され、膝が折れた。


「立て」


命令が落ちる前に、また殴られる。


「ウグゥッ……!」


顔、腹、脇腹。逃げ場はなかった。千夏の拳は訓練された動きで、まともに練習をしていない僕には抵抗の余地がない。


ガードを上げる腕が遅れた瞬間、目の上に衝撃が来る。

熱いものが、つうっと視界を伝って落ちた。ポタリとリングに赤い雫がこぼれる。


「ほら、反撃しろよ」


反撃なんてできるわけがない。したら、倍返しにされる。

息を吸うたび、胸の奥が痛んだ。どこを殴られたのか、もう分からない。ただ、殴られ続けているという事実だけがあった。


膝が笑い、体が前に崩れる。立たされて、また殴られる。


涙と血で視界がはっきりと見えなくなっていた。

目の上が重く感じ、腫れているのだと、ぼんやり理解した。

床に落ちた赤が、リングの色を一段と濃くする。


「ウゥ……ッ」


指一本動かせない。床に倒れても、殴られ続けた。口の中が切れ、血を吐いた。


ピタリと打撃が止まる。

急に気持ち悪いほど優しい声で、諭すように言われた。


「従業員が減るのは痛手なんだ。志穏もここで働いて四年目になるよな? ジムに愛着くらいはあるだろ。退職なんか、やめとけ。本当に百万円って言ったのか? 途中から、半分に下げられるかもしれないぞ」


それでも、こんなところよりはマシだよ……。


「それでも退職するっていうんなら、借金を母親にバラす」

「そ、それだけはダメです!」

「喋るなっつったろ!」


ボグ!ともう一発殴られ、歯が一本飛んでいった。


「あーあ。取れちゃったな。歯。あースッキリした。もういいや。リング、掃除しとけよ」


体を動かせず、震えて嗚咽をもらしていたら、肩を蹴られた。


「拭けっつってんだろ、今スグ!」


雑巾を投げられ、なんとか指を動かし、言われた通りに血を拭いた。けれど、体のいたるところから血がこぼれ、意味が無かった。


「使えないボロ雑巾め。おい屯地、お前、男いけるだろ。ソイツ、好きにしていいぞ」

「いいんですかぁ?」


なんだって?!

に、逃げないと……!


頭ではわかっているのに、体が言うことを聞かない。まるで金縛りにあったようだ。


髪の毛をワシッとつかまれ、相手の股間に顔を押し付けられた。

反射的にえずいて、オエッと吐いてしまった。


「あっ、コイツ吐きやがりましたよ!」

「何やってんだ、商売道具の上でさぁ。ゲロ掃除が先だな。オラ志穏、舐めて綺麗にしような?」

「社長、さすがにゲロを舐めたあとはムリっすよ」

「ウグッ……ヒグッ……ウゥ……」


僕は、いつまでこんなやつらの下で働くんだろう……?


***


「おい、何やってるんだ?」


声がした入口を見ると、そこには夜刃昌磨がいた。


「や、夜刃監督……」

「夜刃?あの有名人の?」


千夏が驚いて声を上げる。


精悍な顔つきの巨体がズンズンと迷いなくこちらに歩いてくる。その時、「マネージャー、録画」と夜刃昌磨が言った。

スーツの男性が慌てた様子で携帯をかざす。


「おいおい、俳優さん、録画だって? 経営の邪魔はやめてくれ。その動画、どこに売るつもりだよ?……って、おい! ソイツどこに持ってく気だ?!」


夜刃昌磨が千夏の声を無視して、ゲロまみれの僕を肩にかついだ。

「病院」とだけ言って、リングから降りようとする。


「おい、アンタ有名人なんだろ? 問題なんか起こしたら、仕事減るんじゃないのか。そいつを置いてけ! 止まれって!あぁクソッ 屯地、そいつを倒せ。注射持ってんだろ、クスリ使って言うこときかせるぞ、あとで面倒だ!」


屯地は忠実に彼の指示通り動きに出た。


片手で人を担いだまま、夜刃は退かなかった。

突進してきた男の足元を、低い位置で払う。


次の瞬間、屯地は前のめりに崩れ、床に叩きつけられた。

屯地が驚いて鶏みたいに一瞬固まったあと、夜刃昌磨の肩めがけて殴って来た。


「夜刃監督!」


それを避け、ボコッ!と相手を殴り返した。


「これは正当防衛だからな」


僕が肩にいるのに、体の軸はブレず、そのまま屯地をもう一発殴った。それだけで屯地の歯は二本吹き飛び、血がリングに飛び散った。


「ぐあっ」


蛙がつぶれるような声と共に、屯地が倒れた。

僕は怖くて体を震わせることしかできない。


俳優がこんなことしたら、あとで大騒ぎになるんじゃないか?僕のせいで、この人に迷惑がかかってしまう。どうすればいいんだ……!


「そこまでだ。俳優さん」


千夏がマネージャーにナイフを向けていた。僕はギョッとして、あたふたと慌てて夜刃昌磨の肩から降りようとした。

僕さえ我慢すれば、きっとマネージャーの人は助かる。

夜刃昌磨には何も見なかったことにしてもらい、帰るよう促さないと。

その時。夜刃昌磨の体全体に力が入ったのを感じた。


顔を上げた時には、千夏の顔面にテニスボールがめり込んでいた。

千夏はゆっくりと後ろに倒れ、さらには運動器具に頭をぶつけて気を失った。


「元野球部なめんなよ」


夜刃監督、野球部だったんだ……。





***



ep.6 「 魔王の家で、はじめての晩ごはん 」へ続く




次回『魔王の家で、はじめての晩ごはん』


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