第8話 ★夜の涙、幼き誓い★(覚悟)
翌朝。
眠ったはずなのに、まぶたを開けた瞬間、胸の奥がじわりと熱く染まった。
昨夜の台詞が――脳内で勝手に再生される。
『お前は……オレの“奴隷”だ』
『“いらない子”なんて、二度と言うな』
(……っっっああああああああ!?)
布団の中で悶絶する。
十歳のくせに、完全に背伸びしたあの台詞。
勢いしかなかったのに、それっぽくキメた自分が信じられない。
頬が熱い。耳まで熱い。
そして追い打ちのように、母の声が蘇る。
『ジェイド?アイリスを泣かせたら、承知しないわよ?』
(昨日の母さんのあの目……絶対気づいてたよな!?)
盛大すぎるフラグ回収だった。
思い返すほど、羞恥と後悔と謎の達成感が全部一緒になって胸をかき乱す。
(……アイツ、どんな顔してオレのこと見てくるんだよ……)
恐る恐る隣の簡易ベッドへ視線を向ける。
――誰もいない。
(……あれ?)
布団は綺麗に畳まれていて、完全に冷えていた。
早朝のうちに部屋を出たらしい。
下の階から、
トントン……と控えめな包丁の音が聞こえる。
アイリスの声はない。
それでも、動きの音だけが静かに家を満たす。
(……昨日のこと、やっぱ気にしてるよな)
泣かせて、抱きしめて、勢いで色々言って――
結局ちゃんと話せなかった。
胸がズキッと痛む。
髪を手で整え、深呼吸する。
(行くしかねぇ……けど、どう顔合わせりゃ……)
そのとき。
“ギィ……”
玄関の扉が開く音。
(……父さんだ)
羞恥の余熱とは違う、もっと落ち着いた重さが胸に沈んだ。
階段を降りると、空気が違った。
台所には朝食の香りが漂っているのに、
“温度”がない。
アイリスは丁寧すぎるほど丁寧に皿を並べていて、
昨夜泣いたとは思えないほど無表情を保っている。
母は微笑もうとしたが――
父が入ってきた瞬間、その表情がわずかに固まった。
煤で汚れた作業服。
油と魔力の匂い。
静かだが重い足音。
「……おはよう」
その低い声だけで空気が震えた。
アイリスは皿を持ったまま小さく肩を跳ねさせる。
「……お、おはようございます……」
昨夜の涙の名残が声の端に滲む。
父は短くうなずき席についた。
「無理せず食え。……座りなさい」
促され、アイリスはおずおずと椅子に座る。
姿勢が硬い。息の仕方もぎこちない。
父がスープをひと口すすると、
張りつめた空気がほんのわずかに緩んだ――が、会話は生まれなかった。
パンの焼けた香りも、温かい湯気も、
この朝だけは“緊張を覆う幕”になっていた。
やがて。
“ぎぃ……”
父がフォークを置いた音だけが、やけに大きく響く。
父はゆっくりと立ち上がり、ジェイドをまっすぐ見つめた。
怒りではない。
苛立ちでもない。
ただ――
「確かめに来る者の目」
「……ジェイド」
喉が乾く。
「飯を食ったら……オレの部屋に来い。話がある」
アイリスの指が皿をぎゅっと握りしめる。
母も動きを止めた。
誰も口を開かない。
(……来た。やっぱり来たか)
父の部屋に呼ばれる――
それは子どもの逃げ道のない“覚悟の時間”だった。
父の部屋の扉の前。
ジェイドは拳を握り、呼吸を整えた。
“コン、コン”
「……入れ」
低く、逃げ場を作らない声。
部屋の中は質素で整然としていた。
工具、魔導具の部品、壁に掛けられた外套。
父の仕事そのものが部屋を作っている。
机に座った父は、袖をまくり、傷だらけの腕を露わにする。
「……座れ」
ジェイドは指示に従い椅子に座る。
静寂。
その静寂が、説教より何倍も重い。
やがて父が口を開いた。
「昨日のことは、聞いた」
ジェイドの心臓がひりつく。
「審問庁の役人から連絡があった。
お前があの子を庇ったことも、保護したことも。
士官学校の手続きについてもな」
淡々としているのに、一言一言が重い。
父は視線をそらさず、核心を突く。
「――それで、あの子をどうするつもりだ」
逃げ道は一切ない。
ジェイドは息を整えた。
「……アイリスを放っとくなんて、できない。
施設に預けられるなんて……あいつ、絶対嫌がる。
そんなの……残酷だよ」
父の表情は揺れない。
「ジェイド」
静かだが、胸に刺さる声。
「お前は、感情で抱え込みすぎている。
その先にあるのは、無責任という名の悲劇だ」
ジェイドは言い返せない。
父は続ける。
「“保有する”というのはな……
あの子の行く末を、お前が引き受けるということだ」
言葉が胸にどさりと落ちる。
「お前は十歳だ。
今日の飯も、寝床も、全部オレたちが支えている。
そんなお前が、どうやって一つの命を背負う?」
現実の重み。
その通りだと分かる。
だが――
(ここで下を向いたら、あいつは……また“いらない子”に戻っちまう)
ジェイドは顔を上げる。
「……それでも。
アイリスを泣かせたまま放り出すほうが……もっと無責任だ」
父の目がわずかに揺れた。
沈黙が落ちる。
そして、父は静かに告げた。
「勢いで動く男はな……
守ったつもりでも、いちばん大事なものを壊す」
それは父自身の人生から出た言葉だった。
やがて結論が下される。
「……それでも守りたいと言うなら」
「最後までやれ。
途中で投げ出すくらいなら……“守る”なんて言葉、二度と言うな」
ジェイドは拳を握りしめた。
「……絶対に投げ出さない。
オレは……やりきる」
父は深く息を吐き、
その影が少しだけ柔らかくなった。
それが――父なりの承認だった。
部屋を出た瞬間、肩から力が抜けた。
胸はまだ重い。
父の言葉の重さは、すぐには飲み込めない。
(……でも、逃げないって決めたんだ)
階段を降りると、台所から水音がした。
アイリスが食器を洗っている。
背筋は伸びているのに、肩の力が抜けない。
父の気配がまだ影を落としていた。
ジェイドの足音に気づき――
アイリスはびくりと肩を震わせた。
「……おかえりなさい、ジェイド様」
声の奥に、不安がまだ残っていた。
ジェイドは視線をそらし、少し照れながら口を開く。
「……アイリス。
あんまり抱え込むなよ」
アイリスが目を瞬かせる。
「……え……」
ジェイドは、ぎこちなく続けた。
「上手く言えねぇけどさ。
アイリスが一人で泣いてるの……もう見たくねぇ。
オレが……なんとかする。
だから、無理すんなよ」
アイリスは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、
震えを落ち着けるように息を吸った。
「……はい。
本当に……ありがとうございます」
その声は震えていない。
彼女が“安心しようとしている声”だった。
ジェイドは玄関へ向かい、扉を開けた。
朝の風が冷たくて、頭が冴える。
遠くにそびえる審問庁の塔が影を落としていて、
それが“遠い未来”の象徴のように見えた。
(父さんの言葉……全部背負っていくしかねぇよな)
頼りない拳を握る。
それでも――この拳は前に進む。
ジェイドは息を吸い込み、
朝の光の中へ踏み出した。




