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凶暴な熊と、バニーの秘密

千夏のジムで働いた先月分の給料が、振り込まれていない。

ヨガの研修で数日の間、半日の休みはもらっていたが、それ以外は無遅刻無欠勤だった。


「しょうがない、のかな」


きっと千夏の父親が経理担当に何か言ったんだろう。

然るべきところに出れば支払ってもらえるのだろうが、その後が怖い。

泣き寝入りしよう。

ATMでは何も下ろせず、背を曲げてアイアン芸能プロダクションへ戻った。


十二月末にはアイアン芸能プロダクションからしっかり給料が振り込まれるし、食費は夜刃昌磨のブラックカードがある。死ぬことはないんだ。


トボトボと下を向いたまま休憩から戻ると、一か所に人だかりができていた。

アクション俳優やスタントマンが一つのタブレットにかじりついている。

気になって、こっそり後ろから覗いてみた。


「あ、睦月トレーナー。見ます? この間撮影したシーンですよ」


鳥羽が何事もなく話しかけてきた。

狂人、いや、強靭なメンタルをお持ちのようだ。

僕が鳥羽の立場なら、二度と夜刃昌磨の前に姿を見せることはないだろう。

尊敬に値するかもしれない。


「見たいです。僕が見ても大丈夫なんですか?」

「ドラマが放送されるまで、ネタバレしなければOKですよ」


ボディケア担当は待機室で始終演者のケアに集中するため、撮影見学をする余裕なんてものはなく、実際の仕事現場は見たことがなかった。


タブレットの画面に映ったのは、清流と森が織りなす渓谷、そして山の稜線だった。

まだ朝靄の残る斜面を、武士の格好をした夜刃昌磨が一気に駆け下りていく。

それに続き、覆面の忍者が追いかけてきた。おそらくアイアンのスタントマンたちだ。


「うわ、すごい。崖から落ちるシーンもあったんですね」


ロープも、足場も、画面からはほとんど確認できない。

思わず、息を飲んだ。


岩肌を蹴り、倒木を踏み台にして、身体をひねりながら高度を落としていく。


どうやら夜刃昌磨が忍者に追われるというシーンらしい。

夜刃昌磨が勢いのまま前転し、次の瞬間にはもう立ち上がっている。


そう思った直後、そのまま崖縁で振り返り、敵役のスタントマンと組み合う。

拳をかわし、掴まれた腕を逆に取り、体重ごと相手を投げる。

足場の悪い山中で、呼吸一つ乱さず。目が離せなかった。


かっこいい……。


圧倒的だった。

画面の中で夜刃昌磨がアップされるたび、胸の奥が、静かに熱くなっていった。


練習室では、誰かに指導しているか怒っているか、何かの動作を繰り返し練習している姿しか見たことはなかった。

セリフは滑らかで、演じているのを感じさせない自然なものだった。


新たな夜刃昌磨を見つけてしまい、胸が騒いだ。頭の中で警報が鳴った。


「ありがとうございます、そうだ、鳥羽さん、ボディケアしましょうか? 腕、痛いの我慢してるでしょう?」


これ以上見てはいけないと、危険信号が明滅する。

この夜刃昌磨を見るくらいなら、苦手な人のケアをした方が幾分マシだ。


「えっ、睦月トレーナー、見ただけでわかるんですか? すごい人だったんですね」

「大したことではないですよ」


今回の撮影は体を酷使する機会が多かったらしく、忍者役として参加したスタントマンのどこかしらに、ケアが必要な箇所があった。

仕事を見つけ、いつまでも鳴り響く警報をかき消そうと、今までで一番、熱を入れて打ち込んだ。

なのに、頭のどこかで先ほどの夜刃昌磨がちらついてしまう。


警報は延々と鳴り続け、一日中僕を苦しめた。


***


二十三時。撮影日でもなければ、もう夜刃昌磨は家に帰っている時間だ。


「撮影、長引いてるんだな……ふわぁ、眠い……」


家の主がまだ仕事をしているのに、寝るわけにはいかない。

風呂に入り、歯も磨き、特別やることがなくなってしまった。


L字型のソファに座り、何も映っていないテレビや観葉植物を眺めて時間をつぶした。

ほどなくして、家の主が帰って来た。ほっぺにキスマークを何個もつけて。


「おかえりなさい……すごいキスマークですね」

「キスマーク?」


どうやら気づいていなかったらしい。

勝俣社長と共有している夜刃昌磨のスケジュールをスプレッドシートで確認する。

なるほど、今日の撮影はゲイの町、二丁目で行われたのか。

珍しく今日の撮影はバラエティものだった。

手洗い場から「なんだよコレ?! くっそ、これテレビに出んのかよ」と聞こえた。

僕は声が出ないように笑った。


シャワーを終えた彼が何も言わず紙袋を渡してくる。

それを受け取り、なんだろうと思って袋の隙間から中身を確認し、すぐに見なかったことにした。


「着ろ」

「ほ、本気……ですか?」


心臓がバクバクし始めた。


「俺に同じことを二回も言わせるつもりか?」


その睨み光線には背筋が凍ったので、二の句は継げず、彼から受け取った衣装をゲストルームに戻って身につけた。

このフサフサも頭につけなくちゃいけないのか?


「着たら早く出てこい」


ゲストルームのドアにドンと衝撃があった。

どうしてそんなに急ぐんだろう……。


「はっ、はい、ちょっと、着るのがむずかしくて」

「早く!」


将軍様がお怒りだ。考えている暇はない。頭を無にしよう。

すぽっとカチューシャをつけ、表へ出た。

こうして尻尾と耳をつけた、世にも恐ろしい筋肉質バニーボーイが爆誕してしまった。


「今日はそれで添い寝しろ」


拒否権は、当然無かった。



***



翌朝、ベッドから起き上がるだけで、全身が軋んだ。

また腰がやられてしまった。睡眠中、注意してほしいとお願いしてはいるが、いまだに夜刃昌磨は寝ぼけて強く抱きしめる癖が抜けない。


筋肉痛とは違う、芯に残る重だるさ。足元がおぼつかず、壁に手をついて歩いた。

どれだけ痛くとも、体が動くのであれば働かないといけないので、のっそり、ゆっくり、前進した。


「アイタタタ」


あの人は抱きしめる時の加減を知った方がいい。

急に来た痛みをほぐそうと腰をさすっていた時、彼は起きてきた。

僕よりも先に行き、ドアを開ける。

振り向きざまに、通常運転のセリフを吐いた。


「何やってんだよ。じいさんかっての」


あなたのせいですよ……。



***



「今日は睦月トレーナー来てくれてありがとうの歓迎会だ! みんなボディケアに感謝しろ! そんで無礼講だ! ただし夜刃にだけは気をつけろ! みんな、飲めェ!」


すでに顔を真っ赤にして出来上がっている勝俣が音頭を取り、一斉に皆が濁声で「オオ」と応えて歓迎会という名目の飲み会は始まった。まさにどんちゃん騒ぎ。この焼き鳥屋の店員は理解があるのか、どれだけ皆で大きな声で歌っても注意をしてこなかった。少し顔はひきつっていたけど。


夜刃昌磨は静かだった。一度も誰かに怒鳴ることもなく、くぴくぴと比較的遅いペースで酒を飲んでいる。その隣で僕も同じく、くぴくぴと飲んでいた。りんごジュースを。


「睦月トレーナー、いつもケアしてくれてありがとおお」

「あ! ちょっと、ちょ、ちょっと!」


飲みかけのグラスを奇行種、鳥羽に奪われ、今にも表面張力が決壊しそうな量の酒を注がれてしまった。


「あの、無理ですよ、鳥羽さん。飲めません」

「んあ? 僕の酒が飲めないって? そんな失礼なこと言うのかよ、アンタ」


若いくせに、昭和なノリを押し付けてくる鳥羽に身分証を見せた。

水戸黄門の気持ちがわかった気がする。


「まだ二十歳じゃないんです。誕生日を超したらたくさん飲むので、今日のところは勘弁してください」

「だめ。飲んでください。知ってますか? 僕が育った国では、十九から飲めるんです」


知らないよ。ここは日本だ。


「十九から飲めたということは、韓国で育ったんですか? 美味しい食事、多いですよね?」

「そうなんだ~。国籍は日本なんだけどね。 あっちは辛いおかずばっかで食えたもんじゃないよ」


話をズラしてみたら、けっこう軽くのっかってくれた。

鳥羽の幼少期の給食の話を延々聞かされているうち、気づけば周囲に人がバタバタと倒れはじめていた。


「っち、弱いなら飲むなっての」


屍を見下ろし、そんなコメントをする夜刃昌磨はやっぱりチビチビとしか飲んでいなかった。

まだグラス一杯分も飲めていない。この人、お酒弱いんだ。


「睦月、お前も飲めよ」


キタ……!


「まだ十九なので飲めません」


なぜか飲みかけの自分の酒を渡してきた夜刃昌磨に、僕は左手の平を見せ、右手で身分証をかざした。

この難関を、一枚の身分証でのりきれるだろうか。


「そうかよ」


命が欲しいなら、夜刃昌磨にだけは逆らってはいけない。

無理強いされたら飲もうと覚悟していたが、あっさり引いてくれた。


「水をくれ」

「どうぞ」

「さんきゅ」


さんきゅ?!

あの夜刃昌磨が礼を言った?!

お酒の力って、すごい。酔うと素直になるんだ。


「睦月」

「なんでしょうか?」

「俺のジムに来てくれて、ありがとう」


頭の中で、また警報が、鳴った。

煩わしいものが、僕の中で芽吹きはじめている。

トクンと心臓が動くたび、自分を叱責した。高望みはするなと。


隣にいた鳥羽が「みんな!夜刃監督が潰れてなんかカワイイこと言ってます! 集まって! 集合!」と声を上げた。

すると、どうやったのかわからないが、夜刃昌磨は座ったまま、恐ろしく早い動作で、鳥羽の足を狙って攻撃し、転ばして首根っこを掴んだ。

畳にたたきつけ、さらには首を絞める。


「夜刃監督?!」


やっぱり騒いだのは僕だけだった。

鳥羽は嫌われているのだろうか?

彼が夜刃昌磨の暴力にあっている際は、いつも誰も助けに入らない。


すでに鳥羽は泡を吹いて気絶していたため、僕は夜刃昌磨の二の腕あたりをレフェリーのごとくパンパンたたいた。


「もう気絶してます! やめてあげましょうっ?」


パッと太い指を開き、半分ほど減っているグラスを持った。


「しょうがねぇな」


すごく素直。

こんなにも体が大きいのに、いつもより目が柔らかくなっているせいか、僕が昔持ってた森のクマさん人形のように見える。

この巨体をカワイイと思う日が来るとは思わなかった。

夜刃昌磨は一口舐めるように酒を含んでから、鳥羽の呼吸確認をしている僕に告げた。


「お前が来てから、体が毎日軽くて、仕事がしやすい」

「あっ、それはよかったです」

「さんきゅな」


また、言われた。

心臓がうるさくなってしまう。


「こちらこそ、いつもよくしていただいて……感謝しています」

「このあいだも……あれ、さんきゅな」


「このあいだ?」

「バニー」

「はっ!」


あろうことか酔っ払い勢が面白がって、森のクマさんを携帯で録画し始めた。

鳥羽の呼びかけで思ったより周囲に人が集まっている。

こんな大勢の前でバニーコスプレの思い出話をされたら、間違いなく末代までの恥!


「勝俣社長! そろそろ帰らせてもらいますね、夜刃監督、なんだか変ですし」

「俺は変じゃない」

「ああ、もういい頃合いですもんね。 おう、もうみんな、お開きにしよう!宴もたけなわ!」


勝俣社長が声を張り上げた。


……助かった。


泥酔している森のクマさんを支えながら、どうにかこうにか家へと帰還することができた。

彼が愛用しているブランドのパジャマを着せ、毛布をかけてあげた。


目を閉じているので、どれだけ顔を見ても怒られない。

トクトクと、内側の何かが行進している。

誰でもいい、この気持ちを散り散りにして、無かったことにできるくらい、壊してほしい。

傷つく前に。




***







ep.11「野菜は洗ってください」へ続く


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