第7話 ★家路と再会★(後編)
「それじゃあ私は本庁へ戻ります。
ジェイド、くれぐれも――奴隷の取り扱いには気をつけるように。
お母様、紅茶ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
母が手を拭きながら、柔らかく微笑む。
「お口にあってよかったわ。またいつでもいらしてね」
「ええ。次は……その、店頭のパンも買わせていただきます。
とても良い香りだったから」
ユミナさんはわずかに口元を緩め、すぐに表情を戻す。
扉へ向かう歩みは、塔の冷たい気配を纏っていた。
扉が閉まる直前――
青い瞳が一瞬だけ、背後のアイリスの横顔に触れた。
「それじゃ」
扉がぴたりと閉じる。
冷たい塔の気配がひとつ外へ戻り、
部屋の空気がゆっくりと“家の温度”へ溶けていく。
「さてと」
母が軽く手を叩く。
「それじゃあ夕飯にしましょうか。アイリスちゃん、準備を手伝ってくれる?」
「はい! お母様!」
アイリスの声が弾んだ。
ついさっきまでの遠慮がちさが嘘のように、胸を張っている。
(……今日一日でこんなに変わるんだな)
「オレ、勉強でもしてくる。入学も近いし」
母がくすっと笑う。
「あら珍しい。自分から勉強だなんて。……アイリスちゃんに良いところ見せたいのかしら?」
「うるせぇって。そういうんじゃない!」
気恥ずかしさに押されて、身体が勝手に部屋へ逃げていた。
扉の向こうから、
母とアイリスの柔らかな声が重なる。
(ジェイドったら、可愛いわねぇ)
(……ジェイド様……)
家に満ちるその優しい音が、胸の奥をくすぐる。
けれど――
夜の静けさは、もうすぐ別の顔を見せようとしていた。
――一時間後。
「ジェイド様、お夕食の準備ができました。温かいうちに召し上がりください」
「わかった。今行く」
扉を開けると、使用人服にエプロンを重ねたアイリスがまっすぐ立っていた。
一緒に階段を降りると、食卓には朝から母が仕込んでいた香草パンが籠いっぱいに並び、
ほんのり甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
その隣では、根菜を煮込んだ温野菜スープが湯気を立てている。
にんじんの橙とじゃがいもの白が揺れ、家庭の温度を照らしていた。
「アイリスちゃん、パンは好き?」
「……はい。……その……こんなに良い匂いで……」
アイリスの声はかすかに震えていた。
母は自然な動作で皿を置き、優しく微笑む。
「たくさん食べてね」
アイリスのまつげがふるりと伏せられる。
食事の間、母は言葉もなく、ハーブパンをもう一切れそっとアイリスの皿へ置いた。
その優しさが、逆に胸を刺すのだろう。
アイリスの瞳が、湯気の向こうでわずかに揺れた。
(……“ありがとう”が言えない。
許可もなく優しさを受け取ってはいけない――それが、身体に染みついてる)
「……わたし、こんな……温かい食事……」
小さな声が零れ、慌てて笑顔に切り替える。
「とても、美味しいです。本当に……ありがとうございます」
笑っていても、その目はどこか揺れ続けていた。
片付けを終えるころには、夜が深く落ちていた。
窓の外では、街灯の光が静かに揺れている。
「もう夜も遅いし、そろそろ寝ましょうか」
母がエプロンを外しながら言った。
「ねぇジェイド。アイリスちゃんだけど……あなたと同じ部屋で大丈夫よね?」
「うん、オレと同じ――……今なんて?」
空気がぴたりと止まる。
母は口元を緩めた。
「とぼけなくてもいいのよ。
ユミナさんが“使用人用の簡易ベッド”を持ってきてくれたでしょう?
ジェイドの部屋、広いんだから置けるわ」
「ちょっ……母さん!? 本気で言ってるの!?」
母はすでに棚の位置を確認し、配置を考える顔になっていた。
横で、アイリスが小さく肩を縮める。
「……ご、ごめんなさい……」
その一言が胸に引っかかる。
母は明るい声で言った。
「ジェイド? アイリスを泣かせたら、承知しないわよ?」
――盛大なフラグだ。
母の勢いに押され、オレは観念して肩を落とした。
「……わかったよ……」
ぶっきらぼうに聞こえたのは、照れたのか、諦めたのか――自分でも分からない。
アイリスは俯き、胸の前で指をそっと握りしめていた。
泣きそうな顔のまま、必死に笑おうとしている。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
オレは自分の部屋に入るなり、
そそくさとベッドに突っ伏した。
**『妻の相手もせずに寝る旦那』**なんて妙な言葉が頭をよぎり、
顔が一気に熱くなる。
(……くそ。オレ、ただ逃げてきただけじゃねぇか)
気恥ずかしさと気まずさ――
その全部から、ただ逃げ出したかった。
奴隷とはいえ、アイリスは十六歳の少女だ。
オレより年上で、背だって高い。
それなのに、目の奥にときどき浮かぶ光は、
びっくりするほど弱い。
「……オレ、疲れたから先寝るよ。
おやすみ」
眠気なんて来ていない。
ただ――どう向き合えばいいのか分からなかった。
アイリスが静かに返す。
「……はい。
おやすみなさいませ……ご主人様」
その声は、ほんの少し震えていた。
オレは布団の中で息をひそめる。
(……なんで震えてんだよ……)
明かりを落とすと、
部屋の中にいくつもの影が揺れた。
その影の奥で、アイリスは
身をなるべく小さくするように、膝を抱えて座っていた。
さっきまで笑っていた横顔が、
今は沈黙の奥で、細い線のように見える。
――しん、とした時間が流れる。
そのとき、
簡易ベッドのほうから、ごく小さな寝返りの音がした。
続いて、
音のない震えだけが、夜気の中に滲んだ。
(……泣いてるのか……?)
胸の奥がざらりとしたまま、
夜が、静かに降りていった。
ジェイドはいつの間にか眠りに落ちていた。
緊張の糸が切れたように、浅い呼吸のまま意識が揺れていた。
ただ――
自分の部屋に女の子がいるなんて信じられない。
ぐっすり眠れるはずもなく、
目だけ閉じたまま、半分だけ目覚めている。
(……アイリス、寝たのかな)
逃げるようにベッドへ飛び込んだことが、
今になって胸にひっかかる。
そのとき、
隣の簡易ベッドから、小さな物音がした。
「……ご主人様……」
静かな夜が、その呟きを拾った。
「……わたし、いらない子なのかな……」
ジェイドの身体が、布団の下で固まる。
「……い、今……なんて言ったんだよ……?」
声が少し震えてしまった。
問い詰めたかったわけじゃない。
ただ、聞き間違いであってほしかった。
アイリスの息が止まる。
「……ごめんなさい……」
それだけで――
張っていた糸がぷつりと切れた。
「ごめんなさい……っ、
ごめんなさい……ごめんなさい……!」
堰を切った涙が床に落ち、
震える肩が細かく揺れ続けた。
寝ていると思っていた。
聞かれるとは思わなかったのだろう。
アイリスは涙の中で、途切れ途切れに言う。
「……わたし、いらない子なのかなって……
ご主人様の負担になってないか……怖くて……!
今まで、人として扱われたことなんてなくて……
親にも、友達にも……見捨てられて……
今日、初めて……あったかくて、美味しいご飯を食べたの……
なんで……なんで私なんかに……優しくしてくれるの……?」
その瞬間――
胸の奥で、何かがはっきりと折れた。
考えるより早く、身体が動く。
ジェイドは布団を跳ね上げ、
震えるアイリスを抱きしめていた。
「……もういいよ。もう、言わなくていい」
不器用で、拙い声。
けれど、確かに温かかった。
アイリスの涙は止まらない。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……
ごめんなさい……っ……!」
ジェイドは何も言わず、ただその涙を受け止めた。
そして――
瞼の裏に、かつて見た光景がよぎる。
(「ずいぶん不服そうだね。戦争奴隷のくせに偉そうじゃないか」)
(「またあの商人のところに送り返してやろうか?」)
(「……いや、もっと酷い場所に売ってやってもいい」)
(「い……いや、やめて。やめてください……!」)
胸の奥に、ゆっくりと怒りが滾った。
(ふざけやがって……)
(あのクソ野郎……絶対に許さねぇ……!)
――もう二度と、アイリスにあんな涙を流させない。
――もう二度と、“いらない子”なんて言わせない。
ジェイドは、少し迷いながらも強く言った。
「アイリス。
お前は……オレの“奴隷”だ。
オレが“ご主人様”なんだ。
だから――
“いらない子”なんて、二度と言うな。
そんな言葉……オレが許さない。」
夜の静けさの中。
不器用な少年の誓いだけが、そっと灯っていた。




