鏑矢高校魔術部同窓会 第十一話
別荘へ帰る車の中で、気が付けば俺は意識を失っていた。まぁ、あんな事があって、意識を保ててた方が変なんだけどな。
◆◆◆
涙の気配がする。誰かが泣いている。目を覚ませば、そこは霧花さんの部屋だった。フローリングの上に敷かれた布団、きっとここから動けない彼女が、俺を看病するために用意したものだろう。
「迷惑かけたな……」
左手を伸ばし、布団の上に乗った彼女の頭を撫でる。布団は、彼女の涙でぐっしょり濡れていた。それにしても重いな、ただでさえ身動き取れないんだから……正直どいて欲しい。
「美憂ちゃん……美憂ちゃん……」
声をかけても反応はない。やはり疲れているんだろう。窓の外を見る。まだ日は高く、それほど時間は経っていないようだ。なら、少しぐらい待ってもいい。このサバイバル生活で、彼女以上に頑張った者はいないのだから。
「なーに婚約者の部屋で別の女にデレデレしてんだぁ、コイツはぁ」
そんな言葉と共に、開けっ放しの扉を叩く音がした。目を向ければ、そこには小太りの友人が呆れた顔で立っていた。
「笹塚……良いのか? こんなところに居て」
「作業は一端ストップした。なんせなぁ、この娘が素材の譲渡を拒否したまんだまだからよぉ」
布団のそばまで来て、どかりと腰を下ろす笹塚。彼は困ったものを見るような目で、美憂ちゃんを眺めていた。彼の話では、今俺の胴の上に頭を乗せて眠りこけているお嬢さんは、兄の形見を手放すことを拒んだらしい。うん……無理もない話だ。彼女にとって幸馬は、たった一人、心を許せる肉親だったのだから。
「なんとか……説得しないとな」
「おぉ、頼むぜぇ……!」
「俺かよ」
「お前以外に居ないだろぉ?」
俺に説得を丸投げしてニチャニチャ笑った笹塚は、美憂ちゃんを抱き起し、近くの椅子に座らせて帰っていった。休憩ついでに、俺の様子を見に来たというところか、……アイツにも、心配をかけたな。
俺は身軽になった体で四苦八苦しながら上体を起こし、そこからようやっと見えた霧花さんの寝顔を見る。
「……やるしかないな」
この顔を見ていたら、いくらでも頑張れるような気がした。人間っていうのは不思議な生き物だ。
それから数十分、俺は霧花さんのベッドに背中を預け、楽な体勢で美憂ちゃんの目覚めを待った。改めて見ると、彼女はとても可憐で可愛らしい女性だ。兄の幸馬とは似ても似つかない、少しカールした明るい茶髪が特徴だ。昔からオシャレな子だったし、多忙を極める今もそれは変わらない。だけど、こうして正面から彼女の顔を見ると、どうしても違和感を感じるのだ。見慣れた筈の顔が、まるで初めて見たかのように新鮮に感じる。
彼女が小学生だった頃から、幸馬が死ぬ三年前まで、ずっと身近にありながら……俺は彼女を全く意識してこなかったという事なんだろう。所詮は親友の妹、直接の関係は殆どない他人同士。そんな俺に……できるだろうか?
答えは出ないままに、影島美憂は目を覚ました。震える瞼、漏れ出る呻き声、両腕を上げて伸びをする姿は、ひどく人間臭くて、まるで彼女じゃないみたいだった。
「おはよう」
「あ…………」
俺の挨拶にフリーズする美憂ちゃん。彼女の脳内が今どうなっているのか、俺には想像すらできないが、頭の良い彼女の事だからすぐに復帰するだろうと鷹揚に待つことにした。そして、俺の想定通り、彼女は数秒で再起動を果たし、俯きながらこう言った。
「馬鹿なんですかアナタ」
……随分な言われようだ。まぁ、言われてもしょうがない有様である事は否定しない。罵るだけ罵れば良い、と顔をそらして黙って待つが、どういう事だろうか……? 待てど暮らせど、彼女からの無謀だの、呆れただのの罵倒はついぞ飛んでくることはなかった。ふいに、鼻を啜る音が聞こえてきた。わざわざ振り返るまでもなく、彼女が泣いている事は明らかだった。
「そんなんになっちゃって……私が、どれほど心配したと思ってるんですか」
「それは……」
心配してくれること、気にかけてもらうこと、それ自体はありがたいことだ。だけど、彼女の口ぶり、震える声音は、そんな事を言ってほしいようには見えなかった。彼女は怒っているのだ。無茶をした俺を咎めている。だから、感謝の言葉は逆に火に油を注ぐ結果になりかねない。
「ごめん」
痴話喧嘩や夫婦喧嘩で主に男側が多用する平謝り。さして悪いとも思ってないが、とりあえず相手の機嫌を取るためだけに行われる薄っぺらな謝罪。場合によっては、相手の神経を逆撫でし、余計に喧嘩を悪化させかねない行為。それは、そう取られてもおかしくない発言だった。だが、違う。
「それでも、君の人形を俺にくれないか?」
俺には、彼女の心配だとか、心労だとかを慮るだけの余裕はない。彼女に求めるのは素材の提供、それだけだ。その事を、先に謝っておきたかっただけなのだから。
見れば、彼女は……影島美憂はショックを受けたような表情で絶句していた。目を見開いたまま、目尻からは止めどなく涙が溢れている。とんでもないバッドコミュニケーションな気がしてきた。やっぱり、少しぐらい彼女に寄り添ったり、共感したりした方が良かったのだろうか?
「…………ダメです。そんな体で、フライトの許可はできません」
押し殺したような、感情の感じない抑揚のない声で、彼女はそう言った。
「俺が飛べなきゃ霧花さんが死ぬ。彼女だけじゃない、もう待っていれば助かるという保証もないんだ。俺たちは打って出なければいけない。それが、たまたま今で、俺だっただけだ」
「それは……それは理屈じゃないですか。私の気持ちはどうなるんですか」
依然として、彼女は押し殺したような無表情、抑揚のない声で言った。…………だけど、彼女の中で消化しきれない思いが渦巻いているのは見ていれば分かる。皴になりそうなほど握りしめたスカートの裾、震える肩。
「だったら教えてくれ、何がそんなに嫌なんだ? 命がけで霧花さんを助けることの、何がダメなんだ」
俺には、何がそこまで彼女を追い詰めているのか、まるで分からなかった。生きて帰れる可能性も十分にある俺と、放っておけば確実に死ぬ霧花さん、どちらの方が優先されるべき患者かは言うまでもない。医者の卵として、それが分からないとも思えない。
「私はただ、死んでほしくないだけで…………なんで分かってくれないんですか」
「分からねえよ! 霧花さんなら死んでも良くて、俺じゃダメな理由なんて!」
何故理解してくれないのか。そう感情を吐露する言葉に、俺は気が付けば爆発していた。この娘は、万が一にでも俺に死んでほしくないと言う。それだけ俺の事を大切に思っていると。ふざけている。まるで愛の告白だ。そんな事のために、誰かの命が蔑ろにされて良い筈がない…………それとも俺を信用していないのか? 生きて成し遂げる見込みはないからやめろと言うのか。
「…………悪い、怒鳴るのは違うな」
ダメだ。腹が減ってると気が短くなる。俺がこうして話しているのは、協力しない彼女を糾弾するためじゃない。彼女が協力してくれるよう、説得するためだ。
「安心してくれ美憂ちゃん、俺は死ぬつもりはないよ。死んだら、君も、皆も、霧花さんも助けられないだろ?」
「空理兄さん…………」
気が付けば俺は俯いていて、彼女にそう呼ばれるまで、彼女が泣き止んでいることに気が付かなかった。一瞬、説得の成功を確信しかけた。彼女の穏やかな声に誘われて顔を上げれば、穏やかな表情の影島美憂の顔が見えたのだ。誰だって最初はそう思うだろう。
「それでも、アナタだけが危険を冒すことに変わりありません。私はそんな必要はないと言っているんです」
彼女の言葉には、明確な拒絶の意思があった。俺のやろうとしている事を真っ向から否定する、およそ説得が可能なようには見えない鋼の笑顔がそこにあった。おもむろに立ち上がり、ベッドに背中を預ける俺を抱き上げた彼女は、布団の上に優しく俺を寝かせた。俺はその間、なにも言い返すことができなかった。そんな必要はない。つまりはこのままで問題ないという事、俺には理解できなかった。現状のどこに問題がないと言うのか? それとも、俺が危険を冒さずとも霧花さんを救える方法があるとでも言うのか?
答えを待つ俺を宥めるように肩を叩き、布団を被せる彼女。屈んだ時に垂れ下がってきた横髪を耳にかけながら、彼女はあくまでも穏やかに言い放つ。
「このまま遠城さんが死ねば、食料にはいくらか余裕ができます。釣り具の材料もありますし、残り七人分の食糧なら、何とかなると思いませんか?」
その、悪魔のようなセリフを。
「おい、なんだそりゃ」
身体から生えている、ただ一本の四肢、左腕が強く影島美憂の胸倉を掴んでいた。
「兄貴の墓前でも同じこと言えるのかよ?」
「………………」
「アイツの妹として恥ずべき言葉じゃなかったかって聞いてんだよ、答えろ!!」
ダブルスタンダード、二重規範という意味だ。心の中の冷静な自分が、今の俺がそうだと言っている。自分の気持ちはどうなると言う影島美憂を理屈で否定しておきながら、今の俺は感情的に振る舞い、それでもって彼女の感情に訴えていた。
結局のところ、理屈屋にだって譲れない想いがあるという事だ。そういう意味では、俺も彼女も同じだった。違うのは、用いる手段ではなく、その根っこ。誰もが大事で、救うべき命だと言う俺と。大事なのは俺だけで、俺さえ無事なら誰が死んでも良いと言う影島美憂と。互いに価値観が相容れないのだから、話が嚙み合うはずもない。
泥のように澱んだ目で俺を見下ろした影島美憂は、そのまま俺の左手を掴み上げ、払いのけた。
「それでアナタを死地に送らずに済むのなら」
俺はそれでも諦めずに、払いのけた彼女のその手を左手で掴んだ。ここで放したら、ここまでの努力が全て無駄になる。
「影島美憂…………お前の目は曇ってる。言ってることの何から何まで道理に合わない」
「そんなこと……」
サッと目を逸らした彼女に、そら来たとばかりに畳みかける。なんでも良い、彼女の言い分は否定しなきゃいけない。
「俺の姿を見ろよ、栄養不足に大怪我、野木さんが死んだときと同じだ…………本当に今の俺をそのまま放置する事が安全だと言えるのか?」
「いえ、一般人と一緒にはできません。魔術師は体質的に回復魔術の効果が他より……」
「それでも、失った体力は戻らない。この環境じゃ回復する見込みなんてない、違うか?」
俺を見下ろす泥のような目が、一瞬揺れた。
「医療従事者なら、そんな見落としある筈ない。お前は分かってて、目を逸らした。何故か? 決まってるよな、そんな事実認めたくない。無意識にそう思ってたからだ」
欺瞞だ。ある程度は真実に近い推測になっているかもしれないが、結局は勢い任せのでたらめだ。だが、動揺している人間に、強くそうだと言い張れば「本当にそうなのかも」と思ってしまうものだ。
「喪失に怯えるお前自身が、お前を騙したんだ。お前の言っていることは間違っている。目に見えるリスクから目を逸らして、回避したつもりになっているだけだ」
思いつく限りの人身攻撃を言い終える頃には、影島美憂は布団の傍でへたり込んでいた。その姿に胸が痛まないかと言えば噓になる。
「それでも私はアナタの事が……アナタに死んでほしくないんです。そんなの、もう…………どうすれば良いのか分からないじゃないですか」
それでも、これで良いのだ。これが、彼女のためでもある。俺はそう信じて、この言葉を彼女に送る。
「俺を信じろ、俺が全部なんとかするから」
我ながら、反吐が出る。詭弁を弄し、妥協することなく相手を丸め込む、およそヒーローらしくない手練手管を見せた俺が。まるでヒーローのようなセリフを吐き、笑っている。そんな俺を見て、彼女は静かに頷いた。
それが承諾の意であることに、説明はいらなかった。
◆◆◆
雑然としていどこか埃っぽい。物置として使われている別荘の第三ガレージ、そこが彼らの作業場だった。
「で、気まずくなって逃げてきちゃったんだ?」
「みたいっすね」
「何やってんだぁ? 馬鹿かお前ぇ」
久瀬に車椅子を押されやってきた俺に返ってきたのは、三者三葉の言葉だった。沖田先輩なんかはいつもの困り笑いだったが、笹塚は手元に視線を落としたまま辛辣なセリフを吐いた。
「お前に対して”察し悪いなコイツ”なんて思ったのはこれが初めてだぜ。お前に任せた俺が馬鹿みてぇじゃねぇか」
呆れを隠しもしない声音で続けると、笹塚は魔方陣を描く手を止めて立ち上がる。随分長く座り作業をしていたようで、全身をストレッチしながらこちらにやってくる。
「後悔してるって顔だなぁ?」
「後悔はない。この選択は誰にとっても幸福なものだ」
「だったら、影島妹の居る部屋でドヤ顔しながら寝てやがれってんだ」
二人も同じ意見かと沖田先輩と久瀬に目をやれば、我関せずと製作途中のオーニソプターを囲んで話をしていた。久瀬がメモ帳を取り出しているあたり取材だろう。沖田先輩は、久瀬の質問に答える代わりに部長と先輩の不祥事について口止めしているようだった。
その姿に何だか肩の力が抜けた。笹塚は説得を頼んだ立場から俺に苦言を呈しているというだけで、俺の悩みなんて、そう大した話じゃないという事だ。
「なぁ笹塚」
「なんだぁ?」
美憂ちゃんの説得、俺はどうするべきだった? どうすれば彼女を傷つけずに済んだと思う? そんな情けない問いを投げかけて、やっぱりやめた。終わった話だ。笹塚の手を止めてまで尋ねるべき事柄ではない。
「完成はいつになる?」
「明日の朝五時までには用意してやらぁ、それまでに精々英気を養うこったなぁ」
オーニソプターは設計上、機体重量はギリギリまで切り詰める必要がある。スピードを出せば出すほど揚力の上がる固定翼機とは違うのだ、重量のバランスを間違えれば呆気なく海の藻屑となるだろう。そのため、今組み立てている鉄の鳥に搭乗席などというものは存在しない。左腕で機体下部の取っ手を掴み、ベルトで固定し、時速百五十㎞の風圧に約二百分の間耐えなければならない。
それに備えて休息するのが、今の俺の役目だ。だが…………あそこに戻るのか? 確かに医者の卵である彼女が詰める霧花さんの部屋が、怪我人である俺にとって最も休養に適した環境と言える。しかし、こう……なんだ。美憂ちゃんに対する罪悪感のあるままに、あそこに戻るのは正直勘弁してもらいたい。
「……………………ここで寝ても」
「良い訳ねぇだろ。さっさと帰れ色男」
「そこを何とか」
何とかならなかった。まぁ、よく考えるまでもなく、ここは怪我人が寝泊まりするには埃っぽすぎる。俺は、車椅子を押す久瀬に頼み込んで、霧花さんの部屋ではなく、俺の部屋へと運んでもらった。
◆◆◆
ピピピという体温計の鳴き声が響き、のそりと人影が部屋の中で身動ぎする。黄昏時を少し過ぎ、電灯の消えた部屋が薄暗くなる中、慣れ親しんだ闇が近づくことを感じて、私の心は少しずつ冷えていった。
「三十七度七分……時間帯を考えれば微熱です、ね」
意識を取り戻す気配のない遠城霧花、彼女の体は今、少しでも体力の消耗を抑えようと眠り続けている。しかし、起き上がって食事をしない事には、いくら眠っても失った体力は回復しない。通常なら、点滴やカテーテルなどを使って栄養を補給するところだが、生憎とこの島にはそのような医療器具の備えはない。
運ばれてきた早めの夕食を、トレーごと運んで患者の膝の上に乗せると、私は魔力を高めて数節の詠唱を行う。
「汝の名は影法師、我が意に侍り、我が意を映す傀儡なり」
詠唱が終わると、私の手のひらから数十万もの魔力の糸が彼女に殺到し、その肉体を自動人形に仕立てていく。本来は死体を操って事故死に見せかけた暗殺に使ったり、死亡推定時刻を誤魔化すために用いられる魔術。生体反応まで完全に再現できるため、意識のない患者に食事をとらせたりトイレに行かせたりなど、結構便利に使っている。家に居たころからは考えられない事だ。
影島幸馬、鷹峰空理、二人の先達が示した”家を出る”という道。私はそれにどれだけ救われたのだろう。
幸馬兄さんが死んだあの時、私は泣いて悼むことしかできなかった。空理兄さんが死にそうだという今、私は泣いて縋ることしかできていない。本当にそれで良いのだろうか?
送り出しても、引き留めても、低くない確率で彼は……私の憧れた人は死ぬ。状況が特殊だから、詳しくは分からない。経験の浅い私の直感なんてあてにならない。それでも、医者の卵として、決して低くない数字であるという事だけは分かる。せめてあの人が万全なら……
「そうか…………!」
私は気が付けば、食事をとる遠城霧花を眺めていた。その姿こそが、私があの人にやってやれる唯一の事だった。あっと言う間に食べ終わってしまう少量の食事、食器の類をまとめた私は立ち上がり、部屋の出口へ向かう。
「ごめんなさい、少しだけ治療を中断します。でも、これも巡り巡ってアナタのためになりますから……」
私は、物言わぬ患者にそう謝罪し、その場を後にした。




