第2話 ★塔の下で出会う影★(邂逅)
ー翌朝ー
……胸ん中、まだ重い。試験は終わったのに、ぜんっぜん軽くならない。
王都の大通りは、ざわめきに満ちていた。
石畳を馬車が軋ませ、屋台からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
香辛料の刺激が鼻を刺し、商人の声が折り重なり、子供の笑い声が跳ね返る。
明るい。賑やか。……なのに、落ち着かない。
この喧騒のど真ん中で、ひとりだけ置いてかれた気がする。
理由は、わかってる。
街の真ん中に突き立つ、あの塔のせいだ。
――行政塔。
白銀の壁面は朝日を浴び、空を切り裂くみたいに光っている。
……きれい、かもしれない。けれどその光は冷たく、
肌を撫でるたびに胸の奥がざわついた。
足元に落ちる影は長く、街全体をじわじわ染め上げていく。
(影の下に……オレたちは生きてるんだ)
目を細める。胸の奥がきしむ。
試験が終わっても、塔は変わらない。
ずっとそこにあって、届かない高さで見下ろしてる。
――ほんとに、いつか届くのか。
合格発表を見に行こうと、裏路地を歩いていたそのとき――
耳に刺さるような声が響いた。
「ずいぶん不服そうだね。……戦争奴隷のくせに、偉そうじゃないか」
足が止まる。思わず物陰に身を隠した。
――なんだ、あいつ。
「また、あの商人のところに送り返してやろうか?
……いや、もっと酷い場所に売ってやってもいい」
ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。
視線の先には、褐色の肌に長い耳の少女が立っていた。
明らかにオレとは違う種族。歳は少し上に見えるのに、どこか幼い――そんな印象だった。
その背後から、分厚い唇と卑しい目をした男が現れる。
ねっとりと笑いながら、少女を舐めるように見つめていた。
「少しばかり傷物でも、味には関係ない。舌で躾けりゃどうとでもなる」
耳の奥で血が沸き立つ音がした。
カールと呼ばれた青年が薄く笑う。
「彼とは取引中でね。君の“価値”が落ちたら、引き渡す予定なんだ」
男の手が伸びる。少女の頬に触れようとして――
「い……いや、やめて。やめてください……!」
声が震えていた。
必死に手を振り払い、顔を背ける。壊れそうなくらい怯えた声だった。
「おい、暴れるな。何を抵抗している?」
商人が舌打ち混じりにカールを振り返る。
「……まずいな。これ以上は目立ちすぎかもな」
次の瞬間、カールの顔がゆがみ、怒声が路地に響き渡った。
「この奴隷め! 目障りだ! 下がってろ!」
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「目障りなのは、お前の方だろ」
風を裂いて飛び込んできたのは、少年の怒鳴り声だった。
周囲の空気が、ビクリと震える。
アイリスが顔を上げると、彼がいた。
あの時の少年。あの瞳。
腹の底から絞り出したような声だった。
「お前には……アイツが人に見えないのかよ!」
一歩、また一歩と、ジェイド・レオンハルトが踏み出す。
周囲の視線をものともせず、真っ直ぐに、カールと男を睨み据えていた。
「お前が“ご主人様”だろうが何だろうが関係ない。
アイツを、そんな目で見る奴は──絶対に、許さない」
カールが、一瞬言葉を失った。
「……誰だ、お前は」
「関係ねぇよ。通りすがりの“試験帰り”だ」
その声はまだ幼く、しかし確かに――怒りと覚悟が宿っていた。
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その瞬間、冷たい声が落ちた。
「――もう十分です」
背筋が凍る。空気が一瞬で張りつめ、さっきまでの怒鳴り声さえ掻き消えた。
黒地の軍服を纏った若い女性が、ゆっくりと歩み出てくる。
胸には金の徽章。背後には無言の近衛兵。
紫の髪が肩で揺れ、青い瞳が鋭く光を反射していた。
(……軍服? こんな路地で? あれは――審問庁の紋章?)
「あなたの行動、すべて監視済みです。カール=ベレヒト氏」
名を告げられた瞬間、赤い上着の男が振り返る。
撫でつけた金髪、宝石をじゃらつかせた派手な服装。唇にはいやらしい笑み。
(……ああいうやつが、いちばん嫌いだ)
「審問庁に記録済み。貴族特権の濫用――不当行為とみなします」
彼女――ユミナの声は刃のように冷たかった。
国家徽章を掲げた近衛兵の姿を見て、カールの顔色が変わる。
「な……!」
「この件、正式に報告させていただきます。……お引き取りを」
短い一言で、場が完全に支配された。
カールは舌打ちを残し、卑しい男を引き連れて去っていく。
残されたのは、まだ震える少女と、怒りの余韻に拳を握ったままのオレだけだった。
沈黙の路地に、足音だけが残った。
カールたちが去ったあと、重い空気を断ち切るようにユミナがこちらへ歩み寄る。
「初めまして。ロータス親衛隊・審問庁所属の近衛兵、ユミナです」
彼女はそう言って、右手を差し出した。
(……自己紹介? こんな場面で握手なんて)
戸惑いながらも、オレはその手を握り返す。ひんやりと冷たい掌だった。
「ジェイド・レオンハルト君。少しお話があります」
一拍置いて、彼女はさらに続ける。
「――少し歩きましょうか」
促されるまま足を進めると、やがて石造りの門が見えてくる。
国家徽章が掲げられた重厚な鉄門。
(……ここが、審問庁)
門をくぐると、意外なほど静かな空間が広がっていた。
石畳の広場に、手入れの行き届いた花壇。
役人や兵士が行き交ってはいるが、声を荒げる者はひとりもいない。
(……街の喧騒とまるで違う。空気まで重く感じる)
中庭の中央で、ユミナが振り返る。
「ここなら人目もありません。――さて、説明します」
彼女は淡々と告げた。
「この少女は、審問庁の監察下、または保護下に置かれます。
ただし正式な所有ではなく、一時的な保護措置です。
……ジェイド・レオンハルト君、あなたに同行を許可します」
「いや、待ってくださいよ。オレ、爵位なんてまだ持ってないですよ?」
「君は受験者であり、監察対象でもある。双方を監視下に置けば、庁としても都合がいい。理に適っています」
「オレは偶然あの場所に居合わせただけですよ? それにオレはまだ成人してない――」
断ろうとした瞬間、エルフの少女が裾を引っ張ってきた。
顔を上げると、怯えた紫の瞳がオレを見つめている。
(……なんだよ、その目は)
言葉が出なかった。
拳を握りしめる。塔の影が長く伸びて、中庭全体を覆っていた。
「でも……父さんと母さんには、なんて説明したらいいんだ?
家に置いておくにしても――」
少女の手が、まだ裾を掴んでいる。
オレは小さく息を吐いた。
ユミナが静かに口を開く。
「ジェイド、今日はグローリアテストの合格発表日でしたね。
君の年齢であれば、合格と同時に士官学校への入学も許可されます」
「……士官学校?」
「ええ。ですから、あなたの新しい立場に伴い、同行者としての彼女の存在も“監察下の特例”として認められる」
そして、きっぱりと告げる。
「――あなたの入学を、私の権限によって許可します」
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少女の手が、まだ裾を掴んでいた。
細い指先が震えていて、離すつもりはなさそうだった。
(……名前も、何も知らないのに。
けど、この手を振りほどけるほど、オレは冷たくなれない)
ユミナが一歩下がり、促すように視線を向ける。
「自己紹介を。ここで名を名乗れば、記録に残ります」
少女は一瞬ためらい、唇を噛んだ。
喉が詰まる。声が出ない。
それでも、勇気を振り絞るように顔を上げて――
「……わ、わたしは……アイリス=アールグレイ。
アルトゥナ王国出身……ダークエルフです」
その名は、震えながらも、はっきりと響いた。
まるで、自分の存在をこの世界に刻むための呪文のように。
(アイリス=アールグレイ……)
心の中で何度も繰り返す。
紅茶のように淡く香る響きが、不思議と胸に残った。
ユミナは無感情に記録へ書き込む。
「アイリス=アールグレイ。了解しました」
少女は小さく俯き、震える声で続けた。
「……これから、よろしくお願いします……ご主人様」
空気が張りつめる。
ユミナの視線が鋭くこちらに向けられた。
「その呼び方は、今は不要です。ここでは彼は所有者ではない。――一時保護者です」
「……っ」
少女は小さく息を呑み、慌てて口を閉ざした。
(……奴隷、ってことか。
だから“ご主人様”なんて……)
胸の奥が、重く沈む。
その瞬間、塔の影がさらに濃く伸び、中庭全体を覆った。
風がひときわ冷たく吹き抜ける。
名を背負った少女の背を、影が静かに包みこんでいた。




