終わりを決めた、静かな午後
仮眠室には、夜刃監督と睦月社長、そして僕の三人だけだった。
「病院に行け」
「信じてください、本当に僕、健康なんです」
昨日……みんなが言うには三日前になるけど、本当に健康だったんだ。
夜刃昌磨と勝俣社長にボディケアはできなかったけど、宮佐多姉弟にはちゃんと仕事ができた。
「どの口が言ってんだよ。また仮眠室で三日も寝こけやがって」
「そ、それは……申し訳ありません……」
僕はまた三日間も仮眠室で眠ってしまい、またもや無断欠席をしてしまった。
心から謝っても、夜刃昌磨は許してはくれなかった。
「治してからでねーと出勤させない。勝俣さん、あと頼む」
「夜刃監督……! 勝俣社長、お願いです、働かせてください、僕、健康なんです……!」
「睦月トレーナー、落ち着いて。大丈夫だから。今日見て確信した。今の君は、どう見ても健康じゃない」
「そんな……勝俣社長まで……」
「泣かないで、睦月トレーナー。お金の問題を気にしてるんだろう?安心するんだ。ゆっくり今から説明するよ」
第三者から見た僕のパニック障害の兆候、心理カウンセリング施設、保険の適用、これらについて、丁寧に教えてくれた。
「働いてなくても、お金が出るんですか? 国から?」
そんなの、聞いたことも無い。千夏のジムに務め始めた当初、千夏から立てないくらい殴られたせいで仕事を休んでいたことがあったが、その間は一切の収入は出なかった。
「そうだよ。だから、安心して施設でしっかり治してきなさい。私の信頼してる施設を紹介するから、そこへ行っておいで」
「わかりました……」
「そこには前払いで俺が払っておいた。今日中に行けよ」
「えっ そこまで……あ、ありがとうございます……今日からですか? カウンセリング費用っていくらくらい……」
母親の入院費に全額入金してしまった。
今は住むところを探すお金が無いくらい、資金は乏しい。
払えるだろうか。
「金の事は気にするな。保険で十分まかなえる微々たるもんだ。立てるよな? 連れて行くから、車乗れ」
「は、はい……でも、お仕事は」
病院に行くことを決めると、夜刃昌磨は怒鳴ることもなく、たんたんと話し始めた。
この人は、ただ僕を心配してくれていたのか。
「撮影は入ってない。他人の心配するなら自分の心配しろっての」
「すみません……」
駐車場へ向かう間、何度か眩暈を覚えて倒れそうになった。
本当に僕は病人なのかもしれない。
助手席には勝俣社長、運転は夜刃昌磨のマネージャー。後部座席に僕と夜刃昌磨が乗った。
「俺の家を出たあと、なにがあった?」
この人は僕の恋人でも、家族でもない。事情を言う必要は無いだろう。
「なんにも」
「なんで突然こんなことになったのか、心当たりはないのか?」
ぐっと腕を掴まれた。
手だけでなく、全身の震えが始まり、それは止まらなくなる。
この時、夜刃昌磨へ抱いていた気持ちはすっかりなくなっていることに気づいた。
この男が、たまらなく怖い。
「なんで体の大きい男に触れると、こうなるんだ?」
「は、はなしてください」
「夜刃! 放してやれ、症状が悪化したらどうなる」
「……ッチ」
「僕にもわかりません、どうしてこうなったのか」
きっかけをあげるとすれば、大勢の一条の手下に追いかけられたことによるものかもしれない。
ゴミ箱の中で、見つかったら知らない男に玩具のように扱われるのではないか、飽きられたら過去に見たあの血まみれの男のように、一条京四郎たちの手で海や山に捨てられるのではないか。
そんな思考がずっと頭を占めていた。
夜刃昌磨が手を放してくれたあとも、震えはしばらく続いた。
***
医師は男性だったが、細身で、若く、やわらかな物腰だった。
診察で肌を触られても、震えは起こらなかった。
催眠療法といって、過去にさかのぼりながら治療していくやり方があるらしく、今日はそれをやってもらった。色々と話を聞いてもらった結果、僕は今すぐにでも専門施設でケアが必要なほど、重症な状態だということがわかった。
睡眠障害のほか、パニック障害、その他の病名を次々と聞かされ、とうとう、自分は精神疾患を持った患者であることを受け入れた。
今の自分はとても正常ではなく、何をするにしても正しい判断ができない状態だったのだ。
以降の話は医師と二人だけで話すことになり、勝俣やその他の人間は部屋の外に出てもらった。
「睦月さん、この施設にいる間は、携帯は無いものだと思って療養してください。外部からの接触を、二か月間だけ断つことはできますか?」
風邪以外で病院のお世話になるのは初めてで、それこそ心理カウンセリングなんて贅沢なものも受けたことはないため、勝手がわからない。全て医師の指示通りに動いた。
***
施設で何日か過ごしてから、これまでの自分は視野が狭く、小さな世界で生きていたことに気づいた。
特別なことはしていなかった。
カウンセリング施設で寝泊まりすることには戸惑いはあったが、施設のスタッフは一度子育てを終えた女性ばかりで、とても優しく、居心地がよかった。
朝はのどかな景色を見ながら散歩し、寝る前にたった三行の日記を書く。
空いた時間には本を読み、決まった時間に瞑想をする。
嫌な感情がフラッシュバックする瞬間が一日のどこかであれば、パソコンをつなぎ、医師か心理カウンセラーと連絡を取る。それだけだった。
効果は数日で現れた。一度眠ると三日は起きなかったのが、十時間にまで短縮された。
「うん、睡眠時間が短くなったわね。このままあと一カ月何もなければ、ひとまずはカウンセリングプログラムを問題なく卒業できるわよ」
「はい、でも、十時間はまだ長すぎますよね」
「そうでもないわ。健康な人でも、これくらい寝るのが丁度いい人だっているのよ」
「どうして治ってきたんでしょうか? 特別なことは何もしていないと思うんです」
心理カウンセラーがクスリと笑った。
「寝る十五分前、今まで何をしてた?」
「えっと……指示された通り、三行日記を書いてました」
「たとえばどんなことを?」
「ポジティブなことだけを書くようにと先生には言われたので、散歩中におばあさんから野菜をもらった、とか、スタッフさんと散歩に行った時の景色が綺麗だった、とか、そういうことを書いてました」
本当に、なんでもない内容。
「実はね、秘訣が二つ隠されているの。気づかなかった?」
僕は首を振った。秘密?
今度は医師が口を開いた。
「まず一つに、睦月さんはストレスを何か月も、または何年もため込むくせがありました。これまでの環境のせいではありますが、それが爆発してしまったのが、今回の原因です。私達は、そのストレスを一度で無くすお手伝いをしたまでです」
何をしたかな? 確かに、その日に思い出してしまった、一条のボディーガードたちに追いかけられたこととかを思い出したら、すぐに心理カウンセラーに伝えるようにはしてたけど。
「嫌な感情は、一度吐き出したらおしまいにする。これを一回ルール、と呼んでいます。信頼できる相手に吐き出せば、それでおしまい。そのような感情になるよう、お手伝いしていました」
「そんなすごいことを……気づきませんでした」
心理カウンセラーと医師は嬉しそうに笑った。
「今後、退所したあとも、一回話せばそれで終わり、という習慣を作れるように、信頼できる方を見つけるのが課題になってきます」
「見つけられるかな……」
心理カウンセラーがニッコリと笑ってくれた。
「退所後、もし信頼関係を構築できる人がいなければ、継続して私が担当できるから、安心してね」
「そうなんですか……! 頼もしいです。あと、日記にはどういう効果があるでしょう?」
三行の文字で、一体どういう効果があるのかまったくわからない。
医師が続けた。
「寝る前というのは、嫌なことを最も思いだしやすい時間なのです。しかも、この時間は記憶に残りやすいゴールデンタイム。心に傷を負った方は、何もしないで寝ようとすると、嫌なことがしっかり脳に刻まれてしまうんです」
「そ、そうなんですか……」
そうだったかもしれない。毎日不安で、明日が来るのが怖かった。
だけど、お母さんのためにもしっかり働いて、生きなきゃいけないと思ってた。
大男から追われた夜……仮眠室で、このままずっと起きず、眠ったままでいられたら、きっとラクだろうなと考えていたような気がする。
「施設に来られてから、寝る十五分前、どんな気持ちで眠っていましたか?」
「幸せな気持ちで眠ってた気がします。散歩に行ったら、果物をスタッフさんがくれるんです。明日は何をくれるのかな、っていうのを考えて、ワクワクしてました」
「その気持ちが大事です。今後も継続しましょうね」
「はい」
***
病院からの帰りに、施設内のカフェで一杯のコーヒーを飲むのが習慣になっていた。
「ほんにのぅ、睦月くんはマッサージが上手でなぁ」
「ワシ、次、ワシ」
お客は隣の高齢者施設からやってくる人がほとんどで、全員車椅子愛用者だった。
以前この店でコーヒーを飲んでいた際、「マッサージ師の人がやめてしまった」という話を耳にした。どうやら通いのマッサージ師が高齢で、来れなくなったらしい。
心に余裕ができた僕は暇をもてあましていた。
何かやれることはないか、探していたんだ。
そこで、「肩をお揉みしましょうか?」と声をかけた。
流れで順番に肩揉みをしてみたら、あっという間にご老人たちの人気ものになってしまった。
そんな時、施設の管理者の峰岸さんから仕事のお誘いがあった。
彼女もここのカフェの常連で、こうやって顔を合わせるのはよくある事だった。
「睦月くん、君はここ、二カ月で退所する予定だよね? 同じお仕事に戻る予定かしら?」
「男性恐怖症を克服できれば……けど、まだ、わかりません」
「でも、体の小さい男性や、高齢の男性は大丈夫、あと、女性は大丈夫なんだよね?」
「はい」
大柄の男性以外なら、問題なくマッサージをすることができる。
「もしよかったらなんだけど、カウンセリングプログラムが終わったら、ここで働かない? ボディケア要員がいると、とても助かるの。住み込みの寮もあるから、お母さんの費用を払いながらでも、貯金はできると思うわよ。お給料は高くないけど、安くも無いわ。どうかしら?」
「……!」
これから先、アイアン芸能プロダクションで生きていく道以外にも生き方がある。それは、精神的に大きな影響があった。大きな体を持つ男性との接触がない環境で働けるのは、魅力的に感じた。
その仕事の誘いを受けてから、体が軽くなり、会話の中で笑うことができるようになっていた。
医師とカウンセラーの協力により、僕の症状がすっかりよくなった頃、母親の容体が気になった。
「先生、携帯を返していただくことはできますか? 母のことが気になってしまって」
その日から、医師の前でのみ、携帯の使用が許された。
***
「おやまぁ、もう梅の花が咲く季節になったんだねぇ」
「そうですね」
車椅子を押しながら、お隣の施設を利用するおばあさんと一緒に木を見上げた。
本当に、綺麗だった。
もうすぐ二カ月のプログラムが終わる。僕の心はどこにあるべきかは、もう決まっていた。
「帰ったら、マッサージをしましょうか」
「本当かい? 楽しみだねぇ」
誰かに親切にしてあげることが、僕にとっての一番の幸せだったみたいだ。
すごく心が軽い。
***
プログラム最終日。
カフェで仲良くなったおばあさんから、大量のジャガイモをもらってしまった。
多すぎて持って帰れないので、お世話になった人に配ることにした。
「先生、喜んでくれるかな」
担当の杉浦医師は料理好きで、特にじゃがいも料理が得意だと笑っていた。
両手いっぱいのじゃがいもを抱えて病院に着いた瞬間、聞き覚えのある声がした。
「俺は迎えに来ただけなんだって」
「お伝え出来かねます。おかえりください」
夜刃昌磨……!何しに来たんだろう?
まさか迎えに来てくれた?
なんで?
「ったく、話が固い医者だ……」
「彼はこちらで働きたいと言っています。本人が決めたことです……医師として言わせてもらいます。もうしばらくは、睦月さんと関わらないようにしてあげてください」
「ハァ? 部外者が何言ってるんだよ」
「男性恐怖症の原因の一つは、あなたにもあるんです」
「俺が? なに適当なことを抜かしてやがんだ。 医者だからって、何言ってもいいわけじゃねぇだろ」
夜刃昌磨が杉浦医師の胸倉をつかんだ瞬間、喉が狭まり、乾いた音が出た。
指が、震えた。
***
ep.16 「守れない手、離れない視線 」へ続く




